牧野 素盞嗚神社
豊川市牧野町の祭礼弓

−牧野について−

 
 応永年間(1391〜1428)に足利四代将軍義持の命によって、讃岐国から田三左衛門尉成富がこの地に来住し、
この地が宝飯郡中条郷牧野(豊川市牧野町)であることから牧野と称し、
これが牧野氏の始まりです。
  この牧野氏は今の豊川、豊橋にその勢力を伸ばし牛久保城主となり、
今橋城(吉田城・吉田藩)を築城し戦国武将として下克上を駆け上る事になります。

 その後、1618年に牧野忠成が譜代大名として6万2000石をもって越後長岡藩に移封されます。
この辺では「優秀な者は牧野の殿様と一緒に長岡へしたがい、残った者は出来の悪いカスばかり」と、冗談で言います。

 つまりカスというのは僕たちの事で、言われてみればそうかもしれない、
と妙に合点してしまうところが情けなくもあります。

 牧野忠成は三河武士の精神「質朴剛健」「常在戦場」を武士の心がけとしてかかげ、
その壁書が今も残されています。

 明治のはじめに、長岡藩が窮乏の時に三根山藩から贈られた
米百俵を長岡藩の小林虎三郎が教育費にあてたという、「米百俵の精神」も
藩主牧野公の精神を継ぐものとされ、
その後も長岡人の気風として今も受け継がれているそうです。

本殿のすぐ左が矢場


 公文は日置流雪荷派
小安土の上端が尖っているのは印西派、丸く作るのは雪荷派と言い伝えられています。
 この安土も雪荷派の特徴がよく残っています


 本置の参加者38名、きちんと古式通りの立派な矢代振りです
矢代矢が多く、取り落とすことがないように、介添えが手拭で矢代矢を縛ります(右下)


 偶然に運良く大前から役弓三名は牛久保の門人で占めました

 「これで誰か金的を射中てたら他の者から恨まれるよね、と冗談言ってた矢先に
二人目の永井さん(下写真中央)が見事に射止めました

 なんだ、もう終わったの、と矢場の皆はガッカリ
ここへ来る出掛けに「牧野のお宮ににまだ額を揚げてないで、今日は当てたいなー。」と永井さんが言ったら、
 師匠が「中てといでん。」と言ってた事がホントになりました
まさかと思ったけど、こういう事ってあるんですねー。


ご神事の後は絵的の競射と手作りのご馳走

平成17年10月2日撮影


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