§<本の運命>第4話

 インドでイスラエル人に教えられた本

 ―ロバート・M・パーシグ著「禅とオートバイ修理技術」

 この本のことを初めて耳にしたのは、いまから16〜7年前、南イン
ドのコヴァラムというビーチにいたときのことである。前回話したラマ
ナ・アシュラムを出てから、マドラスを経てまた南へ下ることにしたぼ
くは、アラビア海に面したこの海辺の村が気に入って沈没してしまい、
日がな一日ゴロゴロしていた。ココ椰子の林に囲まれた入り江の村は、
南国の楽園というにふさわしく、ビーチのあちこちに立てられた、椰子
の葉で屋根を葺いただけのレストラン小屋には、ヒッピー風の白人旅行
者たちがたむろしていた。
 ある日、そのうちの行きつけの一軒に入ると、ラジカセからふだんあ
まり馴染みのない音楽が流れていた。
「これはいったい、どこの音楽?」
 とレジにいる主人に訊ねると、主人は黙ってぼくの後ろの方の席を顎
でしゃくった。振り向くと、若い二人連れの白人男性がこちらを見てい
る。どうやら彼らが持ってきたミュージック・テープを、店でかけても
らっているようだった。
「え? 君たちが? ところでこれ、何語?」と訊くと、
「ヘブライ語」
 という返事がかえってきた。
「へぇー、なかなかいい曲じゃない。ということは、あんたたちは…」
「イスラエルから来たのさ」

 それから彼らの近くに席を取って飲み物を注文し、お互い拙い英語で
ぼそぼそしゃべっているうちに、どういういきさつでだったか、オート
バイの話題になった。インド製のあの単気筒エンジンをドッドッドッド
と響かせる黒塗りの大型オートバイ(メーカーの名前は忘れてしまった)
は、オートバイ・ファンなら一度は乗ってみたいと思うバイクだろう。
ぼくもその頃はまだ日本で250CCのバイクに乗っていたから、オー
トバイに興味はあった。このコヴァラムには、そんな外国人旅行者をあ
てこんだレンタル・バイクまであり、現にぼくも一度、上半身裸でイン
ド製のバイクにまたがった白人青年と道で出くわしたことがある。とこ
ろがそのとき、その青年はくわえ煙草で、明らかにジョイント(紙巻の
マリファナ煙草)を吸っていたので、ちょっとぼくは驚いたのだ。ここ
ケララ州はインドでも有名なガンジャ(大麻)の産地で、その効き目も
強烈だったからである。
「一服つけて、よくあんな大型のバイクの運転ができるよなあ」
 と一服つけてぼくが話すと、向こうもトロンとした眼をして、
「いやいや、一服つけた方がかえっていい運転ができるんだって…。ほ
ら、何とかいう本に書いてあるって話じゃないか」
 と金髪の長髪青年が傍らの相棒をつつく。
「<禅とオートバイ>だろ? 有名な本だから、日本でも出ているはず
だぜ」
 ぼくは初めて聞く書名だったので、手帳にメモして、
「ふーん、じゃ要するに一服つけてオートバイを運転することが、禅の
境地につながるっていうようなことなのかな?」
 と勝手に解釈したことを言うと、向こうもそうそうとうなづくのであ
った。

 それから半年余り後、日本に戻ったぼくは、ある日その書名を思い出
し、そういうタイトルの本を都内の書店をめぐって探してみたが、どこ
にも売っていなかった。念の為、洋書のリストを調べてみると、たしか
にアメリカで「Zen and Moterbike Mainten
ance」という本が出ていたから、きっとこれのことだろうとは思っ
たが、取り寄せて原書で読むほどのガッツはなかった。
 そうこうしているうちに、めるくまーる社から「精神とランドスケー
プ」シリーズの一冊として、ロバート・M・パーシグ著「禅とオートバ
イ修理技術」が翻訳・出版された。早速買い求めて読んでみると、イス
ラエル人が言っていたマリファナの話などどこにも出てこない。むしろ
きわめて真面目な本で、不登校の息子とバイクでアメリカ大陸を横断す
る元大学教授が、その紀行文の合間合間に、初期ギリシャ哲学の「クオ
リティ」という概念を考察し、それをオートバイの修理技術と結びつけ
て論じていく非常にユニークな思索の書といってよかった。実際ぼくも
この本を読んでから、日頃苦手な領域だった理科系の技術や思考につい
ての考えを更め、それまでかなりいい加減にやっていた機械や道具類の
メンテナンスをはじめ、畑仕事や日常の細々とした事柄にも、注意が向
くようになったと思っている。
 繰り返し読んで、とても面白かったので、ちょうどその頃、自分がや
っている塾で面倒をみていた自動車屋の高3になる息子にこれを一冊買
い与え、国語のテキストに使った。彼は自動車関係の専門学校に推薦で
入学が決まっていたから、いまさら受験勉強でもなかったのだ。およそ
実用書とはかけ離れた内容の本だし、高校生にはかなり難しい内容だっ
たとは思うが、彼も結構真剣に読んでくれた。いまでも、この本を読ん
だことのある自動車修理工が教え子にいると思うだけで、何となく愉快
な気分になってくる。

 ところでこの本、書店によっては「禅」のコーナーに並べているとこ
ろもあるようだが、本の中に「禅」についての記述はまったくない。た
だオートバイの修理など、きちんとしたクオリティの仕事をするには、
その心構えとして禅的な境地が要求されるというまでである。そういう
意味では、インドでイスラエル人が言わんとしていたことも、あながち
的外れではなかったのかもしれない。いずれにしても、おかげでいい本
に出会うことができたと、いまでは連中に感謝している。

(2001年5月)

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