≪伊那谷スケッチ≫(2002年秋・9/13〜11/15)

11/15(金)「野焼きをする」

 こう寒い日が続くと、つくづく火が恋しくなる。山へ行くには天気も
体調もいまいちだし、車で街まで本の仕入れに出かけるほどの元気もな
い。そこで懸案だった畑の野焼きをすることにした。先日畑の整理をし
て、切り倒したヒマワリの茎や枯草の山がまだそのままになっているの
だ。
 家の周囲を「く」の字型に囲む畑の東半分はリンゴ園に接していて、
農薬散布の影響をもろに受けるから、作物は長イモとカボチャを除いて、
今年はほとんど作らなかった。その代わり、リンゴ園に沿ってヒマワリ
やコスモスをびっしり茂らせ、ちょっとした農薬除けのミニ「防風林」
を作っていた。ヒマワリなど背の高いものは3メートルぐらいに伸びて、
一時は家の屋根をも凌いでいたぐらいだ。その枯れた茎やら枯草やらが、
畑の数ヵ所に堆積している。
 その小山のひとつにマッチで火を点けると、さすがによく乾いていて、
白い煙をモクモク上げながら勢いよく燃え上がり、いきなり炎はメラメ
ラっと2メートルを越える高さにまで達した。思った以上に風もあって、
一瞬大丈夫かな?と、ちょっと不安になる。念の為、急いでバケツに水
を汲んできて側に置き、横にあまり燃え広がらないよう用心しながら炎
を見守った。そうするうちにだんだん火の勢いも落ちついてきて、安心
して見ていられるようになった。
 そうやって火を見守っていると、山の家で囲炉裏を囲んでいた頃の思
い出がふっと脳裏を横切っていく。

「こんなに炎が上がっちゃって、大丈夫なんですか?」
 焚き付けの杉の葉に火を点け、それが勢いよく燃え上がった瞬間、炉
端で思わず後ずさりしてびっくりしたようにそう叫んだのは、小学生の
子供二人を連れて山に遊びにきていた友人の奥さんだった。子供たちも
目をまん丸にして、炎に見入っている。
「大丈夫ですよ。だんだん落ちついてくるから。あ、それからときどき
薪がはぜることがあるから、そのときはちょっと注意してね」
 そんなことを言いながら、こちらは自在鉤を調節して、そこに真っ黒
い鍋を釣るし、手打ちウドンの用意に余念がない。
 また、ある日。
「いいですねえ、家の中で焚き火ができるなんて」
 土間から家に上がりこんだばかりの知人が、囲炉裏の火を眺めて驚い
たようにそう言ったことがある。勿論、東京から来た客である。
「なるほど、家の中で焚き火か、そう言われてみればそうだな」
 こちらも思わず苦笑しながら、客に座布団をすすめる。
「ま、ともかく火にあたりましょう」

 野焼きの火を見つめていると、そんな切れ切れの記憶がふっと浮かん
では消えていく。
 5年前まで住んでいた山の廃村にあるその家は、いまは知り合いの駆
け出しの陶芸家がアトリエ兼住居に使っている。11月の初めに立ち寄っ
てみたときは留守だったが、庭の中央には立派な窯が完成していて、と
ころ狭しと割った薪が積み上げてあった。もう囲炉裏は天井の抜け穴を
塞いで使えなくなっているが、それでも炉端には薪ストーブがでんと据
えつけてある。あとで電話で話したら、今年初めて彼はここで冬を越す
ことにしたと言う。もういよいよ柱も傾いて隙間だらけのあの家で、東
京からきた彼がどこまで頑張れるのかちょっと心配だが、まああれだけ
薪が割ってあれば大丈夫じゃないかと励まして電話を切った。
 ぜひまた遊びに寄ってくれと言われたけれども、今日はもう11月15日。
狩猟解禁の日である。寒さが厳しくなってくるだけでなく、廃村のある
あの辺りの里山は、あまりたちの良くないハンターが週末ごとに猟犬を
連れて闊歩することでも有名だ。昔何度も連中とトラブルを起こしかけ
ているだけに、薪の火に当たりたいのは山々だけれど、当分は行くこと
はないだろうと思っている。

 そんなことをあれこれ考えていたら、急に風が強くなってきて、燃え
残りの灰が風に吹き飛ばされていきそうになった。慌てて周囲にかけ水
などして、今日はこんなところで家に引き上げることにした。
 部屋に戻って服を着替えようとしたら、さっきまで着ていた衣類に饐
えるような灰の臭いがすっかり染み付いていて、昔を思い出してなんだ
かなつかしくなる。
 いよいよ冬間近である。

11/9(土)「山頂に出現したブッダ」

 真冬並みの寒い日が続いている。
 2週間ほど前、小瀬戸渓谷の巫女淵へ行ったときは、まだ紅葉も半ば
で、これはまだまだ美しく燃えるなと期待していたのだが、その後11月
に入ってから一気に冷え込んで、平地でも場所によっては雪が降った。
おかげで紅葉途中の山々は、上半分が白く下半分が紅いという、あまり
見慣れない奇妙な姿を晒している。
 一昨日、久々に伊那富士(戸倉山)に登ってみたが、例年ならまだま
だ美しい輝きを帯びているはずの紅葉が、今年はもうくすんだ寒々しい
姿に変わり果てていて、ちょっとがっかりする。ほんとにあっという間
なんだよね、紅葉って。それでも人気のない森の中を落ち葉を踏みしめ
ながらゆっくり歩き、最後の急坂を登りつめて山頂まで行ってみた。東
には仙丈から塩見・赤石にいたる南アルプスの山々が、西には中アの山
並みが白く照り輝いて迫って見える。
 実はこの伊那富士には山頂のピークがふたつあって、まず初めにたと
りつくのが不動明王や祠の祭ってある西側のピークで、ほとんどの登山
客はたいていここで引き返してしまう。しかしそこからいったん避難小
屋まで下り、さらに百メートルほど東へ行くと、一等三角点のある長谷
側のピークに出る。三角点の標識以外何もない簡素な山頂だが、ここま
で来るとぐっと大きく仙丈が迫って見え、すぐ真下にはいかにも山里ら
しい長谷村の集落が広がっている。そして遠く向うを眺めやると、あれ
は赤岳だろうか、八ヶ岳の一角も望むことができる。ガイドブックなど
で紹介されるようになってから、この伊那富士にも他県からの登山者が
年々増え、週末の昼時など、西側の山頂はたいてい幾つかのグループで
賑わっているが、そんなときでも、さすがにここまでやってくる人は少
ない。いわば、こちらは静寂を好む向きの地元の人の山頂なのである。
(ちなみに、ちょうどこの両ピークを結んだ稜線が、北側から見ると富
士山の頂上のように見えるのだ)。

 紅葉があまり楽しめず、冷たい風も吹いてきたので、よほど西側の山
頂から引き返そうかと思ったが、まあそう慌てることもないだろうと気
を取り直して、東側の山頂へ向かった。そしてピークにたどりついてみ
てびっくり。何もなかったはずのそこに、なんといつのまにかブッダが
出現しているではないか。一瞬何かの幻覚か?とも思ったが、れっきと
した薬師如来像だった。石像の裏には
「戸倉山を愛する有志の会 建之 平成十四年十月吉日 長谷村」
とある。ついこの間建立されたばかりなのだ。何か思わず、ここまで来
たのが報われたような気がしてほっとする。
 最近山頂にいろいろな碑を建てるのが流行っていて、ときに鼻白むも
のも少なくはないが、こういう石像なら歓迎だ。押しつけがましいとこ
ろがあまりなくて、地元の信仰の山というに相応しい。合掌してお賽銭
を置き、何か晴れ晴れした気分になって山を降りてきた。
 

10/31(木)「魔が差す」

 一昨日から一気に冷え込んで、毎朝起きるとあたりは霜で真っ白。中
アの山並みも山頂部はすっかり雪化粧している。今年は妙に暖かい日が
続いていたから、こう一気に寒くなるとさすがに体にこたえる。
 週末だけ夜勤の当直のアルバイトをしている町の総合病院にも、早朝
トイレに立とうとして急に倒れた老人とか、朝指がかじかんでいて、つ
い手元が狂って丸ノコで小指を切断してしまった人とか、季節の変わり
目ならではの急患がよく運びこまれてくる。交通事故も増えていて、先
週は二人の死亡に立ち会う羽目になった。
 二人とも高速道路上の事故で、一人は24歳の青年がオートバイで転倒
して事故死。もう一人は56歳の男性で、自家用車で事故を起こした後、
なぜか高速道路の橋桁から50メートル下の渓谷の川原に転落していると
ころを見つけられ、救急車で運ばれてきた。夜の9時過ぎに病院に着い
たときにはすでに首や腰の骨が折れていて、もう息はなかった。しかし
死因に不審なところがあるということで、深夜まで警察の検死や家族へ
の事情聴取やらが長々と続いた。
 ぼくも救急車から電話で第一報を受けたときは、「高速道路から人が
落下した」とだけしか伝えられず、何があったのかさっぱりわからなか
った。でもその後の話を総合してみると、事故を起こした車は路肩に停
められていて、運転席のドアや窓はべつに破損していなかったという。
つまり被害者が自分で車の外に出て、何かの拍子で下の川原に転落した
ということになる。そこで当然、飛び降り自殺が疑われたのだが、蒼ざ
めた顔で病院に駆けつけてきた家族によると、7時頃被害者の男性から
携帯電話で「いま家に向かっているところだ」という連絡があったばか
りで、日頃の冗談好きな人柄から考えても突然飛び降り自殺するなんて
とても考えられないというのである。
 では何があったのか? 考えられるのは、あの日の天気である。
 あの日の伊那谷は夕方から夜にかけて、季節はずれの集中豪雨が降っ
た。夕方車で病院に向かっていたぼくも、突然の豪雨にほとんど前が見
えなくなり、「どひゃー、なんだこれは!?」と思わず声を発したぐら
いの雨である。夜に入って雨はやんだが、車が事故を起こしたのはちょ
うど豪雨が断続的に降っていた頃である。だとすると被害者の男性は、
雨の中事故を起こして路肩に車を停め、そこから自力で外に出た後、携
帯電話でもかけようとして、何かの拍子で体のバランスを崩して高速道
路の欄干から落下したとしか思えない。ふと魔が差したというか、一瞬
の気の緩みとでもいうのか。
 サマセット・モームの南洋を舞台にした小説に「雨」という有名な短
編があるが、あそこでも降り続く雨のせいで理性をかき乱し、「ふと魔
が差した」宣教師の悲劇的な死が描かれている。勿論小説の中の話と実
際の事故とは全然別物だが、それほどにも人間は気象や天候の影響を無
意識に受けやすい生き物なのだということはいえると思う。とくに最近
のように異常気象が日常化してくると、季節の変わり目ほどおかしな天
気が目立つ。そうしたときに、ふとした一瞬の気の緩みが大きな事故に
つながらないともかぎらない。これからいよいよ寒くなってくるときだ
けに、「ちょっと気をつけなくちゃな」と自分でも思った次第である。
 

10/26(土)「天体の妙なる諧音」

 秋晴れの昨日、風邪気を押して、毎年恒例の「巫女淵参り」をしてき
た。秋が深まるにつれて、この南ア最深部・三峰川(みぶがわ)の源流
域にあたる小瀬戸渓谷の原生林の紅葉のことが気にかかって、どうにも
気分が落ちつかなかったのだ。
 1年振りの巫女淵は、この夏の酷暑のせいもあるのか、例年より紅葉
の進み方が遅く全体的にくすんだ印象があったけれども、やはりここま
で来ると別世界。林道の終点の大曲で車を停め、ゲートをくぐって歩き
始めると、ゴーッという水音とともに、いきなりくらくらっとするよう
な芳しい木の香りが漂ってきた。それを胸いっぱい吸い込んで深呼吸す
る。そしてその少し先、絶壁の岩肌から流れ落ちる巫女淵の湧き水で顔
を洗い喉を潤せば、もう風邪気もどこへやら。渓谷沿いにどこまでも続
く原生林の紅葉を眺めながら歩いているうちにだんだん元気が出てきて、
昨日は途中から久々に塩見岳の登山道に入り、中腹の尾根筋まで登って
みた。
 急斜面の崖につけられた、ほとんどケモノ道と見紛うようなジグザグ
道を、飼い犬ポン太を先頭にして落ち葉を踏みしめながら息をぜいぜい
させて登っていく。すると次第に五感が鋭くなってきて、眼耳鼻口皮膚
の全身の毛穴が開いていくのがわかる。以前は重いリュックを背負って
この道を登り、頂上直下の塩見小屋に一泊して山頂(3046m)で御来光を
仰いだこともあるのだが、久々に歩いてみると、「よくこんなきつい道
を上まで登ったものだよな」と感心してしまう。

 延々と続く急坂を何とか登りつめて、陽当たりのいいダケカンバの森
に出たところで、苔むした太い倒木に腰掛けて一休み。無言でじっと周
囲の気配に耳を澄ませていると、遠く下の方から響いてくる川音や風の
そよぎ、鹿の鳴き声に混じって、パタパタパタパタというヘリコプター
のプロペラが回転するような音が響いてきた。頭上を見上げてもべつに
ヘリが飛んでいるわけではない。いつも山深い森に入ってじっとしてい
るときに、よく響いてくる音なのだ。風の音だろうか? それとも三峰
川の水の流れが渓谷全体に反響して、山の上にいるとこんなふうに聞こ
えてくるのだろうか? いやいや、これはやはり地球の自転する音なの
ではないか?
 昔二十代の頃、旅先のインドでドラッグにはまっていた時期があって、
そのときLSDをやると必ずといっていいほど、これと似たような音が
聞こえてきた記憶がある。飲んでしばらくの間、海辺のビーチなどでゴ
ロゴロしながらクスリが効いてくるのを待っている。そして背筋の震え
や悪寒とともにだんだんクスリが効いてきて、さあこれからいよいよト
リップのピークに入るぞというときに、決まってこのパタパタパタパタ
というプロペラのような音が響いてきて、よく頭上を見上げたものだ。
もちろんヘリコプターなんかどこにも飛んではいない。たぶん日常の意
識世界から別次元の意識世界へ入る際に生じる一種の幻聴なのではない
かと思っていたが、後年、中島敦の南島を舞台にした『寂しい島』とい
う短篇を読むに及んで、さらに思うところがあった。そこにピタゴラス
の「天体の妙なる諧音」の話が出てくるのだ。曰く、

〈我々を取巻く天体の無数の星共は常に巨大な音響――それも、調和的
な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音――を立てて廻転
しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない
世界は経験できないので、ついに其の妙なる宇宙の大合唱を意識しない
でいるのだ〉と。

 つまり、あのパタパタパタパタという音は、ピタゴラス言うところの
「天体の妙なる諧音」の響きの一種なのではないだろうか。ドラッグを
やったり、山深い森に入ってじっとしているときにだけそれが聞こえる
ということは、五感が鋭敏になって非日常的な意識状態に入ってきたと
きにだけその音が聞こえるということだ。そのとき、鋭くなった我々の
五感に「宇宙の大合唱」のかすかな響きが聞こえてきたとしても不思議
ではない。……あまりにロマンチックすぎる解釈だろうか。でもそんな
ふうに考えると何となく納得がいく。それだけふだんの我々は、自分た
ちが思っている以上に鈍い五感で日常を送っているということでもある。
 おかげで昨日はいいトリップをさせてもらって、心身ともにすっきり
して家に戻ってこれた。

 ところで1年前のスケッチにも書いたが、この小瀬戸渓谷には国土交
通省による大規模なダム計画(戸草ダム)が進行中で、巫女淵へ至る途
中5〜6キロの森は水没することが決まっていたのだが、その後田中知
事による「脱ダム宣言」の影響で、県としては工事から手を引くことに
なり、その結果、去年からダム工事はストップしている。浅川や下諏訪
ダムのように県直轄の事業ではないから、この後どう展開していくかは
わからないが、おかげで中断したダム工事現場はいまでは恰好の紅葉の
見学場所となっている。すぐ手前の長谷村の杉島という集落までは、ダ
ム工事のためにまるで高速道路のようないい道ができているし、見晴ら
しのいい現場には小さな駐車場などもあるから無理もない。昨日も帰途、
車を走らせながら、その現場から見渡せる深い渓谷の秘境的な美しさに
つくづく見とれてしまい、できればこのまま工事が取り止めになること
を内心願わずにいられなかった。
 

10/20(日) 「電脳田舎暮らし」事情

 
車が松本平を抜けて伊那谷へ入ってくると、とたんにカーステレオの
受信状態が悪くなる。安物のカーラジオだということもあるが、それだ
け周囲を高い山に挟まれているということだ。仕方がないから聞き古し
たカセットに切り替えるか、あるいはラジオのスイッチを切って、右手
に聳える中アの山々と左手に見えてくる南アの山並みを交互に眺めなが
ら、黙って車を走らせることになる。
 この状態は家に戻っても同じことで、ふつうのラジカセではFMは受
信できない。高感度ラジオに専用アンテナをつないで、やっとのことで
ノイズ混じりの音楽が聴けるといったところだ。その点、インターネッ
トラジオはクリアーな音質で世界各国の音楽が聴けて実にありがたい。
しかしISDNでつないでいると、モデムの速度に限界があるためか、
10分ぐらいするとすぐ切れてしまい、なかなか落ちついて聴けるところ
までいかない。そこで伊那谷でもADSLが使えるようになったと聞い
たときには喜んで、早速NTTに申し込んだのだが、ぼくの住む過疎の
農村地帯は電話回線が貧弱でADSLの対象外とのことだった。だから、
いまだにブロードバンドの恩恵には浴していない。

 ついでだから言うと、我が家のテレビはNHKと教育テレビの2チャ
ンネルしか映らない。べつにテレビが壊れているわけではなく、東西に
高い山が聳えているため、感度が悪くて屋根にアンテナを立てても民放
は映らないというだけのことである。では近所の他の住民はどうしてい
るのかというと、ほとんどの世帯が地元のケーブルテレビに加入してい
て、それで民放はもちろん衛星放送まで観ている。我々もここに越して
きた当初、当然有線への加入を勧められたが、当時はまだテレビも持っ
ていなかったから、加入するだけで何万円も支払うケーブルテレビのこ
となど初めから論外であった。
 何せそれまでの12年ほど、つまり東京を出て山で暮らすようになって
以来、我々はまったくテレビというものを見ずに暮らしてきた。それが
いいことだったのか悪いことだったのかはわからないが、テレビの代わ
りに毎晩囲炉裏の火を眺めて暮らしているうちに、世間の趨勢とはずい
ぶん感覚がずれてしまったことだけは確かである。だから多少の不便さ
はいまでもあまり気にはならない。
 けれどもその一方で、山を降りて囲炉裏を焚かなくなったいまでは、
14インチの小さなテレビで目をしょぼしょぼさせながら時々ビデオも観
るし、こうやってパソコンの画面に向かって毎日インターネットで仕事
もしている。そうすると、テクノロジーの進化ということ関して、あな
がち無関心でばかりもいられなくなってきた。いやむしろこんな田舎に
住んでいるからこそ、遅ればせながら使えるテクノロジーは積極的に使
っていこうという気になってきている。だがそうは言っても、インター
ネットひとつとっても、ついこの間、ふつうのモデム回線からISDN
に切り替えて、その早さに驚いていたというのに、いまではもうその遅
さにいらついてきている始末だ。いくらなんでも、ちょっとこれでは呼
吸が早過ぎはしないか? 「電脳田舎暮らし」を志すのならば、大事な
のはゆったりした呼吸と時代から一歩身を引いた醒めた視線である。モ
ノや情報は「ちょっと足りない」ぐらいがいい。畑の大根の間引きなど
しながら、そんなことを自戒する今日この頃である。

10/10(木)「記憶の中の風景」

 
久々に歩く山は、長らく会っていなかった友人に久々に会うときの気
持ちを思い起こさせる。「あいつどうしているだろうな」というなつか
しさと、「まだ昔のままでいてくれるかな?」というちょっぴりの不安。
先日のお天気にふと思い立って歩いてみた南ア仙丈ケ岳松峰ルートは、
十年ぐらい前はよく行ったのだが、ここ七〜八年はとんとご無沙汰して
いた山道である。仙丈ケ岳自体、もうずいぶん長いこと登っていない。
分杭峠を車で下りながら、「さて、どうなっているだろうな?」という
期待と不安が半ばする気持ちで、登山口の「孝行猿の墓」へ向かった。
 南アスーパー林道が開通して以来、仙丈ケ岳(3033m)の表玄関は標
高二千メートル付近までバスで行ける北沢峠と決まってしまって、麓か
ら長い尾根筋を歩くこの松峰ルートは、地元の人が山菜や茸取りに入る
以外、まずほとんど人は歩かなくなった。手前の集落のはずれにかかっ
ている「熊出没注意!」という看板が決して冗談に思えない。北沢峠が
いつも登山客でごった返していることを思うと、こちらはまったくの別
世界である。たしかにアプローチは長いけれども、仙丈ケ岳のカールを
西側正面から見据えて登るこのコースこそ、もともとは仙丈の表玄関だ
ったはずだ。南に三峰川の源流を見下ろす地蔵尾根と呼ばれる鬱蒼とし
た原生林帯まで登ってみれば、そのことがよくわかる。
 もっともそんなに奥まで行かなくても、途中で伐採用の林道をいくつ
か通り抜けて松峰の手前二千メートル付近に至れば、ぽっかりと開いた
日当たりのいい草地に出て、正面に仙丈、左手に甲斐駒、右手に塩見岳
を望みながら、岩にもたれて昼寝をするぐらいのことはできる。とても
気持ちのいいスポットで、松峰というといつも真っ先に思い浮かべるの
はこの場所だった。

 少し遅い時間に家を出たので、その草地で犬とおにぎりでも食べよう
か、というぐらいの軽い気持ちで出かけた。さすがに道は荒れていて、
野茨や枯れ枝・倒木を踏み分けながら登る。途中、大規模な伐採でカラ
松林を通る道が塞がれていて思った以上に時間がかかったが、それでも
上に行くにしたがってすがすがしい森の空気があたりに漂ってきた。一
部はすでに紅葉が始まっており、きてよかったなという気分になる。と
ころが昼時になっても、どうしても森を抜けることができず、あの見晴
らしのいい草地にどこまでいってもたどりつかない。
「おかしいな、たしかこの辺で出たはずなんだが…」
 と何度も首をひねりながら、
「じゃ、次の曲がり角まで行ってみよう」
「いや、次はあの森のはずれまで。今度こそ出るはずだ」
 というようにして、木の枝にかかる蜘蛛の巣をはらいながらどんどん
歩いていくうちに、日は少しずつ傾き始め、とうとう見覚えのある地蔵
尾根の原生林に出てしまった。
「えーっ? もうここまできちゃったの」。
 犬も飼い主もさすがにへとへとに疲れて、そこにへたりこんだ。目指
す草地はもっとずっと手前にあったはずなのだが…。

 木陰の日溜りで遅い昼飯にして、しばらく昼寝。帰り道、あの草地を
もう一度探して歩いたが、とうとう見つけられなかった。考えられるこ
とは、この七〜八年の間に周囲の木が茂って、草地が埋まってしまった
ということぐらいである。それとももっと遅く、晩秋になって森の木々
が葉を落とした頃にきてみれば、ひょっとしたら見晴らしのいいあの草
地が出現しているのかもしれない。
 以前からぼくは古今のユートピア譚に興味があって、時々思い出して
はその手の本をひもといたりするのだが、あらゆるユートピア譚に共通
しているのは、桃源郷から一度出てそこに戻ろうとすると入り口がわか
らなくなっていて戻れないというものである。つまり桃源郷とは時間と
空間がクロスしたところに偶然現れる一瞬の幻のようなもので、時間の
経過とともにそれは変容していってしまう。あの時、あそこで出会った
あの素晴らしい場所。それはもうそれを思い出す人の記憶の中にしか残
っていない。それは何も森の中の風景に限らない。都会の風景だって同
じことである。
 歳とともに、そんな記憶の中の風景が少しずつ増えていく。
 

10/3(木)「ホピ・コーン」

 一昨日の台風で畑のコスモスがすっかり薙ぎ倒されてしまった。この
ところなかなか畑まで手が回らなくて、黒く変色したヒマワリの枯れ枝
とか、実をもいだ後のモロコシの茎とか、取り残したシソやミントなど
の間に未整理のカボチャの蔦がまだあちこち絡まっていて、あまり見ら
れた有り様ではない。それでもその狭間に、野沢菜と大根・白菜・蕪な
ど、味噌汁の具にする菜っ葉程度はつくっている。

 数少ない今年の収穫物の中で、とても印象的だったのはホピ・コーン
である。アメリカ・インディアンの居留地から持ち帰った真っ赤なモロ
コシの実を、去年大鹿村の友人から分けてもらい、試しに30箇所ほどに
穴を掘って4〜5粒ずつ種を蒔いてみたのだが、発芽率はほぼ100パ
ーセント。ほとんど肥料もくれてやらなかったわりにはすくすく育ち、
そこそこの収穫があった。この生命力には驚かされた。なるほど、これ
ならどんな荒地にでも育つにちがいない。いま日本で手に入るふつうの
トウモロコシの種は、品種改良の結果、F1と言って一代限りしかつく
れない片輪の種である。つまり育てた実をまた土に蒔いても発芽しない
のだ。それを思うと、このホピ・コーンこそ原種に近い、一種の救荒植
物なのだなと感心した。
 ところが収穫した赤い実を圧力釜で蒸かして食べてみると、これがも
のすごく硬くて歯が立たない。やむなくスープにして食べてみたけど、
どうもその後胃の調子がおかしい。これはやっぱり石臼などで挽いて粉
にして、パンにして食べるしかないないのだなと納得。育てるには楽だ
けど、食べるところまで加工するにはえらく手間のかかる品種なのだ。
道理で日本では出回っていないわけだ。でもそれがたぶん原種というも
のなのだろう。

 今朝、犬の散歩をしていたら、裏山の道端で近所の農家のおばあちゃ
んがビニール袋を片手に栗拾いをしていた。台風でごっそり実が落ちた
のだ。声をかけると、「皮むいて茹でるのが大変なのはわかってんだけ
どね、やっぱりこんなに落ちているとなんかもったいなくてね…」と笑
っていた。そう言われればぼくも、散歩の途中でクルミの実が落ちてい
たりすると、つい拾ってポケットに入れてしまう癖がある。これも皮を
水に漬けて腐らせ、干して割って食べるまでがどれだけ大変なのはわか
っているのだが…。

9/25(水)「空の抜け穴」

 お昼時。伊那富士こと戸倉山の山頂(標高1680m)で、草の上に仰向
けになって空を眺めていた。真っ青な秋の空をバックに、白い雲が集ま
ってはまた消えてゆく。こうやってつくづく空を眺めるなんて久し振り
のことだなと思いながら、頭上の雲をしばらく目で追っていると、その
雲のすぐ真下に、鳶らしき2羽の鳥が楕円を描きながら舞っている姿が
目に入ってきた。番いだろうか。無数の虫たちがブーッブーッという羽
音をたてて頭上を飛び交っているので、その遥か上を飛んでいる鳶の存
在にそれまで気づかなかったのだ。先ほど鳥寄せの竹笛を吹き鳴らして
いたら、どこからともなく「ヒュルヒュルー」という鳴き声が聞こえて
きたのは、あの鳥たちだったのか。
 それにしてもずいぶん高くを舞っているものだ。いったいどこまで飛
んでゆくつもりなんだろう? そう思って、もうほとんど黒点に近い、
ゆっくりと飛翔する彼らの姿を目を凝らして追っていると、誰か人が山
頂に登ってきたのか、横にはべっていた飼い犬のポン太が急に動き出し、
そちらに気を取られて一瞬空から目を離した。そしてまた頭上を見上げ
ると、その一瞬の隙に鳶たちの姿は見えなくなってしまっていた。右や
左を見回しても、どこにもそれらしき姿は見えない。どうやら彼らは雲
の中に突っ込んでいってしまったのではないか。そう考えるよりしょう
がなかった。いったい連中どこまで行く気なんだろう? いよいよ興味
が湧いてきて、そのまま雲が形を変えて崩れるまで、空を仰いで寝転ん
でいた。
 さて、待つことしばし。雲が次第に形を崩し、その向こうに青空がの
ぞいて見えてきたが、鳶たちの姿はどこにも見当たらない。ただ真っ青
な虚無をたたえた透き通るように蒼い空が、雲の上に広がっているばか
りである。きっと彼らはあの青い空のどこかに開いたブラックホールに、
雲の隙間から呑み込まれていってしまったにちがいない。いやそれとも、
彼ら鳥たちだけが知っている秘密の抜け穴がそこにあったのだろうか。
 

9/20(金)「入笠山へ」

 秋晴れ3日目。ようやく仕事の区切りがついたので、飼い犬ポン太を
連れて南ア北端の入笠山へ行く。以前住んでいた芝平という廃村まで車
で行き、そこから歩いて登ったが、鹿以外誰とも遭わなかった。入笠山
へは、頂上麓の牧場まで舗装された林道が通じていて、最近ではわざわ
ざ歩いて登る人はめったにいない。その上ここは地図にも載っていない
地元の人しか知らない山道だから、人に邪魔されずにゆっくりものを考
えながら歩くには最適のコースなのだ。
 期待した茸の収穫はさっぱりだったが、牧場の途中から初の沢という
川の源流域に下り、水のほとりのダケカンバの木陰で昼寝。それがとて
も気持ち良かった。都会生活者ならば、たいていの人が自分だけの行き
つけの飲み屋や喫茶店のひとつふたつはもっているものだが、ぼくにと
ってはこうした山の中の場所こそが、ほっとひと息つける行きつけの店
にあたる。光と風に揺れる木の葉を透かして真っ青な空が目に痛い。鳥
の囀りから沢の音まで、虫の羽ばたきから風のそよぎまで、大自然の営
みがすべてひとつになり完璧な調和の一瞬を迎える時がある。そんな昼
下がりの谷間の静寂のひと時をすみずみまで深呼吸することができた。
まだ紅葉には早いけれど、さすがに酷暑の気配は遠のいた。暑過ぎず寒
過ぎず、これから11月初めまでの2ヵ月足らずの間が、信州の山々が1
年でもっとも美しく輝く時である。
 すっかりリフレッシュした気分になって牧場の林道を山道の方に戻り
かけると、ちょうどこちらに移動途中だった放牧中の牛の群れと正面か
ら出くわしてしまった。横からポン太が唸り声を上げると、先頭を歩い
ていた大きな牡牛がこちらに気づいて威嚇する態勢を取り始めた。狭い
林道のこととて、これはまずい!とすぐ横の水場から藪をまたいで雑木
林の斜面に避難。二十頭ほどの群れが、水を飲んだり体を舐めあったり
しながらゆっくりとそこを通り過ぎるまで、ポン太を押さえつけてじっ
と地面にかがみこんでいた。

 帰途、最初の山の集落にさしかかったら、顔見知りの民宿の女将さん
が路上で孫娘とシャボン玉遊びに興じていた。キラキラ光る無数の透明
な玉が太陽の光にはじけて空に散ってゆく。いまどきシャボン玉なんて
珍しいものを見るなと、車の窓越しに女将さんと挨拶を交わしてそこを
通り抜けた。

9/18(水)「ソースカツ丼」

 久々の秋晴れ。穂高まで古本の仕入れに行った帰り、松本で昼飯時に
なった。知人がやっている信州大学近くのレストランに寄るつもりで車
を走らせていると、事故があったらしく、渋滞で全然車が動かなくなっ
た。もう2時近くになっていたから、やむなく迂回し、女鳥羽川沿いに
車を停め、通称ナワテ横丁にある定食屋に直行した。カウンターに5人
も客が入ればいっぱいになってしまう小さな店だが、有機米でご飯を炊
いていて、値段も味もまあまあの店なのだ。ところが、今日は定休日で
休みだった。そうなのだ、松本は水曜日はほとんどの店が定休日だとい
うことを忘れていた。
 仕方なく繁華街をウロウロし、「営業中」と看板の出ていた中華料理
屋に入ると、奥から「もうご飯終わっちゃったけど、いいですか?」と
の声。ウーム、今日はご飯が食べたい気分だったから、そこも出て、な
おしばらくうろついていると、市役所の近くの大衆割烹が「営業中」と
あった。「トンカツ定食 カツ丼 日替わり定食 \700」と出ている。
「もういいや、ここにしよう」とのれんをくぐって店に入り、日替わり
定食を注文すると、もう定食は終わってしまったという。トンカツかカ
ツ丼ならまだできるというので、結局カツ丼を注文した。北朝鮮の拉致
問題をめぐるテレビ番組を見ながら、待つことしばし。ようやく運ばれ
てきたお膳の中身を見てビックリ。丼のご飯にソースたっぷりの刻みキ
ャベツとトンカツが乗った「ソースカツ丼」じゃないの、これは!。
 知らない人のために一言いっておくと、このソースカツ丼なる代物は
私の住む駒ヶ根市の名物で、町おこしの一環として観光パンフレットな
どにも「ソースカツ丼の町・駒ヶ根」と大々的に宣伝している食べ物で
ある。ところが私はどうしてもこれが好きになれないのだ。ふだんベジ
タリアンであるということももちろんあるが、白いご飯の上にソースと
刻みキャベツとトンカツをぐちゃぐちゃ混ぜて食べるその味が、個人的
にどうにもいただけない。ふつうの卵とじの醤油味のカツ丼ならともか
く、何もわざわざ白いご飯の上にソースをだぶだぶかけなくてもいいじ
ゃないのと思ってしまう。
 駒ヶ根から車で2時間かかる松本まで出てきて、まさかソースカツ丼
を食う羽目になるとは思っていなかった。だけどもう出されたものに文
句を言ってもしょうがない。お腹もすいていたから、やむなくソースが
たっぷりかかったご飯をキャベツとトンカツと一緒に胃に詰め込み、何
だかだまされたような気分で店を出た。「ああ、ふつうのカツ丼がなつ
かしいな。今度東京へ行ったら、蕎麦屋でふつうのカツ丼を注文しよう」
などと思いながら、車に戻った。
(こんなことばかり言っているから、地元では浮いてしまうんでしょう
ね、我々は)。

 

 9/13(金)「廃村の新住民の死」

 夏ばてが尾を引いていて、季節の変わり目にきてさすがに体調ダウン
気味。昨日今日と半日断食をする。夏の間、冷たいビールやジュースを
あれほどがぶ飲みしたわけだから、これでは胃肝臓(!)。本当は完全
断食したほうがいいのだろうけど、この頃は完全に抜くと翌朝貧血でふ
らふらしてとても辛い。だから夜だけ軽くソバなど食べることにしてい
る。それでも朝昼食べないでいるだけでも、内臓が少しずつ楽になって
くるのがわかる。
 ムスリムの人たちはこれを毎年揃って1ヵ月やるわけだから、凄いも
のだと思う。近くに青年海外協力隊でベンガル語を教えるバングラデシ
ュ人の先生がいるが、敬虔なイスラム教徒である彼は毎年律儀にラマダ
ンの断食を実行する。ふだんはやや太り気味で穏やかな顔をしている先
生も、ラマダンの後半になると、頬は痩せこけ、次第に目だけがぎらつ
いてきてらんらんとした光を帯び、まるで別人のような顔つきになる。
きっと、こうして心身の贅肉を殺ぎ落として、年毎にリフレッシュして
いくのだろう。

 ところで最近、以前我々が住んでいた山の廃村で二人の新住民の男性
が相次いで亡くなった。この十年来、僕が知っている限り、入笠山の麓
にある芝平(しびら)というこの廃村で、都会から移り住んだ人間が死
を迎えたのはこれが初めてである。ともに癌で、二人とも東京出身。一
人はたしか60代後半、一人は52歳とのことだった。両者ともさほど
親しくしていたわけではないが、廃村に暮らしていた当時は最低の行き
来はあった。とくに52歳で亡くなったKさんは、健康優良児を地でい
ったようなスーパーマンで、こんなに早く亡くなるなんて思ってもみな
かった(それは当人が一番そう思っていたようで、なかなか自分の死を
受け容れられなかったと聞く)。裁判所の競売物件で手に入れた廃村で
もっとも奥に位置する山林を自力で切り拓き、そこに三年かけて家族三
人だけで立派な家を建てたKさんである。その後、まったく対極の市街
地の真中にレストランを開き、我々を驚かせたが、車で1時間余りだと
はいえ、標高差にして7〜800メートルはある山奥と市街地の間を行
ったり来たりする暮らしはやはり体にこたえたのだろう。なんといって
も冬の厳しさは半端でないからだ。
 まだ僕が芝平で暮らしていた頃、冬の夕方町で用事を済ませて山に帰
る途中、山の中腹付近で吹雪になった。真っ白に吹雪く中をのろのろと
山道を上がって行くと、道路際に車を寄せてチェーンを巻いている車が
視界に入ってきた。脇を通り過ぎながら見ると、学校帰りの中学生の息
子を載せたKさんの車だった。僕自身、この大雪の中、はたして家まで
帰れるかどうか不安になっているところだったが、Kさんの家は僕のと
ころからさらに5キロ近く奥にある。「大変だなー、よくやってるよ。
だけどいつまでやれるのかな?」と思いながら先を急いだのをよく覚え
ている。
 亡くなったもう一人のTさんとは、麓の公営温泉でよく行き会った。
中学校の美術の教師を定年前に辞め、やはり廃村に買った土地に家を建
て、奥さんと二人で山暮らしをしていたTさんは「私はここに骨を埋め
るつもりでおります」とよく豪語していたが、本当にその通りになって
しまった。癖のある人で、おまけにアル中の気があったからあまり近寄
らなかったが、真冬の温泉の脱衣場で放心したようにぐったりと椅子に
もたれている湯上りのTさんの姿を見ると、「この人も相当無理してい
るんだな」と同情を覚えたものである。駐車場にはもうボロボロに傷ん
だTさんの箱バンが駐めてあって、新車の頃から見知っているものだか
ら、その車の傷み具合とTさんの疲れ切った表情とがだぶって見えてき
て、何だか他人事に思えなかった。
 亡くなった二人に共通していたのは、「頑固」で「頑張る」ことだっ
た。それが癌になる人の特徴だともいう。その点、軟弱なおれはまだ大
丈夫かなと思ってはいるが、人の命なんてわからないものだ。せいぜい
節制して気を付けなければ、と半断食などしている次第。 
  

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