≪伊那谷スケッチ≫(PartU・2002〜3年冬)

 2/28(金)「春間近」

 いよいよ鼻がむずむずしてきた。風はまだ冷たいけれど陽射しは明る
く、もう春の気配である。先日も久々に天竜川の対岸に渡り河原を散歩
していたら、モンペ姿のおばさんたちが数人、籠を抱えて何か漁ってい
るところに出くわした。何をしているのか見に行くと、籠の中には黒い
ザザムシがうじゃうじゃとひしめいていた。おっと思わず後ずさりする。
このゲジゲジみたいな虫が、蜂の子と並んで伊那谷の特産なのである。
キロ8000円位で売れるとのことだが、ぼくはまださすがに食ったことが
ない。およそ食欲をそそるような見かけではないが、たぶん飢饉のとき
か何かに誰かがこれを食べて、結構いけるぜということで、以来少しず
つ広まっていったのではないかと勝手な想像をする。
 その先ではどこかのおじさんが魚篭を片手にドジョウすくい。春だな
ーと鼻歌など口ずさみながら歩いて行くと、途中から河原の土手道は舗
装工事のため通行止めになっていた。ブルドーザーやローラー車が行き
交う脇を犬を連れてなんとか通り抜け、やれやれとため息をつく。いま
ごろの季節になるとおなじみの予算消化のための土木工事である。ふだ
んから一般車通行止めのこんな土手道を何のために舗装する必要がある
のか? 人が歩くための土の道ぐらい少しは残しておいてもらいたいよ
と思うけれども、それもこれも致し方のない世の流れである。下を流れ
る天竜川を眺めながら、「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結び
て久しくとどまりたるためしなし」(方丈記)という古人の言葉を思い
出しては、向かい風に逆らって犬と先を急いだ。

なお引っ越しやら何やらで当分忙しくなるため、スケッチの連載はし
ばらくお休みいたします。またいずれ再開するつもりなので、ご意見・
ご感想を
メールでお寄せいただければ幸いです。ここまで読んでくれた
皆さん、どうもありがとう。
(堀越哲朗)

 

 2/14(金)「背中の山を見る…再び温泉から」

 徹夜仕事が2日ほど続いたので、夜勤明けの昨日はまた疲れを癒しに
温泉へ。久々の快晴だったからちょっと足を延ばして伊那市郊外にある
「見晴らしの湯」へ行く。ここも5〜6年前にできたばかりの公営の日
帰り温泉だが、眺めもいいし設備もよく整っていて湯質もいい。いつも
混み合っているのが難点だが、平日の昨日はわりと空いていてゆったり
湯に漬かれた。
 たどりついたときがちょうど夕暮れ時で、向こうに見える真っ白い雪
を被った南アルプスの山々が、正面の仙丈ケ岳の大きな山容を中心に夕
日の残照を浴びて輝いていた。左手には霧が峰から車山高原にかけての
山々が、その右手にはぼくの好きな蓼科山まですっきりとした麗姿を現
していて、思わず「おーっタテシナ!」と唸ってしまう。が、それも束
の間、打たせ湯をして肩の凝りをほぐし露天風呂に出ていったときには、
すでに日が翳って山々の輝きは失せてしまっていた。山の朝焼けも一瞬
だが、夕焼けの美しさもほんのひとときである。
 それでも湯に漬かってしみじみと山々の影を眺めていると、伊那谷と
いうところはこうして中アと南アのふたつの山並みを交互に眺められる
から飽きないんだなとあらためて思った。不思議なもので、人は自分の
背中が見えないように自分の住んでいる山も眺められない。いつも見え
るのは他人の住む遠くの山々ばかりなのだ。それが伊那谷の場合、天竜
川を渡って向こう岸に渡ると、ふだん背後に隠れている自分の住む山も
眺められる。それが何と言うか、快感なのである。ぼくもふだん自分の
家からは木曾駒・空木岳を中心にした中央アルプスの山並みばかり見慣
れていて、背後の南アルプスの山々を見ることはできない。ところがこ
うして天竜川を渡り中アの山麓にある露天風呂に漬かると、ふだん背に
している南アの山並みを一望の下に収めることができる。まるで自分の
背中を見ているような不思議な気がしてくるのだ。しかもそれが、なん
て美しいんだろう!
 ……というわけで、伊那谷は不精者のナルシストにははまりやすいと
ころらしく、ぼくも谷の西と東を行ったり来たりしている間にずるずる
とここにはまりこんでしまい、もうなかなか抜け出せなくなってきてい
るというわけです。

 さて風呂を出て脱衣場でしばし湯のほてりを覚ましていたら、そうい
えば去年ガンで亡くなったTさんがよくここでぐったりと椅子にもたれ
ていたなとふと在りし日の姿を思い出した。あまり疲れ切った表情で休
んでいるので、ちょっと声をかけるのも憚られたほどだ。東京出身のT
さんが五十代から六十代にかけての晩年の十五年ほどを過ごした廃村は
南ア北端の入笠山のふもとにあり、その入笠山はこの露天風呂からも眺
めることができる。ぼくも十年近く暮らしていたからよく知っているが、
標高1100メートルほどの谷間にあり、ともかく冬は寒いところだっ
た。ここから車で優に1時間はかかる距離だ。それでもTさんはよくこ
の温泉で見かけたから、よほどこの湯で温まりたかったにちがいない。
 いったいTさんはどんな気持でここから自分の住む山を眺めていたの
だろうか?

 2/2(日)「温泉しかないよね、こう寒くては」

 寒さのピークが続いている。隙間だらけのあばら家住まいなので、外
気温と部屋の中の温度があまり違わない。日が照っているときなど、う
っかりすると外の方が暖かいときもある。だからふだん部屋の中ではた
っぷり着込んで石油ストーブをがんがん焚き何とか寒さを凌いでいるが、
やっぱり最高気温が零度を下回るような真冬日が続くと、こうしてパソ
コンに向かうだけでも、キイボードを打つ手がかじかんで、なかなか思
うように仕事がはかどらない。大雪の後はもう山歩きどころではないし、
かといって家でじっとしていても埒が明かない。だから仕事は適当に切
り上げて、夕方早めに近くの温泉に行くことにしている。のらりくらり
とこうして冬を過ごしていられるのも、まったく温泉があればこその話
である。ありがたいことだ。

 もっとも十年余り前までは、南信の伊那谷には温泉がほとんどなかっ
た。一時期はそれが悩みの種で、古くからの有名な温泉がたくさんある
北信や中信を羨ましく思っていたものだが、それが90年代の初め、国の
過疎対策法の打ち切りでばら撒かれた「ふるさと一億円基金」をもとに
してあちこちで一斉に温泉が掘られ、その結果、いまでは伊那谷のほと
んどの市町村に公営の温泉施設が整備されることになった。もちろん観
光客の誘致が当初のねらいだったわけで、これだけ一斉に温泉が出来て
しまうと物珍しさはなくなり、過当競争でいつも閑古鳥が鳴いていて存
続が危ぶまれるような施設も出て来始めた。
 ぼくの住む駒ヶ根近辺にも、この十年余りの間に自宅から車で20分ほ
どの距離に温泉が三つ出来た。料金はどれも500円で源泉は同じだが、露
天風呂を大きく取って見晴らしのいい「露天こぶしの湯」、市の直営で
サウナや広々とした休憩施設のある「こまくさの湯」、宿泊施設とセッ
トになっている宮田村直営の「こまゆき荘」と、それぞれに設備や雰囲
気・湯質に違いがある。
 このうち最初に出来たのは源泉に一番近い「こまゆき荘」で、湯船と
洗い場があるだけの比較的小さな温泉だが、一時期は客でごった返した
ときもあったという。ところが太田切川をはさんで対岸にサウナや薬草
風呂・露天風呂・大休憩室など立派な設備を備えた「こまくさの湯」が
オープンすると、客は一斉にこちらに流れ、とくに観光客のほとんどは
「こまくさの湯」を利用することになった。
 それでも「こまゆき荘」には夕方6時から8時まで350円の割引時間帯
があって、そのサービスタイムを中心に地元客がそこそこ利用していた。
これに対して「こまくさの湯」も、十回入ると1回分百円になるスタン
プカードを発行して対抗。観光客だけでなく、地元客の誘致にもそれな
りの力を入れた。その結果、客足の減った「こまゆき荘」は夕方のサー
ビスタイムの割引も赤字を理由に撤廃。客離れにますます拍車をかける
ことになった。
 そうこうしているうちに一昨年、露天風呂をメインに据えた「露天こ
ぶしの湯」が、「こまくさの湯」から徒歩十分ほどの丘の中腹にオープ
ン。もともと家族旅行村というログハウスの宿泊施設を主体に運営して
いる会社が通年営業を目指して始めた温泉だから、宣伝力は圧倒的で、
いまではここがいつも一番混み合う温泉となった。
 
 
質問:さて、このうちぼくがよく行くのはどこでしょう?
 
答え:「こまゆき荘」です。
 
理由:設備は貧弱だけど、源泉に近いせいか湯質が濃くて一番暖まる
からです(これは常連の誰もが言うこと)。しかもたいていガラガラで、
半端な時間に行くと湯船を一人で独占できることもあります。常連の爺
さんと顔を合わせるのがうっとしいこともあるけど、しみじみとゆった
りした気分で湯に漬かることができるのは何といってもここです。去年
までは管理人が飼っていた白い可愛い雌犬が老いた目をショボショボさ
せながら入口で客を迎えたのですが、17歳で老衰のため死去。ちょっと
寂しくなりましたが、いかにも村の温泉といった鄙びた雰囲気は相変わ
らずです。ここでぐたーっと湯船でのびている坊主頭の中年男がいたら、
それはたぶんぼくなので、どうかそっとしておいてやってください。


  

 1/20(月)「桃源院の墓石群」

 昨日ひとしきり降り積もった雪は、朝になってみると思ったほどでは
なかった。それでも20センチぐらいは積もったか。夜勤明けの病院の建
物を後にして、出勤の車の流れに逆らって家に戻ると長靴を履いて早速
雪かき。家の周りと車を停めてあるリンゴ園横の空き地まで一通り除雪
する。サラサラと軽い雪で、わりと作業は楽だった。
 終わって一息ついてから、犬を連れていつもの朝の散歩。歩いている
と雲の切れ目から遅い朝日が射しこんできて、それが雪にキラキラと反
射して周囲が一気に輝きを帯びてくる。「世界ってこんなに美しかった
っけ!」と思わず立ち止まってあたりを見回してしまう。昨夜は仕事で
ほとんど寝ていないから頭はぼーっとしているが、気分は爽快だ。人々
が皆出勤してしまってから後の、この半端な田舎の朝のひとときがぼく
は好きである。
 雪桜などに見とれながらそのまま集落を抜けて町と反対方向にぶらぶ
らと歩き、今日は久々に桃源院という山寺まで足を延ばしてみた。ここ
は昔伊那谷を流浪した漂泊の俳人井月(せいげつ)が時々逗留していた
寺で、寺そのものは何の変哲もない小さな山寺だが、その名の通り桃源
郷を思わせるような山ふところに抱かれた日当たりのいい窪地にある。
雪を踏みしめて境内をぐるっと一巡し、井月の句碑がある丘の東屋で日
向ぼっこをしながら昼寝。

 翌日(あす)知らぬ身の楽しみや花に酒

 という井月の句がふっと思い出されてくる。

 それからさらに寺の裏手にまわり山の方へ登っていくと、左手の丘の
中腹が墓地になっていて、「気持よさそうなお墓だな」と思って眺めて
いるうちに妙なことに気づいた。日の光を浴びてそこにずらっと並ぶ墓
石のほとんどが、ほぼ三つの同じ姓で占められているからだ。「北原家
之墓」と「小林家之墓」、それに「竹村家之墓」の三つの墓石だけが林
立する山寺の墓地の光景は何か壮観である。どれもこの辺に多い姓で、
祖先をたどっていくといずれはこの三つの家のどれかに行きついてしま
うのだろう。山村の地縁血縁というものの実態を目の当たりにしたよう
な気分になり、思わず後ずさりしてしまう。
 ところがもう少し上に行くと、もっと凄い墓石が並んでいた。何家之
墓なのか名前はないが、高さ5〜60センチほどの円筒形の墓石が横一列に
20個ほど並んでいて、それがこの一族の先祖代々の墓なのである。

それをひとつひとつ見ていくと、一番右手の初代の墓は、もう長い年月
の間に墓石が磨り減ってしまっていて何も読み取れないが、四代あたり
から辛うじて石に掘りこんだ字がぼんやりと浮き出てくる。そして六つ
目の墓石からはっきりと「六代」と読み取れるようになる。その後「七
代」「八代」と続き、九代が欠けて「十代」になっているのはどうした
ことか? 「十一代」の次に「十二十四代」が一緒に入っているのは何
か事故でもあって祖父と長男が一緒に亡くなったのだろうか? そのあ
とまた「十三代」に戻り十五十六代が欠けてない。戦さか飢饉でもあっ
たのかもしれない。そしてまた「十七代」から「二十二世代」までは無
事続いている。右から順に石もだんだん新しくなってきて、最後の「二
十二世代」の墓石はまだつやつやと輝きを帯びている。
 一世代三十年として計算すると、ざっと六百年余りの一族の歴史がこ
の墓石群に刻まれていることになるわけだ。「何か知らないが凄いなあ」
と圧倒された。個人の名前なんてどこにもない。ただ世代の存続がある
のみ。田舎ならではの墓である。親戚付き合いすらまともにしていない
都会育ちのぼくには、およそ想像のつきかねる世界だが…。
 そのまま裏山をぐるっとまわって奥の院の神社に下り、帰路についた。
家に戻ってくる頃にはまた曇ってきてしまったが、もう道の雪もあらか
た解け、アスファルトからは湯気が立ち上っていた。これなら明日から
も道は大丈夫だろう。

 1/11(土)「犬猫談義」

 このところの寒さ疲れが出てきたのか、どうも体調がいまひとつ。好
天の一昨日、犬を連れていつものように伊那富士(戸倉山)へ出かけた
のだが、今年はもう雪が深くてアイゼンをつけて登っていても膝までズ
ッポズッポ。ポン太など腹まで埋まりながら雪をラッセルしていく。新
雪の上を歩くのは気持がいいし、ガッツがあれば上まで行けたのだろう
が、暮れに登ったときは靴底から凍みた雪で女房が軽い凍傷にかかって
しまったことなど思い出し、結局5合目で引き返した。秋までのように
疲れたから木陰で昼寝というわけにもいかず、標高の低い里山とはいえ、
冬山は甘くない。
 
 今朝は猫の夢を見て目を覚ました。去年まで飼っていた雄猫の麻太郎
が目の前で車にはねられて、慌てて抱き起こしに行くと、ポロッと片耳
が取れてしまうという夢である。目が覚めてからあらためて思い出した。
麻太郎が猫のエイズで逝って、そろそろ1年になるのだ。ちょうど去年
のいま頃がエイズ末期の削痩症状がもっとも進行していた時期で、いつ
も日向ぼっこをしていた庭の木の下でよろめいて起き上がれなくなった
麻太の姿がいまでも目に浮かぶ。その頃の様子は1年前のこのスケッチ
にも書いたけれども、17年近くも子供同然にべったり一緒に暮らしてき
た猫だから、不治の病を看取るのはつらいものがあった。おまけに野性
味のある猫の例に洩れず、あれだけ衰弱していながら最期は自ら姿を隠
して死んでしまったので、亡骸を葬ることさえできなかった。そのこと
が飼い主である我々夫婦にはえらくこたえ、たかが猫一匹とはいえ、そ
の死を自分たちに納得させるまでにはかなりの時間がかかった。忘れよ
う忘れようと思っていても、やはり時が廻ってくると無意識に思い出し
てしまうものらしい。猫は魔性のものと言うけれど、それぐらい飼い主
の精神的な部分に深く食い入ってくる生き物なのだ。
 その点、飼い犬の方は、我が家の場合外に繋いで飼っているせいもあ
るが、わりと精神的には距離があるように思う。考えていることもだい
たいわかってしまうから、猫ほどの不思議さはない。もっとも図体だけ
はずっとでかいから、年老いてくれば物理的な介護はかえって大変だろ
うなと思う。隣村の友人宅にも今年17歳になる老犬がいて、かつては猟
犬としてならしたこの犬ももう足腰がすっかり弱ってきて歩くこともま
まならず、エサも流動食しか受け付けず、下の世話まで含めると結構な
手間がかかるとこぼしていた。この辺では犬猫を飼っている家が多いか
ら、そういう話はあちこちでよく耳にする。老人介護ならぬ老犬や老猫
介護も、飼い主にとっては真剣な問題である。長年一緒に暮らしてきた
上での愛情がなければ、とても務まるものではないだろう。

 ところで犬猫ってだいたい何歳ぐらいまで生きられるんだろう?
 雌犬リキのいる隣家の老夫婦宅には「もう20歳を過ぎている」と何年
も前から聞かされている白い大きな雌猫がいて、いまでもゆったりとし
た動作でときどき我が家の庭先を横切っていく。人間で言うなら優に百
歳を越しているわけで、その物腰とか態度を見ているともう「猫また」
としか言いようがない。麻太が生きていた頃はよく色目を使ってじっと
こちらを眺めていたが、さすがに以前に比べて動作も鈍くなり、あまり
元気もなくなってきた様子である。だがこういう生き物が近くにいるだ
けで、その土地が豊かになる気がするから不思議だ。粘って生き延びて
もらいたいものである。

 

2003年1月5日(日)「ポン太発情する」

 いよいよ寒さがピークに達した正月5日の未明、悲鳴ともつかぬ犬の
雄叫びで目を覚ました。今年12歳になる我が家の飼い犬ポン太がとうと
う発情してしまったらしい。たいていの野性動物は寒さのピーク時に発
情して、その勢いで冬を乗り切るものだが、ポン太の場合は相手がちゃ
んといる。隣家の雌犬リキである。
 リキの方は豆柴犬という血統書付きの賢い雌犬で、たしか今年4歳に
なるはずだ。もう腰の曲がった老夫婦に飼われていて、いつも繋がれっ
ぱなしだから、我々が夫婦で散歩に出かけるときなど気が向くと一緒に
連れていってやるのだ。そうすると老夫婦の方もときどき野菜や米など
届けてくれる。常会にも加入していない我々にしてみれば、いわば犬を
通じての数少ないご近所付き合いの相手である。
 1年ほど前から女房がイギリスに行っていて不在で、その間はリキの
散歩もご無沙汰していたのだが、暮れに彼女が一時帰国していたおり、
久々にポン太と揃って朝の散歩に連れ出したのだ。そこでまた二匹共す
っかり気を許してしまったらしく、最後の散歩のときなど、もう舐め合
い噛み合いくっつき合い、重厚なペッティングにふけっていた。これ以
上放っておくといつポン太が乗っかってもおかしくないなという寸前ま
できていたところで、女房がまたイギリスに戻ってしまい、二匹揃って
の散歩は非情にも打ち切りとなった。正月明けに東京の実家に1泊し、
翌日彼女を成田まで送って戻ってきたら、ポン太の夜明けの雄叫びが始
まったというわけである。今朝もやむなく日が射してきた頃起き出して
庭で体操などしていたら、後ろからはポン太が、向うの庭先からはリキ
が悲鳴をあげて呼び交わし、うるさいことおびただしい。

 それにしてもポン太は奥手な犬で、飼い主が知っている限りではまだ
童貞のはずである。だいたいリキと知り合うまでは、1年を通じて発情
すらしなかったのだ。もともと保健所で殺される寸前のところをもらっ
てきた雑種犬で、幼犬の頃からとても臆病で少し頭のとろいところがあ
り、人間でいえば養護学校へ入れるか普通学級へやるか迷うぐらいの犬
だった。だから見ていると性欲と食欲がどうも未分化で、食事の前にお
座りをさせるとたいてい勃起し、食べ終わると元に戻ってしまう。そう
やって性欲の方も胃袋で消化してしまうという珍しい特技の持ち主だっ
たのである。ひょっとして下等動物ほどそういう傾向があるのではない
だろうか。
 そんなポン太も、自分よりうんと年下の可愛いリキと知り合ってから
は、食欲にも勝る禁断の愛の味を覚えてしまったらしい。当初はリキの
方が断然積極的で、英語でいうBitchとはこういうことを言うのか
と思っていたぐらいだが、いまでは老犬ポン太の方がリキのことが気に
なってしかたがない様子である。隣家のおばあさんからは「乗っかっち
ゃったら乗っかっちゃったで気にしなくていいからね」とは言われてい
るものの、やはり相手は血統書付きの雌犬である。もしものことがあっ
たら、やはり責任取って生まれた子犬の1匹や2匹はもらわないわけに
はいかないだろうと思うと、なかなか一人で2匹を散歩に連れ出すわけ
にもいかない。当分は両者の呼び交わしの鳴き声に苦しめられそうであ
る。
 

 12/23(月)「田舎の貸家事情」

 近所の爺様が亡くなった。婆様と二人暮らしで、息子たちは東京や名
古屋へ出て行ってしまい、めったに帰ってこない。2階の屋根裏部屋だ
けでも小さな体育館ほどもありそうな大きな農家に住まっていたが、老
人所帯ではさすがに手に余り、すぐ向かいの地所に小さな離れを建てて
移り住んだ。その後、母家は人に貸し、東京で環境問題に取り組んでい
たグループの主催者夫婦が、自宅兼グループの宿舎としてしばらく借り
て住んでいた。今年彼らが別の山村に古い農家を買って引っ越したので、
その後釜に駒ヶ根に訓練所がある青年海外協力隊のスリランカ人の女の
先生が入った。外国人にすんなり貸してくれる貸家など、この辺でもそ
う多くはない。
 部屋数は10部屋近くあったかな。ともかく柱も太く大きくて立派な家
で、それでいて家賃は月7万円ほど。我々も余程借りようかと考えたこ
とがあるが、夫婦二人で住むにはあまりに広過ぎて管理が大変だし、か
といって他の家族とシェアするにしては台所や風呂・トイレが狭すぎる。
で、結局踏み止まったという経緯がある。

 さてここにきて、この家をめぐって一問題持ち上がった。爺様の葬式
を出すにあたり、残された婆様の気持としては、せめて葬式だけでも母
家で出させてもらいたいと思い、その意を汲んだ親戚の人が何度かスリ
ランカ人のところに足を運んだ。しかし、言葉の問題もあってなかなか
話が通じず、結局スリランカの女性は中から鍵を掛けたまま出てこなく
なってしまったという。やむなく葬式当日は母家の周りの庭を爺様の棺
を担いで3周するに留め、さすがにそれ以上中に踏み込むのは諦めたが、
そのことを婆様はとても残念がっていたという。
「どちらの気持もわかるだけに、まあ辛いもんだねえ」
 と隣家のおばさんは言うのである。
 話を聞いてやれやれ、と思った。いくらなんでも一度金を取って人に
貸した家を、葬式だから使わせろはないだろうと思うのが市民社会の常
識だが、この辺では決してそれが冗談ではないからである。持ち主が里
帰りしたときや夏休みには使わせろというのはよくある話で、ある村役
場が斡旋していた貸家の中には、「お盆のとき持ち主が墓参りに帰って
きたら風呂だけは使わせること」という条項がきちんと入っていた。な
かには一人暮らしの老人と同居してくれれば安く貸すというのまであっ
て、一口に貸家とか賃貸契約とか言っても、所有ということに対する感
覚が田舎と都会ではかなり異なるのである。
 その辺の事情を考えると、あまり立派な家を借りるのも考えものである。
今回の場合だって、もし仮に自分たちがその家を借りていたらどうした
だろう?と思うと、さすがに腕組みしてしまった。縁側続きの一部屋ぐ
らい使わせたかな? いやあくまで庭先だけにしていただろうか? い
ずれにしても一悶着起きたただろうことは必至で、田舎暮らしも疲れる
ときがあるよなとつくづく思ってしまう。先日書いた鼻緒の切れた草鞋
の儀式の話も、実はこういう田舎の現実とセットになっているのだ。

 それにしてもスリランカのインテリ女性はさぞ困ったことだろうなと
同情を禁じえない。
 

 12/14(土)「カルカッタのクリスマス・イブ」

 いやあ、今朝も冷えた(!)。大雪の後、一気に冷え込みのピークが
やってきて、寒さで何も手につかない日が続いている。例年より季節の
訪れが1か月は早いね。最低気温はこの辺でももう零下10度近くまで下
がった。まだ畑の整理も全部終わらないうちに大雪が降ってしまったか
ら、ネギも大根も雪の下。昨日なんとか掘り出してみたけれど、表土は
もうカチンカチンに凍り付いていてえらく難渋した。
 先日も寒さでボーッとしたままスーパーで用を足して外に出ようとし
た途端、濃いめのサングラスをしていたせいもあってピカピカに磨きた
てられた自動ドアが目に入らず、まるでビルの窓ガラスに激突する鳥の
ようにガツーンと顔をぶつけてしまった。軽い脳震盪を起こしたらしく、
いよいよボーッとしてきた意識状態で車に向かいながら額に手を当てて
みたら、血がボタボタ垂れている。車に戻ってバックミラーで確かめる
と、眉毛の下がざっくり切れていた。サングラスの縁で切ってしまった
らしい。「やれやれ、やってしまったか…」とハンカチで傷を押さえな
がら、またスーパーに戻ってレジの行列に並び、バンドエイドを買って
きて止血したが、この季節になるとこういうアホらしい怪我をよくする
のである、私は。おかげで温泉で暖まることもままならず、ヤケ酒をあ
おる訳にもいかず、じっと寒さに耐えながらおとなしく傷が癒えるのを
待っておりました。
 そうしてFMラジオなど聞きながらパソコンに向かっていると、ラジ
オから流れてくるのは季節がらクリスマスにちなんだおしゃべりや音楽
ばっかりでうんざりしてしまう。だってクリスマスって、本来キリスト
教徒の行事でしょ? なんでそれをクリスチャンでもない日本人全員が
祝わなくちゃならないの? とまあ、こう思ってしまうわけです。もち
ろんそういう自分だって小学生の頃はYMCAにまで通い、クリスマス
には賛美歌を歌って人並みに親からのプレゼントを楽しみにしていたも
のだけれど、後年インドのカルカッタでクリスマスを過ごすに及んで、
考えが変わってしまった。何か特別のことがあったわけではない。ただ
クリスマス・イブの晩に、クリスマスなど全然関係ないカルカッタのム
スリム街のバザールを歩きながら、「そうか、クリスマスってキリスト
教徒のお祭りだったんだな」とつくづく実感したまでのことである。多
くの日本人と同様にそれまでクリスマスというのは世界中で祝っている
ものだと漠然と思い込んでいた私にとって、このときの印象はとても強
烈で、以来クリスチャンでもない自分が特に意識してクリスマスを祝う
ことはなくなった。

 そのカルカッタのクリスマス・イブで、いまでもなぜか覚えているの
は例えばこんな些細なエピソードだ。
 その日、街角で買った豆菓子を頬張りながら昼下がりの雑踏をぶらつ
いていた私に、とあるインド人の青年が
「その豆は何と言う名前か知っているかい?」
 と声をかけてきたのである。立ち話をしながら歩いていると、ジョン
と名乗る彼はマザー・テレサのところでコックをしているのだと自己紹
介してくる。マザー・テレサの名前を出されてしまえば、無視するわけ
にもいかない。おまけに彼は「今日はこれからクリスマスのスペシャル
・パーティーがあるから、もしよかったらマザーのところへ一緒にいか
ないか?」と誘ってくるのだ。えらく流暢なブリティッシュ・イングリ
ッシュを話すし、私も半分はその気になって彼の後についていった。
 ところがしばらく歩いてからまず彼に連れていかれたのは、路上の屋
台のチャイ・ショップだった。
「ひとまずここでお茶にしよう、ぼくが奢るから」
 マザー・テレサのコックにしては、えらく庶民的なところでお茶を飲
むものだなと一瞬不思議に思ったが、まだこの辺までは彼の言うことを
信じていた。そして横に坐り、出されたチャイを啜っていると、彼は
「今日はクリスマス・イブだから、闇ドルの両替ルートがいつもより高
いんだ。ドルを持っていたら、両替してきてあげるよ。すぐそこなんだ」
 と言い出すのである。おやおや?とさすがの私も不審に思い始め、ち
ょっとガードを固くした。しかし闇ドルの申し出を断っても青年はなお
必死になってあれこれと勧誘の手を繰り出してきて、じゃあ東京が舞台
になっている話題のインド映画「I love TOKYO」を一緒に
観に行こうだの、「ハッシシはいらないか? 安く買えるところを紹介
する」だのと言い出し、結局マザー・テレサのパーティーの話などいつ
のまにか立ち消えになってしまった。
 そしてチャイを飲み干した私が、もういい加減ここまでというジェス
チャーをして立ち上がって出て行こうとすると、彼は私の手をつかみ、
「済まないがお茶代を払ってくれないか? いまちょっと細かい持ち合
わせがないんだ」と言い出す始末。それでも私はこれまでのやり取りか
ら彼の見え透いた言い分がすっかりおかしくなっていて、彼の肩をたた
きながら二人分のわずかなお茶代を支払い、宿に戻った。
 宿の大部屋で隣ベッドのマレーシア人青年の相棒にその話をすると、
彼も一度この「マザー・テレサのコック」たるインド人青年に声をかけ
られてお茶をおごらされたことがあると言い、ただ彼にはトムと名乗っ
ていたはずだけどなあと言って笑っていた。部屋の入り口にはフランス
人のヒッピー旅行者のグループが飾りつけたクリスマス・ツリーが輝い
ていて、その横でただ黙々とチラム(大麻パイプ)を回し吸みする彼ら
を横目に、夕刻になってから私はまた宿を出た。街角ではこの日の恵み
を当てこんでか、いつもより乞食の姿は多く見かけたが、一部高級ホテ
ル街のイルミネーションを除けば、相変わらずカルカッタ特有の薄闇が
辺りを支配しており、クリスマスなどどこかよその世界の出来事であっ
た。それから遅くまで、薄暗いムスリム街のバザールをどこまでもほっ
つき歩いた記憶がある(もう20年も昔のことだ)。
 

 12/4(水)「桜桃の味」

 朝の犬の散歩の途次、いつも通る田んぼの脇の墓地に一風変わった新
しい墓ができていた。真新しい卒塔婆の上に枝先を残した竹が左右から
組まれており、そこに白い紙のこよりが結ばれている。どこかこの近く
に住む老人が大往生を遂げたのだろう、新しい墓の周りには何か晴れが
ましい、まるでお祭りのような雰囲気が漂っていて、あの世への旅立ち
を遺族が精一杯祝っている、そんな感じが濃厚であった。
「ふーん、悪くない墓だな」
 そう思いながら畦道を水路に沿ってもう少し行くと、今度は舗装路と
の境目に真新しい草鞋が六足ほど輪を描くようにして捨てられてあった。
白い鼻緒はどれも片側が切られている。「いや、いまどき珍しいものを
見るな」という思いで咄嗟に合掌してそこを通り過ぎた。いろんな死者
の葬り方があるものだが、これはこれでいかにも真心のこもった、山村
ならではの悪くない風習である。

 ちょうどその晩のことだ。病院でアルバイトの夜勤の当直の仕事をし
ていたら、自宅で首吊り自殺を図った若い女性が救急車で運ばれてきた。
消防から第一報が入った時点ですでに「心肺停止状態」で、もはや助か
る見込みはなかったが、念のため医師と看護婦が必死になって蘇生マッ
サージを施した。しかしその甲斐もなく女性は死亡。享年22歳。廊下で
待機していた母親はその場で泣き崩れ、廊下中に号泣がこだました。仕
事柄やむをえないとはいえ、こういう現場に立ち会うのはとてもつらい
ものがある。
 幼い頃からかかりつけの患者さんだったようで、残されたカルテだけ
でも小児科から産婦人科まで相当な分量にのぼった。何があって早過ぎ
る死を選んだのかは知らないが、そのカルテの一つ一つにこの女性の短
い人生の生の苦闘が刻まれているような気がして、妙に生々しかった。
 警察の検死が終わり、しばらくして霊安室に遺体が移されると、葬儀
屋に車の手配を頼むようにとの連絡が入った。葬儀屋との間で事務的な
やり取りを済ませて受話器を置くと、ふっとぼくの脳裏に朝の鼻緒の切
れた草鞋の光景が甦ってきた。同じ人の死といっても、ずいぶんいろい
ろとあるものである。

 何か救われない気持ちでいたところに、警察の若い係官が「コピーを
取らせてくれ」と事務室に駆け込んできた。コピー機のところまで案内
すると、彼はビニール袋にくるんだ一枚の紙切れを大事そうに取り出し、
それをセットしてスイッチを押した。押し出されてきたコピーに何げな
く目をやると、それは自殺した女性の遺書だった。

「みんな本当にありがとね」

 ノート大の紙片の真ん中にただ一言、そう書かれていた。大きな丸文
字の走り書きである。
 一瞬あっと思ったが、それを胸の内に呑み込んで警察官を部屋の外に
見送る。そうか、やはり覚悟の自殺だったんだ。それにしてもこういう
瀬戸際の言葉には、短いながらも生々しいリアリティがある。恐らく彼
女は「ありがとね」と最後に書くのが精一杯だったのだろう。でも最期
にこの世に残した言葉が呪咀の言葉ではなく「ありがとね」だったら、
そこに一縷の救いがあるじゃないか。そう思ってほっとすると同時に、
余計痛々しい気持ちにとらわれてしまうのもどうしようもなかった。だ
って、それならばなぜ彼女は生きられなかったのだろう?
 誰もが二十歳前後の一時期、自殺の一度や二度は真剣に考えてみたこ
とがあるだろう。だがたいていはその寸前で踏み止まり(あるいは死に
切れずに)、俗な世にまみれて生きていくことを選ぶ。もちろん中には
その一線を踏み越えてしまう人間も必ずいて、ぼくの身近でも複数の友
人があの世へとジャンプした。そのぎりぎりの一線を踏み越えるには、
何かとてつもない力がいる。それは勇気だろうか? 自己嫌悪と裏腹の
人一倍強い自己愛だろうか? それともこの世への深い絶望だろうか?
 アッバス・キアロスタミ監督の「桜桃の味」というイラン映画を観ら
れた方は多いだろう。ぼくも好きな映画のひとつで、ビデオで借りてき
て繰り返し観た。あの中で若い頃この世に絶望して自殺を決意した男が
木に縄をかけて首を吊ろうとした瞬間、たまたま目の前にサクランボが
ぶら下がっていて、それを一口食べたらあまりにおいしくて、次から次
へと房をもいで食べているうちに死ぬのを忘れてしまったという挿話が
出てくる。人生って、そんなものなんだよね、たぶん。この女性の場合
だって、どういう偶然が左右して、生きる方向に歩み始めていたとして
もおかしくはなかったはずだ。だが彼女には目の前にぶら下がっている
サクランボすら、もはや目に入らなかったのだろう。本当に生と死の境
は紙一重なんだなという思いを強くしている。合掌。

 

 11/28(木)「季節はずれの軽井沢へ」

 昨日、古本の用事で佐久まで行ったついでに、軽井沢まで足を延ばし
てみた。
 南北に山が連なる長野県は、谷筋に沿って北から南へ街道が発達して
いて、その線に沿って行くぶんにはわりと平坦な道を走れる(距離は長
いけれども)。しかし高速道路などを使わずにふつうの道を通って西か
ら東へ抜けようとすると、地図上では短い距離でも必ず峠越えをしなけ
ればならない。小生の乗っているオンボロ軽バンではとても高速をすっ
とばしていくわけにはいかないから、めったなことでは高速は使わない。
そこで昨日もいつものように諏訪から和田峠を越えて佐久へ抜けるルー
トを取ったのだが、この季節は平地では晴れていても峠では雪が降って
いることが珍しくない。その点がちょっと心配だったのだが、案の定、
有料の新和田トンネルの手前で雪に見舞われた。まだ車は普通タイヤの
ままだから、他のトラックなどとともに坂道のカーブを恐る恐る下りな
がら、前方に日に照らされた佐久平とはるか向うに雪を戴いた浅間山が
見えてきたときにはほっとした。旧中山道を降りてきたときに見える佐
久平の眺めは、いつきても本当に明るく開けた感じで気持ちがいい。

 さて佐久市内で所用を済ませ、そこから軽井沢へ向かった。とくに用
事というほどのものはなく、噂に聞く駅前の老舗の古本屋「りんどう文
庫」に寄ってみようかと思っただけである。実は軽井沢へ足を踏み入れ
るのは長野に住むようになってから初めてのことなのだ。愛知や静岡と
の県境に近い南信の伊那谷にずっと住んでいれば、群馬と県境を接する
軽井沢までなかなか出てくるチャンスがなかったとしても、まあ仕方が
ないだろう。
 季節はずれのがらんとした旧軽井沢のメインストリートを行くことし
ばし、左手に目指す「りんどう文庫」の木造の建物が見えてきた。学生
の頃の記憶では、通りのもっと奥に詩集や文学評論を中心に並べたえら
くしゃれた古書店があったと思うが、いま軽井沢で営業しているのはこ
こだけらしい。ドアを開けて中へ入ると、2階へ至る通路沿いにぎっし
りと本が積み上げられてあって、それをひとつひとつ物色しながらジグ
ザグのスロープを上がっていくうちに、いつのまにか2階の書庫にたど
りつくという按配だ。この迷路のようなスロープが、何か異世界への通
路のようで不思議な趣きがある。いかにも古本屋然とした乱雑な本の積
み上げ方で、玉石混交といった感じだ。決して本はきれいではないが、
何が出てくるかわからない面白みがあって、一部の古本好きの間ではよ
く知られている店だというのも頷ける。2階にはさすがに土地柄からか
堀辰雄や福永武彦・中村真一郎といった作家たちの本がずらりと並べら
れている。
 その気になれば半日ぐらいかけて、ゆっくりと本を物色してもいいと
ころだが、何せもう11月の末で峠では雪が舞っている気候だ。ただでさ
え寒い軽井沢の中でも、火の気のない木造の建物のこの2階の書庫はさ
らに寒い。しばらくいるうちに背中の方からゾクゾクと寒気が上がって
きて、それにこれからまた伊那谷まで帰ることを思うと長居は無用だな
と判断して、3冊だけ掘り出し物を見つけたところで店を出た。1階の
百円均一コーナーが、季節はずれの平日とあってやっていないのが残念
だった。北風にジャンパーの襟を立てて車に向かいながら、春になった
らまた来てみようかなと思った。

 帰りは真っ暗な中、とても雪の和田峠を往復する気になれず、少し遠
回りをして小諸から丸子を通り有料の三才山トンネルを抜けて松本へ出
たが、トンネルの入口付近では雪でスリップした乗用車が5台ほど玉突
き事故。松本から塩尻へ抜ける県道でも、追突事故の現場の脇を通り抜
けた。朝8時過ぎに家を出て、戻ってきたのは夜の8時過ぎ。伊那谷で
も結構雪が舞っていて、車のヒーターを入れっぱなしにしていたからガ
ソリンも結構食ったし、もう峠越えをして遠出をするにはそれなりの覚
悟が必要だ。いよいよ冬本番である。

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