*伊那谷スケッチ(雄猫麻太郎最期の日々)
2002年1/1〜1/28

           
(日課の日向ぼっこをしながら
 闘病する在りし日の麻太郎)

1/28(月)先週末、南アルプス塩見岳の麓・大鹿村に住む友人宅を久々に
訪れた。この頃は特別用事もなく人の家を訪ねることはめったにないが、
猫に死なれてそんな気分になったのだ。友人宅には二人の子供のほか、犬・
猫・鶏・兎などが飼われており、いつも賑やかである。
 ちょうどその日、近所の牛飼いの手伝いに行っていた友人が、手製のチ
ーズをみやげに帰ってきた。スイスまでチーズ造りの修行に行ってきた村
出身の牧場主が、わずか三頭の乳牛を繰り回して造っている極上品のチー
ズである。薪ストーブの火を眺めながら、それを肴にしてコタツでだべっ
ていると、でっぷりと太った雄の黒猫がコタツの回りで甘えた鳴き声をた
てる。チーズが気になって仕方がないのだ。年の瀬に、正月料理の鶏肉を
まるのまま台所から食い逃げし、それ以来家の中に入れてもらえず、食事
もドッグフードを与えられていたからこんなに太っているのだという。歳
を訊くとまだ2歳。元気だけど悪い盛りである。そういえば死んだ麻太郎
もその年頃に食卓のチーズを食い逃げして、おれに半殺しの目に遭ったこ
とがあったなと懐かしく思い出す。

 昨日は久々の大雪。それも湿った重たい雪で、雪かき疲れと冷えで、今
日はさすがに消耗している。

1/24(木)エイズ末期で死にかけていた猫の麻太郎が姿を隠してから4日
経つ。虚脱感というか、胸の中にぽっかりと開いてしまった空洞。それを
自分たちではどうすることもできない日々が続いた。死は自明のことだと
はいえ、とくに女房はわが子同然に育てた老猫の遺体の発見が諦め切れず、
連日二人で近くの藪やドブを、家の床下も部屋ごとに畳をあげて隈なく探
してみた。しかし、どうしても遺体は発見できない。つい先日まで、あれ
ほどべったり面倒をみていただけに、亡骸が見つからないと悲しみや悔い
ばかりが募り、なかなか気持ちのふんぎりがつかないでいる。
 それでも、いつまでも落ち込んでばかりはいられないので、猫用に使っ
ていた毛布などは女房が率先して処分し、ダンボールの寝床も焼却した。
勝手口に作っておいた猫穴もベニヤで塞いだ。こういうときは、たとえ亡
骸が出てこなくても、やはり弔いの儀式が必要となる。そう思って今日、
ケヤキの丸太を削って猫の墓碑をつくった。これを麻太がいつも日向ぼっ
こをしていた木の下に立て、霊を弔うつもりである。女房が以前から願っ
ていたように、麻太の亡骸を埋めた場所に木を植えることは適わなくなっ
たが、こういう作業を進めることで二人とも少しずつ気持ちを落ち着かせ
てきている。

 それにしても、あいつはいったいどこへ消えたのか? 
 死ぬ前の麻太がいつも必死に水を飲もうとしていたことから、ひょっと
して近くの水路に落ちて流された可能性もあると考えて、ドブから用水路
伝いにずっと流れをたどって天竜川まで下ってみた。畑の脇をゆるやかに
流れる水路は、あるところで向きを変え、U字溝伝いに車道をくぐり、坂
の斜面を下って小さな川に吐き出される。そこから再び田んぼに沿っての
どかな流れとなり、数キロ先で天竜川に合流する。天竜の流れはいくつも
の支流を呑み込みながら、やがて遠州灘で太平洋に注ぎ込む。もし麻太が
万一溺死したのだとすれば、あれほど飲もうとして飲めなかった水をたら
ふく飲まされて、今頃は天竜川をゆっくり下っていることだろう。ヒンド
ゥー教徒がガンジス川で死ぬことを至上の喜びとすることを思えば、そん
な死に方もあの猫には相応しいかもしれないなと思ったりする。
 水に還ったにせよ、土に還ったにせよ、麻太の霊よ安かれ。

1/21(月)猫は死ぬとき姿を隠すというのは本当だ。……とうとう麻太郎
は戻ってこなかった。隣り近所にも声をかけ、今朝も女房と手分けしてそ
こら中を探して歩いたが、どこにも見当たらない。たんなるアクシデント
で戻れなくなっただけなら、必ず見つかるはずである。麻太が自分の意志
で、人の目に触れにくい場所に隠れたとしか思えない。そういう猫なので
ある。あの体で一晩野宿して、もう生きている可能性はないだろう。17年
も連れ添ってきた猫だから、せめて亡骸ぐらい飼い主の手で土に埋めてや
りたいと思っていたが、それすら適わないのが残念である。海難事故など
で行方不明者の遺族が遺体の回収を強く望む気持ちがよくわかる。愛する
者の遺体と対面して、この手で埋葬してやらないことには、遺された者の
気持ちの整理がつかないのだ。

 いろいろなことが頭をよぎる。いよいよエイズの末期に至り、水すらう
けつけなくなった麻太は、ほぼ1週間余り、まったく排泄行為がなかった。
もともと排泄に関しては過剰なほど潔癖な猫で、これまではどんなに体の
具合が悪くても、這ってでも外に出て用を済ませてきた。それが3日前初
めて部屋の中で失禁し、昨日にかけても失禁が続いた。半死半生状態の本
人がどこまでそれを意識していたかはわからないが、そのことで慌て騒ぐ
飼い主の反応などから、人間で言うなら強い恥の感情を麻太が持ったこと
は想像に難くない。猫にもダンディズムがあるのだ。この数日の異様な徘
徊行動も、つらくて寝ていられなかっただけでなく、死に場所を求めてさ
まよい歩いていた面もあったような気がする。
 今日は午後から、ときどき雷までまじった大雨。麻太郎の亡骸よ、冷た
い雨に打たれてどこにいる? 飼い主は悲しいぞ。


(もう魂はあの世にあずけていた・1/13撮影)

1/20(日)気が塞いでいるときは、やっぱり山を歩くのがいちばんいい。
昨日は久々に犬を連れて、空木岳の中腹にある池山の近辺を歩いた。夏の
間は林道の終点にあたる標高1300メートル地点まで車で行けるのだが、さ
すがに冬期は積雪のためずっと手前で通行止め。やむなくかなり長い距離
を歩いて登ったが、アイゼンをつけて雪道をザックザックと踏みしめてい
くと、少しずつ気も晴れてくる。このところ猫の麻太郎にばかり注意が向
いて嫉妬気味のポン太も、うれしそうな表情をしている。途中、ウサギや
狐の可愛らしい足跡に混じって、ものすごく大きな足跡が雪の上を横切っ
ていた。目でたどっていくと、崖際の洞窟のようなところで消えていた。
どうやらここしばらくの異様な暖かさで、冬眠中の熊が春と間違えて起き
てきたのではなかろうか。

 さてエイズ猫の麻太郎の方は、ついに一昨日から失禁をするようになり、
コタツの回りの座布団などもう尿洩れでものすごい臭い。あれだけ排泄行
為に神経質だった猫が、部屋の中で失禁しても自分ではそれに気付かない
でいる。だいたい一滴の水も口にできなくなってから、今日で十日近くた
つ。体重はすでに2kgまで落ちた。全盛時には少なくとも6〜7kgはあっ
たはずだから、見ているだけでも痛々しい。体重70kgの人間が20kgまで痩
せたところを想像してほしい。昨日は昼間留守にしたからか、戻ってくる
と膝にべったり甘えて動かない。いよいよお迎えが近いなと思いながら寝
た。
 そして今朝、相変わらず部屋の中でふらふらと徘徊行動を繰り返してい
る麻太をいったん外に出し、座布団カバーなどを全部はがして家中を掃除・
洗濯した。ところがふと気が付いてみると、その辺で日向ぼっこをしてい
るだろうと思っていた麻太の姿が、見えなくなっている。女房と心当たり
を探してみたが、どこにも見当たらない。今回は足跡から見て、縁の下に
も隠れていない。あの体でいったいどこに消えてしまったのだろう?と気
が気でない。

1/18(金)このところの猫の介護疲れが出たのか、今日はなんだか飼い主
までぐったりしている。癌で亡くなった妻の後を追い自殺した江藤淳が、
『妻と私』の中で日常的な時間とは別種の「生と死の時間」ということを
言っているが、エイズで死につつある老猫と半日をべったり過ごしている
と、人間までその「生と死の時間」の方に少しずつ引きずられていくよう
な気がする。とくに子供のいない我々のような夫婦にとって、飼い猫と過
ごした17年という時間は、そのまま夫婦の愛憎のドラマが刻印された家族
だけの「生と死の時間」でもある。「子は夫婦のかすがい」と言うけれど、
我々にとっては猫こそ、夫婦の関係の潤滑油のような存在だったと思う。
ときにはその存在をどれほどうっとおしく感じ、蹴飛ばしたり、踏んづけ
たり、投げ飛ばしたりしてきたとしても、もはや猫と過ごした濃密な時間
の記憶を消すことはできない。

 久々に晴れた今朝、相変わらず部屋の中で徘徊行動を繰り返す麻太郎が
外に出たがっているので、戸をあけてやった。もうほとんど目も見えなく
なってきているようだが、ふらふらしながら庭先をうろつき、犬のポン太
の水の鉢の前までくると、じっと中をのぞきこんで水とにらめっこをはじ
めた。麻太が水も飲めなくなって今日で1週間になるが、水を飲もうとい
う意志だけはあって、部屋の中でも放っておくと必ず水の前にきて長いこ
と座っている。しかしどうしても水に口をつけることができない。
 それからしばらく家のまわりを徘徊すると、今度は家の横のドブの前に
佇んでじっと動かなくなった。横に行ってしゃがんでみると、ちょうどド
ブの段差にあたるところで、チョロチョロと水の流れる音がしている。ぼ
くもそこで日を背中に受けてじっとしていると、その水の音からある記憶
がよみがえってきた。麻太が生まれて最初の三年を過ごした清水平という
谷間の一軒家で、山の中を静かに流れていた沢のせせらぎだ。それから、
次ぎに移り住んだ廃村で家の横を流れていた卯沢の水の流れ。麻太もひょ
っとして、そんな記憶にある水の音に聞き入っているのではないか…。そ
んなことを思っていると、麻太がふらふらとドブに足を滑らせそうになっ
たので、慌てて抱きかかえて家に連れて戻る。今日からまた寒くなりそう
だ。

1/17(木)昨日からの季節はずれの雨が、今朝起きたらみぞれ雪に変わっ
ていた。どうやら少し寒さが戻ってきたようだ。そんななか、犬のポン太
は軒下で濡れそぼってヒイヒイ言っている。雨のあたらないところにダン
ボールの寝床がしつらえてあるのだが、一昨日縁の下から這い出てきたエ
イズ猫の麻太郎がそこでしばらく休んで以来、ポン太は絶対自分の寝床に
近付こうとしなくなった。こんなことは初めてである。よほど異臭がする
のだろう。動物同士の勘とでもいうのか、死につつある動物はそれとなく
嗅ぎ分けられ群れから遠ざけられる。以前チャボを飼っていたときもそう
だった。それまで一座の中心にいて権勢を誇っていた雌鶏が、ある日を境
に次第に群れから遠ざけられ、最後はいつも庭の片隅でたった一匹で丸く
なっていたのを思い出す。

 さてその麻太郎の方は、エサも水もまったく喉を通らなくなってから今
日で6日目になる。脳神経がすでにやられているようで、夢遊病者のよう
な徘徊行動が目立つ。ときどき水の鉢の前にやってきては中をのぞきこん
でじっと考えているが、口の中はもう口内炎で血だらけで一滴も水を飲む
ことはできない。湿らせた綿を口許に持っていってやってもだめである。
こうなるともう飼い主は何もしてやることができず、ただできるだけ猫の
そばにいて、日に日に痩せ細っていく背中をつらい思いで撫でさすってい
るばかりである。

1/15(火)朝7時過ぎ、「麻太がいなくなっちゃった!」という女房の叫
びで目が覚めた。明け方4時ごろ様子を見にいったときには、まだ寝床に
うずくまっていたという。「猫は死ぬとき姿を隠すっていうからね」と女
房。慌てて飛び起きて家の周辺を犬と探してみるが、いっこうに見当たら
ない。あの体でそんなに遠くへ行けるわけがないんだが…と思案している
うちに、ふと「縁の下じゃないか?」と思い当たった。行ってみると案の
定、床下の隙間穴の手前に猫の足跡がついている。人が潜れるほどの穴で
はないが、よその野良猫がよくねぐらにしていて、去年など足を痛めた狸
がここに寝ていたこともある。懐中電灯で照らして「麻太!」と呼びかけ
てみるが反応はない。もう死んでしまったのかもしれない。こういう行動
に出るとは、うかつにも予測していなかった。山の中でずっと育ち、野生
の強い猫だから、死を予知して本能的に姿を隠したということもありうる。

 ひとまずお茶でも飲んで、部屋の畳を上げて床板をはがしてみるかとい
うことになり、麻太のことはもう諦めて、いつものように隣りの雌犬リキ
とうちのポン太をつれて天竜川まで散歩に行く。戻ってくると、なんとい
なくなったはずの麻太が穴から這い出して泥だらけの手足で悄然としてい
るではないか。本人も自分でいったい何をしているのか、もうわかってい
ないのかもしれない。それでも死にきれなかったのがよほど恥ずかしいの
か、寝床に戻してやってもこちらに背を向けたまま首をうなだれている麻
太郎である。

1/14(月)もう駄目かと思ったエイズ猫の麻太郎は一晩持ち越して、今朝
も息をしている。昨日はとうとう一歩も寝床から出ることがなかった。
「こうやって少しずつあの世に移行していくんだね」と、朝の紅茶を飲み
ながら台所で女房と話していると、突然廊下でドシンバタンという大きな
音。慌てて様子を見に行くと、その麻太がダンボール箱の寝床から這い出
して、よろよろ歩いている。びっくりした。もう動けないと思っていたの
に。見ていると外に出たいようなので勝手口の戸を開けてやる。すると、
あっちの壁にぶつかってはよろけ、倒れてはまた起き上がりという具合で、
なんとか外まで這い出し、犬のポン太のダンボールの寝床に這い上がろう
とする。壮絶な行軍である。我が家では猫の方が犬よりえらくて、下男の
ポン太が朝の散歩をしている間、犬の温みが残る庭先の寝床で麻太が朝の
日光浴をするのが慣わしになっている。どうやらその日課を果たそうとい
うつもりらしい。自力では這い上がれないので、抱きかかえて中に入れて
やると静かになった。

 夜になってまた夢遊病者のような徘徊行動が始まり、夫婦で替わりばん
こに膝に乗せて麻太をあやす。そうすると麻太もべったり甘えて離れよう
としない。もう神経系統がやられていて、まっすぐに歩くことも立つこと
もできない麻太だから、こうやって人の膝に体をあずけて休んでいる態勢
がいちばん落ち着くらしい。もともと麻太郎(またろう)と名付けたのも、
幼い頃、人の股にばかり乗って甘えていたからだ。あれから17年、幾度
となく死線をくぐり抜けてきた生命力の強い猫だが、今度ばかりは老齢に
加えてエイズという不治の病である。これまでのような奇跡は期待できな
いだろうと、飼い主もそこは覚悟を決めている。そんな夫婦の会話に耳を
そばだてながら、あたかもすべてわかっているよというふうに力なく尻尾
を動かす麻太である。

1/13(日)今日も昨日に続いて、季節はずれの小春日和。まだ辛うじて
息をしている猫の麻太を寝床において、犬と天竜川の川岸を長めの散歩。
杖を片手に早足でウォーキング中の男や、我々と同じように犬を連れて
散歩中のカップルなど、今日はさすがに連休中のポカポカ陽気とあって、
すれ違う人が多い。と向こうの空に凧が揚がっている。遠くから見ると
まるで鳥が空を飛んでいるようだ。もっと近づいて見上げると、蝶の形
をした凧で羽がパタパタ舞うようになっている。川原では糸を引いてい
るお父さんの方が子供よりも凧上げに夢中になっている様子だ。とさら
にその上に丸い大きな気球がぽっかり浮いているのに気づいた。川に沿
って少しずつこちらに近づいてくる。どこかの気球クラブが河川敷で打
ち上げているのだろう。黄色い気球が真っ白な中央アルプスの山々を背
景に青空に浮かぶ。手前には深緑の水をたたえた天竜川。乗っている人
は気持ちよさそうだな。目で追っていると、ゆっくりと時間をかけて下
降していき、対岸の丘の向こうに隠れて見えなくなってしまった。

 家に戻り、昼の光でつくづく猫の寝顔を見てはっと胸をつかれた。虫
の息の麻太はもうほとんど向こうの世界に魂をあずけてしまっているこ
とが直感的にわかったからだ。すでに寝床から立ちあがることも、水を
飲むことさえできない。「もう時間の問題だね」と女房と頷く。ときど
き吐き気を催すのか、辛そうに体を動かすことはあるが、全体としては
穏やかな寝顔である。さほど苦しんでいるようには見えない。半分は老
衰と考えてもおかしくない歳だから、せめてもこういう佳日に安らかに
息を引き取ってくれるのなら、飼い主としては本望だなと自分を納得さ
せている。

1/12 いつもなら寒さのピークが訪れる頃だが、昨夜から急に緩んで春の
ような陽気。こう緩むとかえって体の調子が狂う。それは動物も同じらし
く、昨日までウナギを食べて一時的に元気を回復してきたかにみえたエイ
ズ猫の麻太郎も、ここにきて一気にダウン。午前中、いつものように畑の
隅の木の下で日向ぼっこをしていたまではいいのだが、起き上がって家に
戻ろうとしたら、そのままよろけて自力では立てなくなってしまった。そ
れでも懸命に起き上がって前へ進もうとするのだが、もうふらふらでまっ
すぐに歩くことができない。いよいよ重症である。昔見た「水俣病」の映
画で、水銀に汚染された魚を食べた猫がやはりこんな動作をしていたこと
を思い出す。
 最近、東京の知人が「猫のエイズ」(集英社新書)という本を送ってく
れた。それによると猫のエイズにも感染から死にいたるいくつかのステー
ジがあり、通常は感染から4〜5年の潜伏期間を経た後に発病。口内炎や
皮膚病など様々なエイズ関連症候群を現し、末期のエイズ期にいたると
「坂道を転がる石のように、症状はどんどん悪化」し、2ヶ月ほどで死にい
たるという。それにしても、「エイズを発症して死亡する猫の平均寿命が
5・7歳」、「かなり自由に外に出している猫の平均寿命は、約4歳でし
かない」というのをこの本を読んで初めて知った。とすると今年17歳に
なる麻太郎は、もう化け物みたいなもので、この辺でくたばっても大往生
ということになるのだろうな。

1/9 休み明けの塾の授業で生徒からひどい話を聞いた。近くに光前寺と
いう古刹があるのだが、そこで元日の明け方に友達と初参りを済ませて帰
る途中の中学1年生の男の子が、酔っ払い運転の車に轢き逃げされて亡く
なったという事件だ。可哀相に! よりによって初参りのあとに轢かれるな
んて…。犯人の飲食店経営の中年女性は現場が気になって戻ったところを
警官に職質されて逮捕された。新聞も正月で休みだったから、ほとんど口
コミでしかニュースは伝わらなかったらしい。亡くなった男の子の冥福を
祈るばかりである。

1/8 一晩中ものすごい突風が吹き荒れた。我が家はふだんから隙間風で
ローソクの灯がゆれる陋屋である。夕べは始終窓や戸がガタピシきしんで
いて、うるさくて不眠気味。それにしても何か凄い天気が続くな。アフガ
ニスタンにアメリカ軍が落とした大量の爆弾、中でも核爆弾に次ぐ破壊力
を持つとされる気化爆弾などで、いったいどれだけの人の命と自然環境が
破壊されたのか? 地の気が狂えば天の気も狂う。当然、地球の気象にそ
の影響が出ないわけがない。それを思うとますます眠れなくなる。

1/6 いやあ、まいったまいった。ウナギってほんとに精がつくんだね。
今朝起きると、麻太がすり寄ってきて「ゲオ」と声を発しながらエサをね
だる。冷蔵庫を開けると走ってきて首を突っ込む。こんなことは実に一ト
月ぶりのことである。昨日やったウナギがよっぽどうまかったらしい。冷
蔵庫にあった残りをほぐして小片を少しずつくれてやると、がっつくよう
に食べる。それまでの衰弱具合からみて、はたして正月を越すかと危ぶん
でいただけに、これはもうほとんど奇跡といっていい。考えてみれば、我
々だってたまにしか口にしないウナギの蒲焼。麻太にしてみれば、生まれ
て17年目、エイズで死ぬ間際に初めて口にした究極の美味である。アリ
ナミン注射を打ったよりも効き目があったのかもしれない。
 それとやはりこの一週間ほど、正月で誰かが始終傍にいて、何かと面倒
をみてやっているのが大きいのだろう。顎にできた大きな腫瘍も先日つい
に破れ、血だらけの凄まじい形相をしていたが、今日はどことなく毛並み
まで少し精気を回復したような猫又の麻太である。

1/5 暮れから正月にかけて我々がずっと家にいるせいからか、麻太の調
子は思ったよりいい。雪混じりの寒い日が続いているが、昼間はずっと石
油ストーブの前で過ごし、夜は電気コタツの中にもぐって寝ている。いま
まではコタツでは寝かせずに、廊下にしつらえたダンボール箱の寝床(電
気毛布を敷いてある)で寝るようにさせていたが、もうすべて大目に見て
やることにした。
 しばらく水を飲む以外、何も口に出来ずにいたが、暮れに我々がウナギ
を食っていたら珍しく傍に来てねだるので少しやってみたところ、なんと
ウナギなら食べた。もちろんウナギなど猫にやったのは初めてである。正
月も雑煮の鮭の切り身を一口食べる。もう激しい口内炎で、口の周りがそ
れこそウナギの蒲焼のような状態になっているので、ものを一口飲み込む
だけでも大変な痛みと努力を要する。あれほど好きだったチーズもツナ缶
ももう食べられないから、まあ冥土のみやげにという気持ちで、今日もウ
ナギを一口食わせてやる。
 今日、手元の体重計で麻太の重さを計ってみたところ、2・5kg。もう
痩せに痩せて骨皮筋エ門である。

*お知らせ 今月発売の月刊「望星2月号(東海教育研究所)に、昨年
 4/8付けの伊那谷スケッチで触れた「馬虐待事件」の話を、<牧場残酷
 物語>「動物愛護法」初告発事件の顛末 と題して書きました。興味の
 ある方はご覧ください。

1/2 小雪舞うなか、牡犬ポン太を連れて朝の散歩。習慣というのは不思議
なもので、どんなに天気が悪くても、これをやらないと犬共々何か落ち着
かない。女房は隣家の雌犬リキを連れて行く。途中、ハンターのオフロー
ド車が寄ってきて、「うちの犬が行方不明なんだけど見かけなかったか?」
と訊いてくる。イノシシ狩に山へ連れて行った際、逃がしてしまったとい
う。見かけたら連絡するよと答えてはおいたが、正月早々何の必然性もな
いのに銃をぶちっ放し殺生をするハンターに同情などしない。だいたい日
頃きちんと犬の面倒を見ていないから、たまに山に連れて行くと興奮して
言うことを聞かなくなってしまうのだ。そんなことを思いながら天竜川の
支流の新宮川の川原を歩いていたら、あちこっちに空の薬莢が落ちていた。
水鳥でも撃ったのだろうか。そういえば昨日も神社の近くで銃声を聞いた。
 猫の麻太郎はまだ辛うじて生き延びていて、コタツで寝ている。

1/1 薄曇りの寒風のなか、犬を連れて、近くの高烏谷山のふもとにある
高烏谷神社まで歩く。左手に雪を戴いた中央アルプスの山並みを眺めなが
ら、村のなかを突っ切って片道2時間ほどの道のりだが、コンクリの上を
ずっと歩くのはやはり疲れるな。結構アップダウンもあり、途中何度か道
端にしゃがんで休みながら行く。正月ならではだ。苔むした松の巨木が聳
える参道にたどりついたときは、やれやれという気分。車に犬をのせてやっ
てきた家族連れが一組先を行く。静寂な森に囲まれた実に雰囲気のある神
社で、徒然草にある「木の葉にうづもるる筧のしづくならでは、つゆおと
なふ物なし」(神無月の頃)という言葉がぴったりくるような所なのだが、
いつもならチョロチョロ流れている竹筒の手水が、今年は寒さのせいもあ
るのか涸れたままになっていて「すこしことさめて」しまう。それでも神
社の裏手を流れる清流で喉を潤し、冷たい若水をポリタンに汲んで戻る。

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