〜アジア横断編〜

探鳥日記 ラオス

(2001年8月22日〜9月4日)


8月22日(水)(晴/孟力(以上1文字)月昔(以上1文字)縣〜ナモウ Na Maw)

 自転車で国境を渡るのは初めてだ。どんな手続きなんだろうと思いながら、踏み切りの遮断機みたいなゲートの所へ行く。すぐ横の建物が出国管理の事務署。カードの書き込みとパスポートチェックだけで、手荷物の検査や税関はなかった。船や飛行機よりずっと簡単。1キロほど走ると国境の石碑があり、もう1キロほど走るとラオスの入国管理事務署。滞在期間15日のハンコを押してもらい、ラオスへ入る。
 ラオスは、暑かった。というか、中国の道は涼しかったんだ、と気づいた。中国の道には、街路樹があった。田んぼの中の一本道にも、山の中の曲がりくねった道にも丁寧に広葉樹が植えられて、陰を落としていた。それがない。日なたで止まろうものなら、吐き気をもよおすほど照りつけてくる。最初の小さな町、ナトエー Na Toei を越えると砂利道。
 ゆっくり走って、夕方前にはナモウのゲストハウスに入る。夕食は宿の家族といっしょに食べた。ゴザを敷いて円座、明かりはろうそく。手で食べるのだけれど、もち米を炊いたものを軽くにぎりかため、野菜や魚の煮物を添えて食べる。お茶はハーブティーだった。(写真;雨季とは言っても、スコールの降っていない時は晴れている。暑い!)  
8月23日(木)(晴時々曇、一時雨/ナモウ Na Maw 〜ムオンサイ Muang Xi)

 7時前出発。いつもより早いようで、実はただの時差。きのうより時計を1時間早めただけ。たぶん上空は晴れているけれど、霧のお陰で涼しい。未舗装の道の穴ボコをよけながら、上ったり下ったり、山道を越えていく。集落で人に会うことはあっても、それ以外では車もほとんど通らない。民家の軒先でミツユビカワセミが飼われていた。スズメより小さくて可愛らしい鳥。餌は、串の先にオタマジャクシを刺して、目の前に差し出す。
 昼過ぎてムオンサイに到着。空港もあるけれどちいさな街で、中国人が多い。中華料理屋で昼食をとり、そのまま階上のドミトリーに泊まることにした。というのは、次の宿まで80キロ以上もある。あと半日じゃあ、たどり着けない。(写真;ラオスを縦断する旅行者のほとんどは、ムオンサイに泊まることになる。抜け目のない日本の企業。) 
8月24日(金)(晴時々曇、夕立/ナモウ〜パックナム Pak Nam)

 7時過ぎ出発。今日のルートは山越え。まともな昼食をとれる店がないだろうから、市場でビスケットとフルーツを買ってから街を出る。時々過ぎる集落の周りは伐採されているけれど、その他の山は自然保護区のようにいい。場所によっては、道沿いの斜面も、向こうの山も、そのまた向こうの山まで、見渡す限り原生林だったりする。中国の雲南省で“この時期にいてもいいのか?”と不審に思っていたキセキレイとイワミセキレイは、道沿いの水場近くにたくさんいるのだった。急坂を汗だくで上り、村の駄菓子屋でミネラルウォーターをガブ飲みし、下っていく、というのを繰り返した。
 パックナムの中国人がやっている飯店に泊まった。もちろん中国語が通じる。ラオスでは小さな村でも時々英語が通じたりする。始め英語で話しかけてきたおじさんの言葉がよくわからないなあ、と思っていたら、いつのまにかフランス語になっていたこともある。フランスは、もと領主国。(写真;小さな子供はみんな「サバーイディ!」と言って手を振ってくれる。そのくせこちらが立ち止まると、一目散に家の中へ逃げてく。)
8月25日(土)(曇/パックナム〜ルアンプラバン LuangPravang)

 7時過ぎ出発。国道13号線、川沿いを南下。平坦で路面も良く、爽快に走る。道端で、でっかいサソリがファイティングポーズをとっていたりする。遠くから見て牧草地かな、と思った山の斜面は陸稲の畑で、収穫の時期だ。途中、国道からそれてパックオウ Pak Ou という洞窟に行きかけたけれど、ダート道を数キロ走っても着かなかったのであきらめた。
 単調な120キロは長かった。薄暗くなるころにルアンプラバンに到着。ラオスの中の“京都”のようなところ。(写真;街の織物屋。ラオスの人は床で暮らす。)
8月26日(日)(雨のち曇のち晴/ルアンプラバン)

 朝から大雨、10時頃にあがる。ルアンプラバンは世界遺産の街。赤くゆったりと流れるメコン川沿いに、全身に細彫刻を飾った寺が立ち並ぶ。自転車で通りかかり、息を飲んで立ち止まる。唖然とするほど綺麗だ。白人の観光客やインターネットカフェが多いけれど、静かな雰囲気は壊れない。車と商売っけが少ないせいかもしれない。午前と夕方にぶらぶら歩いた。話しかけてきた日本人の女の子は、大阪の大学生だった。そうか、いま夏休みなんだ。
 きのうと同じゲストハウスに連泊。(写真;金色の仏閣。境内には椰子の木。“ショギョームジョー”を感じない。)
8月27日(月)(曇のち雨/ルアンプラバン〜フウクウン Phu Khun 付近)

 5時前に起きて出発準備。薄明るくなるのを待って、6時前にスタート。早朝から走り始めたのは、次の宿まで130キロ、標高差1000メートル以上を登らなければならないから。1日じゃあたどり着けないだろうと思いつつも、試してみた。路面はよいけれど、激しいアップダウンの繰り返し。標高が上がると天気は不安定になり、時々強い雨。ビスケットやジュースでエネルギー補給をしながら、ペダルを踏むことに集中する。
 日暮れまで走り続けたけれど、まだ数十キロ残っている。半月の薄明かりの中、ヘッドランプをつけて急坂をこいだり、押したり。テントを張ろうにも、尾根の急斜面を巻いていく道路沿いに、スペースはない。日付が変わるまでには町に着けるだろうけれど、問題は宿の人が起きているかだなあ、なんてことを考えながらゆく。と、道沿いの一軒家から呼ぶ声。窓から、泊まっていきなよ、と手招きをする。家はちっちゃな駄菓子屋で、20代の女の子4人だけが住み込んでいるのだった。あとで思い返すと、なぜ?、と思うことがいくつかあるけれど、その時は疲れていたので言われるままにカッパを脱いで入り、アセチレンランプのともるテーブルでいっしょに夕食をとり、地図と身振りで旅の話をし、化粧箱の中を見せてもらって、泥のように眠った。(写真;ベトナムとタイの間にある山が、ラオス。)
8月28日(火)(曇時々晴/フウクウン付近〜カーシー Kasi)

 7時出発。女の子4人の見送り、それと弁当まで持たせてもらった。きのうの続きの登りをやっつけ、昼前にはフウクウンに着く。汗をかいた後の、すっぱいミカンがおいしい。ここがラオスのルート上の最高点、1800メートル。あとは下りになる。稜線近くの集落をむすぶ道から、谷へ下り、小山をいくつか越えると視界が開けた。いちめん水田の青々とした平地。暑い風を受けながら、最後の下り坂を一息に駆け下りる。これで、山はすべてクリア。
 ところで、ラオスではいい感じの山が多いわりには、道沿いに鳥が少ないうえに、鳥たちの警戒心が強いようだ。理由のひとつは、街路樹がなくて道と林がつながっていないから。もうひとつは、たぶん撃つ人が多いから、だと思う。大人はライフル、子供もY字の木の枝にゴムを渡してパチンコを作り、鳥を狙う。
 カーシーのゲストハウスに泊まる。長距離バスの停留所の町で、レストランが多い。(写真;子供の頃に見た TOYOTA が、今も走る。)
8月29日(水)(曇時々晴、一時雨/カーシー〜ヴァンヴィエン Vang Vieng)

 良く寝た。10時出発、国道13号線を南下する。両側の山は切り立っているけれど、川沿いを走る道は平坦だ。晴れ間の隣にある厚い雲の下を通ったら、大雨だった。急いでカッパを着て走りぬけると、また晴。路面 も乾いていたから、あの雲はずっとあそこだけに雨を降らせていたのだろう。
 夕方前、ヴァンヴィエンのゲストハウスに入る。この町はバックパッカーの溜まり場だった。道を歩けば英語やフランス語が聞こえる。宿の庭木にはときどきオナガサイホウチョウがやってきて、さえずった。(写真;カラフルなよろず屋の店先。年配の女性は“着物”を着ている。)
8月30日(木)(曇のち晴/ヴァンヴィエン)

 数日をここで過ごすつもりなので、急ぐことは何もない。昼前、細長いボートに乗って、町のすぐ横を流れる川を渡る。このあたりは地質が石灰岩なので、対岸にはいくつも洞窟がある。小さな案内板をたどり、絶壁の中腹にある洞穴まで行ってみた。途中の小さな林では、カワリサンコウチョウが蝶を追いかけている。キマユムシクイかなあ・・・でもバフマユムシクイかもしれないなあ、と見分けの難しいやつが青虫を食べていた。どちらの種類だったとしても、ラオスでは冬鳥。まだまだ暑い日がつづいていても、もう秋の渡りは始まっている。たどりついた洞窟そのものは、まあこんなもんか、という感じだったけれど、そこから見下ろす緑の田園と町の赤い屋根はのどかで綺麗だった。
 夜は同じ宿に泊まる数人の日本人を交えて、ちょっとした飲み会になった。外国に来てまで日本人と会いたくないと言う旅行者もいるけれど、たまに日本語を話すのも楽しい。(写真;ボートには自転車も積んでくれる。)
8月31日(金)(曇のち雨/ヴァンヴィエン)

 洗濯をしたり、市場で買い物をしたり、インターネットカフェで遊んだり。川沿いの木にいたシロスジカミキリみたいなカミキリムシは、日本のより一回り大きくて赤い斑点があった。午後から雨になり、昼寝をした。おかげで山間部を走ってきた疲れが、すっかりとれた。同じゲストハウスに3泊目。ゆっくり過ごした一日。(写真;市場の魚。塩焼きにしてもらって、うまかった。)
9月1日(土)(晴時々曇、一時雨/ヴァンヴィエン〜ヒンフープ Hi Heup )

 9時半出発。国道13号線を南へ。まっ平らな平野で、水田が広がる。こんなところで良く見る鳥はインドハッカ。体は地味な茶色、目元をオレンジに彩る。もう首都ビエンチャンは遠くないけれど、1日で走るには長すぎる。ビザの期限には余裕があるし、途中で1泊しよう、と決めた。
 雲行きが怪しくなってきたのを気にしながら、目的地のヒンフープまであと数キロを走っていた。すると1台の自転車が横に付けてくる。その生真面目そうなラオ人は、いきなり「Hello! Can you speak Russian?」と聞いてきた。一瞬言葉につまってから、すまないけれどロシア語はわからない、英語か日本語ならと答えた。あとでわかったのだけれど、彼は教育学部のロシア語科を出た学校の先生で、名前はマイさんという。ヒンフープに泊まるのなら、うちへおいでよと誘われるままに、彼の家へ。そしてまだ陽も高いうちから隣村まで歩いて飲みに出かけ、焼酎で教師仲間と酔っ払うのだった。僕は酔った勢いで、翌日はマイさんの副業、カメラマンの仕事に付き合うことを約束してしまった。深夜、マイさんの家に帰って寝た。(写真;ラオスの居酒屋。お酌の女の子。)
9月2日(日)(曇、夕方から雨/ヒンフープ)

 祭日だった。ラオ英辞典をひくと“Festival to the death”となっている。要するにお盆かな。みんな着飾ってお寺に集まり、お供え物をする。マイさんの副業、カメラマンの書き入れ時だ。朝6時半から出かけて、湖のほとりの村へ。小さなお寺の祭壇は、折り鶴や布切れ、お札を糸でぶら下げた竹串で飾られている。村の人はゴザを持って集まり、“運動会の時の父兄”のように遠巻きに地面に座り込む。お坊さんが祭壇に入って読経が始まると、それに合わせて合掌したり、唱和したり。最後は持ってきたお供え物を祭壇にささげて、お坊さんがそれを食べるのだった。
 仕事を終えたマイさんとヒンフープに戻ると、そこらじゅうの家で宴会が開かれていてた。何軒もまわって、食って、飲んだくれた。(写真;村のお寺に、晴れ着の人が集まる。)
9月3日(月)(曇一時雨/ヒンフープ〜ビエンチャン)

 7時半出発、国道13号線を南下。ラオスは9月が年度始め。ぴかぴかの制服のちっちゃな新入生が、学校からわらわら出てくる。楽しそうだ。フラットな道は走りやすくて、ビエンチャンまであっという間の90キロだった。まだお役所が開いている時間だったので、タイの60日ビザを取ろうと大使館のビザセクションへ。申請書はくれたけれど、受け付けは午前中だけとのこと。さらに発行がその翌日の午後になるという。まる1日半、この街で時間をつぶすことになった。
 中心部のゲストハウスに泊まる。(写真;何もない首都、ビエンチャン。)
9月4日(火)(雨のち晴、夕方から雨/ビエンチャン)

 朝いちばんでタイのビザを申請したあとは、何もすることがなくなった。少し寺や市場を見て回ったけれど、特にいいものはない。同じ宿に、2人組のチャリダーが泊まっていたので、部屋へ遊びにいった。ベルギー人のパトリックとオリバーだった。彼らのルートはかなりハードだ。まずアフリカ大陸の西海岸を南下し、中ほどで南米へ飛んだ。そして南米大陸を横断、北上してから、東南アジアへ来ていた。モロッコでは何もない大平原の中のまっすぐな道を何日も走り続け、ボリビアでは4千メートル級の山々を越えている。1年間で15000キロしか走っていないところが、ルートの激しさを物語っていた。ラオスを北上したあとは、中国の雲南省、西蔵省を通って内陸でヨーロッパへ帰ると言っていた。
 午後、暇を持てあまして、髪を染めてみた。美容師の女の子の「タイ語講座」つきだった。同じゲストハウスに連泊。(写真;滝のような夕立が来る。)

探鳥日記 タイ(ノンカイ〜アユタヤ)