《§伊那谷スケッチ 2008冬〜春 1/4〜3/11》


3/11(火)「アル中の友との会話」

 
昨日の朝方降った雪も昼には雨に変わり、午後からすっかり気温も緩んできた。2週間ほど前から家の雨漏りの修復工事が始まり、落ち着かない日々が続いているせいもあるが、木の芽時というのか、冬から春にかけての季節の変わり目はどことなく気が塞ぎがちになる。自殺未遂の患者が急に増えるのもこの季節だ。
 お昼ごろ郵便局で本を発送して戻ってくると、しばらく音信不通だった中学高校時代の親友のTから突然電話があったという。アル中が嵩じて精神病院の入退院を繰り返し、親から引き継いだ自営の会社も潰してしまったと、去年離婚したTの奥さんから聞いてはいたから、厳密に言うと「音信不通」というには当たらないかもしれない。しかし去年から連絡先不明で、ここ数年は休日の夕方などに電話してもすでに泥酔状態でまともに電話に出られなかったTが、珍しく自分から電話してきたらしい。
 メモしてある携帯の番号に電話を返してみると、聞き覚えのない枯れた男の声が電話口から聞えてきた。一瞬番号を間違えたかなと思ったが、それはまぎれもないTで、年末までまたアル中で2ヵ月半ほど入院していたという。口調はひどくスローモーで、やはりアル中で入退院を繰り返した晩年の中島らもそっくりの口調だった。
 アル中病棟はいろんな人間がいて、結構面白かったぜなどというTに、おまえひょっとしていまも飲んでるんじゃないの?と聞くと、ああもちろんだよ、との返事。退院が待ち遠しくて、病院を出た初日から飲んでいるという。「もう家族もいないし、誰も俺のことを病院に連れ込んだりしないからね。死なない程度に飲んでいるよ。人間てね、本当に堕ちるところまで堕ちるんだよ。でもね、この頃どうしようもなく鬱なんだよ。前はね、こういうときでも芸術新潮ぐらい読めたんだけど、いまは岩波文庫はおろか、雑誌ひとつ手に取る気にもなれない。なーんにもやる気しないよ」。
 そういうTに、近頃は鬱病の薬もいいのが出てるし、一度精神科の医者に相談してみたらどう?などというと、「おまえ、おれを救おうなんて思ってるの。薬なんかに頼ったってだめなんだよ、そんなことはおまえだってわかってるだろ? だから飲んでるんじゃないか」と開き直る。Tは学生の頃、岸田秀のゼミにいて、フロイトからラカンまで精神分析の理論にはひと通り通じている。だから余計に始末が悪い。
 話しているうちにTの言うことはだんだん支離滅裂になってきて、このままだとまた私の方が切れて、以前のように「いい加減にしろ!」とどなってガシャンと電話を切りかねなくなってきた。そこで話題を変え、正月に久々に行った故郷の世田谷の町の話、それも船橋観音堂の樹木の話などすると、またTは落ち着いてきて、何か遠くを眺めやるような口調で相槌を打ってきた。いまTに必要なのは、酒でもおしゃべりでもなく、外気に触れて歩くことではないか。どんなに鬱々としてでもいいから、自分の影を踏みしめてどこまでもどこまでも歩き続けることではないか。
 今度東京に戻ったら、湘南に住むTを呼び出すから、久々に世田谷の町で会おうと言って電話を切った。そして昔のように馴染みの古本屋をハシゴして歩き、喫茶店でコーヒーを飲み、観音堂のケヤキの大木を仰いで一服してみたら、少しは気分も変わるのではないかと思うのだが、果たしてそんな願いが叶うかどうか。
 電話を切ってから近くの森に薪集めに行き、倒木をノコギリで引きながらTとの会話を反芻して思った。あいつももうそんなに長くないかもしれないな、と。頭上の木々では春の鳥がさえずり始めていた。


 2/20(水)「その後の高遠本の家」

 
夜勤明けはなぜかいつも快晴の日が多い。一昨日も帰って寝ているのがもったいないような好天で、昼頃思い立って、先日久々に訪れた「高遠本の家」のOさんに電話をかけ、家に来てもらいコーヒーを飲みながらゆっくり話をする。
 昨年7月に高遠町長藤に古民家を改装してオープンした「高遠本の家」は、新聞やテレビにもよく取り上げられ、すっかり有名になったが、店主のOさんがひと月半ぶりに再開したブログ「伊那谷高遠ふみぐら日誌」を読むと、「本の家」の先行きをめぐって、いろいろと問題が生じているらしい。ひとつは家の契約に関する事柄で、いまの古民家がいつまで借りられるかわからないというもの。もうひとつはこの春に高遠の商店街の一画にオープンすることになった新しい「本の家」の運営方法をめぐって、6人のメンバー間に意見の食い違いがあり、Oさんたち2名がそのプロジェクトから降りることになったというものである。この前半年ぶりに「本の家」を訪ねたら、Oさんが浮かない顔をしていたので何かあったなとは思っていたが、ブログを読んで、だいたいの事情は察した。
 話をしてみてわかったのは、やはり実際に高遠に住んでいるOさんと東京から交代で通ってきている他のメンバーとの店をめぐる温度差の違いが大きいということだ。これは私自身過去に何度も似たような経験があるのでよくわかる。冬の寒さや地元の人間関係など、田舎には理屈ではなく実際そこに住んでみなければわからない物事が多い。それをバカにしてしまうと、一見単純な事柄でも通らなくなったりする。その点、住民票まで移して地域の付き合いもこまめにしているOさんの存在は、「本の家」が地元に根付く大きな要因のひとつになっていると思う。それを軽く考えると、いくら共同運営とはいえ、地元の支持は得にくいだろう。それなのに、プロジェクトが分裂しただけではなく、新しい「本の家」の参加メンバーが旧「本の家」から出品している古書をすべて引き揚げ、「高遠本の家」の名称まで持っていくというのだから、ちょっと首を傾げたくなる。ブログの書き込みを見ても、ほとんどがOさんへの励ましで満ちているのも無理はない。
 Oさん自身は飄々とした様子で、名前は変わってもいまの場所でできる限り店は続けていこうと決意しているようなので、ほっとした。田舎の人間も決してバカではない。見るところはよく見ている。長藤のような山間部でよければ、古い空き家ならいくらでもあるから、もしいまの家が使えなくなってもOさんならどこか貸してくれる家が見つかるだろう。
 それにしても「日本にもヘイ・オン・ワイのような本の町を作ろう」という触れ込みでスタートしたプロジェクトが、マスコミにもこれだけ取り上げられ、地元も好意的に迎えてくれているというのに、オープンしてわずか半年余りで、ひと冬越す前にもうメンバーの分裂騒ぎが始まるとは、やはり東京の人間は呼吸が早すぎると言わざるを得ない。
 以前、高遠の山寺の境内に張ってあった名言で、いまでも覚えているものがある。「結婚するのはやさしいが、続けていくのはむずかしい」。それをもじって言えば、「田舎では店を出すのはやさしいが、続けていくのはむずかしい」。


2/14(木)「大雪疲れ」  

去る連休の日の朝、病院の当直事務の引継ぎでばたばたしているところへ警察がやってきた。「八ヶ岳の山荘から一酸化炭素中毒の患者はまだ運ばれてこないか?」との問い合わせ。何の連絡も受けていなかったので、その旨答えていると、今度はテレビ局のスタッフと続けて新聞記者が息を切らせて駆け込んできた。40人ぐらい患者が出ていて、救急ヘリが出動したらしい。何だろう、火事でもあったのだろうか? そうこうするうちに病院にも消防から連絡が入って、何名か救急車で搬送されてくるという。やむなく眠いのを我慢してしばらく待機していたが、どうやらヘリコプターは別の病院へ向かったようなので、あとは昼間のスタッフに任せて家に戻る。
 途中カーラジオでニュースを聞いていたら、あまりの大雪で山荘の石油ストーブの排気口が塞がれたため一酸化炭素中毒が発生したらしい。無理もない。週末ごとの大雪で、我が家の周囲も所によっては50センチの積雪がある。なかでも北側に突き出して建てた洗面所や風呂のある下屋の屋根は全然雪が解けず、その重みで柱を支える床のレンガのセメントにとうとう亀裂が生じてきてしまった。取りあえず屋根の先端部の雪だけは梯子に乗って落としたが、下屋の屋根全体の雪下ろしもいい加減せざるをえないだろう。そんなことを思いながら雪道を1時間余り運転して家にたどり着くと、すでに屋根には長梯子がかかっており、芳枝が待ちきれずに雪下ろしを決行していた。雪の少ない伊那谷で新築の家の屋根の雪おろしをするなんて思ってもいなかった。

 仮眠は取ったものの、雪かきと寒さ疲れで午後は何もする気になれず、犬を連れて三峰川(みぶがわ)へ。湿った雪を踏みしめて、川岸のウォーキングロードをゆっくり散歩する。久々の小春日和の休日とあって、さすがにたくさん人が出ていた。黙々と歩く人、ジョギングする人、自転車に乗る人、我々のように犬を連れた人……。しばらく雪で閉じ込められていたから、皆一斉に外に飛び出してきたという感じだ。実際日射しはずいぶん明るくなってきた。もう春はすぐそこまでやってきていると思いたい。
 井月の句碑など眺めながら高遠方面にぶらぶら歩いているとだんだん気分も晴れてくる。この川岸をずっと奥までさかのぼると、あの紅葉の絶景巫女淵にまで達する。源流域の川の姿を知っているというだけで、下流の川岸を歩いていても流れる川の水を見る目がちがってくるから不思議だ。あの山奥の谷を流れる水と、この市街地を流れ下る水が実は同じ水の流れなのだという発見。そういう川の奥行きを実感できると、自分の住む世界がぐっと深くなる。インドのガンジス河がヒマラヤ源流の氷河ガンゴドリに流れを発し、中流域のアラハバードでヤムナー河と合流して流れを広げていくように、規模こそ違えど個人的にはこの三峰川をひそかにガンジスに見立てて、巫女淵を南アルプスのガンゴドリ、天竜川との合流地点を伊那谷のアラハバードと呼び慣わしている。天竜川水系の最大の支流である三峰川にはそれだけの風格が備わっていると思う。この三峰川を、天竜川の合流地点から高遠・長谷を経て小瀬戸渓谷をさかのぼり、巫女淵を抜けて仙丈岳麓の丸山谷まで、全行程56.8キロをいつか遡行して歩いてみたいと願っているが、未だに果たしていない。


1/31(木)「ともしび」
 
 玄関先と庭はずれのパオとを結ぶ25メートルほどの通路沿いに、小型のソーラーライトを10本ばかり埋めた。ホームセンターで1本450円で仕入れてきた代物だが、畑の中の一軒家ゆえ日が落ちると周囲は真っ暗になる。そこに白と黄の灯りが交互に連なってぼうっと浮かび上がると、ちょっと幻想的な光景を醸し出す。雪の後などはいっそう美しい。夜、二階のテラスからそんな灯りを飽きずに眺めていたら、チェーホフの「ともしび」という短編をふっと思い出した。


 たぶんシベリヤだろうか、夏の夜、ロシアの鉄道敷設現場の土手から、荒野の線路に沿って点在するバラックの窓の仄暗いともしびを眺めながら、中年の鉄道技師と学生が話をする。技師にはこのともしびが、荒れ果てた荒野に点る文明の象徴と感じられ、あと百年もすればこの鉄道に沿って工場や学校や病院ができ、機械がうなるだろうと明るい未来を思い描く。しかし学生にはこのともしびが、とうの昔に死んでしまった人たちや滅びた民族の姿を思い起こさせ、自分たちが建設しているこの鉄道にしたって、あと二千年もすれば塵になってしまうだろうと、生と死のはかなさを口にする。それに対して技師は、「そういう思想は捨てたほうがいいよ」と学生を諭す。
 「いいかい、無常だとか、虚無だとか、生のはかなさ、死の避けがたさ、死後の暗黒などという思想、そういう高尚な思想はだね、わたしに言わせりゃ、人間老年にいたって、それらの思想が永年の内的労働の結実であり、苦しみによってかち得られたものであって、本当に思想的な富となっている場合にだけ、ごく自然でもあれば、立派でもあるんだよ。しかし、やっと独立の生活を始めたばかりの、若い頭脳にとっては、そんな思想は不幸でしかないよ!」と。そして自らの若き日の人妻との失敗談を語り始める。
 十九世紀後半のロシアのいわゆるニヒリスト、当時の知的青年に蔓延したペシミズムを主題にしたこの小説を、二十代の頃から何度か読み返してきたが、今度久々に読んでみて、やはりまったく古びていないことにつくづく感心した。「ニヒリズムをどう超えるか?」、それが近代以降、今日にいたるまで解決のつかない哲学の根本問題だからだ。その核心にこの小説は物語の力で迫っている。しかもチェーホフは決してペシミズム一般を非難しているわけではない。「階段を下から上まですっかりのぼりつくした時に生まれてくる」老年のペシミズムは認めている。うわべのことばだけではない、経験や苦しみ、あるいは過ちにすら裏打ちされた実質のあるペシミズムとでも言おうか。
 自他を含めて、その辺のことが身に沁みる年頃になってきたのかもしれない。

*ところで、長らく絶版状態が続いているちくま文庫版の「チェーホフ全集」(全12巻)は、いったいいつになったら復刊されるのでしょうね? 興味のある方はぜひ復刊ドットコムにリクエストの投票をお願いします。ちなみに私が復刊リクエストに票を投じているのは、他にポール・ボウルズの「シェルタリング・スカイ」(新潮文庫)とブルース・チャトウィンの「ソングラインズ」(めるくまーる)の2点です)。


1/26(土)「全面結氷」

 大雪の後、北風の吹き荒れる快晴の日が二日ほど続いた。昨夜は放射冷却も加わって厳しく冷え込み、諏訪で零下13度。つい先週まで氷の一片すら浮かんでいなかった諏訪湖がこの二日で一気に全面結氷した。伊那も今朝方は零下10度まで下がり、夜勤から戻ってみると我が家の水道も「全面結氷」していた。顔を洗おうとして家中のどの水栓をひねっても一滴も水が出てこない。台所の洗い物も洗濯もできぬ芳枝は諦めた表情で新聞を読んでいた。「朝起きて異変に気づいて慌てて水道屋に電話したけれど、家だけじゃなくてあちこちで水道が凍ってしまったらしくて、すぐには来れないってさ」。
 屋根に取り付けた太陽熱温水器も当然凍っていて風呂にも入れないし、なんだか眠気も飛んでしまって、ともかく汲み置きの水でお茶を沸かし一息入れてから犬のリラを連れて近くの雑木林を散歩する。吹き溜まりに足を踏み入れるとまだ膝までの積雪があって、長靴で辛うじてズッポズッポとラッセルして歩く。リラはそこを泳ぐようにジャンプして漕いでいく。
 標高1100メートルの廃村に住んでいた十年前までは、水道といっても裏山から落差を利用して黒パイプで沢水を引いていただけだから、毎年今ごろの寒さのピーク時を迎えると、出しっぱなしにしておいた水道の蛇口の先から排水が凍り付き、朝起きてみると台所のシンクに水が溢れ出た状態のまま氷の山ができていた。薪ストーブでお湯をがんがん沸かしては凍結箇所を溶かして回るのだが、地中浅く黒パイプを潜らせた部分はどうしても溶けず、結局春まで沢からバケツで水を汲み上げる日々が続いた。
 それを思えば、真冬のピーク時に一度や二度水道が凍っても、それが信州の冬だと言ってしまえばそれまでなのだが、いつも一日家にいる芳枝にしてみれば、里のはずれに建てたばかりの新居で水道が凍ってしまうと、やはり落ち込んでしまうのは致し方ない。おまけにさんざん苦労してあつらえたコンポストトイレも、オガクズと微生物菌の発酵具合が思わしくなく、このところ電気代ばかり嵩んでやたらと臭う。北側に張り出した洗面所の板壁は乾燥してどんどん隙間や穴が拡大してくるし、寒さと臭いとビルダーの連中に対する呪詛を口にしながら、ログ壁の隙間を見つけてはコーキングに余念がない芳枝である。そんな彼女と口論の挙句、昼間から一人で温泉に行く。


1/12(土)「空中楼閣」 

 この十年二十年で伊那谷もずいぶん変わったが、東京の変わり方のスピードはその比ではない。たまに東京の実家へ戻っても、うっかり近道などするとまるで記憶にない家や建物が次々に現れ、道に迷ってしまうこともある。
 正月明け、老親の様子を伺いに東京世田谷の実家へ帰る途中、いつものように小田急線経堂駅で下車し、記憶を頼りに馴染みの古本屋を三軒ほどはしごして回ったが、運悪く三軒ともに休みでシャッターが降りていた。こういうこともあるんだよなと住宅街をとぼとぼ歩いていたら、なつかしい場所に出た。坂の中腹にある船橋観音堂で、墓地に囲まれたたたずまいは昔のまま。境内にはまだポンプ式の井戸まである。何よりも枝をすっかり刈り込まれたとはいえ、銀杏やケヤキの大木が残っているのがうれしかった。小学校の頃、この観音堂に墓守?の一家四人が暮らしていて、たしか長男が同じ小学校の一級上だったはずだ。近所のガキ共とよくここで遊び、ケヤキの枝に板を渡し、そこに莚などかけてツリーハウスを作り、ターザンごっこなどした記憶が甦ってくる(後にPTAで問題になり禁止されたが…)。


 そのとき木を見上げていて、「空中楼閣」ということばが浮かんだ。自分が小学校時代を過ごした近くの4階建ての団地の2DKだって、いつのまにか高層マンション風のビルに建て替えられ、昔住んだ部屋はもうない。文字通りの「空中楼閣」ではないか。東京生まれで、年を取ってからもなお自分の生まれ育った家や土地がそのまま残っている人間は珍しいだろう。
 そこで久々にちょっと回り道をして水道道路を下り、その西経堂団地へと向かった。団地の敷地内に足を踏み入れると、道路も建物もすっかり変わってしまったが、街路樹の桜やケヤキだけは昔のまま残され、大きく育っているのが胸を打つ。このケヤキの木々がじっと同じ場所に佇み、車の排気ガスを浴びながら少しずつ幹を膨らませ、枝葉を広げ、ここまで大きく育ってきた間に、いったい自分はどれほどのことをなしたのか? 「樹木の生長の内にこそ生の秘密は隠されている」と言ったのはたしかドクトル・ジバゴだったが、たまに故郷の町へ戻るたびにそれを思い出す。


 しかし昔発泡スチロールの筏を浮かべて遊んだ烏山用水はすでに埋め立てられ、野球のボールの痕だらけだった団地の壁は建物自体すっかり建て替えられてその跡形もなく、小学校時代の自分が過ごした25号棟402号室は空中に消えてしまっていた。たぶんあの辺にあったはずだと思われる空中に向けて、記念にデジカメのシャッターを一枚切る。


1/4(金)「正月のプレゼント」 

 伊那谷でも荒れ模様の天気が暮れから正月にかけて続いた。積もった雪の量こそ10センチそこそこだが、横殴りの吹雪が四方から吹き付け、テラスはおろか窓のサッシの隙間からも雪が舞い込み、朝起きてみると窓枠の内側にまでうっすらと雪が積もっている始末。もちろん庭先にビニールシートをかけておいた薪の山などシートが吹き飛ばされて雪に埋もれてしまっていた。
 そんなわけで新年早々、たたでさえ生乾きの薪が雪でさらに湿って重くなり、それをストーブの横に並べて乾かしては少しずつ火にくべる羽目に。底冷えのする朝、なかなか火のつかない薪をうらめしげに眺めてはストーブの前で手をこすり、「ううっ、しょうがないからお金出して乾いた薪少し買う?」などと芳枝は言い出し始める。「いやちょっと待て、薪のことはおれに任せてくれ。まだ割ってないやつで結構乾いてるのもあるしさ」。この原油高の折り、辛うじて薪を自前で確保しているからこそ何とかやっていられるのに、その薪までいちいち買っていたらもたない。


 正月三日の朝は快晴だった。餅と紅茶で朝食を済ませ、二日酔いの頭にタオルを巻いて、さてそれじゃ薪でも割るかと外に出てみると、おやっ?いつのまにこんなに薪が?と一瞬わが目を疑う。薪置き場をよく見てみると、自分で集めた覚えのない丸太の山が目の前にどんと積まれているではないか。ざっと見積もって軽トラック一杯分ほど。ほとんどがカラマツで、松食い虫対策で切り倒され薫蒸した痕が微かに残っている。しかしどれも見事な切り口で3〜40センチ幅の手ごろな大きさに切り揃えられ、しかもよく乾いている。これなら割ればすぐに使えるだろう。昨日は半日山を歩いていて戻ってきたのは暗くなってからだから、その間に誰か届けてくれたものらしい。どこかにメモでもはさんでないかと探してみたが、何も出てこない。芳枝を呼んで、二〜三心当たりにも電話をしてみたが、みんな知らないという。いったい誰が正月二日にわざわざこんなプレゼントを届けてくれたのだろう?
 察するに、たぶん近所の爺さんなどがときどき採れたての野菜を何も言わずに玄関先に置いていったりすることがあるから、きっとその類のことなんだろうと思う。それにしてもいったい誰が? まあそのうちにわかるだろう。ともかくいまは、乾いた薪は天の助け、遠慮せずに使わせてもらいますよと早速斧を振り上げ薪割りに取りかかった。しかし考えてみれば、いまどき薪割り機も使わずにこうして手斧だけで薪を割っている家も珍しいのだろうな。新参者の中年男が苦心しながら斧を振るっている姿を、今日も誰かがどこか遠くから見ているのかもしれない。


 →戻る