《§伊那谷スケッチ 第4部 2010秋》


11/29(月)「ヴィシュヌの眠り」

 朝は晴れていたのに、途中から曇ってきた。車の窓から眺める中アの稜線はすっぽりと雲に隠れている。あ、しまった、カッパを忘れてきたと思ったが、もうあとの祭りだ。降られないことを願って、車を走らせる。池山林道の駐車場に着いたときにはもう雪が舞っていた。空木岳へ至る林道は土砂崩れの砂防工事のため、いまだに通行止め。やむなく500メートルほど戻って急坂の登山道を息をあえがせて登る。「やはりこれが大切なのだ、週に一度は山に来て、息をぜいぜいさせて歩くこと」。何度も通った山道だが、季節ごとに風景がちがう。春には春の、夏には夏の、冬には冬の記憶が風景にオーバーラップしてくる。
 吹雪舞う中、二本木地蔵を抜けて林道終点の東屋から谷筋の山道に入ると、いきなりゴオッーという物凄い音を立てて、突風が吹きぬけて行った。粉雪が白く渦を巻いて舞う。デジカメを取り出して風にあおられてしなう森の木々の姿を写し取ろうとするが、いつのまにか風はやんでいる。肝心なのは、いま見た世界の光景をカメラという機械に記憶させることではなく、自分の頭で覚えること。いや、頭で覚えるだけならいつか忘れてしまうだろうから、ハート(心)に刻みつけること。ハートで覚えたものは忘れない。そんなことを考えながら、落ち葉を踏みしめて歩いて行く。


 誰もいない初冬の山道を犬を先にして歩いていると、「ヴィシュヌの眠り」ということばがふと頭に浮かんできた。「テン・ミニッツ・オールダー」というオムニバス映画を見た人なら、ベルトリッチ監督が描いたインドの青年の挿話を思い出すかもしれない。森で出会ったサドゥーに水を一杯所望され、壷を片手に近くの沢に行くとき出会ったヨーロッパの女性との巡り合いから始まる人生の転変。長い長い時が流れ、家族連れでたまたま通りかかった森の中で聞き覚えのある笛の音に導かれかつての青年はまたあのサドゥーに出くわす。何事もなかったかのように、「今朝頼んだ水はいったいどうなったのかね?」と質すサドゥー。そのとき青年はすべてを悟ってサドゥーの足元にひれ伏す。ヴィシュヌ神が一晩の眠りで見る夢こそが宇宙そのものなのだ、というヒンドゥー神話を下敷きにしたこの場面は妙に忘れがたい。
 だんだん歳を取ってくると、残された人生で何をしたいかということより、どうやって自分の人生に納得をつけてこの世におさらばしていけるか、ということを考えるようになる。そんなとき、ひょっとして自分が演じている日々の生活のあれこれも、仕事上のストレスも、家庭のいざこざも、すべてヴィシュヌ神の夢の一駒に過ぎないのではないか。自分もまたあの青年のようにある日すべてを悟って、サドゥーの足元に身をひれ伏すことになるのではないかという期待と不安が一瞬頭をよぎることがある。吹雪に肩をすくめて冬の山道を犬と黙々と歩いていると、そんな幻想がにわかに身近に迫ってくる。


11/17(水)「樹木だけが残った」 

 もう三十年ぐらい前になるだろうか、新宿紀伊國屋ホールで行われた高橋巌との公開対談で、舞踏家の笠井叡が「ヨーロッパでは木の一本一本が個を主張している」と言ったのを、なぜかいまだに印象深く覚えている。その後、幸か不幸かインドより西に行ったことがないので、実際にヨーロッパの樹木をこの目で見ていないが、この頃老親の様子を伺いに東京へ出る度にふとそのことばを思い出す。ことに故郷の世田谷の住宅街を歩いているときに、それをよく感じる。
 東京には山がないから、風景がどこまでものっぺりしていて建物や道路で記憶をたどるしかないのだが、その建物や店や道路がどれもすっかり変わってしまっていて昔の面影がない。たしかにそこの曲がり角にあったはずの家がもうなくなっていて見知らぬマンションになっているし、記憶にない舗装路が縦横に延びていて迷路のようだ。道に迷いかけて途方にくれているときに、ふと見上げた街路樹や公園や神社の木々が、わずかに残る古家とともにはるか昔の記憶を呼び起こし、自分のいまいる位置と過ぎ去った時間を教えてくれる。えっ、そういえば昔もここにあったっけなこんなケヤキの木が、いつのまにこんなに大きく育ったんだろうと頭上を見上げながら、なつかしい旧友に出会ったような気持ちになってくる。人間の作ったビルや建物がわずか数十年という時間すら持ちこたえずに更新されていくのに対して、樹木というものは人間の寿命をはるかに上回る時間を生きて、古くなればなるほど巨大になり、威厳を帯びてくる。



 緑地整備と環境保護の観点から行政が保護する保存樹木が増えたことで、東京では地方ではあまり目にしない巨木をかえってよく見かける気すらする。戦後六十年以上、戦災や震災にも遭わずに平和が続いたということもあるだろう。というより、それだけ木の数が少ないからよけいに目立つのかもしれない。あまり例はよくないかもしれないが、たとえば田舎の里山に残された雑木林の木々と新宿御苑の巨木を比べてみればいい。田舎では木々が森や林などの〈群れ〉として目に映るのに対して、都会では木の一本一本がたしかに〈個〉を主張しているように見えるのだ。なるほど、笠井叡が言っていたのはこういうことだったのかとこの頃よく思うのである。
 もっともそんな東京から高速バスで伊那谷に戻ってくると、木曽駒や仙丈をはじめとする古来変わらぬ山々の風景がどっしりとした存在感をもって迎えてくれて、ほっとため息が出るのは言うまでもないが。


11/8(月)「オープンマイク」 

 ♪ああ 電線に留まった一羽の鳥のように
  真夜中の合唱隊に紛れ込んだひとりの酔っ払いのように 
  私も自由になろうとしてそれなりに努力してきた
                 (レナード・コーエン)

 有機農業のボランティア・ネットワークWWOOFを通じて、一週間ほど畑の整理や庭仕事の手伝いで滞在していたオーストラリア人の二十歳の青年ルーベン君を、次の目的地中川村の知人宅に送り出す。アラン・ブースの愛読者だというルーベン君は日本語もかなり上手で性格も素直なので、あちこちで重宝されてきたようだ。9月に来日すると、八戸から徒歩・ヒッチハイク・野宿を繰り返しながら、所々でWWOOFのホスト宅に寝泊りし、11月に伊那までたどりついた。シンガー・ソングライターを目指す彼は、ひょろりとした長身にリュックとギターを背中に担いで、マックのノートパソコンで作曲や編曲もする。
 木の植え替えやバラス敷きなど力仕事をたっぷりやってもらったお礼に、最後にどこか人前で自分の歌をうたいたいというので、調べてみたら辰野のオーリアッドというスナックで毎週土曜の夜にオープンマイクをやっていることがわかった。ボブ・ディランの訳者でも知られるフォーク・シンガー兼英語講師の三浦久さんがやっているお店だ。以前、沖縄の大工哲弘のライブを聴きに行って盛り上がったことがある。
 YMOのファンだというルーベン君の歌った1曲目はなんと日本語の歌で、細野晴臣の「四面道歌」。オープンマイクで外国人が日本語の歌をうたうのは初めてだと三浦先生も驚いた様子。2曲目は彼のオリジナルの「What You Want, You Can Do」。家で歌詞の意味を聞いたとき、「それじゃストーンズのあの You can't always get what you want とそっくりじゃない?」と言うと、「いや、ちょっと意味がちがいますね」とルーベン君。もっと積極的な気持ちがこめられているということのようだった。
 当日は参加者も少なく店も閑散としていたので、小生も持参のインド楽器エスラジを余興に弾かせてもらう。

 ところで主宰者の三浦先生は昨年、アメリカの吟遊詩人レナード・コーエンの74歳のライブコンサートのDVDの解説を書いたばかりで、コーエンの歌にすっかりはまっているらしい。オープニングで歌ってくれた「電線の鳥」の歌詞が素晴らしく、薦められるがまま帰りがけに2008年のライブ・イン・ロンドンのDVDを買った。そして昨夜、ルーベン君も交えてそのライブを見てその密度の濃さに圧倒された。15年ぶりに、74歳になってこれだけのライブを行ったということより、禅の修行やうつ病などを乗り越えて、この年だからこそできる円熟したプレイの醍醐味とでも言うべきか。見ていてときどき目頭が熱くなってくるのをどうしようもなかった。こんな凄いのを見てしまうと、まだまだ人生これからだという気分になる。歌詞の意味がわからなければ面白さも半減すると思うので、これはやはり日本語字幕入りのDVDが絶対お薦めだ。
 ちなみにルーベン君のご両親は来週、オーストラリア(メルボルン?)で行われるレナード・コーエンのコンサートのチケットをすでに予約しているとか。一枚200ドルということだが、それだけの価値は十二分にある。三浦先生は、ツアー最後のラスベガスのコンサートを見に行くといまからそわそわしている様子。羨ましい限りだ。


10/24(日)「森の時間」 

 昔住んでいた高遠町の芝平(しびら)という廃村から入笠山へ向けて「法華道」と呼ばれる山道が地元の古老によって整備されたと知人から聞き、このところ休みごとに犬を連れて入笠山周辺を歩いている。「法華道」とは、南アルプス北端に位置する入笠山(1955m)を抜け、甲斐と伊那を最短の道で結ぶ古道のことで、日蓮宗の高僧が遠く身延山から布教に通ったことからそう呼ばれるようになったという。
 昔茸取りや薪集めでさんざんほっつき歩いた山道だが、道の謂われを尋ねながら歩くのは初めてである。「灯台下暗し」とはよく言ったもので、いつも藪に迷って見当違いの方角から牧場に抜けていた森の向こうに、実はこんな神秘的な池(御所ヶ池)があったのかとか、こんな山奥に歴史的な謂われのある岩(高座岩)があったのかなどと驚かされることしきり。またかつて武田の軍勢が高遠城を攻めるに際して、山室川に沿って三義の谷を下ったことは聞いていたが、そのまた一軍が入笠山を越えてこの山道を通ったとは思ってもいなかった。
 そんな歴史に思いを馳せながら勝手知ったるなつかしい山道を下ってくると、芝平の林道に下りる手前で見覚えのある倒木の切り株に出会った。すっかり苔むして根っこの部分などもう土と化してしまっているが、昔自分が薪集めで鋸で切ったニセアカシヤの倒木である。えらく苦労して切り、やっとの思いで肩にかついで降りた遠い記憶が甦ってくる。あの頃はまだひこばえだった周囲の森の雑木もいまではすっかり生長して鬱蒼と茂り、森の姿もずいぶん変わってしまった。わずか十年あまりでこれだけの時間が森の中に降り積もったのかと、紅葉する樹々を見上げながら感慨にふけった。


 帰りがけ、ふと思い立って昔住んでいた古家に立ち寄ってみた。千葉出身の知人の陶芸家が我々の後にこの空家を借り、釜を作って暮らしていたのだが、しかし彼はもうこの数年はほとんど家に戻っていないようで、庭や畑は茫々と雑草だらけで家はすっかり廃屋然としていた。浦島太郎になったような気分で庭先を眺めると、昔自分の植えた桜の樹がすでに大木となり、過ぎ去った年月を静かに物語っていた。 


10/1(金)「ロックの明と暗」 

 古本を発送しがてら近くのブックオフに寄ると、105円の棚の前で携帯を片手に構えた若い男が真剣な表情で本のせどりに余念がない。もう手元のケースにはかなりの量の本がたまっていて、見ていると文学書からビジネス書まで片っ端から値になりそうな本を引き抜いていく。伊那谷のような田舎でも最近こういう姿をよく見かけるようになった。
 同業者として私自身、ブックオフなどの百円コーナーには掘り出し物を探しにときどき立ち寄るが、それはあくまで自分の興味の範囲内でこれは?という本を物色するためであって、携帯片手にしらみつぶしに本を引き抜くなどということはない。それじゃまるで工場労働みたいで、面白くもなんともないじゃない。見ていてひどく疲れるんだよね、ああいう姿は。しかしやっているのは一見してフリーター風の若い連中がほとんどだから、これで少しでも稼ぎになればということなのだろう。なかには二人でチームを組み、一人が棚から本を引き出し一人が携帯で調べ、値のつきそうなものはどんどんケースに投げ込んでいくなどという姿も目にする。アマゾンで1円の中古本が増えるわけなのである。

 そんな若い男の姿にあてられて、ふだんあまり見ない日本文学の105円の棚の前に立ったら、「Angels水晶の夜 山川健一作品集」というタイトルが目に入った。手に取ってみると、「天使が浮かんでいた」をはじめとする著者二十代の作品集である。学生時代、同じサークルの1年先輩だった山川氏とはもうずいぶん長いこと会っていないが、ローリングストーンズの故ブライアン・ジョーンズをモデルにしたこの処女作はなつかしい。大学新聞の文芸賞として発表された小説だが、プールに仰向けに浮かぶキース・リチャード(?)の写真を中央にあしらった紙面のレイアウトとともに、昔の記憶が甦ってくる。次のデビュー作の「鏡のなかのガラスの船」は、たしかコピー原稿で読ませてもらい(まだ手書きの原稿用紙の時代だ)、群像の新人賞に選ばれたときは我がことのように興奮した。小林秀雄からロック評論にいたるまで小説に批評に健筆をふるい、ロックバンドのボーカルまでやっていた山川氏は、当時から仲間内ではすでにカリスマ的な存在だった。
 しかしそんな山川氏に私自身はどこか一点でいつも違和感があって、インドの旅から手紙を送ったのを最後にいつのまにか関係が遠のいた。
 ふと思い出すのは、こんな情景である。あれは大学新聞の編集会議のはねた後だったか、雪の舞う学生街の喫茶店で山川氏らとコーヒーを飲んでいた。好きなロックの話になり、もう一人の先輩がブリティッシュロック、とくにキング・クリムゾンなどのプログレ系のグループ名をあげ、アメリカのロックはあまり評価しないというようなことを言った。私は高校生の頃からニール・ヤングのファンであり、CSNYやザ・バンドなどのアメリカン・ロックが当時の愛聴盤(*)だった。そこで理由を質すと、横にいた山川氏が、
「この世は暗いと思っているからだよ。アメリカのロックってやたら明るいだろ? だからブリティッシュロックの暗さが好きなんだよ」というような答えを返してきた。
 それを聞いて私は軽いショックを受けた。中退をはさんで4年も暗い高校生活を送り、「希望を捨てるという希望がまだ残っている」と書いた石原吉郎などに親しんでいた私は、人が本当に絶望の底にあるとき、暗さよりもむしろ明るさをこそ希求するのではないかと思っていたからだ。事実、同時代で聴いたニール・ヤングの「アフタ・ザ・ゴールドラッシュ」から「ハーヴェスト」へという暗から明への転位で私自身は心を救われたと思っている一人だった。ひょっとして山川さんの言う暗さというのは、若さがとりうるポーズのひとつなんじゃないかと疑問をもった。
 そんなことを思い出しながら本のカバーを見たら、コピーに「日本語で書かれた最高の不良少年小説!」とあったので苦笑してしまう。何をもって「不良少年小説」というのかは知らないが、そもそも本当の不良少年は小説などというまどろっこしいものに手を染めるだろうか? いやいやジュネがいる、中上健次は?坂口安吾は?という声が聞こえてきそうだ。しかし不良少年をきどる優等生というのはいつの時代にでもいるのであり、それもまた若さがとりうるポーズのひとつにすぎないのではないかと思った。

(*)ただし生涯で聴いたロックのアルバムから一枚を選べと言われたら、私はためらうことなく二十代の後半に南インドのビーチで繰り返し聴いたロキシー・ミュージックの「アヴァロン」を挙げる。


9/4(土) 「実年齢と精神年齢」

 病院の夜間救急の受付に座っていると、ときどき自分と同年齢の患者さんがやってくる。保険証と患者さんの風貌を見比べて、「えっ! ひょっとしておれもこんなに老けているのかな?」とひそかに思うことがある。自分だけがそうなのかと思っていたら、最近この仕事に入ったばかりの五十代のSさんがやはり同じことを言っていた。どうやら人は自分の実年齢を外見よりかなり若く見積もっているらしい。
 もう十五年以上前、廃村暮らしをしていた頃、同じ山に住む年長のMさんが交通事故に遭って入院した。しばらくして退院したが、脳に後遺症が残り、自分の実年齢すら覚束ない有様であった。若い頃北欧を旅してアシッド(LSD)の洗礼を受けたMさんは、この「心を解放するクスリ」の虜となり、帰国してからもアシッドの使者といった感じで会う人ごとにそれを勧めていた。そんなMさんのことだから、「あれ」をやればまた正常な記憶が戻るんじゃないかと周りでは真剣に考え、ある日誰かがひそかに入手してきたアシッドの紙片をMさんに舐めさせた。(LSDはかつてチェコ出身の精神科医スタニスラフ・グロフが精神療法に用いていたように、然るべきセッティングで深くトリップすると自分が母の子宮にいた頃の分娩前後の記憶にまでさかのぼり、それを追体験することまである)。およそ八時間に及ぶ長いトリップの末、誕生以来の記憶を少しずつ回復してこの世に戻ってきたMさんは、ようやく自分の実年齢に気づいたようだった。指を折って年を数えていた彼は、薄くなった頭を起こすと突然驚きの声をあげた。「えっ? じゃ、おれもう四十過ぎてるんじゃないの!」。
 それを聞いてみんな笑ったけれど、考えてみれば誰もが実年齢より十歳くらいは若く自分自身を考えているのではないか。だから年を取れば取るほど、そこにいろんな無理が生じてくる。しかし肉体だけは正直なもので、いやでも年相応の自分の姿を鏡に写し出してくる。白髪まじりの当直のSさんも、かなり最近まで長髪族だったとのこと。しかしその姿を思い浮かべるのは難しい。かくいう私自身、四十歳前後まで長髪をポニーテールにして背中に垂らしたりしていたが、そんなことを言ってもいまでは誰も信じてくれない。今日も白髪をすっきり剃り上げた坊主頭で、酷暑の中、当直の仕事に向かうのである。


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