《§伊那谷スケッチ 第4部 2011冬〜春》


  6/1(水)「詩人の後ろ姿 清水昶追悼」 

 夜勤明け、当直室で朝刊を広げたら、詩人の清水昶の訃報が載っていた。心筋梗塞。享年70歳。あの『少年』の詩人が70で逝ったのか…、長らく忘れていた名前なので、なつかしさとともに歳月の流れを一気に感じた。
 思えば二十代の頃、彼の詩とエッセイは舐めるようにして読んだ。1970年代という退潮してゆく時代の雰囲気を60年世代の彼の表現は一歩先を行く者の視点から的確にとらえていて、当時学生生活を送った私のような左翼文学青年崩れには、身に沁みるものがあった。現代詩文庫の『清水昶詩集』や国文社の『石原吉郎』をはじめ、もういまは手許に残っていないが『詩の根拠』『詩の荒野より』『抒情の遠景』といった詩論集など、本の装丁までなつかしく思い出される。
 しかし学生を卒業してしまうと、なぜか彼の表現からは次第に離れてゆき、80年代に入ってからはまったく読まなくなった。ひとつには私自身が、インドの旅などをはさんで価値観が変わってしまい、『現代詩手帖』や『ユリイカ』等々といった狭い日本の詩壇?の中でしか通用しない言葉になじめなくなったことがあるが、清水昶の表現そのものも70年代という時代が過ぎてゆくにつれて、かつての輝きを喪っていったのではないか。時代とともに読まれ、忘れ去られてゆく、そういう詩人や作家がいるものだ。
 いま記憶しているところでは、彼が中上健次の『枯木灘』を絶賛して〈自然〉ということを言い始めたあたりが曲がり角だった。「いままで孤立していると思っていた自分が、実はこんな豊かな自然に取り巻かれて生きていることに気づいたときの驚き」といった意味のことを彼は語っていたが、その〈自然〉とは結局何なのかが私にはよくわからなかった。『太宰治論』を書いていた頃のことだったと思う。その後、私自身は山で暮らすようになって〈自然〉の意味はいやでも体感することになったが、大学祭での講演のとき、その辺のあいまいさを学生の鋭い質問にあって答えあぐねていた詩人の姿が思い出される。
 もうひとつよく覚えているのは、彼が私淑していた石原吉郎が亡くなった後、ゲストとして佐々木幹郎とともに招かれた某大学の元全共闘グループが主催した「石原吉郎追悼集会」での彼の発言である。〈怒りを組織してはならぬ〉という石原の言葉に並べて、〈怒りを組織しなければならぬ〉と刷り込んだチラシが配布されていたことからもわかるように、集会は初めから波乱含みで言葉がすれ違い、いつしか元全共闘グループによる清水昶と佐々木幹郎への糾弾集会めいたものへと化していった。そんな雰囲気の中、会場の中ほどの席で主催者から渡された茶碗酒を一升瓶から注いでは俯き加減にあおっていた清水昶が壇上に立った。べろんべろんに酔っ払って目の据わった詩人は、次のように言い放ったのである。「昔、おれが学生のとき、谷川雁を呼んで、やはりこういう雰囲気の中で話をしてもらったことがあるけど、谷川雁がね、おれたちにこう言ったんだよ。君たちの言っていることは、籠の中で鳥が騒いでいるにすぎないんだって。それをいま思い出したよ」。
 心筋梗塞で死んだ詩人の訃報に接して、あのときの一升瓶から茶碗に酒を注ぐ孤独な後ろ姿が遠く甦ってきた。80年代以降の詩人の表現の軌跡については詳らかではない。この十年来はネットで俳句のブログを続け、好評を博していたとも聞く。しかし私にとってはあのときの痩せ細った後ろ姿こそが詩人の像であり、その背に彼が好きだった高村光太郎の言葉を捧げたいと思う。〈死ねば死にきり、自然は水際立っている〉


  5/4(水)「リラ、鹿を追う」

 天竜川の河原まで来て犬の紐を放した。しきりにキジの鳴く声がすると思ったら、突然目の前を大きな雌鹿がジャンプして駆け抜けていった。それを見つけたリラが、興奮して後を追いかけたまま戻ってこない。ヤブを掻き分けて探して歩いたが、鹿の大きな足跡があちこちに残るばかりで行方を見失ってしまう。対岸には幹線道路の国道153号が走り、連休中日とあって今日は交通量も多い。道沿いには大型電気店をはじめ郊外型の店舗が立ち並んでいる。まさかこんなところで白昼、鹿と出くわすなんて思ってもいなかった。土手の後ろにはすぐ住宅地と畑が広がり、山からはかなり距離がある。昨年来、熊がたびたび人里に現れてニュースになっているが、鹿も例外ではないらしい。
 それにしても飼い犬のリラはふだんは大人しいのだが、獣を追いかけると柴犬としての野生がむき出しになってしまい、全然言うことをきかなくなる。これまで何度山に捨てて帰ってしまおうと思ったことか。今日はちょっと長めの散歩ぐらいのつもりだったから、呼び笛も持ってきていない。土手道に上がって行ったりきたりしながら何度もリラの名を呼ぶが、河原からは何の反応もない。草地に横になり、さてこれからどうしたものかと思案する。20分ほどたって、もう諦めて帰ろうと腰をあげかけたところで、向こうから全身びしょ濡れになった犬が、とぼとぼとこちらに向かってくるのに気づいた。20メートルほど離れたところで立ち止まり、こちらの様子を伺っている。リラだ。殴られるのがわかっているからなかなか寄ってこない。やれやれと思いながら、手を振ってこちらに来るように言うと、ためらいがちに3メートルの至近距離まで寄ってきて、そこでごろんと仰向けになり「降参」のポーズをする。苦笑して犬の口を押さえつけ、紐をつなぐ。


 昨夜、京大原子炉実験所の小出裕章氏の講演をネットで見たが、その中で紹介された一枚のスライド写真が強く印象に残った。それはチェルノブイリの原発事故の後、近くの村から逃げるウクライナの老婆の姿で、事故の真相など知らされぬまま、原発でちょっとしたトラブルが起きたから三日分の手荷物だけ持って避難するように政府から言われ、急いでバスに乗る際の写真である。いかにもドストエフスキーの小説にでも出てきそうなスカーフを被った大柄なロシアの老婆が、鍋を手に泣きながら走っているのだが、よく見るともう一方の手には猫を抱きかかえているのである。あるいはもう二度と家に戻れないことがわかっていたのかもしれない。そういう時、人はとりあえずいちばん大事なものをとっさに抱えて走り出す。この老婆にとっては、それが飼い猫と鍋だったのだ。胸に迫る写真である。
 今回の震災でも洋上を漂流する犬が助け出され、飼い主と奇跡の再会を果たしたりしたが、いまいちばん辛いのは、こういうペットや家畜たちを放射能汚染地域に置き去りにしてこざるをえなかった福島の人たちだろう。

 そんなことを考えながら、リラと土手で横になっていると、背後を歩いていく人のこんな会話が耳に入った。
「今年はいつまでも寒いね。わたしんとこなんか、まだ朝晩ストーブを焚いているもの」
 本当にその通りである。5月の連休に入ってから薪ストーブを焚くなんて、山にいたときですらあまり記憶にない。実際、このところずっと天気がおかしい。山菜やタラの芽の出方もえらく遅い。あるいはあの雌鹿も、餌にする木の芽に山ではありつけなくて河原まで降りてきたのかもしれない。阪神大震災のときもそうだったが、天の気が狂えば、地の気も狂う。何かまた大きな天変地異が起きなければいいのだが、と思う。


 4/9(土)「地震と原発 切れ切れの感想(その3)」 

 震災からそろそろ1ヶ月。異常が日常化した事態が続いている。なかでも福島第一原発から10キロ圏内で見つかった遺体が放射能汚染濃度が高く、回収すらできずに放置されたままになっているというニュース(3/27)にはことばを喪った。それこそ、この世の地獄ではないか。その後、被曝した遺体の取り扱い指針が決まり、全身除染は不要との判断から遺体は収容されたというが(4/1)、被災地の瓦礫に取り残された遺体の上に音もなく放射能が降り積もるイメージは今回の震災の原風景となって脳裏にこびりついて離れない。

 ちょっと気分を変えたいなと思い、先週末、辰野町のライブハウス・オーリアッドのオープンマイクに参加。久々にエスラジを弾く。マイナー・チューニングで朝の悲しみのラーガを弾いたあとにそんな原風景の話をすると、みんなシーンとなってしまった。それでも今回は舞台に立つ人の数も多く、それぞれがいつもとは違う思いで熱気のこもった歌や演奏をしている様子が印象的だった。人が来ても来なくても週末には必ず開いているこういう場は、こんな時とてもありがたい。

 ところでこの頃、どこのコンビニやスーパーに入っても節電で照明の一部を消している。でもちょうどいいんだよね、このぐらいが。いままでが過剰に明るすぎただけで、かえって買い物がしやすくなったと思いませんか? ドラッグストアや深夜のコンビニの過剰な照明は、明らかに余って困る原発の深夜電力の大口供給先だった。何もこんなにまで煌々と明るくしなくてもいいのにと思っていたのは私だけではないだろう。近くのゴルフ練習場が夜遅くまで相変わらず煌々と照明を灯しているので、この機会に抗議したら翌日から半分ぐらいに照明を落とした。節電も悪いことばかりではない。
 
 いまにして思えば、二酸化炭素を排出しない原発が「クリーンエネルギー」と謳われ、その増設が進められていったのは、97年に温室効果ガスの削減目標を定めた例の京都議定書が策定されたときからだった。官民あげて「地球温暖化防止」というまことしやかなスローガンが声高に叫ばれるようになったとき、何かおかしいなと思いながらもそれを突き詰めずにきたのは私たち自身である。エコロジーが計量化され、金に換算されるようになったとき、何かがすりかえられたのだ。そして気がついてみたら、ここまできていたのである。(「二酸化炭素地球温暖化説」がいかに仕組まれたイデオロギーであり、それにマスコミや世論が踊らされてきたかは、広瀬隆「二酸化炭素温暖化説の崩壊」集英社新書 が詳しい)。
 今回も政府・東電の発表やマスコミの報道には、疑問を感じることが数多ある。とくに原発報道について何を信じていいか迷うときは、まずは原子力資料情報室の解説中継を見ることにしている。これだけはインターネットのおかげである。最近の中継では、浜岡原発で下請けの作業員をしていて白血病で亡くなった息子の労災認定を勝ち取った母親の話が胸を打った。また震災の義援金に百億円を寄付した孫正義と田原総一郎、それに元原発設計者の田中三彦と後藤政志の座談会が出色の面白さだった。ボケ老人と化した田原の無遠慮な突っこみに、ゲストとして招かれた二人が真摯に対応する姿に科学者の倫理を見た。こんなインターネット番組を作ってしまった孫正義もこれから大変だと思うが、その志は高く買う。せめてNHKのニュースの視聴者の百分の一でもいいから、こちらを見てくれればと思う。
 


 3/26(土)「地震と原発 切れ切れの感想(その2)」 

 震災から半月。伊那谷でもやっとフキノトウが芽を出し、梅がほころび始めたと思ったら、昨夜は雪。今年はいつまでも寒い。被災地の地獄を思うといたたまれない気持ちになる。
 いまだに犠牲者や災害の全体像さえ掴めていないというのに、日に日に放射能による汚染だけはじわじわと広がりをみせている。しかし政府やマスコミの発表はいつも「直ちに健康に害を与えるものではない」の繰り返し。これはどういうことなのか。原発事故のひとつひとつの事象を取りあげてみても、ふだんならそれだけで新聞の黒ベタ白抜きの大見出しを飾ってもいいような出来事が、あまりに同時多発的に進行していて、結局高校野球や計画停電の記事の陰に埋もれてゆく。断片化した情報の連なりからだけでは、福島原発の何号炉のどの箇所でどういう危機的な事象が起き、それがいまどう進行しているのかを順を追って思い出すことすらむずかしい(*)。

 長野の病院の救急にも、親戚や知人を頼って避難してきた被災者が体調を崩して少しずつ訪れてくるようになった。放射線被曝の有無を調べてほしいという患者も来る。飯田下伊那では南相馬市から来た100人が施設に身を寄せている。地震と津波による被災地域と原発30キロ圏内からの避難者は、政府認定の被災者として原則無料で診察が受けられる。この前当直に入ったら、そのための注意事項をまとめたフローチャートが回ってきたが、誤植で「被曝」が「被爆」となっていたのでぎょっとする。でも考えてみれば、事態はすでに「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と呼んでもいいところまで進行しているのではないか。
 若い頃読んで以来頭を離れなかった森有正の文章の一節がこの頃どうしても気になり、書棚から探し出してページを繰ってみた。

〈この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。(中略)やがて話は日本における生活、ことに東京の生活のことになった。どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時かの女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。「第三発目の原子爆弾はまた日本の上へ落ちると思います。」とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が、日本で暮していて感じていて口に出さないでいることを、口に出してしまったのだということが余りにもはっきり分ったからである。(中略)
 胸を掻きむしりたくなるようなことがこの日本で起り、そして進行しているのである〉(「木々は光を浴びて」1972年刊)

 四十年前に書かれたこのことばは予言的である。第三発目の原爆は、ひょっとしていまこのようなかたちで我々の上に落ちてきたのではないか。巨大なキノコ雲こそ上げていないが、目に見えないかたちでじわじわと少しずつ我々の日常を侵食して。

 それにしても原発が地球温暖化を防ぐための「クリーンエネルギー」などと呼ばれるようになったのはいつの頃からだったか。気がついてみたら、いつのまにかこうなっていたのだ。いまにして思えば企業が率先してエコロジーを唱え、「地球にやさしい」などと言い始めたときが曲がり角だった。エコロジーほどたやすいスローガンはない。その陰で何が進行していたのかが、いま明らかになりつつある。
 原発の危機はそのまま市民社会の危機である。原発が「健全性」を保てなくなったとき、市民社会の健全性も崩れるだろう。福島でよくパニックが起きないものだ。天災と人災という二重の大災害に襲われた被災地の人々の忍耐心には頭が下がる。問題は直接の被害が大都市東京まで及んだ時のことだろう。東京には、この市民社会に窒息しかけていて、そこに裂け目が開くことを内心願っている人も案外多いのではないか。その時、何がどうなるのか。一見何も変わらぬ日常の下で、その裂け目がいま開こうとしている。そんな気がしてならない。

(*)「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」が出した「福島原発震災」をどう見るか―――私たちの見解(3/23)が、この間の状況をもっとも的確に整理してくれている。

 http://kkheisa.blog117.fc2.com/blog-entry-75.html

 同じく3/23に東京で行われた「広瀬隆/広河隆一「福島原発現地報告と『原発震災』の真実」も、YouTubeで視聴できる。

  http://www.youtube.com/watch?v=3UXtyqdGgmI


 3/20(日)「地震と原発 切れ切れの感想」

 地震の発生以来、ラジオやインターネットのニュースにかじりつき、そのことで逆に消耗して落ち着かない日々を過ごしているのは私だけではあるまい。たぶんこういう気分になったのは9・11の時以来だと思う。あの時は暇があると犬を連れてひたすら山をほっつき歩いたが、今回は暇ができると鋸片手に森に入り、薪集めに精を出している。最近は薪ストーブを使う人が増えて、いい薪はなかなか手に入りにくい。広葉樹の薪だけなどと贅沢は言ってられないから、ヒノキでもアカマツでも手頃な枯れ木や倒木を見つけたら、切り分けてさっさと車で運ぶ。庭先に薪の山ができていくと、米を買いだめしたような気分になりほっと一安心する。

 スーパーの棚からまず牛乳と米とトイレットペーパーが姿を消した。単一電池も手に入らない。食料や電池はともかく、非常時となるといつもトイレットペーパーがなくなるのは不思議である。当方インドの旅が長かったおかげで、左手にすくった水で尻を洗う清潔感は体感しているのでトイレットペーパーがなくてもとくに不安は覚えない。不安はむしろ精神的なものだろう。地震と大津波による被害の惨状に加えて、じわじわと迫りくる原発事故の恐怖に対してどう構えたらいいのか、断片的なニュースからだけでは判断がつきかねるからだ。

 昔、山の廃村で電気なしの暮らしを経験して以来、「いずれこの世は電気で滅びるだろう」という予感は常に持っていたから、生じた事態そのものに驚いているわけではない。いやむしろ、やっと来るものが来たかという気持ちの方が強い。それでいて原発のニュースに接するたびに複雑な思いにとらわれるのは、9・11の時もオウムのサリン事件の時もそうだったが、「この市民社会よ、早く潰れてしまえ」という自分の中に何パーセントかは残っている悪魔的な思いと、「どうか何としてでも危機を回避してください」という祈るような気持ちとが内面でせめぎあっているからなのかもしれない。

 先日も首相の国民向けのテレビ演説を聞いていて、タルコフスキーの映画「サクリファイス」の一場面を思い浮かべた。元舞台俳優の主人公の誕生祝いに集まってきた面々が、核戦争が勃発して自宅待避を命じるテレビ演説に聞き入る悪夢の場面である。停電のためテレビの画面は切れ、人々はパニックに陥る。無神論者の主人公は懊悩の後、自分の持つすべてのものを明け渡すから、どうか愛する者たちを守ってほしいと神に祈りを捧げる。そして夢の中で小間使いの魔女と交わった後、悪夢から覚めた主人公は神に犠牲(サクリファイス)を捧げるべく自宅に火を放つ。
 しかし今回はもう犠牲は十分すぎるほど払ったのではないか。この上さらに何を差し出せばよいというのだろう?

 天国も地獄もこの世にある。いま仮に自分が二十代で東京に住んでいるとしたら、相当にデスペレートな気分になるのは避けられまい。そう思っていたら、たまたま昨日若い人たちとの集まりに顔を出した女房が原発事故の恐怖を口にするや、「大げさすぎますよ」と笑われたという。我々のようにチェルノブイリやスリーマイル島の事故の記憶を経験として持っている世代とは、たぶん危機意識の在りかが違うのだろう。チェルノブイリの事故の二年後、インドで出会った同世代のヨーロッパの若者たちのデスペレートさ加減を思い出す。
 いま言えることは、地震や原発による被害の大小に関わらず、「市民社会の健全性」というものをどこまで保っていけるのか、それがこれから先の鍵になるだろうということだ。かつてその破局をいまかいまかと待ち望んでいた自分がそう思うのである。

 9・11の時は誰か当事者の周辺にいる第三者のことばが切実に聞きたかった。そう思っていたら事件の数日後、当時ベルリンに滞在していたスーザン・ソンタグのことばが、思いがけずドイツからのチェーン・メールで届いた。曰く、「彼らは臆病ではなかった」と。現在進行形の事態に即したその勇気あることばには胸を打たれた。そのソンタグもすでにいない。彼女の最期の日々をジャーナリストの息子の視点から描いた「死の海を泳いで」(デイヴィッド・リーフ 岩波書店)という本を読むと、死を決して受容しようとせず、生き残ることへのわずかな可能性に賭けて最期まで自らの不治の病と闘ったソンタグの凄まじいまでの生への意欲に驚かされる。およそ東洋的な諦観とはほど遠い、そんな生への意志の強さこそがいま問われているのだろうか。

 こういうときは歩き慣れた山道を歩くのがいちばんだと思い、昨日飼い犬のリラを連れて空木岳麓の池山へ。林道はまだ冬季閉鎖中で、ゲートの手前に車を停め残雪の上を歩く。連休初日だというのに、みごとに誰もいない。森を抜ける登山道に入り、春の陽光が降り注ぐ中、自分の影法師を見つめながら黙々と歩く。途中、空木岳の遭難者の碑銘がある二本木地蔵で東北の方角を向いて合掌。こんな風の強い日にいつまでこうして山を歩けるのかという思いが脳裏をよぎるが、それを振り切って林道上の駐車場に達する。すると正面には雪を戴いた南ア南部の山々が、仙丈・白根三山・塩見・赤石・聖岳と連なって早春の日に神々しく輝いていた。その聖なる山々を仰ぎ見ながら、思いっきり深呼吸をする。

 


 2/26(土)「聖山とは何か? 『梅里雪山』を読む」 

 友人に薦められて小林尚礼著『梅里雪山 十七人の友を探して』(ヤマケイ文庫)という本を面白く読んだ。
 梅里雪山(メイリーシユエシヤン)とは中国雲南省の最高峰(標高6740m)でヒマラヤ山脈の東側に位置し、西のカイラス山と並んでチベット仏教の聖山とされる未踏峰である。私自身、とくに海外登山に興味があるわけではないので、京大OBを主体とした91年の第二次日中合同登山隊がその初登頂を目前にして雪崩に巻き込まれ、17人全員が死亡したというニュースはすっかり忘れていた。91年といえば、湾岸戦争が勃発した年である。
 しかし当時京大山岳部に所属していた著者にとってそれは忘れがたい事件だった。亡き友らの無念を果たすべく、それから5年後に第三次登山隊を結成し、さまざまな困難を乗り越えて著者自身が先発隊の先頭に立ち、頂上まであと490mの地点にまで迫る。しかし悪天候の予報のため、隊長命令により登頂を断念。帰国して次の目標を探していたところ、梅里雪山の氷河上に登山者の遺体が出現したという驚くべきニュースが伝わる。登山隊の遭難から7年が経過していた。 
 著者は収容隊に志願して現地の氷河に赴き、そこで多くの遺体と遺骨、遺品を発見する。その翌年からは麓の村に季節ごとに長期滞在するようになり、初めは反感を隠さなかった地元の村人らとも交流を深め、遺体の捜索を続け、最終的に17人のうち16人の遺体や遺品を収容する。
 しかしこの本の面白さは、そういうドキュメンタリー的な部分にもまして、山に向き合う著者の視線が、現地の村に十年余り通い続けることで、地元の村人の視線にまで次第に降りてくるところにある。かつて登頂を目前にして悪天候のため引き返そうという隊長に、「ここでケツをまくったら一生恨みますよ!」とまで楯突いた著者が、聖山カワカブ(梅里雪山の主峰)をめぐる巡礼の旅の途中、次のように感じるシーンは印象的だ。

〈僕はもう納得していた。氷河の奥に鎮まるカワカブは、ほぼ全容を見せていた。“それ以上近づいてはいけない”山がそう警告を発しているような気がした。山深いジャジンの最奥に位置し、岩壁に守られたその姿は、信仰心のない者にも畏敬の念を感じさせた。撮影を終えてその場所を去るとき、僕のなかで何かが変わろうとしていた。“この山に登ってはいけない”そう思いはじめていた〉(p180)。

 これ以後、山に接する著者の態度は大きく変わっていく。

〈カワカブを登山の対象として見ていたころは、雪山の下に広がる山腹を眺めても、そこに何も見出すことができなかった。しかし今ならば、森のなかに巡らされた道や、多くの放牧地を目で追うことができる。そして、草原に咲く花や、森に生えるキノコを想像することもできる。放牧地を行き来する人々の顔さえ、思い浮かべられるようになった。僕の心に映るカワカブの風景に、深さが生まれたのだ〉(p268)。
 この視線の変化を著者とともに追体験し、聖山の意味を考えていくことで、山のあるべき姿が自ずと浮かび上がってくる。気持ちのよい読書体験だった。

 さてここからは余談になるが、『梅里雪山』を読みながらドイツの作家W・G・ゼーバルトの小説のことが思い出された。ゼーバルトのノンフィクション・ノベルにも、氷河で発見された遺体の話が出てくるからだ。『移民たち』(白水社)の冒頭に収められた「ドクター・ヘンリー・セルウィン」がそれで、読み返してみたら1914年にスイス・アルプスで行方不明になったベルンの山岳ガイド・ヨハネス・ネーゲリの遺骸が、72年を経た1986年にオーバーアール氷河の氷上に現れ出たと書いてある。著者がレマン湖を渡る汽車の中で偶然目にした新聞記事を見るシーンは、その切り抜きの写真とともに物語の末尾を飾っている。〈彼らは、こうやって還ってくるのだ、死者たちは。ときには十年を七回経たあとにも氷のなかからあらわれて、氷堆積のはじに横たわっている。摩滅したひとかたまりの骨と、鋲を打った一足の靴となって〉。
 しかしここで思った。スイス・アルプスでは72年という歳月をかけて現れたものが、梅里雪山ではなぜ7年という短期間で出現したのだろうか? いったいこの違いはどこからくるのか?と。
 『梅里雪山』には次のような記述がある。
〈二次隊の遭難は明永氷河の源頭で起きたため、50年後から100年後には、遺体が下流のランツァン江に流れでるだろうと言われていた。しかし、わずか7年で見つかるとは誰も予想していなかった〉。
 そしてその理由として、〈この流下速度はヒマラヤ地域の氷河よりもはるかに大きく、氷河学者を驚かせた。梅里雪山はモンスーン型の気候で降雪量が多く、地形が急峻なためだった〉と著者は言っている。勿論地球温暖化の影響も当然無視できないだろう。まだまだ自然界にはわからないものごとがいくらでもあるのだ。
 それにしても、この梅里雪山を含むチベット自治州一帯が、かつてヒルトンの小説『失われた地平線』に描かれた理想郷と似ているということで香格里拉(シャンングリラ)県と改称され、世界遺産にも登録、いまでは国家レベルで観光振興が進められているというから驚きだ。人が決して足を踏み入れられない聖域を、この地球上に少しでも残しておくことはできないのだろうか?


 2011年 2/22(火)「ドリンク剤談義」

 雪もすっかり解けた。夜勤明けの昨日の朝、帰りがけに箕輪町の公営温泉長田の湯へ。サウナから出て露天風呂でぐったりしていると、目の前で頭をてらてらに剃りあげた七十歳前後の老人が、裸のまま腕立て伏せを始めた。男根を揺らせながら上下するそのポーズが妙に生々しくて目に障る。ときどきいるんだよね、こういう老人が。わかったわかった、あんたはえらいよ。でも温泉に入ったときぐらいそういうのはやめてくれない?と言いたくなる。うっとおしいから露天を出て、中の低音湯にゆっくり浸かってから脱衣場へ。ふと窓ガラス越しに外を見ると、さっきの老人がまだ腕を振り上げて体操をしていた。着替えをしている周りの老人たちも外を見やりながら、「あの人えらく元気いいな」などとうらやましそうに話している。
 その2〜3日前だったか、昼飯に久々にうな丼など食べていたら、ロッド・スチュアートが66歳でパパになったという芸能ニュースをテレビでやっていた。愛人を含めて5人の女性との間に8人の子供がいるというロッド・スチュアートだが、彼もシャワールームで腕立て伏せなんかやっているんだろうか?と妙な想像をする。
 さて病院の夜間救急事務をやっている小生、インフルエンザの流行もようやく峠を越えてその夜は患者数こそ少なかったものの、零時に救急車が2台。一人が入院一人が会計を済ませて帰ったところで、2時に腹痛の老人が来院。点滴がようやく終わって4時に患者が帰り、やっと寝れるかと仮眠ベッドに横になったら電話が鳴り、足が痙攣して歩けないという老人がやってきた。診察が終わり、眠い目をこすりながらパソコンの画面に会計を打ち込み、患者が帰ったのが5時近く。それから朝の7時に心筋梗塞の急患がやってくるまでの2時間足らずが睡眠時間だった。とても腕立て伏せなんかやる元気はない。その間、リポビタンproとチオビタゴールドと缶コーヒーを一本ずつ。8時半に上がる前にさらにドリップで淹れた濃い目のコーヒーを一杯。それから何とか車を運転して温泉までたどりついたところだった。

 先日、ブックオフで仕入れた吉本隆明の座談本で「原稿は一日に平均何枚ぐらいお書きですか」というインタビューアーの質問に答えて、吉本センセが次のように語っているのがおかしかった。
「無理して六枚か七枚じゃないでしょうか。それでも、例えば十五枚ぐらい書くときがあるんですけど、書き出して一日でやっちゃうというときには完全徹夜になるんですね。朝までやって、その後に回復するのが何日かかからないと元に戻らないんですね。(中略)そのときにはぼくはユンケル(笑)を飲む。もとは二千円だったけれど、ユンケルロイヤルというんですが、その上に、もとは三千円だったファンティというのかな、今はずっと安くなっているんですね。そのどちらかを飲むともう明け方までもつ。
 あの種のドリンク剤で、これは効いてるなって思ったのはそれだけですね。だからあやしげなものが入っているんじゃないか、今に摘発されるぞ(笑)なんて思っているんだけどね」(「学校・宗教・家族の病理」深夜叢書社96年刊)。
 吉本さん、あなたもですか! ユンケルファンティはユンケルのCMにも出ているイチローが試合の1時間前に必ず一本飲むということがWBCの頃知れて一時は品切れになったというが、吉本センセまで愛用していたとは知らなかった。小生そんな高価な代物まで手が出ないけれど、もうちょっと大衆的なユンケル黄帝液とそのワンランク上のユンケルD2などはファミリードラッグなどでときどき購入し、よほど疲れたときなどに飲んでいる。で効き目の方は?というと、ウーン、最初のうちは、おっさすが!結構効くじゃない、合法ドラッグもここまできたかなどとと思ったりしていたが、常用しているとだんだん効き目が薄れてくるのはあらゆるドラッグに共通すること。それに胃痛や頻尿などの副作用もときどき生じる。そんなわけで最近はあまり大きな期待はせず、リポビタンのちょっと高めの奴を気休め程度に飲んでいる。
 一夜明けた今日は疲れがまだ残っていて、おまけに病院で感染したのか目にものもらいまでできて、体調いまいちだ。やむなく朝からリポビタンDスーパー2000を飲む。それでも古本の発送など済ませてから、午後薪割りをする。季節がここにきてまだ残っているのは大事に取っておいたナラ薪ばかりなので、割りやすい。直径30cm以上ある太薪まで気合とともに斧を振るって割っていく。薪割りはバッティングと同じで「力じゃない、タイミングなんだ」とあらためて思う。田舎に長く暮らして身についた技があるとすれば、この薪割りぐらいかな。不思議なことに汗ばむ程度まで作業を続けているとたまった気が適度に抜けてきたのか、だいぶ疲れも取れてきた。やっぱりこうやって疲れを抜くのがいちばんだ。ひと息入れて、今日も地元の公営温泉へ。


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