§「東京の背中」
すっかり紅葉も終わり、朝晩の冷え込みも一段と厳しくなった十二月
初旬。私用で久々に上京した。昔ぼくが勤めていた会社が、新社屋落成
を記念してOB・OGのための集まりを催すという。「たまには出てこ
ないか」という東京の知人からの呼び掛けもあって、出かけることにし
たのである。
伊那谷から高速バスに乗り込んだときは、いまにも雪が降り出してき
そうな底冷えのする天気だった。しかしそれも薄氷の張った諏訪湖を過
ぎ、山頂に新雪をいただいた八ヶ岳を見ながら山梨側に入ってくる頃に
は、次第に薄日が射し始め、木々の紅葉すら所々で目にするようになっ
た。そして甲府盆地を過ぎ、大月から相模湖近辺まで来ると、周囲の山
はまだ紅葉の最中であった。長野から東京までのわずか二百キロほどの
道のりだとはいえ、季節の歩みはこれだけ違う。東京に近づくにつれ気
温もぐんぐん上昇してきて、バスの座席でセーターを脱ぎながら、ああ
やっぱり厚着をし過ぎてきたかなと、例のごとくに後悔する。
八王子を過ぎると完全に東京の世界に入った。このオモチャの積木細
工みたいな郊外の建売住宅の群れ…。ウワッ、なんだこのスモッグは!
空は晴れているはずなのに、都心の方はボーッと霞んでいて何も見えな
い。寒いとはいえ、澄んだ空気のなかに中アや南アの山並みがくっきり
と聳える伊那谷を今朝出てきたばかりだから、それが余計異様に感じら
れる。
ものすごい渋滞のなか、バスはやっと新宿に着いた。
毎度のことだが、伊那谷のような田舎から一気に都心に出てくると、
まるで外国にやってきたようなある種の時差ボケ状態に襲われる。ムオ
ッとする空気の悪さや生ぬるい肌触りに加えて、人や車やモノの過剰感
がいちどきに押し寄せてくるから、一瞬立ち眩みを覚えてしまうのだ。
それでもなんとか人混みをかき分けて歩き出し、今晩の宿を決め、ひと
息ついてから会場へ出かけた。
※
それはやはり奇妙な集まりだった。出入りの激しい出版関係の会社と
いうこともあるが、集まった人間の半分近くがぼくと同じような中途退
職者で占められていた。そんな中退OB・OGが、もう一生聞くことも
ないだろうと思っていた社長のスピーチを皮切りに、昔の上司や同僚た
ちとグラスを傾けながら話を交わしているのである。
しかもぼくの場合、十五年前にわずか二年ほど在籍しただけの会社で、
辞めてからすぐに東京を離れて信州の山村に移り住み、それからはおよ
そ会社勤めとは無縁の暮らしをしてきた。だから余計に奇妙な感覚がつ
きまとって離れなかったのかもしれない。なぜなら、それぞれに髪も白
くなり顔も老けたとはいえ、その場の構図だけ取り出せば、十五年前と
何も変わらぬ世界がそこに展開されていたからである。もちろん、櫛の
歯がこぼれるように何人かはすでに他界していたし、ぼくのことをまっ
たく覚えていないというかつての上司もいた。しかしその雰囲気の全体
が、何というか「東京のサラリーマン社会」という大きな枠組みのなか
にすっぽりと収まっていて、そこからずれてしまっている自分をいやで
も感じないわけにはいかなかった。
二次会の乾杯まで付き合ってからバーを出た。国電の東中野駅までの
道を歩きながら、浦島太郎になったような気分にとらわれていたのは、
たんに感傷のせいばかりではない。夜ということもあるが、町の風景が
すっかり変わってしまっていたからだ。駅前の大通りは拡張され、見知
らぬビルが次々に建ち並び、ここが十五年前毎日通っていた場所だとは
どうしても思えなかった。実際、新社屋の会場に来るときも駅を出てか
ら道に迷ってしまい、何度も駅の周辺を行ったり来たりしてから、やっ
とお目当てのビルを見つけたのである。昔は、この近くのアパートから
会社まで歩いて通っていたのにである。
それでもほろ酔い加減で夜道を歩いているうちに、さすがに周辺の地
理も少しずつ思い出されてきて、なつかしい気分が湧いてきた。そこで
新宿のビジネスホテルに泊まった翌朝、昔十年ほど住んでいたアパート
まで国電の大久保駅から久々に歩いてみることにした。東京はともかく
朝が遅いから、一泊してもどのみち朝のうちは何もできない。
※
大久保駅のガード下をくぐると、出勤を急ぐサラリーマンたちの流れ
に逆らって、ごちゃごちゃした駅前の商店街を住宅地のある方角に歩い
た。連れ込みホテル街の狭い通りいっぱいに大型トラックが停まってい
て、向こうからきた車が通り抜けられずにクラクションをうるさく鳴ら
している。電柱の脇を迂回してそこを抜けると、突き当たりのビルのあ
った場所が更地になってしまっているので、なんだか拍子抜けした気分
になる。右手に見える高層ビルが、東京グローブ座の入っている建物だ
ろうか。ほかにも、十五年前にはなかったビルがずいぶんできている。
しかしオフィスビルや研究所の立ち並ぶ通りを過ぎて、昔ぼくの住ん
でいた古ぼけた都営アパートのある一角に入っていくと、不思議とそこ
だけは時代から取り残されたような昔ながらの雰囲気が残っていた。所
帯じみた四階建てのアパートのたたずまいは昔のままだし、八百屋やク
リーニング屋やラーメン屋も同じ場所に健在である。顔なじみだったク
リーニング屋の親父にちょっと話でも聞いてみようかと思ったが、まだ
朝早くて店は閉まっていた。
とりあえず目の前にある公園で、ひと息入れることにした。公園の中
央には大きな欅の木が数本太い枝を垂らしていて、これも昔のままなの
がうれしかった。老人たちが数人、ばらばらにベンチに腰掛けてぼんや
りしている。空いているベンチを見つけて、途中のコンビニで買ってき
たサンドイッチと缶コーヒーを袋から取り出そうとすると、鳩の群れが
一斉に寄ってきた。
ところがそのとき、ふと妙なことに気づいた。横長のベンチの中央を
仕切るようにして、木製の「手摺り」が据え付けられているのである。
ペンキこそ塗り替えられてはいても古ぼけた木のベンチは昔のままだっ
たが、この真ん中の手摺りは以前にはなかったものだ。いったい何のた
めにこんなものを付けたんだろう?と思ったとき、ハタとあることに気
づいた。これでは背中に手摺りが当たって横になれないのである。咄嗟
に、「あ、これは浮浪者排除のベンチだな」ということに思い当たった。
日雇い労務者の斡旋で知られる高田馬場の職安から近いこの辺りの公
園には、昔から仕事にあぶれた浮浪者がよくうろついていて、昼間から
酒を飲んで騒いだり、ベンチで野宿して夜を明かしたりしている者を時
々見かけた。冬など凍死者が出て、パトカーが出動したこともある。夏
にはそんな彼らを、朝のラジオ体操の邪魔になるからと団地の自治会の
おばさんたちが竹ボウキで掃いている光景をアパートの窓から目撃して、
一瞬我が目を疑ったことなども思い起こされてきた。
ウーム、と思わずぼくは唸った。一見するとちょっと気の利いた二人
掛けのベンチといえなくもないのだが、事情を知っている者には、その
意図するところは明白である。「目障りな浮浪者よ出て行け!」という
ことなのだ。ぼく自身、もはや東京のサラリーマン社会からはずれた余
所者だから、それがよくわかる。だが、彼らはいったいどこへ行けばい
いのか? それにいま彼らを排除する者たち自身が、将来彼らのような
境遇に落ちることは絶対にないと言い切れるのか? 新宿駅西口の地下
街からいつの間にか浮浪者が一掃されたことと、この目の前の「手摺り」
の存在が急にだぶって視えてきて、昨夜来の感傷的な気分はどこかへ消
えてしまった。やっぱりこの十五年、視えないところで何かが大きく変
わったのである。
サンドイッチの残り屑を鳩どもに投げてやると、ぼくは白けた気分で
ベンチから立ち上がった。
(2000年1月)
*一年後、東京の友人からの賀状にこうあった。「年に一度仕事の関係で
関西に行きますが、電車から見える公園はブルーシートの小屋で埋まって
います」と。聞くところによると、名古屋もそうらしい。新宿を追われた
彼らは、西へ西へと移動していったのだろうか?
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