桜形神社 祭礼弓
(愛知県額田郡)

(金的を射かける前に御幣を矢来に移す)

 
 車で一時間位の山間部。曲がりくねった山道の連続です。
大昔、最初に住んだ人達はどんな事情があってこの山奥に来たのでしょうか。
落武者が最初に住んだ、という者もいます。

 お宮の由緒書きを読んでみたけど、難しすぎてよく分かりません。

 三河の平野部から来ると一度や二度道に迷うようで、この日一緒に来た兄弟子の永井さんは以前夜道で迷って、いくら走っても家に着けず、山道脇の電気屋さんに道を聞いてどうにか家にたどり着いたそうです。
 その後、この辺の山道のどこを走ってもその電気屋さんが発見できず、「あの時はキツネにつままれた。」といいます。

 大和流、星野先生の自宅近くのお宮さんです。

 今では額田郡(ぬかた)は山間部というイメージだけど、明治の初めの頃、廃藩置県で三河全体(岡崎、西尾、豊橋、刈谷、田原など)を額田県と呼んだ時期があります。

 ボクの住む豊川市一帯は、その頃、額田県宝飯郡00村と呼ばれていました。
その後、尾張の名古屋県と合併して現在の愛知県になります。

 中央集権国家をめざす明治政府にとって最大の課題は幕藩体制の解体で、
その中心をなしたのが廃藩置県です。
その頃、明治政府は西洋列強に対抗するため富国強兵政策をとる事になります。

 それ以後、天皇を中心に据えた全体主義的な中央集権国家を建設する過程で、全国各地の流派弓術も武徳会に収斂されていったと思われます。

 ここ額田には室町時代や江戸時代に流祖をもつ古流弓道が脈々と受け継がれています。

貴重な文化だと思うのはボクだけでしょうか。


本殿は山の上にあります。
登ってくる石段は踏み外すと、転げ落ちて怪我しそうな急勾配です。
本殿すぐ横にある矢場。
木立に囲まれて金的が光りにくくて的掛けに苦労しました。
この写真では見えにくいけど、御幣に囲まれた眉毛(杉枝)の下にちゃんとあります。矢来と杉枝の的山が古式通り。
大和流三河系図と岡崎藩大和流系図の書かれた板額。
流祖森川香山が『大和流弓道教訓之巻』の中で「射術は日置をはなれざる心」と述べているように、ここには森川香山に至るまでの初期の日置流系図も記されています。
射小屋にかかっている「弓の事」の書状。
この書状は永禄3年に徳川家康が19歳の時、桶狭間の戦の直後に出したもので、農工商にかかわらず弓を許し、戦の際には加勢するように、と家康の幼名元康の署名で書かれています。
秀吉の検地刀狩後も生き続けたこの免許状が、幕藩体制確立後の江戸時代にも効力を持ち続けて今に至ります。
三河の弓引きの拠りどころです。
矢代受けの作法で公文への参加者の挨拶が始まりました。 矢代振りの御手回しの様子。参加者26名の矢代矢の氏名を読み上げ、これで本置の矢順が決まります。
祝的の儀式は弓引き独特の作法があり、神官も村の人達も神妙に見守っています。公文は大和流星野さん。
手前の的中者は作手村の深津さん。
いつも自分の写真を撮っていないボクのために、もと写真屋さんだった方が撮ってくれました。せっかくなので載せました。
写真屋さんの割に写りはボケています。
それでかどうか、もと写真屋さんです。
まあそれはともかく、頑固に日置流の斜面打起こしです。
この日は前置の甲矢が中っただけで後はサッパリ、まだまだ修行が足りません。
囲炉裏を囲んでご馳走がいっぱい。村の人達の気持ちがうれしいもてなしです。 昼飯は松茸ご飯。山の人達は贅沢です。
 額田が好きなワケに、素朴で温かい人柄もさることながら、鹿肉、猪肉、へぼ飯(蜂の子の炊き込みご飯)などの山の幸があります。平野部に住む者にとって普段口に出来ないものばかりです。
矢道を横切ってお宮の本殿に上がってゆく村の娘さん
弓は一時中止、みんな見惚れていました。
緊張した様子で奉納の舞が始まります。
ボクは弓より舞!
弓は中座して村の人達に混じってデジカメ片手に堪能しました。
「明治39年、鈴木儀助奉納」とあります。日露戦争のときの奉納額でしょうか。額田の山奥からロシアまで出兵した、勇ましい兵隊さんの戦闘姿が描かれています。明治は遠くなりにけり、どころではありません。今でもここにあります。
ぼんやり一人考え込んでしまいました。
大勢の村の人達の見守る中で、優雅で美しい舞でした。
忘れてしまった日本の原風景がここにあります。

平成15年10月15日撮影



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