日置流雪荷派仮名目録」のお尋ねコーナー

目録初め
目録終り


昨年の秋、仙台在住のFさんからメールが届きました
「日置流雪荷派仮名目録」についてのお尋ねでした
以下はそのときのメールでの交流です
この写真の「日置流雪荷派仮名目録」に関して、
その消息などご存知の方がいらっしゃるようでしたら
ご連絡をお待ちしています

 
 (Fさん)
初めてメールします
私の先祖の物を整理していましたら、「日置流雪荷流仮名目録」と言う折書?がありました
どうも雪荷派の間違いか?亡き祖父の物ですが、祖父は万延生まれの明治を生きた方です
内容は弓のことを書いてあるようでしたが、インターネットで弓術の流派と分かりました
これは価値があるものなのでしょうか
持っていてもいずれ破棄されると思うと、どこかで保存してもらえるのかなと思いお尋ねします
よろしくお願いいたします

 
 (管理人)
メールありがとうございます。
さっそくですが、目録というのは免許を持つ師範から、一人前になった門人に与えられる、弓の射技、射術の書かれた書き物と考えていいと思います。

 ここ三河では通常、巻物に書かれていますが、何かの都合で折書にしたのではないでしょうか。
仮名目録ということから仮名文字で分かりやすく書いたのかもしれません。
また雪荷派を雪荷流と言う場合もあり、間違いなく雪荷派の目録と考えられます。

 一、弓構えの事(ゆがまえのこと) 一、足踏みの事(あしぶみのこと)、のように箇条書きで書かれています。
江戸時代の諸藩の7割くらいが日置流各派だったこともあり、各地にその弓術の目録が残っています。
ただ、現在では流派弓術の衰退とともにほとんど目にすることはありません。

 目録の最後に誰がその目録を出したのかが分かれば伝系をたどることは出来ます。
お手持ちの折書を直接目にしていないのではっきりしたことは分かりませんが、
旧仙台藩時代の弓術指南に関係したものかもしれません。

 伝書の価値という点に関してですが、専門家ではないのでなんとも分かりません。
古書や古文書を扱う専門家に直接聞かれたほうがいいと思います。

 こちらにも弓術の伝書は残されていますが、弓を志すものには弓道を研究する上でガイドラインになりますが、
一般的にその伝書に金銭的な価値があるという話は聞いたことがありません。
ただ、私事ではありますが古い流派弓術(日置流雪荷派)を研究する私には大変興味深い伝書です。
デジカメなどの写真で送ってくだされば詳しいことが分かるかもしれません。

 
 (Fさん)
 今度デジカメで撮影して送らせていただきます。
実は私は 旧姓 吉田 で吉田氏系譜が実家兄宅にあり、私の父までその系譜に記録されております

父で12代目にあたります。金沢で代々前田家に仕え、11代目まで金沢、明治 父が東京へ
母が盛岡出で疎開で盛岡に、戦後の窮乏で吉田家の遺品も食料に代わったと聞きますが、残っていたのが、わずかの掛け軸や系譜と目録でした

初代が尾州岩塚城主 吉田守氏の三男で前田利家荒子七人衆の一人吉田守好が創家と記されています
この度日置流のことでインターネットで調べていたら、吉田流 吉田重賢に至り、吉田重氏が、守氏の父と分かり、遠祖と分かりました

11代目吉田守成が目録を持っていたようですが、系統の本流印西派の免許でないのが不思議です。
もしかしたら金沢では雪荷派が普及していたのかなどと思います。しかし祖父が何をしていたかは不明です

いずれも遠祖の方々であり調べれば調べるほど深くなります

 
 (管理人)
吉田流の流祖にまでさかのぼる系譜に驚きます。

ご存知のように吉田重氏が印西派の流祖ですが、印西派は江戸幕府の指南弓術の流派です。
そのために日置当流などとも呼ばれ。同じ吉田流(重賢)から発生したにもかかわらず、とくべつな扱いを受けていたようです。

江戸幕府以外の諸藩は幕府に遠慮する意味から印西派を名乗らなかった可能性もあるかもしれません。
日置に流祖を持たない他流からは印西派も雪荷派も総じて日置吉田流と呼ばれることがあります。

つまり江戸の初期の頃にはそれほど細かく分類されていなかったのではないでしょうか。
また、尾州には同じ吉田流から派生した竹林派が現在も伝わっています。

そのいずれも日置吉田流というくくり方で大きな射法の違いはありません。
  (Fさん)
折れ書は間違いで、巻物でした
私のサイトに写真を掲載しました。

http://www.geocities.jp/sf3143/yosida/kyuuzyutu/mokuroku.htm

金沢で日置流雪荷派のお知りあいの方が居りましたら、教えていただけると有難いのですが
実は吉田守成が明治時代どのようなことをしていたのか、弓術との関わり合いを、知りたいと思っています。
  
(管理人)
仮名目録、拝見しました。
こちらに残っている雪荷派の目録とほぼ同じものです。
雪荷派の弓術に関する目録に間違いありません。

写真では日付がはっきり読み取れませんが、明治34年1月?とも読めます
いずれにしても澤田吉五郎という師範から出されたものだと思われます。
ここ三河では細々とではありますが、雪荷派の伝系を絶やさずにいますが、残念なことに、全国的に雪荷派そのものが絶えています。

こちらでも調べてはいるのですが、よく分かっていません。
ご期待に添えなくて申し訳ありません。

そちらでもしも雪荷派が現在も残っているところを見つけた際にはお教え願いたいと思います。
大変興味があります。

 
 (管理人)
その後、「日置流雪荷派仮名目録」を伝承された吉田守成様が明治時代をどのように過ごされていたのか、何かお分かりになられたでしょうか

こちらでも心掛けてはいるのですが、残念ながら今のところ手がかりはありません
そこで考えてみたのですが、こちらの「弓祭り」のホームページで広く情報を集めてみては如何でしょうか
メールでの交流と目録の写真を載せて心当たりのある方からの連絡を待つという方法です

現在、「弓祭り」のホームページには少しずつですが古流弓道を実践されている方や、興味を持っている方が集まりつつあります

そういった方々のためにも「日置流雪荷派仮名目録」が大切に伝えられていることや、
掲載することによって、ご覧になった方々に興味を持っていただくことにも意味があると考えます
如何でしょうか


  (Fさん)
いろいろご心配をおかけいたします。お心にお止めいただきましてありがとうございます
その後、石川県弓道連盟に問い合わせしましたが、
「日置流については情報はほとんど無い」ということで、あきらめておりました。

  
(Fさん)
お世話になります
再調査の結果どうも重大な誤りを犯したようです
吉田家の岩塚城主の吉田重氏と、吉田源八郎重氏(1562-1638)とは別人のようでした。
年代の違い 出生の違いが明らかでした。
岩塚城主の吉田重氏の子守氏は織田信長に仕えた、
守氏の子が吉田家創家 守好で1597年病死ですから間違いでした
申し訳ありません
よろしくお願い致します

以上の内容です(H16年2月17日)
なにかご存知の方、どんな些細なことでも結構です
連絡お待ちしています
ご覧頂きありがとうございます
連絡先 jirouw@mub.biglobe.ne.jp まで。


以下はこのページをご覧になった方からの掲示板への投稿です
ご参考にして下さい


後はお願いします 投稿者:Tamesan  投稿日: 2月15日(日)
雪花13世「大?忠?」さんを「弓道人名大事典」で調べてみたら、秋元但馬守の臣、「大沼忠興」さんの可能性がでてきました。
秋元但馬守の臣、享和2年、文政4年に江戸深川三十三間堂で通矢をしています。
この人の伝系なら可能性がありそうです。
子は、貞之助、孫は優之助いずれも江戸深川三十三間堂で活躍している。
道雪派と書いてある書もあるけど、チェックしてみる価値はありそうです。
秋元但馬守の知行地の変遷、石岡久夫さんの「三十三間堂矢数帳」などから追跡しましょう。


今わかること
 投稿者:Tamesan  投稿日: 2月14日(土)
@雪荷派(津本系)吉田元尚から、天下免許を加賀藩士小篠五左衛門受けた。
    この間不明
A目録伝授は明治34年。(このころは武徳会が組織されている。)
加賀藩の士分帳、藩校、武芸指南役等から「小篠五左衛門〜〜〜澤田吉五郎」までの空白を埋めることになるのでしょうが、郷土史関係資料から調査は可能だと思います。
なにせ、江戸期は武家関係の文書がきっちり保管されていますから。
明治34年頃は弓術が再興され活気が出た頃で、祖父/吉田守成さんも熱心に稽古されていたのでしょうね。
孫が先祖のルーツに関心を持ってくれたと、おじいさまも喜んでおられるでしょう。
ちなみに、雪荷派(含む道雪)は、三十三間堂で天下一を競っていた初期の頃は、めざましい活躍をしていました。
Fさん御一家から、この伝書をもとに「弓」を引く人が出るとこの目録はよみがえると思いますが、いかがでしょうか?



仙台藩の雪荷派ー2 投稿者:Tamesan  投稿日: 2月14日(土)
一子相伝型流派には膨大な量の伝書がある。
籾右衛門:モミエモンさんは「籾」は挽かねば食えないを信条に指導した。
伝書は95ヶ条の目録が最高位のものであった。
養子を迎えよとの誘いも、一代でよいと断ったので、彼の死後、その禄米は雪荷派に運営費として支給されるようになったらしい。
モミエモンさんの生き方に共感を覚えました。
もちろん、弓の伝書は95ヶ条でよいとする考えも「理屈より実学」すっきりしています。
今朝調べてみたら、阿波研三氏は明治33年に雪荷派の木村道場に入門しており、師匠は木村辰五郎時隆、さらにその師は遠藤時影・・・
お住まいが仙台で、伝書は金沢でしたか。とんだ方向を探していました。
ごめんなさい。トホホホ・・・・



仙台藩の雪荷派 投稿者:Tamesan  投稿日: 2月14日(土)
仙台藩の雪荷派は、享保元年に平塚重次を藩が招聘したことに始まる。はじめは堂形の指導をしていたが、的前その他、体配まで雪荷派で行われるようになったという。(弓道講座/仙台藩當流射芸史・樋口臥龍)
平塚重次は、籾右衛門というのですがその意味は「引かねば食えない」射芸に専念するという意味からきています。
人格高潔、弓だけに専念し欲心のない人で、弟子から慕われ、藩侯からも信頼されました。
そんな点も籾右衛門の雪荷派が仙台藩を席捲した要因でしょう。
なお、仙台の雪荷派では平塚籾右衛門重次が落合孫九郎から伝授された、目録95ヶ条が最高位のものとして代々継承されたと書かれています。
明治期に活躍したのは宇津井廣道、明治33年に没しています。市内北山秀林禅寺に葬られており法名は箭鉾院術士至道居士。
仙台にお住まいだったら秀林禅寺を調べてみられてはいかがでしょうか、弟子たちの寄進した物があれば、澤田さんや吉田守成さんの名が発見できるかもしれません。
仮名目録が何ヶ条からなっているのか、興味のあるところです。



日置流雪荷派仮名目録
 投稿者: Tamesan  投稿日: 3月 9日(水)
やっと澤田吉五郎師の消息がつかめました
館林市に自宅の跡が残っているということです
幕末の頃の館林藩(秋元家)に雪荷派の伝系があり、明治の頃に澤田吉五郎師からFさんのお祖父様に仮名目録が伝授された
その雪荷派は森直義の伝だった
伝書がそっくりだったのは、三河と同じ流れだったからです
地図で見ると、上総の国館林は利根川添いで、江戸のすぐそばでした
群馬県の松井様から澤田吉五郎師の消息を得ました
著書を送って頂けることになりましたので、詳細は読んでから報告します
宿題がやっと解け、ほっとしました



続:雪荷派仮名目録  投稿者: Tamesan  投稿日: 3月12日(土)
松井昭光先生から「富岡弓道史」が届き、仮名目録伝来の謎がやっととけました

澤田吉五郎師は大沼虎之丞(忠恕)の唯一の免許皆伝者であり、現在残っている仮名目録等の資料は澤田家から出たものである。彼は、明治初年から後箇村(富岡市南後箇)の名主をつとめ、また明治16年から4期県議会議員を務めた人でもある
明治維新により館林藩を離れた大沼虎之丞は、一宮町笠原直彦翁の家に寄寓した時期があり、雪荷派弓術がこの地に繁栄するもととなった
その後、卓越した技倆と信望を持つ澤田吉五郎等の活躍により、雪荷派の弓術が富岡市南後箇付近に栄えた
伝はその後、澤田吉五郎、岡田三津五郎、高麗征正(範士)、桑原波吉、矢野利十郎へと伝わった
吉五郎達が、利根川を下って千代田村(東京)より大沼氏の所へ弓を習いに行ったとか、大沼氏は館林(もしくは深谷)に帰った形跡もあるとの記載も「富岡弓道史」の中あります
Fさんのお祖父様も明治維新により、あるいは遊学により東京に出ておられたのでしょうか

前後しましたが、大沼家は館林藩秋元家の弓術師範家であり、山形藩の時は江戸詰、その後は館林であり、江戸の三十三間堂での活躍には有利な条件を備えていたようです



日置流雪荷派仮名目録について  投稿者: 藤沢茂 投稿日: 3月17日(木)18時25分42秒
tamesan 様
このたびは、貴重な報告をいただきありがとうございます。
本日書類も届きました、重ねて御礼申し上げます。
すっかりあきらめていたところでした。
祖父は、恐らく東京で官職についていたことと思います。
本当にありがとうございました。




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