賀茂神社の神事的

豊橋市賀茂町


ここ賀茂神社には徳川家康にまつわる話が多く残されていて
永禄11年(1568)遠江に進出する際に参詣し
天正3年(1575)長篠・設楽原合戦の出陣に際しても参拝したと伝えられます

また元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦では武田勢に追われ敗走し
ここ賀茂神社に隠れて難を逃れたと言い伝えられています
これに関係するのか、自身が征夷大将軍になった後、朱印地100石を与え江戸時代を通じ厚く保護し
日本一大きいといわれる麻布製の大幡(長さ21メートル、幅1.6メートル)を寄進しています

すぐ近くにかたくりが咲く城趾があり
二代将軍秀忠の母、お愛の方(西郷の局)の出身、西郷氏の城があった所です

毎年4月に行なわれる賀茂神社の大祭は、京都の上賀茂神社の神事に似ており
葵祭りには村総代や神官が出かけています

太鼓橋を渡って杉木立の中をしばらく登っていくと本殿が見えてきます
朱色の鳥居には元亀二年四月建立とあって、このころ家康は武田信玄と激戦を繰り広げていたころです
この年号をそのままにしておくのは家康とこのお宮との因縁が深いということでしょうか
矢代受けの場面
最も古い形式の南山(あづち)が写っています
矢代振りは初めての内藤さん
「いやあ緊張したなー」とのこと
いや上手にできましたよ。
奥に見える拝殿が貴船神社
左手が矢場
金的中のためさん、金的の後の掛替的を後弓に確認しているところ 見事に射抜いています
誰にとっても一寸八分の金的はそう簡単に中るものではありません
腕前もさることながら、よくよく三河の弓の神様に気に入られたのか、昨年秋の豊川稲荷に続いて今回も金的中、お見事でした
拝殿で神官のお払いの後、矢抜きの儀式
ここにも古くからの的中額が所狭しとかかっています
この矢場は元々、日置流印西派の公文矢場で
昔は三河七矢場に数えられるほどでした

写真でも分かるように射小屋の造りは
射手の後方に公文席(裏公文)が造られていますが
今は日置流雪荷派が公文を務めるため、
射手の前方(表公文)に公文席が設けられます
金も落ちたし、さあ昼飯にしよう たらふく食べてのんびりしている仲間たち
金的中者、日置流雪荷派、ためさんの射
左から 胴造り、弓構え、会と一連の動作は古伝の日置流です
家康が奉献した大幡は真近で見ると巨大なもので
掲揚所の棒の寸法が足りないのか、幡の下のほうが丸めてあります
帰りがけに寄った日置流雪荷派 岡田忠夫師範の自宅
今は安藤先生に代を譲って隠居の身です
よる年波には勝てず庭の稽古矢場にはぺんぺん草が生えています
帽子をかぶって皆に説明している方が岡田先生
   (下の文章は金的中者のためさんから)

「三河地区の春・秋は祭りの季節です。松平元康(家康)はいざというときのために百姓・町人にも弓を許し、花火(火薬)も奨励しました。
江戸時代初期からの神事的が継承されていますので、明治以降日本中の弓道場で忘れられてしまったことが、ここには今も残っています。
中でも矢代振りの作法と「置之的」は、ここの特徴です。
 射義一統等に描かれている南山(あづち)が、ここにはあります。
土を盛り上げただけのように見えている大安土は、赤土と藁で日干し煉瓦を作り、それを構造材に使ってあるのだそうです。
土を掻き上げただけに見えていたのですが、築地塀と同じ構造だそうです。
江戸時代に作られたのが少しずつ低くはなったものの、今もこうして残っているのだと聞きました。

神様の応援と三河の皆様のご厚情により、今回も金的中しました。
この神社に揚額できることになり、とても光栄です。」

   (ためさんのホームページはこちら http://www.geocities.jp/morihisata56/HP/index.htm )

平成19年4月15日撮影



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