《§伊那谷スケッチ 第4部 2010冬〜春》


 〈数知れぬ思念が意識をよぎり、いくたの新しい想いがおとずれるのは、おのれの両手が筋肉と身体の労働に、農耕や大工仕事にいそしんでいるとき、理にかなった、肉体的に解決可能な課題をおのれに課して、その表現が喜びと成功によってねぎらわれるとき、六時間ぶっとおしで手斧をふるい、あるいは晴れわたった大空のもとで、天恵の風の息吹きに身をさらしながら土を掘り起すときである。たとえこれらの思念、洞察、暗示が紙に書きつけられることがなく、束の間の印象として忘れ去られてゆくとしても、それは何かの喪失ではなく、獲得なのだ。〉

(パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」第九編 ワルイキノ)


4/7(水)「アナログとデジタル」

 カーステレオのテープデッキのヘッドが磨耗して、このところ調子がよくない。ヘッドクリーニングテープを何度もかけて辛うじて使ってはいるが、駄目になるのは時間の問題だろう。いま乗っている中古車は初回車検2000年の車だから、十年も経てば消耗品の交換はやむをえない。週2〜3日、夜勤の行き帰りにマラソンの走行距離に等しい片道42キロ余りの道のりを車で往復しているが、その間眠気覚ましにカーステレオで聴く昔のロックは自分にはかなり切実な楽しみなのだ。呂律が回らなくなったミック・ジャガーやディランの歌を度々聞きたいとは思わない。
 近所のカー用品店に行って代わりの品を探してみた。薄々予想していたことだが、いまどきカセットを聴けるカーステレオなどどこにも売っていなかった。勿論、CDラジカセで構わないのだが、併せてカセットも使えなければ困る。我々のようにレコードで育った世代には、最新のデジタル機器などなくても、アナログ音源を録音したカセットテープが聴ければよいのである。ときどき老化防止に聞く英語のリスニングテープだってカセットである。しかし、その単純な品が置いてない。いつだったか東京から来た若い女性編集者が私の車に乗るなり、「あ、カセット。なつかしいですね」と声をあげていたことが思い出される。結局いろいろとあたってみた結果、メーカー品でまだ一機種だけ取り寄せ可能とのことだった。しかし値段を聞くと新しいものより余程張る。もう十万キロ以上走っている車だから、そのアクセサリーにどこまで投資する気があるのか、ちょっと考えてしまった。
 思えばCDなるものが初めてこの世に現れたのが、1980年代初めのこと。当時神楽坂の小さな印刷屋に勤めていた私は、たまたま『音楽の友』や『レコード芸術』といった雑誌の写植の校正をやっていたので、音楽評論家諸氏が「CDで初めてモーツァルトを聴いてみた」「CD初体験記」といった記事を寄せているのを読んで、いったいこれはなんだろう?と思った記憶がある。あれからわずか三十年足らず。いや、もう三十年というべきか。その間自分自身、気がついたらレコードの類はほとんど処分してしまっているし、レコードプレイヤー自体倉庫で埃を被ったままだ。しかしインターネットはともかく、いまだに携帯はほとんど使っていないし、iPodやMP3となるとまるでよその国の出来事である。いったいどこまでこのデジタル化の急速な流れについていけばいいのか、ときどきため息が出る。
 そんなことを考えていたら、三十年前よく読んだ井上光晴の小説『心優しき叛逆者たち』のなかの一シーンをふと思い出した。ひそかにテロリストを志す青年が、深夜にそっとレコードに針を落とすシーンである。するとアパートの隣室の老人がうるさいと苦情を言いにくる。

 「今、何時だと思っているかね。あきれてものもいえない」
 「そちらにはきこえないはずですよ」
 「音はしなくても、そっちでレコードをまわすと壁の空気が震えるんだ」

 しかし青年と話をしているうちに老人も少しずつ打ち解けてきて、青年が明日持っている限りのレコードを全部処分してしまうつもりであることを知ると、それなら「あんたのいちばん好きな音楽をきかせてもらえないだろうかね」ということになる。そこでかけるレコードがシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』である。
 その後レコード屋で探して手に入れたこのレコードは、ジャケットの絵がとても印象的だったことは覚えているが、もう手元には残っていない。しかし小説のこのシーンだけはなぜかよく記憶していて、いま読んでもなつかしい。過ぎ去ったある時代のひとつの姿を映す鏡のようなシーンだからかもしれない。 


 2/10(水)「享年62歳という謎」

 えっ、62歳? またかと思った。立松和平さんの訃報に接してである。
 つい先日、冬の美ヶ原へスノーシューをやりに行ったとき、山小屋に「岳人」という雑誌が置いてあって、そこで立松さんの「百霊峰巡礼」の最新記事を読んだ。そしてこの長期連載のために彼が心臓のバイパス手術まで受け、71峰目の北アルプス笠ヶ岳でとうとう転倒して膝の皿を割り、入院する羽目になったことを知った。しかしまさかこんなに早く逝ってしまうなんて誰も思ってもいなかったに違いない。
 62歳という享年を意識するようになったのは、伊那谷在住で「さて、死ぬか」「胎教」「東洋医学の智恵」などの著書で知られる漢方医の伊藤真愚先生が、その年で亡くなられてからである。どんなに多忙でも週一回は直接患者を診ておられて、ぼくもずいぶんお世話になった。とくに晩年の先生が提唱されたホスピスを中心に据えた高齢化社会の共同体=「安住期構想」のプランは壮大なもので、それがやっと端緒につき始めたところでの死は悔やんでも余りあるものがあった。還暦を過ぎ、すでに大きな仕事をしてきたとはいえ、まだまだやり残したことがあり、周囲からも期待されている、それが62歳という年齢だろう。
 しかし若い頃畏敬していた詩人の石原吉郎を始め、屋久島の山尾三省に至るまで、そんな周囲の期待をよそに62歳前後で逝ってしまった人が多いのはなぜなのか。これについて演出家の竹内敏晴(*)が「六十一歳の越え方 死へのイニシエーション」というエッセイで、舞踏の土方巽(57)・ヨガの沖正弘(64)・整体の野口晴哉(64)の三人の死(括弧内は享年)に触れ、次のように述べていたのが示唆的である。

〈この三者には共通なことがある。ある短い時間中に一挙にエネルギーを集中し、いのちを燃やし尽し、他者にいのちを注ぎこむ、その仕事のやり方である。エネルギーを使い果たした廃墟から、やがてからだは復活し、新しく生き直す。
 だが、からだが恢復して来るまでの時間は次第に遅くなり始める。ある年齢と共に。その時なにが起るか。
 世の人々が、開眼を治癒を求めて争ってかれらの門に群がる時、かれらはできうる限り多くの人々の希いに応えるために、切り詰めた時間の内に、ひとりひとりと向い合わねばならなくなる。つまりは、いのちを一瞬のうちに激しく燃やし尽さねばならぬであろう。(中略)だが、かれらのエネルギーが時間と人とに迫られて、おのれのからだ本源の、ゆったりした、あるいははずむ、リズムにおいて満ちつくすのを待たずに、むしり取られ始めたら‥‥破局が来る。
 六十一歳とは、その最後の転轍機に手を掛けうる時機なのであろう〉(「時満ちくれば」筑摩書房)。

 こういう観点からみると、才能があり世の中に大きな影響を与える仕事をしてきた人ほど、自分の体力の弱まりと反比例して他者からの期待は膨れ上がっていくわけだから、それによほどうまく対処できないと年を取るのが難しくなる。ましてや、他者に対して誠実な人ほど長生きしにくくなる。立松さん自身そうだったと思うし、晩年にその立松さんの呼びかけに応じて2冊の対談集を残した山尾三省さんもそういう人だった。
 しかしそうは言ってもやっぱり走ったと思うよね、立松さんは。「百霊峰巡礼」が71峰で終わったのは惜しまれるが、年を取れば取るほどスケジュール的にできることとできないことが出てくるのは当然のことだ。できればその遺志だけでも継いで、自分なりに残りの「霊峰巡礼」を果たしてみたい思いに駆られる。
 (ところでこれは余談だが、ずっと昔学生の頃に仲間と一緒に立松さんの家にお邪魔したことがある。昔彼が大学の同じサークルに属していたという縁で、正月の二日だったか、当時某新聞社の宇都宮支局に勤務していた先輩に連れられて、宇都宮郊外の新興住宅地にあったお宅に一升瓶片手に遊びに行った。「遠雷」で野間文芸新人賞を受賞した頃のことだったと思う。表札に「横松」と書かれた門をくぐり玄関に入ると、その日立松さんは行動派作家にはあまり似つかわしくなく、子供を抱き上げた拍子にぎっくり腰になってしまったとかで、どてらに杖をついた姿で出てこられた。それから書斎でおせちをごちそうになりながら、前日に足を延ばした足尾銅山の廃鉱の話などをしたことをおぼろげに覚えている。去年の暮れ、上京してたまたまそのときと同じメンバーで久し振りに飲んだ。数えてみたら実に三十年ぶりの顔合わせだった)。 

 (*)なお竹内敏晴氏も昨年84歳で亡くなったとのこと。 


2/5(金)「自然界の死」 

 この冬、使い始めたばかりのスノーシューを履いて空木岳麓の池山林道を歩く。三日前降った雪で林道には3〜40センチほどの残雪。通行止めのゲートをくぐり、やがて車の轍が消えたところまで来ると、雪の上にはところどころに残る獣の足跡以外何も見えない。そこを大きなサンダルのようなスノーシューを突っかけてザックザックと踏みしめていくのは気持ちがよい。
 途中でかなり大きな獣の死骸に出会った。あばら骨・頭蓋骨・背中の皮・足の骨と蹄を残して肉はきれいになくなっている。一瞬ハンターの仕業かと思ったが、空木岳の登山道にあたるこの山域は伊那谷では数少ない狩猟禁止地域で、ハンターが侵入した痕跡はない。ただ周囲には無数の小動物の足跡が残されているばかりである。


 蹄の感じと骨の大きさからひょっとしてカモシカではないかと思い、毛皮を剥いで持っていこうかとナイフを片手に死骸を引っくり返してみた。すると鹿の角の代わりに牙をむいた顎が現れ、猪であることがわかった。しかも片方の牙は欠けてなく、残された牙や歯も相当に古びていて、かなり年老いた大猪である。きっとここで行き倒れて、他の獣や烏たちの餌食になったのだろう。人の入らない冬山ならではの自然界の光景である。
 毛皮を諦めて先に行こうとすると、連れてきた柴犬のリラが早速食べ残しの足の骨を拾い、得意げに口にくわえて雪の上を転げていく。


 1/29(金) 「夜が明けたら」 

 浅川マキが死んだという。享年67歳。まだ現役で歌っていたらしい。ラジオからなつかしい歌が流れていた。

♪夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから 切符を用意してちょうだい わたしのために 一枚でいいからさ 今夜でこの街ともさよならね わりといい街だったけどね♪

 昔この歌が流行っていた高校生の頃(1970年代初め)、一緒に学校をサボっては渋谷や中央線界隈のジャズ喫茶やロック喫茶にしけこんでいた悪友のRが、ある朝電話をくれてこれから家出を決行するという。ふだんから親や学校に反抗を繰り返していたRだから、お、いよいよやるのかい?という感じで、渋谷の駅まで見送りに行き餞別の5千円札を手渡した。数日たって「長野伊那」の消印で彼から手紙が届いた。当時はまだ新宿発駒ヶ根行きの「急行アルプス」が出ていた頃だから、彼はそれに乗って伊那までたどりついたらしい。Rとはよく浅川マキのレコードを聴いたから、「♪夜が明けたら」のリフレインが彼の頭のどこかで鳴り響いていたのかもしれない。手紙に曰く「ここには山も川もあり、田んぼもある。魚も泳いでいるし、空気もうまい。泊まっている旅館の主人夫婦たちも感じのいい人たちなので、しばらくここで使ってもらえないか頼んでみるつもりだ」。しかしその次の便りではもう「警察に身元がばれた」とあり、結局一週間ほど後、市内に一軒だけあったジャズ喫茶にいるところを、親に頼まれて彼を捜しにきた家庭教師の大学生によって発見され、あえなく「御用」となった。
 東京に戻されたRは、結局高校を中退してアパートを借り自活することになった。渋谷の道玄坂近くに「シャンソン・ド・パリ」という喫茶店があって、彼はしばらくそこでウェイターをしていたが、店にはなぜかいつも浅川マキの歌が流れていた。屋根裏部屋めいた薄暗い二階では時々詩の朗読会などが行なわれ、一見芸術家風の客がたむろしていた。
 一度彼が興奮した口調で店から電話をしてきたことがある。それはローリングストーンズの日本で初めてのコンサートのチケットが売りに出された日で、売り場となった渋谷のヤマハを取り巻いた人の列が「シャンソン・ド・パリ」にまで押し寄せ、ふだんとは全然違う異様な風体の客層で店が満員になってしまった、というものだった。しかし結局、ミックやキースの麻薬問題でストーンズのコンサートは流れ、友人も一年後には別の高校に復学し、年とともにえらく堅気の人間になっていってしまった。
 後年、逆に東京をドロップアウトした自分が伊那谷に住むようになってから、昔彼が潜んでいたというジャズ喫茶はすぐに見つかった。「アップル・コア」という老舗の店で、もう代替わりしてつぶれてしまったが、JRの伊那市駅から歩いて5分ほどの旧市街のビルの地下にあった。通りを隔てて飯田線と国道153号が走り、その向こうには天竜川が流れ、遠くに南アルプスの山並みが望まれる。Rとはもうすっかり音信不通になってしまったが、いまでもそこを車で通りかかると時々昔の彼の顔を思い浮かべることがある。


1/24(日) 「檜の香りからラケットを想う」

 電気チェーンソーで檜の丸太を切っていたら、切り口から檜独特のかぐわしい香りが匂ってきた。ふとその匂いがはるか昔、中学生の頃に熱中していた卓球のラケットを思い起こさせた。檜は薪にするとすぐ燃え尽きてしまうが、卓球のラケットとしては最高級品で、近くのスポーツ用品店では安物の合板のラケットしか売っていなかったから、わざわざ都心の卓球用品専門店まで購入しに行った。買うときも、きちんと柾目が揃っているかどうかを念入りにチェックし(柾目が粗いと弾きが鈍く、逆に密だと強く飛びすぎる)、家に戻ってから自分の手のグリップに合わせてナイフで削りを入れるのだった。紙やすりで仕上げをし、ラバーを切り抜いて貼り付けるまでの数時間。ときには深く削りすぎて失敗しスポンジで修復したり、裏に赤や青のラッカーを塗ったりと、工作は苦手だったがこれだけは熱中してやった。そのときの新品のラケットの匂いである。
 当時はまだ文部省の方針で中学生の正式な全国大会は認められていなかったが、中学三年の夏、各都道府県の代表一人ずつを集めた中学生の全国選抜合宿が東京で行なわれ、開催地の東京だけは八人まで参加が認められた。勉強そこのけで練習にはげみ、前年の都大会でベスト4に入っていたぼくはめでたくその一人に加えられた。合宿には元世界チャンピオンの長谷川信彦選手をはじめ、全日本を代表する錚々たるメンバーがコーチとして顔を揃え、憧れの彼らから直々に指導を受けることができた。
 合宿の二日目、個別練習が終わって代表同士のリーグ戦に移ったが、地元東京の選手たちが駄洒落など言い合ってしまりがないのに対して、地方から上京してきた各県の代表たちの表情は真剣そのもので、東京の選手たちは次々に敗退していった(ぼくもたしか1勝2敗1分けぐらいだった)。無理もない、あとで聞くと彼らは地元の町や村をあげての壮行会まで行なって送り出されてきていたから、気合いからしてまるで違っていた。フォームやスタイルなど度外視して必死に球に喰らいつく彼らと対戦して、自分たち都会人の駄目さ加減をつくづく実感したものだ。
 ところでそれから長い時が流れて、卓球のことなど遠の昔に忘れてしまったある日、新聞のこんな三面記事が目に入った。「長谷川信彦さん事故死 倒木の下敷き 卓球の元世界王者」(2005年11月7日・朝日)。92年から群馬県桐生市の自宅脇に建てた施設で卓球を指導していた長谷川氏(58)は、当日トレーニングコースの山林内にある木を一人で伐採中、倒木の下敷きになって窒息死した。新聞の顔写真を見て、あのユニホームからはみ出さんばかりの筋骨隆々とした長谷川選手の腕の力瘤が咄嗟に目に浮かんだ。人の生死はわからないものである。


1/21(木)「冬山の魔」 

 吹雪の後、異様に暖かい日がきて春の嵐のような雨が降ったかと思ったら、また一気に冷えこんできた。先の読めない天気が続いている。
 正月明け、温泉へ行きがてら近くのツタヤに寄ったら、なんと若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」がDVDで出ていたので、つい借りて見てしまう。まさかDVDで借りられるとは思っていなかった。でも正直言って、やっぱり「見てしまったな‥」という感じである。我々の年代にとってあの事件は、「♪〜十五十六十七と♪〜わたしの人生暗かった」という歌とともに思い出すもので、私自身、「みんな勇気がなかったんだよ!」と最後に叫ぶあの一番年下の高校生とほとんど同じ年である。だから他人事ではなかった。
 あさま山荘の銃撃戦は学校から帰ってテレビで見たが、当時高校生の一員としてデモや集会に参加していたブントの某党派の機関紙が、次号で「銃撃戦断乎支持!」を謳い、その後リンチ殺人の全貌が明らかになってくるにつれて、「これはもうとてもついていけない」と諦め、高校生組織から抜けることを幹部に話しに行った。アジトとして使っていた明治大学の学生会館の一室で高校生のリーダーにそのことを告げ、ふと何かの拍子でリンチ殺人を批評するようなことばが口をついて出た。すると「君にそんなことを言う資格があるのか!」と一喝され、何も返すことばがなかった。口に泡をためたリーダーの怒りの表情と冷え冷えとした学館の一室を昨日のことのように思い出す。時代はとっくに内ゲバの時代に入っていて、日ごろの鬱積を晴らすためにデモに出かけるような遅れてきた高校生の出る幕などなかった。
 それにしても映画を見て、あれだけの若者が次々に殺し合い死んでいったのかといまさらのようにため息が出る。しかもリンチ殺人のほとんどは12月から1月にかけての厳冬期に起きている。そうでなくても籠もって陰湿になりがちな山の冬だ。それを乏しい食料と限られた資材で集団でどう乗り切っていくのか? 暖房はどうしていたのだろう? どんなにきつくても、山の冬はどこにも逃げ場所がないからお互い面と向き合うしかなくなる。追い詰められ孤立していた彼らは「冬山の魔」に呑み込まれ集団で狂っていったともいえる。後年私自身、長野の廃村で冬を過ごすようになってから、何度も連合赤軍のことを思った。零下十度を下回る日が続くと、ものみな凍てつきどこか別世界に入っていってしまう。互いをとことん罵り合い追い詰める決定的な夫婦喧嘩はたいてい厳冬期にやっている。
 山を下りた昨今はさすがにもう夫婦ともにそんな元気もなくなったが、いまでも山の冬を恐れる気持ちに変わりはない。せめて春が来るまで彼らが持ちこたえていたら、事件の展開は別のものになっていたかもしれない、などと勝手なことを思ったりしている。
 ところであのとき16歳だった少年は、いまごろどこでどうやって生きているのだろうか? 


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