金的神事参考資料

このページは、ためさんからの投稿資料です。
掲示板を通じて交流する中で参考資料として送られてきたものですが、
金的神事を理解する上で大事な資料と思われるので、ホームページとして残したいと思いました。

ボク自身も知らなかった事がたくさんあります。
古流弓道をひも解く大切なカギがあちこちに見られます。

下矢場(したやば)
神事的が行われる本矢場以外に、
このような稽古矢場が併設されています
飾り的
一寸八分〜二尺五寸の様々な的
早朝に公文は南山を閉ざし、
開式を待つ。
金的は木枝でかくされ、
御幣で囲われる。
 安土より手前八尺の間へ八の小畝を横たえ、是を谷という。
 谷は矢の一旦地上落ちても、其力を失はずこれを掃き切って的に着く矢勢を試すもので、この矢をやつ當たりと云い、昔は當り矢に取った。(弓道辞典・道鎭 實)
 大前の射手は次の矢順まで控える。
その場を離れる際には白扇を置く。
乙矢は大済の者と鉾合せをしてから射位につく。
       矢籠
安土から射手小屋に矢を運ぶかご。
古図面に「矢車」と書かれているものでしょうか?
お供え 前年の金的中者の奉納額
     弓溝(弓堀)
 射手が前へ出過ぎる事がないように作られた弓溝
古図面では深さ五寸ほど実際に掘ったようです
肥後の竹林派の弓溝


 下の写真の、足助は足助次郎重範を引き合いに出すまでもなく古くから弓の盛んなところです。
山間にありますが三河、尾張、信濃、美濃へ通じる交通の要衝です。 

 戦国時代には、今川、武田、松平(徳川)に四方を囲まれ、それらの戦国大名に従属離反を繰り返しながら戦国を戦い抜いた土地柄です。
 足助城の五代鈴木康重が1590年に家康に従って江戸に移住しています。
足助には今でも日弓連の影響を受けていない、大和流などの古流の弓引きがいます。
また、足助の八幡宮は祭礼弓の「鉾合せ」をつい数年前までやっていたお宮です。

 「鉾合せ」とは矢代振りの後、前弓と後弓を確認するために行われる儀式で、
自身の流派、師匠の名前、本人の氏名を名乗った後に弓の天神(うらはず)を床に突きながら射場の中央で廻る儀式です。
 ここの八幡宮を最後に、この鉾合せもやるところがなくなりました。
 残念なことです。(管理人)

         足助八幡宮の掲額
弓術史に名をとどめる名射士の額が数多く残っている
       足助八幡宮の安土
 現存するものとしては最古のもの?
伝書のとおりに築かれた、典型的な的山の姿
         星野神社の的山(豊川市平尾町) 

星野神社と聞いたとき、江戸時代に京都三十三間堂の通し矢で二度天下一になった、同じ市内の行明村出身の星野勘左衛門と何か繋がりがあるのでは、と思いましたがどうも取り立てた関係はなさそうです。

弓は一時絶えそうになったけど、地元の山田さんが公文で復活しました。
山田さんには敬意の念と共に、頼もしく思っています。(管理人)
          財賀寺
東三河では数少ない印西派の大矢場。

数年前、国の重要文化財に指定されている仁王象が、奈良の国立博物館からここの山門に帰ってきた折に、当時の横綱が土俵入りをしたのですが、そのとき土俵を作るために、矢場を解体してしまいました。

印西派のお祭弓を復活してもらいたいものです。(管理人)
上に星野神社と星野勘左衛門の間に取り立てた関係はなさそうと書きましたが、これをご覧になった、ためさん、Halさん、から以下の投稿がありました。原文掲載します。気が付いたことや間違いなどありましたら、投稿願います。訂正します。すみませんでした。
H15年8月28日

〔以下、ためさんからの投稿文〕

 「三十三間堂の通し矢が盛んになったのは、江戸時代も安定期に入ってからと思い込んでいました。豊川市内の旧「星野郷」の出身であり、尾州徳川の藩士であったのであれば、江戸の初期ですね。
念のため年号を調べてみます。

 家康が三河吉田城を攻め取ったのが1564年、将軍となったのが1603年、勘左衛門が10,542射中8,000本通矢したのは1632年(大和流:森川香山の生まれた翌年)
三十三間堂の通し矢が盛んだったのは、日本国中に徳川の親戚筋の殿様と三河の武士が広がった頃です。

かくして、尾州侯のもとに星野郷からスカウトされていた勘左衛門活躍の場が成立します。
 星野勘左衛門の生年、没年がわからないので他の年号を使いましたが、勘さんから弓のコツを習った射手もきっと神事的に参加していたでしょうね。」

〔以下、Halさんからの投稿文〕

 「現豊川市行明町に鎮座する行明神社(祭神:素盞嗚命.古くは大塚天王と呼ばれる。)の末社に星野社があります。祭神は、星野日向守行明の祖霊=星野大明神ということです。
 「太平記」の正平15(1360)年8月に、星野日向守行明の名が見え、吉良治部大輔、西郷兵庫助に加勢し、矢作に陣を張ったと記載されています。

 星野氏は、熱田大宮司李兼の孫・李範を祖とし、李範の長男・憲朝が千秋氏(東三河の千秋氏については、南北朝以前の野田城(信玄最後の城攻めで有名、現新城市野田)の城主がいます。野田城は、南北朝以後、三河大伴直系の富永氏が城主となる。)を名乗り、尾張海東郡の地頭職に任ぜられます。一方、李範の三男・範清が、星野左衛門大夫を名乗ります。李範の娘が源頼朝(1147〜1199)の母ですから、星野左衛門大夫範清や兄の千秋憲朝は、頼朝の「おじ」ということになります。
 星野一族も鎌倉時代に三河の星野庄に来たのではないかと考えられます。その後、星野氏の氏族は、一宮氏、篠田氏、長山氏(いずれも宝飯郡一宮町に地名がある。)などを名乗ります。

 旧宝飯郡に天王社が多いのは、星野左衛門大夫の兄・尾張海東地頭職にあった千秋氏が、海東に鎮座する津嶋天王社を勧請したことも一因とされています。
 素盞嗚命を祭神とする行明神社(古称:大塚天王)も、こうした関係から勧請されたのではないかと思います。

 星野庄は、平尾、行明、柑子(こうじ)、瀬木の諸集落を指したといわれます。このうち、柑子は、現豊川市柑子町、瀬木は、同瀬木町を指します。

 位置関係からみて平尾が現在の豊川市平尾町を指すのではないことは明白です。
 現在、行明の集落は、豊川放水路を挟んで塚田観音堂を中心とする集落(現豊川市行明町の字水洗・同太井後・同樋詰)と、豊川と豊川放水路の分岐点付近の集落(現豊川市行明町の字・山伏・同末広)、行明神社を中心とする集落(現豊川市行明町宮井戸)の三つの集落に分かれています。
 この豊川と豊川放水路の分岐付近に羽衣の松があり、星野氏と天女にまつわる伝説が残っています。この羽衣を保管しているのが、星野氏の直系を称する平尾氏です。

 この中で、塚田観音堂を中心とする集落には、平尾姓はいません。豊川と豊川放水路の分岐点付近の集落は、一番戸数が多く、30数軒あり、平尾姓は、3軒です。この中に、羽衣を保管する星野氏直系の平尾家もあります。行明神社を中心とする集落は、9軒中5軒と平尾姓が多く、隣接する豊橋市長瀬町にも10軒以上平尾姓がいます。
 このように考えると、星野庄の平尾は、行明神社から隣接する長瀬付近の地名であったのではないかと考えられます。

 現豊川市平尾町鎮座の星野神社の祭神は、大山咋神、いわゆる山王神です。平尾町は、山一つ隔てて、宝飯郡音羽町萩に隣接します。李範の長男・範忠の四世孫の忠氏が萩氏を名乗っています。萩にも星野氏と同族が進出していたわけです。祭神が、大山咋神であれば、星野神社の名を冠すより日吉(ひえ)神社、日枝神社、あるいは、地名を関して平尾日吉神社or平尾日枝神社と呼ばれるのが一般的です。

 あえて、日吉神社or日枝神社でなく、星野の名を冠した星野神社にしたあたり星野一族の萩氏との関係が伺えます。そのように考えれば、萩氏の進出にともない星野庄から平尾に移った一族もおり、その後、星野行明(ないし子孫)の住む星野庄にUターンし、行明神社付近に住み着くようになり、その地が、平尾と呼ばれるようになったのではないかと考えられます。

参考文献:「神社を中心としたる寶飯郡史」太田亮編著(愛知縣寶飯郡神職會編)」

この図面は三議一流(三議一統)として足利将軍義満の頃、
小笠原、今川、伊勢の3者により故実礼式の統一をはかったものです。
すでにこの頃から安土から道木(踏留木)までが15間と記されている。
勧進的を開催する際の矢場の古式図面





戻る