《§伊那谷スケッチ 番外編》


12/12  リラ、とうとう逝く


 13歳の柴犬リラがとうとう逝ってしまった。
 昨日庭に1mほどの穴を掘って埋葬したが、喪失感はぬぐえない。数年前、飼い猫のタマが死んだときも庭に穴を掘って埋めたが、穴が浅すぎたせいか毎晩のように狐が来て土を掘り返して荒らし、尻尾を食いちぎられたりした。そのとき猛然と吠えていたのが番犬のリラで、もう吠える犬もいなくなったいま、あんな可哀そうなことはしたくないので腰痛にめげず頑張って穴を掘った。そして遺体と共に、いつも山へ行くときにリラがつけていたハーネスと鈴も土に埋めた。あのカラコロいう音を聞くと、いまでもリラがそこに走ってきそうな気がして切ない。

 喉首にできた甲状腺の腫瘍を思い切って手術したのが今年の2月だった。直径5cm大にまで膨らんでいた腫瘍はとても全部取り切れず、獣医からもいずれ再発するだろうと言われてはいた。しかしその後半年余り、とくに表面的には再発の兆候は見られず、このまま緩解してくれるのかと期待していた。ところが秋に入ってから食欲が落ち始め、ときどき喉に何か引っかかるらしく、吐きそうで吐けない動作をよくするようになった。散歩と山歩きだけはいつものようにしていたが、好きな山へ連れて行っても昼飯のおにぎりは残し、ドライも掌から少し食べるだけとなった。そしてとうとう一日一回の食事も全部残すようになった。
 やむなくまた獣医に連れて行ったのが2週間前。レントゲンを撮ってもらうと、肺にいくつもの黒い影がまだら模様に映っていた。知らぬ間に癌が内側に転移していたのだ。もう手の施しようがない。気休めに抗がん剤を投与しようかと言われたがそれを断り、日に日に弱っていく犬と最期の時を過ごすことになった。リラはもちろん外飼いで、2011年の3.11のとき7歳。長野でもその年戸外に放置されていた薪を燃やさないように通達が出たぐらいだから、地表30cmで寝ている外飼いの犬に放射能の影響が全然なかったとは考えにくい。

(2017.8月 中ア池山 野生動物観察棟にて)

 
リラははじめから散歩と山歩きのお供として飼われてきた犬だから、歩くことが生きることであり仕事でもあった。全然食べられなくなってからも、散歩だけは毎日した。元気なときは15分もあれば回れたいつもの散歩コースを、この寒い中ヨタヨタと這うようにして、ついには1時間もかけて回った。そうでなくても腫瘍が肺を圧迫してきているから、もう横になってはべることもできない。犬小屋に毎晩湯たんぽを入れてやっていたが、朝起きて様子を見に行くと、腰だけ小屋に入れて前足を外に出して中腰で立ち、うつらうつらと辛そうに眼を閉じているリラの姿を毎朝目にすることになった。零下の冷え込みで凍った水の器を割り、掌で水をすくって口元まで持っていってやると少しだけ飲んだ。散歩に連れ出してもちょっとした道の勾配が胸にこたえ、5m歩いては休み、3m歩いては立ち止まって息を整え、ゴールを目指すのである。それでも外に出ることはやめなかった。そしてとうとう散歩の帰途、道でうずくまってしまったところを女房に抱き上げられたとき息絶えた。死ぬその日まで歩いた犬だった。

 パソコンに収められたデジカメのデータから祭壇に飾る写真を選んでいると、それにしてもリラとはこの13年間、あちこちの山をよく歩いたものよとあらためて思う。ハンター犬でもないのに、これだけ山を自由に走り回った犬はいまどきそんなにいないのではないか。その点ではリラも十分に納得して死んだだろうと思う。野性味の強い柴犬で、若い頃は山で獣を見つけると深追いして戻ってこないことも度々で、何度このまま置き去りにして帰ってしまおうと思ったことか。
 最後に山へ行ったのが11月半ばで、分杭峠から入野谷山(1772m)の先まで歩いた。3年ほど前に整備されたばかりの往復4時間ほどのコースで、南アルプスのふところを抜けて仙丈や北岳を横手に前方双子山を目指して行くと、あっと驚くような絶景の峯に出て中アの全景が一望できるのだ。好天に恵まれ、リラがうれしそうに尻尾を振って峯を登っていく姿が目に浮かぶ。あれが最後の山行きとなった。
 今年はともかく雨続きの天気であまり山は歩けなかったが、それでも手術後少しずつ体力を回復したリラを連れて裏山の物見や城はもちろん、三峰川、権現山(伊那)、池山(駒ケ根)、守屋山、三界山(高遠)、王城山(辰野)、藪原から奈良井への木曽古道などを歩いた。近場は軽トラの荷台に乗せて、遠くはバンの後部座席に敷いた犬用の専用シートに座らせて。ともかく伊那谷近辺で日帰りできるところはどこにでも連れて行ったから、どこへ行ってもリラの面影が残っている。しばらくはそんなリラの幻を思い浮かべながら、切ない山歩きをすることになるのだろう。


11/30 手動式薪割機


 今年は春から天候不順が続いているが、11月に入って早くも零下の冷え込みとなり、11月半ばから薪ストーブを焚き始めた。春先に老朽化したパオとウッドデッキの一部を解体した際にかなり廃材が出たので、まずはそれを燃やして暖を取っているが、これだけでは全然足りない。3・11あたりを境に薪ストーブユーザーがぐんぐん増え始めた昨今、業者から薪を買えるほどふところ豊かでなく、自分の山も持っていない人間は毎年薪の確保に頭を悩ませる。
 春に天竜川の河川敷改良工事で伐採したニセアカシヤの丸太を、市の仲介でもらい受けたのが軽トラ一台分(あのときも予告の時間よりも30分は早めに河川敷に行ったのだが、すでに丸太目当ての軽トラが30台ほど行列。ぼくの後ろにも20台は連なった)。9月に地元のNPOが主催した間伐材の頒布会で、持参したチェーンソーで自分で丸太を切り分けて、カラマツを軽トラ一台(3000円)。サクラやアカシヤなどの広葉樹雑木を軽トラ二台分(6000×2=12000円)運んだ。毎年秋に行われる森林組合の薪のアウトレット市が今年は材が足りなくて中止になったので、NPOの間伐材は助かった。他に庭木の剪定などで出た太めの枝などを薪にしているが、我が家の場合、風呂も灯油と兼用の薪風呂なので、薪はいくらあってもいい。

 10月後半の季節外れの台風で根元から折れたアカマツの太い丸太が近くの雑木林の林道を塞いでいるのを犬の散歩の折り目にしていたが、先日、近寄ってよく見てみると適度に乾いていい薪になりそうな按配である。そうでなくても荒れるまま放置されている林で、ひと月以上経っても地主が手入れに来る気配は一向にない。地主には以前、枯木や倒木なら持っていって構わないと話はつけてあるので、林道の普請がてらこれをいただくことにした。アカマツは薪としてはヤニは出るし火持ちは悪いわで二級品だが、陶芸家が窯焚きに使うだけあって火力はめっぽう強く、真冬には使いようで重宝する。太いところで幹の直径が40cmほどの丸太をチェーンソーで輪切りにすると、ちょうど軽トラ一台分ほどになった。それを昨日今日の二日かけて全部割った。

 ぼくの場合、薪割りは相変わらず十年一日のごとく斧一本でやってきたが、節のある薪や乾いて硬くなった薪など、年とともに割り切れずに残す薪が増えてきた。それがたまると知り合いのところに持って行って、一台何十万円もするエンジン式の薪割機を借りてさばいてきた。しかし薪割り自体は嫌いじゃない。以前、ある雑誌で東北の薪割名人といわれる老人にインタビュアーが聞いていた話をときどき思い出す。「節薪や硬い薪なんか、割るコツはあるんですか?」 答え「がんばって割るのっす」。
 その通りなんだよな。しかし体力の衰えも隠せない。さてどうするか。そんな折、ネットで油圧ピストン式の手動薪割機というものを見つけて、二年前に福島のメーカーから購入(約3万円)。使ってみるとこれが素晴らしい道具で、いまでは斧で割り切れないものはこの道具の世話になって割り残す薪もほとんどなくなった。何よりも燃料や電源がいらないのがいい。危険も少ない。二本のアームの内、右が早送り用、左が粉砕用で、これを舟のオールを漕ぐようにしこしこ動かして薪に圧をかけて割るのである。慣れてくるとかなり硬い薪や節薪でも割れる。そこそこ汗をかくのもいい。こういう機械こそ田舎暮らしに必要なエコな道具というべきで、いまでは大変重宝している。これはお薦めです。


以下、参考までに。

手動式油圧薪割り機(薪割機) HLS-12T(12tクラス) 


11/10 Don't Be Denied


 民泊(Airbnb)の今日の宿泊客はオーストラリア人の若いカップル。朝食のコーヒーを出してBGMにノラ・ジョーンズのCDをかけていたら、「Don,t Be Denied」という曲が流れてきた。知る人ぞ知るニール・ヤングの昔の曲だ。カナダの田舎の少年がロック・スターになる夢を抱き、やがてロック・ビジネスの渦中に巻き込まれていくまでを歌った自伝的内容の曲である。「When I was a young boy」という出だしをノラ・ジョーンズは「When she was a young girl」と替えて歌っているが、曲調はまったく同じである。「Don,t Be Denied (私を否定しないで)」というリフレインには、彼女なりの切実な思いがこめられているのだろう。

 ところでこの曲が収められたニール・ヤングのアルバム「Time Fades Away」が発売されたのは1973年、はるか昔ぼくが高校生の時だ。もちろんCDなどないレコードの時代である。一枚2000円だった。友人のドラマー太田君は親からもらう昼食のパン代を昼を抜いて貯め、そのお金でレコードを買っていた。その前作「Harvest」と「After the gold rush」の2枚ですっかりニール・ヤングのファンになっていたぼくも、たしか発売当日に高田馬場のレコード店に買いに行ったように思う。そして聴いてみて驚いた。全部が新曲のライブアルバムだったからだ。そのラストにこの「Don,t Be denied」が入っていた。とても印象に残る曲だったが、アルバム全体としてはなぜかさほど記憶に残っていない。
 そんな思い出を客に話しかけようかと思ったが、考えてみればいま30歳と24歳の彼らはそのときまだ生まれてすらいない。その親となら話せるかもしれないが、下手な英語でいちいち説明するのも面倒臭くなって、そのまま黙ってノラ・ジョーンズの歌に耳を傾けていた。(もっとも79年生まれのノラ・ジョーンズだって、当時まだ生まれていなかったわけだが)。

 そういえば彼女の父親が、かのシタール奏者のラヴィ・シャンカールだと初めて教えてくれたのが、やはりカナダから泊りにきていた若いウーファーの一人だった。「名前は忘れたけど、何やら有名なインド音楽の奏者らしいよ」と。
 そのラヴィ・シャンカールとジョージ・ハリスンが主催した「バングラデシュのチャリティ・コンサート」のライブ映画が封切られたのが、1972年。学校の帰りに学ランをブレザーに着替え、友人と新宿まで見に行った。その時初めてぼくはインド古典音楽なるものに触れたのだが、それから二十年もたってから実際に自分もベンガルの地までインド音楽を習いに行くことになるとは夢にも思わなかった。
 先日、ピーター・バラカンのウィークエンドサンシャイン(NHKFM)で久々にそのライブ録音を聴く機会があったが、冒頭、タンプーラの通奏低音をバックにシタールとサロッドの微妙なチューニングが終わったところで、いきなり会場から拍手。西洋人にはインド音楽などほとんど知られていなかった頃のことだから、無理もない。「いままでのはほんのチューニングです。チューニングでこれだけ拍手がいただけるのなら、本番はきっと満足してもらえるでしょう」というラヴィ・シャンカールの口上が、いま聴くと微笑を誘う。

 このコンサートの主な出演者の内、ボブ・ディランは相変わらず健在だが、ラヴィ・シャンカールもジョージ・ハリスンもこの世にいない。舞台を所狭しと踊りまくり観客を沸かせたオルガニストのビリー・プレストンも10年以上前にこの世を去った。大胆なピアノの弾き語りで圧倒的な存在感を示したレオン・ラッセルも去年亡くなった。
 80歳を過ぎていまなお現役で歌い続けているウィリー・ネルソンが今年出した新作CDに、晩年のレオン・ラッセルも参加している。たぶんこれが最後のレコーディングだったのではないか。実に久しぶりに彼の歌声を耳にしたのだが、その渋さにはうなった。曲はCDのタイトルともなったブルースナンバー「God's Problem Child」で、冥界との間をゆらゆらと行き来するような枯れた味わい深い歌声を聞かせている。


 

10/25  40年目の『枯木灘』


 
相も変らぬ選挙の茶番劇にため息をつきながら、久々に中上健次を読み返している。
 きっかけは例のごとく仕事帰りに近くのブックオフに寄ったら、「中上健次全集 全15巻」(定価合計84000円)がなんと108円均一の棚に並んでいたので、籠を取りに走って全巻購入したのだ。ヤフオクで売ろうかと思ったが、すぐ売るのももったいないので、何十年ぶりかでまず「枯木灘」を読み返してみたら、これが面白い。その少し前にカズオ・イシグロがノーベル文学賞を取り、たまたま在庫で売れずにあった処女作「女たちの遠い夏」を取り出して読んだばかりだったから、その対極で読後感は圧倒的だった。映画で言えばイシグロが小津安次郎ならば、中上はさしずめサム・ペキンパーといったところか。反市民社会というものを徹底的に突き詰めると、逆にそこに神話的世界が視えてくる。被差別部落の路地という狭い閉じた世界の物語であるからこそ、物語の原型が浮き彫りにされ、それが反転して神話的世界に通じる。
 それでも読み始めた前半は、複雑な血縁・家族関係をめぐる私小説的展開になかなかついていけず、もううんざりという気分にさせられ、そうだよな、こういうのがいやで中上からは遠ざかっていたんだよなと昔の印象を思い出したりしたものだが、そこをある程度忍耐して越え、閉じた血縁の関係の世界が物語としてかたちをとって立ち上がってくると、そこにぐいぐい引き込まれていくようになる。それだけの力強い文体である。まだパソコンはおろかワープロもない、手書きで彫り込まれた文体だ。とくに主人公の秋幸が土方をやりながら自然と一体化するくだりは、ほとんど詩に昇華している。

〈秋幸はたんにつるはしを土にふりおろす掘り方が好きだった。日は秋幸を風景の中の、動く一本の木と同じように染めた。風は秋幸を草のように嬲った。秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることも口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつへの愛しさが自分なのだった。〉

 なんと「牧歌的」な土方だったことだろう。この詩的文体に感嘆しながらも、いまとなってはそう思わざるをえない。道路のコンクリートの側溝を作るために、土方が「つるはし」を振り上げていたのはいつ頃までのことだったのか。「枯木灘」が刊行されたのが1977年。それから40年たったいまでは、もちろん耳を弄する重機の騒音が現場にこだまするばかりで、土と一体化するようなロマン的な土方の物語など小説の世界にあるだけだ。「つるはし」など、ほとんど死語と化した道具といってもいい。それだけ「枯木灘」も古典になってしまったのだとつくづく感じた。(強いて言えばそれでも、畑で鍬をふるったり、薪割で斧を振り上げたりするときに、いまでもこういう感覚に襲われる時はある。それを中上は実に肉感的に描いている。時代性を感じながらも、そこにやはり感動した。これは東京の市民社会しか知らずに生きていた若い頃の自分には十分に実感できなかった世界だ。いまではそれがよくわかる)。

 だが続けて「枯木灘」の続編にあたる「地の果て 至上の時」(83年)を読み直してみると、そこにはもはやこの牧歌性すらない。刑務所から出所してきた秋幸が三年ぶりに目にしたものは、消滅した路地と土地再開発で揺れる故郷の姿だ。出版当時、「枯木灘」が各方面から絶賛されたのに比べて、「地の果て 至上の時」は時間をかけてしっかりと書き込まれた印象のわりにあまり評判とならなかったのも頷ける。読んでいて重い。息苦しくなるのだ。以後、中上自身もこういうオーソドックスな小説らしい長編小説からは遠ざかっていった。ジャズで言えば、むしろテーマをどんどん崩して即興演奏で物語る方に走っていった。

 ところで「地の果て 至上の時」には、原発建設計画の話がところどころに出てくる。いや待てよと思って調べてみたら、紀伊半島にはいまだに原発が一基もないことを初めて知った。大阪や名古屋からも近く、あれだけの海岸線を抱えている過疎地のことだから当然原発の建設計画はあったはずだが、それを退けてここまでこれたのは奇跡と言える。関西には疎い自分だが、一度熊野詣をしてみたくなってきたな。

 


5/28   「伊那谷の老子」


 
最近、加島祥造の「伊那谷の老子」(淡交社95年刊)を面白く読んだ。え、いまごろ?と思われそうだが、実はこの人の書いた本をまともに読んだのは初めてなのである。
 元大学教授というようなタイプは敬して遠ざける方なので、食わず嫌いということもあったが、何よりもベストセラーとなった「タオ 老子」の、「‥‥じゃないんだ」「‥‥なんだ」という独特のあの啓蒙的な言い回しに、ついていけなかったということがある。しかしこの本を読んで、老子の英訳本十数冊を吟味しながら、いかにしてあの一見浮かれた感じのお仕着せっぽい文体が生まれていったのかが、それなりにわかった。何よりも、伊那谷の自然と風土が老子の翻訳のバックボーンとしていかに切実なものであったかが。

 一時は歩いて行けるほどの近くに住んでいながら、生前一度もお目にかかることのなかったこの人の本を、もっと早く読んでおけばよかったと思う気持ちがないではない。仕事がらみであったとはいえ、例えば山尾三省には屋久島までわざわざ会いに行っているのである。しかしものごとには時期というものがあって、まだ肩肘突っ張っていた頃の自分には、タオの呼び声に素直に耳を傾けるだけの余裕がなかったのだろう。

 ところがこの春の一日、たまたま近くのブックオフをのぞいたら、この「伊那谷の老子」を含む加島祥造の関連本が大量に出回っていたのである。三回忌を過ぎて、どうやら遺族が山の家にあった故人の蔵書をまとめて処分したものらしい。主要なものは地元の図書館にすでに寄贈したと聞くが、それでも英文学研究書をはじめ、老子・道教・漢詩についての本、ユングや現代思想関連書、それにマーク・トウェイン全集やタオイズムに関する洋書のハードカバー本などがずらりと並んでいた。加島氏の場合、とくに蔵書印などが押してあるわけではなかったが、時々挟まっている献呈署名や本の内容などから、古本屋をやっている者から見れば誰の本かはすぐにわかった。
 慌てて籠を取りに走り、108円本を中心にひとまず5〜60冊を購入した。そのうち十数冊はすでにアマゾンやヤフオクで売ってしまったが、残った本の内、ユングや現代思想に関する本などをときどき取り出しては、線引きや書込みをチェックしながら読み、そして「伊那谷の老子」に至ったというわけである。

 いまこの本の第一部「風と影の時間に」(89年)を読むと、この数十年の間にいかに伊那谷が変わったのかがわかる。加島氏自身、伊那谷の西に位置する中アのふもとの大徳原から、天竜川を隔てて東に位置する南アの中沢へと居を移している。最初、何もない山の中に建てた小屋の前をいつしか中央自動車道が走り、庭の真ん中を農免道路が貫通し、小屋が移転の対象となったいきさつが書かれている。そこから二百メートル離れた畑の中に山小屋風のコーヒー店が建ち、そこでモダンジャズを聴きながらキリマンのコーヒーを飲み、小屋に戻ると裏の林で野猿が騒いでいた。これはいまの伊那谷に暮らす人間にはよくわかる光景だが、まだ氏が横浜から別荘で通っていた頃の新鮮な伊那谷のイメージがよく描かれている。

 元アルピニストだったというその山小屋風のコーヒー店の店主もすでに亡くなり、空き家となったコーヒー店を不動産屋に紹介されて見に行ったのは、もう二十年ぐらい前のことか。あれからも伊那谷は年々変わってきているが、それでいて何十年、何百年、いや何千年たっても変わらないのが、中アと南アに囲まれたこの谷の立体的な自然の風景である。そしてその中央に横たわる天竜川と、そこに注ぎ込む無数の河川の流れ。タオを成り立たせているものとは何か。実感としてとてもよくわかる本だった。 

 


4/17  「裏切られた革命」


 
仕事から戻ってメールを開けると、トロツキーの「裏切られた革命」(現代思潮社版)の古書に注文が入っていた。いまどきこういう本が一冊でも売れると、何となく気持ちがたかぶるものだ。訳者の名を見ると、対馬忠行とある。たしか瀬戸内海を航行するフェリーから身を投げて自殺したマルクス主義哲学者ではないか。ネットで確認してみると、死んだのは1979年4月11日。白骨化した遺体は4か月後に神戸港沖で発見され、引き上げられている。享年77歳。

 学生だった当時、新聞の三面記事を読んで驚いたのは、その死にざまに加えて晩年の彼が老人ホームにいたということだ。いま考えれば、1901年生まれの老哲学者が老人ホームにいたこと自体は不思議ではない。ましてや革マルと中核の内ゲバの嵐がまだ吹き荒れていた時代である。老人ホームに潜んでいれば、襲われる可能性も低かったにちがいない。しかし彼の晩年とその死にざまは、70年代の終わりの閉塞した時代を象徴するものとして、二十代の学生の脳裏のどこか深くに刻まれた。長らく忘れていたその記憶が、古書が売れたいま甦ったのである。

 今度初めて知ったのだが、対馬忠行は香川県出身だった。彼はどんな気持ちで郷里の老人ホームに息をひそめていたのだろう(*)。そしてある日そこを抜け出して、瀬戸内海に身を投げたのだ。一冊の本には、その本にまつわる様々な歴史と記憶がある。商売だけのために古本屋をやっているのではないなとつくづく思う。

* (これを書いた後に、彼とほぼ同年代のマルクス学者岡崎次郎の死について書かれた「老人の美しい死について」(朝倉喬司)を読んでいたら、対馬忠行は「東京の老人ホーム暮し」だったとある。とすると彼はある日、故郷に向かって東京を出奔し、播磨灘に身を投げたことになる。同書によれば、「資本論」の名訳者として知られる岡崎次郎は、「往年の友人に先を越されてしまった」と悔やんでいたという。その岡崎もまた1984年6月、周囲に自死をほのめかせ、身辺を整理して妻と二人旅行に出たまま行方不明となった。享年79歳)。


2017年

 4/13 「紋白蝶」

 今年の春はいつまでも寒い。4月に入っても、まだ夜は薪ストーブを焚く日がある。

 昨日は冷たい雨の後、妙に生ぬるい、しかし北風が吹き荒れる晴れの日だった。朝からずっと石油ストーブをたいていた。
 昼食時、妻が「あれ? あの薪ストーブの柴のところをみてよ」とぼくの背ろを指さす。薪ストーブの横に、焚き付け用の杉の葉と雑木の柴の枝が束ねて置いてあるのだが、その柴の隙間に何やら小さな白いものが蠢いている。よく見ると小さな紋白蝶である。柴の枝にカメムシなどがついていて、火にくべたとたん強烈な臭いを放ち閉口することがあるが、どうやら枝についていた蝶の蛹が、部屋のあたたかさで孵化して出てきたものらしい。

 近寄ってそっと掌で抱き上げると、猫に襲われないようにスリッパのまま庭に出た。そして開いたばかりの黄色い水仙の花にとまらせようとしたが、この世に出て初めて触れた人間の掌の感触が気に入ったのか、しがみついてなかなか離れない。生まれたばかりの小さな胴体の黄と黒が、白い羽根と対称をなして目にあでやかだ。なついた生き物を振り切るようにして何度も掌から離そうとしているうちに、突風が吹いてきていきなり翔びたった。

 北風にあおられてくるくると宙へ舞う生まれたばかりの紋白蝶よ。元気で。

 

(* しばらくご無沙汰していました。たまには近況報告がてら、またスケッチを綴っていこうかと思います。 よろしく)。


2016年

 9/5 「譲ります→ 足踏み脱穀機と唐箕」


 夏の終わりに、意を決してライ麦の脱穀をする。梅雨の頃刈り入れて、軒下に干したままになっていたものだ。


 足踏み脱穀機の作業はどこかロシアの舞踏を連想させる。片足で立ち、もう片方の足でドラムを回転させる。足踏みオルガンの要領だ。ただしもっと高く足を上げて。疲れてきたら右足と左足を取りかえる。手には麦の束を持ち、ドラムの回転に合わせて穂の先端をこすっていく。表に裏に穂を押し広げながら、刷毛を返すようにしてこする。周囲にはビニールシートで囲いがしてあり、そこに穂から離れた赤い実がバチバチと音を立てて飛んでいく。


 ドラムの表面にはくの字に曲げられた針金が等間隔に埋め込まれてあり、あまり強く穂を当てすぎると首ごと切れてしまうし、弱すぎても実がもげない。その加減を工夫しながら片足立ちでドラムを回し、両手を交差させて作業を続けていく。根気のいる労働なのだが、延々とやっているうちに次第にあるリズムができてきて、両手両足を使った一種の踊りを踊っている自分に気づくのであった。たぶん踊りとは、肉体労働のある仕種が発展してひとつの形になっていったものなのではないだろうか。


 しかし年を取ってからロシアの足踏み舞踏を人知れず踊るのは結構疲れるものだ。
このあと飛び散った実を集めて、唐箕という道具に入れ、何度もふるいにかけては残った籾やゴミを飛ばしていくのだが、こういう作業はやはり昔のように農村の大家族が集まってワイワイやってこそ味がある。10キロほどのライ麦を獲るのに、いまどきこんなことをやっているのは我々のようなよほどの物好きだけで、いまでは収穫から脱穀まで専用トラクターで一気にやってしまうのがふつうだ。


 それにしても板羽をぐるぐる回し、風力で実と籾を選り分けていく唐箕という道具など、工芸品としても一級品で、日本のある時代の農業の完成形態を見る思いがするが、それもいまは完全に廃れ、農家の古い土蔵の奥に朽ち果てている。そういう古き良き道具を発掘して少しでも現代に生かせないものかと思いここまでやってきたのだが、寄る年波には克てず、我々もとうとう今年を最後にこれを手放すことにした。


  古いとはいえ、まだまだ十分に使える代物である。古道具屋に処分する前に、もし小規模の有機農業などをやっている若い人で使ってみたいという方がいたら、お譲りするのでぜひ声をかけてほしい。

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