§<本の運命>第5話
ほたる祭りで見つけた本
―ドノソ「夜のみだらな鳥」
ラテン・アメリカの現代文学が日本でも一躍脚光を浴びるようになっ
たのは、1970年代の中頃、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」
が刊行されたあたりからだろう。その後、集英社の「世界の文学」な
どを中心に、ボルヘス、コルタ−サル、ドノソ、バルガス・リョサ、
プイグ、アストリアス、カルペンティエール等々といった作家たちの重
厚で前衛的な作品が次々に翻訳され、読書界の話題をさらっていった。
ぼくはその中でもペルーの作家バルガス・リョサが気に入り、とくに
初期の長編「都会と犬ども」(新潮社)を読んだときの衝撃は忘れられ
ない。陸軍士官学校の寮生活を舞台にしたこの自伝的小説は、徹底した
規律の軍隊教育とその反動としての若い寮生たちの性的放縦、いじめ、
リンチ、そして仲間の少年の死をめぐる告発へと息も切らせずに話は続
いていき、最終的には「男子いかに生きるべきか?」を正面から問うた
実に骨太な青春小説となっている。秋山駿氏が「酒に喩えるならテキー
ラのような味」とこの小説を評していた記憶があるが、たしかにおよそ
それまでの狭い日本文学には見られない「自立した大人の文学」の味わ
いがそこにはあった。ぼく自身、都心の男子高に通っていた十代後半の
頃、欝屈した校内暴力の嵐の中で似たような経験をしただけに、それを
これほどのスケールで正面から描ききった異国の青年作家の筆力にはた
だただ圧倒された。(そんな彼がペルーの大統領選に担ぎ出されて、フ
ジモリと争ったのは不幸なことだったと思う。いま彼は亡命してスペイ
ンにいるという話だが…)。
それから、キューバ出身で若くしてパリに亡命した作家カルペンティ
エールの「失われた足跡」という作品も、忘れられない小説のひとつで
ある。民族楽器の調査のためにアマゾンの原住民の村に赴いた音楽家が、
現地の生活に同化していくにつれて、現代の時間の感覚を次第に喪失し
ていってしまう。そして苦心してたどりついたジャングルの奥地の村を
理想郷と定め、必要なモノを取りにいったん文明世界に引き返すのだが、
再びアマゾンの村へ戻ろうとすると、ジャングルの入り口に立ててあっ
た目印の杭が川の増水で流されて、もう村には戻れない…という話であ
る。陶淵明の「桃花源記」にも通じるユートピア譚の原形を踏まえたこ
の小説も、時間と文明を主題に据えた恐ろしく底の深い作品で、読後長
く印象に残っている。
そんな数々のラテン・アメリカ文学の名作の中で、いつか読もう読も
うと思っていて、何となく機を逸してしまった作品に、ドノソの「夜の
みだらな鳥」がある。作者が胃の手術でモルヒネを打たれた際に見た幻
覚をヒントに書かれたというこの小説は、絶版になって久しいいまでも
根強い人気があるらしく、インターネットの古本探し物のコーナーなど
でも時々目にする。古本自体にも高値がついていて、先日調べてみたら、
この本一冊に1万2000円という値段を付けている古書店もあった。
ぼくも以前は持っていたのだが、最初の1冊は引っ越しの際に古本屋に
売ってしまい、その後ブックオフで偶然手に入れた1冊は、インターネ
ットを通じて探していた人に譲ってしまった。それからは古本屋でも久
しく見かけることがなかったが、つい先日またこの本を手に入れる機会
があった。それが書店とも古本屋ともつかない一風変わった店でだった
ので、その話をちょっとしてみたいと思う。
*
その日はちょうどT町の「ほたる祭」の日だった。伊那谷の天竜川沿
いにあるこの町は、蛍を町の名物にしようと、十数年前から町起こしで
源氏蛍の飼育に取り組み、毎年6月末になると役場や商工会の肝いりで
「ほたる祭」を催している。テレビのローカル番組などで紹介されるよ
うになってから年々人気は高まり、いまでは他県からも噂を聞きつけた
多くの観光客が蛍の乱舞を一目みようと訪れるようになった。ぼくの住
むK市でも山村部なら、梅雨の合間の蒸し蒸しした晩、沢沿いの畦道な
どを歩けばいまでも蛍を見ることができるのだが、T町の場合は「ほた
る祭」というぐらいだからさぞかしすごい数の蛍が舞っているのだろう
と思い、今年初めて日曜の晩に、妻と出かけてみたのだ。
案内看板にしたがって町役場近くの指定の駐車場に車を入れ、暗くな
ってから目的地のM渓谷の方へとぶらぶら歩き始めた。この町はふだん
はおよそ蛍というイメージからは程遠い町で、町の中心にある工場から
排出される煙の異臭が常にそこら中に漂っていて、よくこれで住民から
何の苦情も出ないなといつも不思議に思っている町である。だからつく
づく町の通りを歩くのは、我々も初めてのことであった。
商店街のメインストリートには祭の屋台がぎっしりと軒を並べ、そこ
を通り抜けて町はずれの渓谷の方へ出る道順になっていた。人の流れに
任せて先へ先へと歩いていると、何だか昭和30年代ぐらいの町並みに
タイムスリップしてしまったような奇妙な錯覚に捉われてきた。祭の屋
台の向こうに「え!まだこんな店があるの?」というような古ぼけた感
じの商店が、次から次へと軒を並べているからだ。つげ義春の漫画にで
も出てきそうなひと昔前の氷菓子屋、魚屋、おもちゃ屋、洋品店……、
そんな店が屋台の両側に次々に現われては消えていく。
そうしてしばらく歩いていくと、ふと向こうに本屋らしき店があるの
が目に入ってきた。といってもモルタルの壁に掛けられた看板はもう文
字が取れかけているし、店の半分は古ぼけた文房具らしきものが占めて
いて、にわかに本屋とは断定できない。だが近寄ってみると左手の棚に
本がぎっしり詰まっており、明らかに本を商っている店ではあるらしい。
ただ新刊本屋なのか古本屋なのか、その辺の区別がつかない。入り口の
ガラス戸から書棚を窺ってみると、意外にいい本が置いてあるようなの
で、戸を開けて中に入ってみた。
ぷーんと黴臭いにおいが鼻をつく。薄暗い蛍光灯の下、書棚に目を走
らせていくと、「山頭火著作集」「プラトン全集」「手塚治虫選集」等
々といった、この町にしては「へぇー」と思うような本が埃を被って並
んでいる。だがどれもばらばらで全巻は揃っていない。店の奥から出て
きた老主人に妻が、
「あの…、これ全部古本ですよね?」
と訊くと、
「うむ…、まあ、その…、ええ」
というような曖昧な返事がかえってくる。
と、そのとき、書棚の上の方に集英社世界の文学の1冊、ドノソの
「夜のみだらな鳥」を見つけたのである。函の背はだいぶ日に焼けてし
まって変色しているが、中身を引き出してみると、月報やスリップまで
入った「新本」である。これが絶版になってからもう何年になるのだろ
う? よくもまあこんなところに埋もれていたものよと感動してしまう。
早速老人のもとに本を持っていって値段を尋ねると、本の埃をタオル
で拭い、老眼鏡を掛け直して定価を確かめた老人は、その半額の値段を
口にした。なるほど、やはりこれは全部「古本」だったのかと妙に納得
したぼくは、言い値で買うことにした。要するにここは、業界用語で言
うところの「ショタレ本」(返品不能品)をそのまま並べてある、開店
休業に近い「昔の新刊本屋」だったのだ。その日はたまたまお祭りだっ
たから、店を開けていたのかもしれない。
他にもまだ何か買おうかなと迷ったが、店の中があまりに黴臭くて、
これ以上長くいると持病のアレルギー性鼻炎の発作が出そうになってき
たので、ひとまずドノソ1冊を手にして店を出た。今夜はそもそも蛍を
見にきたのであって、古本を物色しにきたのではない。それでも思わぬ
掘り出し物を見つけた高揚した気分で、そこからは足取りも軽く、渓谷
への道を急いだ。
ようやくM渓谷の入り口までたどりつくと、「ほたるの名所」と看板
の出ているところから人々は列をつくって並び、ぼんぼりの灯った遊歩
道の手すり沿いに坂道を下っていくことになった。が、見えるのは人の
背中ばかりで、肝心の蛍はどこにいるのかわからない。だいたい「渓谷」
といっても、住宅地の裏の狭い窪地に、林に沿って50メートルほどの
水路が流れているばかりなのだ。その脇にぎっしりと人だかりがしてい
て、どうやらその辺で蛍が何匹か舞っているようなのではあるが、すぐ
後ろの線路をローカル電車はゴトゴト走り抜けていくし、スピーカーか
らは「懐中電灯は消してください。蛍は光を嫌います!」と始終がなり
立てているし、およそ期待したロマンチックな雰囲気などどこにもなか
った。
すぐ前にいるおばさんに、
「蛍なんか、どこに見えるの?」
と訊くと、
「そうなのよね…。でも、あ、ほら、あそこに1匹いた!」
というような具合である。なんだ、これなら家の近くの田んぼの畦道
の方がよっぽど幻想的な蛍の舞いが見られるじゃないかと妻と頷きあっ
て、早々にそこを後にした。帰り道では人混みの中から、「これは詐欺
だ! どこにもいないぞ、蛍なんか」という声も上がっている。そんな
声を掻き消すように、商店街の入り口に設置された蛍の実況を流すスピ
ーカーからは、
「あ、いよいよ蛍の乱舞が始まりました! みなさん、蛍が出てきまし
た、蛍です!」
という女性アナの興奮した叫び声が響いている。
やれやれ、といささか人疲れのしてきた我々は、何だかタイかインド
の田舎町にでもありそうな昔風の一軒のかき氷屋を見つけると、中に入
って老婆にソフトクリームを注文した。
(2001年7月)
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