§中山道木曽路11宿を歩く


 歩けるうちに歩いてみよう。初期中山道に続いて、中山道木曽路11宿を歩いてみることにした。「是より南木曽路」の贄川宿から、「是より北木曽路」の馬籠宿までの11宿である。国道19号に沿って約85キロほどの行程だが、道中鳥居峠と馬籠峠の二か所の難所越えがある。通しで歩く場合は電車の便を考えて、手前の塩尻から中津川まで約110キロを三泊四日ぐらいで歩く人が多いようだ。
 伊那谷に住むぼくの場合、権兵衛トンネルを車で抜ければ木曽谷まで40分ほどで行けるので、日帰りで少しずつ電車を乗り継いでゆっくり歩いてみることにした。このうち峠越えの二か所の木曽古道はいままでにも歩いているが、街道歩きはまったく初めてである。
 
「贄川宿・奈良井宿から鳥居峠を経て藪原宿へ」

2019年 6/26(水)晴れ 

 梅雨の合間の晴れの一日。今日はかなり暑くなりそうだ。朝8時過ぎ車で出発。権兵衛トンネルを抜けて、9時前に藪原駅着。リュックを担いだ初老の夫婦が、駅前の観光案内板を見て歩き始めた。鳥居峠を越えて奈良井宿へ至る木曽古道はいまでは人気のトレッキング・コースである。一緒に連れてきた柴犬モモ(1歳)と妻はこのコースを行き、奈良井宿でぼくと落ち合う予定である。
 9:20発の中央線で贄川へ。奈良井・木曽平沢・贄川とわずか三駅15分の短い乗車だが、いつもながら初めて乗るローカル線に揺られていると旅の気分が湧いてくる。

*メロディー橋。欄干の金属棒を叩くと「木曽のなかのりさん」のメロディーが…

 贄川駅から約3.5キロ北にある「是より南木曽路」の石碑までは牛首峠を越えたときに歩いているから、今回はまっすぐ南へ向かう。まず贄川関所へ寄って、持参した街道杖に焼印を押してもらう。十年ぐらい前に馬籠古道を歩いたときに買った「中山道木曽路」と刻印されたヒノキの街道杖だが、これを持っていくと各宿所で焼印を押してもらえるという。四国遍路の納経帳ではないが、これもひとつの区切りにはなるだろう。
 関所の係のおばさんは、「焼印は苦手で」と言いながらも、10分ほどかけてていねいに押印してくれた。通行手形と一緒に、「SHINSYU KISOJI NAKASENDO WALKING MAP」という英語・日本語で書かれた立派な小冊子(50p)ももらう。各宿駅間のルートマップをはじめ、観光の見どころから次のWCまでの距離など至れり尽くせりの内容で、市販の中山道歩きのガイドブックは何種類も出ているが、木曽路に限ればこの無料の小冊子だけあれば充分である(問い合わせは、木曽観光連盟へ)。

*木曽の宿ではこんな水場があちこちにある。おいしい水だ。

 焼印の入った杖を突いて贄川宿の旧い街並みを行く。四国遍路でもそうだが、やはり杖を突いて歩いていると、日常を離れ、いにしえの街道歩きをしているという実感がぐんと増してくる。水場で喉を潤し、枡形を曲がって国道19号へ。少し行くと右手にずんぐりとした巨大なトチの木が見えてきた。推定樹齢千年。近づいてみると力士の化粧まわしのような幹のごっつい瘤が、生き抜いた年輪を思わせ見事だ。合掌。
 そこから19号をガードレールに沿ってさらに行き、漆器店の駐車場から降りる道を探すがわからない。うろうろしていると、外でタバコを吸っていた店の人が国道脇の草茫々の金網の仮設歩道を指差し、「そこを行くと旧道に出るよ」と教えてくれた。仮設歩道から草道を降りて、草むした小川や神社・石仏群を横手に見ながら、昔からの雰囲気の残る桃岡集落を抜ける。そこで再び19号に合流。橋を渡ってまた旧道に入る。要所要所に案内板があり、さっきの仮設歩道以外は迷うことがない。さすが木曽路と感心させる。


 道の駅木曽ならかわが見えてきた頃、携帯の呼び出し音が鳴る。犬を連れた妻から鳥居峠に着いたとの連絡。このまま順調に行けば、お昼ごろ奈良井宿で落ち合えそうだ。
 旧道をしばらく行くと森の上に諏訪神社があり、階段を下りたところから、漆器の町・木曽平沢の街並みが始まった。延々と1キロ近くにわたって漆器店が軒を並べている。平日の昼とあって、人通りはほとんどない。家並の終わったところで坂道を下り、中央線のガードをくぐると奈良井川沿いに土手道が続いていた。そこをのんびりと奈良井方面に向かう。途中の草むらに立ってずっとこちらを見ている男の人がいた。なんだろうと思って傍を通ると、ちょうどその時ガードを電車が通り、一眼レフの望遠レンズをさっとそちらに向けてシャッターを押していた。
 土手道の突き当りで橋を右折して踏切を渡ると、JR奈良井駅が見えてきた。駅は奈良井宿のいちばん北のはずれにあり、そこからまた1キロ近くにわたって旧い街並みが続いている。途中の観光案内所へ寄って、杖に焼印を押してもらう。待っている間に、向こうから犬を連れた妻がやってきた。モモ!と呼びかけると、尻尾を振って走ってくる。ちょうどお昼時だ。傍の縁台に腰掛けて、持参のサンドイッチをほおばる。


 奈良井宿自体はこれまで何度も来ているが、今日は梅雨時の平日とあって観光客の姿もまばらだ。食後のソフトをモモとシェアして、いつものおばあちゃんの店で菜箸を購入すると、鳥居峠への石畳道に向かった。この山道も何度か歩いているが、やはり奈良井側の深い森の佇まいはいつ来てもほっとするものがある。一昔前は中山道の難所越えの代名詞だったこの道も、シーズン中は外国人のバックパッカーで引きも切らぬほどの人気である。だが今日はほとんどすれ違わない。と思ってモモを放して歩いていたら、向こうから白人の5〜6人連れのファミリーがやってきた。慌ててモモを呼んで紐をつなぐ。それにしてもまだ十代ぐらいの娘さんは、タンクトップにミニスカート姿で歩いていた。外国人観光客が増えるのは結構だが、いくらなんでもこれでいいんだろうか?と思ってしまう。


 1時間ほどで鳥居峠(標高1197m)へ。さすがに汗をかいた。バンガロー風の休憩所の窓を開け放ち、横の水場で顔を洗ってからTシャツを着替え、板の間で横になる。やっぱり山はいいなあ。ほっとする。二人と一匹でしばらくごろごろ休んでから、熊除けの鐘を鳴らして御嶽神社に向かう。久々に御嶽を拝んで帰ろうかと思ったが、どこかの中学生の集団登山で山頂は占められていて御嶽どころではない。そのままずっと藪原目指してずんずん下り、石畳の道を抜けて旧道へ。坂道を下り、ガードをくぐり、藪原宿へ出る。焼印所を探して歩いていたら、笑ん館というコミュニティセンターの入口に焼印と看板が出ていたので、中へ入る。二階で何かちょうど集まりが終わったところらしく、老人たちが次々に降りてきて賑やかだ。管理人の女性に焼印を頼んでコーヒー・ブレイクとする。
 藪原駅に着くと、時刻はそろそろ16時半。無事歩き終えて、近くに温泉でもあれば入っていきたいところだが、あいにく藪原近辺にはない。権兵衛トンネルを抜けて、奈良井の土産店の主人が毎日通っているという伊那のみはらしの湯にでも浸かって帰ることにしよう。

    *鳥居峠中腹から藪原を望む。

 


「木曽路を歩きながら新型コロナウイルスについて思う」

2020年 4/8(水) 晴/曇  

〈天災というものは人間の尺度とは一致しない。したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去って行く〉カミュ「ペスト」

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言が7都府県に出された翌日、やり残していたことをやっておきたい気分になり、中山道木曽路11宿の内、まだ歩いていなかった妻籠から三留野を経て野尻宿・大桑までの間を歩いた。これでようやく木曽路11宿を全部歩いたことになる。街道杖にも、宿ごとの焼印が全部押された。
 昨年の6月に贄川から藪原宿の間を歩いて以後、酷暑の夏をはさんで、10月の台風19号で伊那から木曽へ抜ける権兵衛トンネル入口手前の道路が崩落。ほぼ年内いっぱい通行止めだった。年が明けて2月の終りからようやく中山道歩きを再開。片側交互通行のトンネルを抜けて中央西線の駅近くに車を止め、朝の内数本だけ走っている各駅停車に乗り、2〜3駅先で下車。そこから中山道を日帰りで歩いてくるということを繰り返し、宮ノ越、福島、上松、須原宿とめぐった。隣の伊那谷に暮らす者だからこそできる歩き方である。

 木曽路中山道は大きく三つの道に分かれる。ひとつは奈良井から藪原、妻籠から馬籠に抜ける道を代表とする山越えの木曽古道。もうひとつはトラックが行き交う国道19号。そして歩いていて一番楽しいのは、何でもない里中の集落の小道を、地元の人の暮らしを眺めながらゆっくり歩ける旧道である。四国遍路同様、全体の行程の半分位は国道19号をガードレールに沿って行くことになるが、それをしばし我慢すればまた里道や古道に入る。その繰り返しである。

 しかしそれにしてもこの人の少なさはどうだ。大桑から朝8時過ぎの電車に乗り南木曾駅で降りたが、全員マスク姿の通学の高校生たちを除くと、下車したのは数人。妻籠行きのバスは10時過ぎまでないことがわかり、結局妻籠まで片道約4qの道のりを歩いて往復。妻籠宿へは車では何度か来ているが、南木曾から歩くのは初めてだ。


 暖かい春の陽射しを浴びて、桜が満開の里山の集落を抜ける道は気持ち良く、さすが妻籠への道と感嘆したが、行きも帰りも観光客とは誰一人出会わなかった。南木曾駅まで戻って観光案内所で杖に焼印を押す間、係のおばさんと話したが、例年なら桜やミツバつつじが見ごろの今、外国人だけでも日に150人位は来ていたのに、この春は皆無だという。何年か前妻籠から馬籠へ木曽古道を歩いたときなど、リュックを背負った外国人客で溢れていたが、当然のことながら今年は誰もいない。

 私自身、本来なら今頃、四国遍路の続きで愛媛を歩いている予定だったが、3月後半から迷いに迷った末、さすがに春の四国遍路は諦めた。四国へは行けなくても木曽なら歩ける。そう言い聞かせて南木曾駅から跨線橋を渡り、木曽川の対岸に咲く桜を眺めやりながら三留野宿へ。何の変哲もない里の道を歩いているとそれだけでほっとする。放し飼いの柴犬の仔犬がいる。途中、えッ、こんなところ通っていいの?と思いながら、道標に従って民家の中庭を行く。

 坂を下ったところで、与川道との分岐に出た。その昔、木曽川沿いの中山道は大雨の水害でたびたび通行不能になり、その迂回路としてできた峠越えの道である。しかし距離はずっと長いので、今日は真っすぐ19号に下りて、木曽川沿いに歩くことにする。かつての難所羅天の桟道も、いまではトラックが行き交う国道に変貌している。
 小一時間ほど歩いて、柿其入口からやっと旧道に入る。JR十二兼駅近辺で昼飯でもと思っていたが、まったくの無人駅で店など一軒もない。仮設の水路トンネルを恐る恐る渡って、再び19号を横切り線路沿いの道を行く。読書ダムの対岸に見えるのはフォレスパ木曽か。車がかなり止まっている。あそこまで行けばレストランもあるのだろうなと思いながら、路傍の石に腰かけて持参のリポビタンで一服。


 踏切を渡り旧道を行くと、くねくね曲がる道沿いに少しずつまた人家が見えてきて、七曲りと呼ばれる野尻宿が近いことを伺わせる。昔ながらの雰囲気が残る旅館庭田屋を曲がり、ようやくJR野尻駅に着いた。すぐ横の役場の出張所で杖に焼印を押し、近くで昼飯を食べられる店はないかと聞くと、あいにく今日は水曜で主な店は皆定休日とのことだった。時刻はそろそろ13時半。今日はバスに乗れなくて妻籠を歩いて往復したから、ここまでで18km位歩いている。
 ウーム、やむをえない、地図を見ると次の大桑駅まで3kmとあるので、もう一息と思って歩き出した。ところが途中の石標には大桑駅まで7.7kmとあるではないか。地図と石標とどちらが正しいのか、野尻宿の東のはずれを過ぎ、しばらく行くと19号に出て、向こうに「道の駅」大桑が見えてきた。14時過ぎ、何とか昼飯にありついた。四国でもこんなことをよくやっていたよなと思い出す。15時近くにJR大桑駅着。時間から考えると、地図の方が正しかったことになる。とまれ細切れでだが、これで中山道11宿は全部歩いた。19号を車で走っていても、土地勘ができて木曽路の奥行きが広がった。


  *  *  *

 戻ってニュースを聞くと、伊那保健所管内でまたも感染者が出た。東京の感染者の数も144人と過去最高を記録。もうすでに国内でも感染爆発が始まっているのではないか。それでも我々のように、近くに歩いて行ける山や川がある人間はまだいい。首都圏に暮らす人たちの窒息感は相当のものだろうと想像する。

 コロナウイルスが流行り始めた2月の末頃、カミュの「ペスト」を読み返したが、いろいろと参考になるところはあるものの、まず決定的に違うと思ったのはカミュの時代、今日のようなグローバリゼーションによるパンデミックはまだなかったということだ。ペストはあくまでオランという地中海の限られた一都市に限られていて、オランを封鎖しさえすれば、それが他の都市や外国にまで広がっていくことはなかった。だからパリに恋人のいるランベールという登場人物などあの手この手を使って、何とかオランから脱出しようともがき続ける。国境の外には「自由と安全」が待っているからだ。しかし今回の新型コロナウイルスは、武漢一都市を閉鎖しても、感染はまたたく間に世界中に広がってしまった。いまやここに逃げれば絶対に安全という土地は地球上のどこにもない。アマゾンの原住民の間にまで感染者が出たというニュースを聞くに及んで、その感を強くした。

 そしてもうひとつ「ペスト」で印象的だったのは、手紙のやり取りさえ禁止され、閉鎖された都市に住むオランの市民たちは街へ繰り出して、高級レストランへ殺到し、毎日映画館に行列を作り、あらゆる演芸場からダンスホールまでも満員にし、祈祷週間には教会もいっぱいになったという描写である。つまり人々はこぞって群れ集うことで、ペストという災禍のもたらす不安から逃れようとしたのである。これは人間の持つ本能的な志向性ではないだろうか?
 中世のフィレンツェ郊外を舞台にペスト禍から逃れた若い男女十人が、下ネタを交えた面白おかしい話を語り合い、迫りくる死の影を追い払おうとするボッカチオの「デカメロン」も、まさにそのものずばりの物語である。
 古来、未知の恐怖と向き合ったとき、人々は互いに寄り添い語り合うことで不安を乗り越えようとしてきたのだ。しかし今回の新型コロナウイルスは、そんな人間の本能をさえ封殺してしまう。こんなことは歴史上初めての経験ではないか。

 集まれない、語り合えない、寄り添えないというのは辛いものである。行きつけのライブハウス・辰野のオーリアッドも4月から休業に入った。民泊マザーアースも3月以降すべての予約がキャンセルとなった。小彼岸桜が満開を迎えた高遠城址公園も閉鎖。岡谷の春市も中止。連休の古本市だけはやる予定でいるが、さてどうなることやら。いまはただ畑を起こし、薪をこしらえ、犬と長い散歩をし、本の整理でもしながら、やるべきことをひとつひとつこなして日々を乗り切っていくしかないのだろう。
 皆さんのご無事を祈ります。

 

     →戻る