§<本の運命>第6話

いま甦る遺稿・南条直子とアフガニスタン

 南条直子著「戦士たちの貌 アフガニスタン断章」(径書房)


(遺稿写真集・アフガニスタン ムジャヒディン表紙)

 新古書店などをこまめにのぞいていると、ときどき誰かがまとめて放出
したと覚しき古本の山が、店頭に二束三文の捨て値で出回ることがある。
大方は古い全集物や一昔前のベストセラーなどだが、そんな中にとんでも
ない掘り出し物が混じっていることもある。
 この南条直子の「戦士たちの貌」という本も、そうしたぞっき本の一冊
として手に入れた。本そのものは美本だが、カバーの裏に購入書店名と日
付がマジックで書かれているという理由で、一冊百円の山に埋もれていた。
発行は1988年10月30日。フリーのカメラマンであった彼女がカー
ブルの東方7〜80キロ、タンギー・バリにおいて、仲間のムジャヒディ
ン(イスラム聖戦士)二人と共に地雷に触れて爆死を遂げてから一か月後
のことである。

 ぼくがこの本を手にしたのは、それから13年後の2001年夏。9月
の米国同時テロ事件の二か月ほど前のことで、アフガニスタンのことが人
々の話題にのぼることはまだほとんどなかった頃だ。品切れになって久し
い本だから、自分のやっているインターネット古書店の方でいずれ売りに
出すつもりで積んでおいたものを、ある日ふと手にとってパラパラめくっ
ていたら、だんだん引き込まれていきやめられなくなった。冒頭、彼女が
アフガニスタンに潜行する前に旅行者としてインドに滞在していた話が出
てくるが、奇しくも80年代初めの同じ頃、ぼくもインドに長く滞在して
おり、しかも彼女と生まれが同年とあって、彼女の世界を見る視線という
か、自分の属する日本及び日本人に対するどうしようもないいらだちの気
持ちが、痛いほどよく伝わってくるのだった。南条直子は言う―

〈私は真剣だった。そして、貧乏旅行者たちはみんな真剣だった。誰もが
多かれ少なかれ、日本に帰ることを恐れていた。旅行中の感興など、日本
に帰れば意味のないことを、心の底ではよく知っていた。日本でどう生き
ていけばいいのか分からない連中が多かった。そもそも自分がどう生きて
いけばいいのか知っている人が、この日本にどれくらいいるのだろう。〉


 そして安宿の大部屋でハッシシを吸い、売買春の話にうつつをぬかす同
世代の日本人の長期旅行者たちに、一方で同類としてある親近感を抱きな
がらも、彼らに対して女として言うべきことは徹底して言う。

〈何百円か、何千円で済ますな、日本で買うのと同じ金をタイ人に払って
みたらどうだ。ふところ痛めて女を買ってみたらどうだ、それが「買う」
ということだ。お前たちのやっていることは、買春ですらない。詐欺だ。
先進国と後進国の男と女の間におこなわれた汚い詐欺だ。(略)ジャパニ
ーズめ、お前たちはどこでクソになったんだ?〉


 まったく正論である。カルカッタやバンコクの安宿に長居して、現地値
段で娼婦を買い、ハッシシを回し飲みしては先のあてもなくゴロゴロして
いた多くの日本人の男ども。自分も含めて、当時インド近辺をうろついて
いた長期旅行者で、こういう彼女の物言いに面と向かって反論できた男は
極めて少ないだろう。だがそのぶん彼女は、必然的にそういう旅行者仲間
のうちからも孤立していかざるをえなくなる。

〈私が逃れてきた自分の国は、あの極東の島国にあるのではなく、この大
陸の真只中、一泊三百円のインドの安宿にこそあったのだ。ここは、イン
ドじゃない、日本だ。(略)ノイローゼみたいになって彼らと別れを告げ、
反日思想に取り憑かれ、私は独りぼっちになったような気がした。もうハ
ッシシのハッピーなトリップを味わうことはなかった。吸うたび例外なく
バッドだった。〉

 これが彼女の出発点である。女であるだけに彼女の絶望はより深い。似
たような地点を多くの旅行者が通過しながら、ある者は日本に帰って元の
都市生活に戻り、ある者は出家し、ある者は社会運動に従事し、ある者は
過疎の山村で暮らし始めたりしたわけだが、南条直子の場合は、カメラマ
ンとしてアフガニスタンの戦場に行く道を選んだ。写真学校を出てから山
谷のアパートに住み込みカメラマンの修業をしていたという彼女にしてみ
れば、それが自分にもっとも忠実な道だったという言い方もできるが、そ
の原点にあるのは、やはり日本と日本人(の男)に対する底深い絶望感だ
ったと思わざるをえない。だからこそ、後に出会ったアフガニスタンのム
ジャヒディンの男たちに、軟派な日本人とは対極の世界で生きる男たちの
勇姿に、彼女は強く魅かれていったのだろう。

 本はこのあと、まるで予期されていたような、ペシャワルでのムジャヒ
ディン志願兵のポーランド青年との出会いと別れ。彼の不慮の死。そして
経血にまみれながらの初のアフガン潜行へと話は続いていくが、彼女がア
フガンの村へたどりついてからは、それほど劇的な出来事は起こらない。
むしろ持久戦(ゲリラ戦)に特有の「戦場の危険と戦場の日常の退屈」と
が同居する「平和な生活の日々」にどう耐えていくかが当面の彼女の課題
となる。
 しかし牧歌的な生活がいつまでも続くわけではない。ソ連軍の移動に伴
ってゲリラが陣地を放棄し、遊撃戦に移行することを決めたとき、彼女は
司令官から逃げるように告げられる。「自分は戦争を見にきたのだから逃
げないよ」という言葉が咽喉まで出かかりながら、彼女はその指図に従い、
ムジャヒディンの若者と馬に乗せられ逃避行に出る。このあたりのシーン
は美しい。

〈夜が更けて月が出てきた。直立する断崖の狭間を抜け、ススキの群生す
る枯河の河床を、ビラールは私の馬の手綱をグイグイ引いて早足に進む。
馬を引きずるように何時間も歩き続けるビラールは、自分を励ますように
歌を唄い始めた。間延びしたいなかの歌だ。重くて落ちてきそうな満月、
群生するススキの穂は月光に輝き、荒涼とした土肌がその光を受けとめて
いる。見たこともない美しい風景。(略)石くれの上を飛ぶように行くビ
ラールにとっては、気の毒な話だったが、もうこのままどこにも辿り着き
たくなかった。どこまでも手綱を引かれ、いつまでも月光の下を運ばれて
いきたかった。〉


 こういうくだりを読むと、たとえ彼女が彼の地で爆死したとしても、日
本で交通事故に遭って死ぬよりはよほどましだったじゃないかと思えてく
る。

 結果として遺稿となってしまったこの本には、いろんな考察が未整理の
まま詰め込まれている。男と女の問題に始まって、ヨーロッパ近代主義と
イスラム共同体の思想との相克にいたるまで、様々な事柄が自らの肉体を
もって現場をさまよい歩いた者の視点から問われている。いま読むとソ連
=共産主義に対する遠慮がちな物言いの仕方など時代を感じさせる部分も
なくはないが、問われている事柄はどれも真っ直ぐに二〇〇二年のいまと
いう時代にまで貫通するものである。
 それにしても歴史は残酷なものだ。南条直子がここに描いた85年のア
フガニスタンの戦場で、いったい誰が16年後のアメリカによる大規模な
空爆を予想しえただろうか? 
 「あと書き」で彼女は書いている―

〈アフガニスタンは、これからどうなるのか。――今後、ソ連軍だけでは
なく、もっとさまざまな国際政治の役者たちが、アフガニスタンに手を下
そうとするでしょう。それには、「援助」という名前がついているかもし
れません。「謀略」であるかもしれません。しかし、ムジャヒディンは、
このたった今も、山の陣地や村や難民キャンプで、にぎやかにチャイを飲
みながら、状況にふりたてる雄々しい顔と、現実を走る両の足をもって、
この時代の大地に踏んばっていることでしょう。〉


 南条直子がもし生き延びていたらと想像するのは無意味なことであるが、
しかしやはりこう問うてみたくなる。「もし彼女がまだ生きていたら、今
回のアメリカによるアフガニスタンへの報復爆撃をいったいどういう言葉
で非難しただろうか?」と。

 アフガン戦争の間中、この本について一度は書いておきたいと思ってい
ながら、なかなか果たせなかった。いまこそ、ぜひ再版してもらいたい本
である。
(2002年1月5日)

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