《§伊那谷スケッチ 第4部 2008夏 6/20〜9/14》


9/14(日)「森羅万象に宿るもの」

 夏バテがたたって、季節の変わり目の風邪を引く。アリナミンに風邪薬、濃いコーヒーにリポビタンなどを服用して、何とか夜勤を乗り切っている。忙しい日は一晩にドリンク剤を2本空けないともたないときもある。そんな日はまた仕事から戻ってくると、アルコールや睡眠剤の世話にならないととても眠れない。決して健康にいいわけではないが、多かれ少なかれそういう各種「合法ドラッグ」に頼って生きているのが自分たちの日常で、市民社会で金を稼いで生きるとはそういうことだろう。 
 それにしても、今年の夏も尋常な暑さではなかった。年のせいもあるかもしれないが、この頃毎年のように夏を乗り切るのにひと苦労する。だから今頃になると夏の疲れがどっと出て、体調を崩すことが多い。長野の夏って、こんなに暑かったっけ?とたびたび思った。日中はとても畑仕事どころではなく、犬の散歩も8時前に済ませないと陽射しがきつくて難渋した。あんまり暑くて市営プールにも何度か通ったが、プールサイドでうっかり甲羅干しなどしようものなら、一気に肌が焼けてしまいあとでひりひりした。オゾン層が破壊され、強烈な紫外線が肌に突き刺さる実感。そうでなくても当方、薄くなった頭をさらに丸めているので、後頭部に感じる陽射しの痛さを人一倍強く感じる。
 日が落ちてからビールを飲みながら芳枝とよく話したが、東京の世田谷で過した少年時代の夏、最高気温が30度を越えるとテレビのニュースになったものだ。それがいまは35度を越えないとニュースにならない。ということはこの3〜40年で少なくとも5度以上は気温が高くなっているわけで、それをひしひしと体で感じる。地球温暖化というような生易しいものではなく、正しくは「地球の熱帯化」が進行しているというべきだろう。以前標高1100mの廃村に住んでいたときは、天気の生成を下界よりももっと間近で皮膚に感じたから異常気象には余計敏感になった。そして、この世は遠からず滅びるだろうという確信を深めた。夏を過ごすたびに、いままさにその滅びの日々を生きているのだなとあらためて実感する。

 そんなことを考えながら今日、裏山の物見や城へ至る森の木陰道を歩いていたら、先日読み返した山尾三省の『森羅万象の中へ その断片の自覚として』という本のタイトルが甦ってきた。森はまさに森羅万象、無限の生き物の気配に満ちている。仮に畳一畳分の区画だけとってみても、そこを細かく見れば、蟻や昆虫や微生物や雑草や草花や鳥や樹木にいたる無数の生き物がひしめいている。ひとつの森全体ともなれば、そこにはまさに無限のいのちがある。まさしく「森羅万象にいのちというカミが宿っている」のである。ときどき森を歩いていてそのことにはっと気づかされると、それこそアニミズムというものの不思議だなと感じ入る。もちろん人間もその無数のいのちのひとつにすぎない。しかし人間だけがそのことを自覚している。そこが他の生物と決定的に異なる点であり、それだけ他のいのちに対する責任も重い。
 それなのに昨今の事故米不正転売のニュースなどを見ていると、市民社会というところは逆に「森羅万象にお金が宿っている」という暗黙の原理で成り立っているのだなと思わざるをえない。だから金や仕事のためなら他人のいのちや健康など二の次でいいわけで、それはどこかでぐるっと回って自分たち自身の喉首をも締めていく結果になる。そうでなくてもこの世はすでに滅びに向かっているというのに、焼酎のメーカー名を気にしながらお湯割りのグラスを口にし、「煎餅も当分買うのやめておこうか」などと話していると、何となくため息が洩れてしまうな。 


8/22(金)「自分に還れる場所」 

 そこでほっとひと息つくと、自分が本来の自分に還っていける場所というものがある。都会人ならば、行きつけの喫茶店や飲み屋のいつもの席がそうであり、田舎の住民ならば、海や山や川に自分だけのとっておきの場所のひとつやふたつは持っているものだ。
 ぼくも伊那谷での暮らしが長くなるにつれて、そんな場所が少しずつ増えていったが、今日久々に行った空木岳中腹の標高2000m付近、マセナギと呼ぶ尾根筋の一点もそんな場所のひとつだ。昼なお薄暗い針葉樹の原生林帯の急坂を息をぜいぜいさせて登りつめたところでぱっと視界の開けた場所に出るが、南側はほぼ垂直に切り立ったガレ場になっていて、その崖上の獣道に沿ったわずかな窪みが絶好の休み場所になっている。登山道からやや脇に逸れているのでほとんど人が通ることもない。ダケカンバの木の根元、這い松の陰にリュックを置き、汗びっしょりになったTシャツを着替え、手を後ろに組んで寝転がると、右手には南駒ケ岳や烏帽子岳など中ア南部の峰々が、また晴れていれば左手には塩見から赤石に至る南ア南部の山並みがくっきりとした姿を見せる。

 曇りがちだった今日は、麓の市街地を透かして遠くの山々が靄にぼおっとかすんでいたが、たまにここまで登ってくるとそれだけでも新鮮だ。ふだん村はずれの一軒家に住んでいるとはいえ、ぐるりを畑に囲まれているとこの季節は草刈り機や耕運機のエンジン音の絶えることがなく、家にいても落ち着かない。また病院の夜間救急外来の受付もお盆前後は患者のピークで、ほとんど眠れぬ日が続いた。来客も続いたし、地獄の暑さもようやく峠を越し、お盆が過ぎてやっとやれやれというところだ。こうして山の静寂に耳を澄ませて横になっていると、やっと本来の自分に戻ってこれたことを感じる。久々にここまで連れてきた雌犬のリラもそんな表情をして下界を眺めている。
 肌に感じる風はもう冷んやりとしていて秋の風だ。リュックから長袖のシャツを取り出してはおる。


8/13(水)「こだわり」

 お盆を過ぎると、もう冬用野菜の種蒔きの時期になる。休みの日しか畑などできないし、それにこの暑さでは日中は何もできないから、朝夕の一時が勝負になる。トウモロコシの収穫を終えた跡地を均し、ミニトラのエンジンを唸らせてどんどん土を起こし、肥料を梳きこんでいく。するとエンジン音に驚いたのか、目の前を灰色の背をしたモグラが慌てて逃げていく。どうやら土の中のねぐらを奪ってしまったようだ。三時間ほどで作業は完了して、あとは周辺の草刈りなどしてから昼前に上がる。
 最近、必要があって七年前に亡くなった山尾三省の著作をまとめて読み返しているのだが、三省さんは最後まで「鍬一本」で畑をやることにこだわった人だった。ぼくも山に住んでいた頃はまだ鋤と鍬だけで畑を耕していたからわかるが、鍬一本で一反歩の畑を起こすのは並大抵の労力ではできない。また時間も恐ろしくかかる。しかし能率を度外視していえば、鍬一本で畑を耕した方が労働の達成感も充実度もぐっと深く大きいものがあるのはまちがいない。
 それがわかっていながら一度機械の世話になってしまうと、もうなかなか元には戻れなくなるのが実情だ。ぼくが使っているのは管理機と呼ばれる一番小型のミニトラクターだが、これに慣れてしまうと畝立て以外はほとんどこれに頼ることになり、この頃はよほどのことがなければ鋤や鍬で土を起こすこともなくなった。周辺を見回しても、自家用菜園とはいえ、まったくトラクターを使わずにやっている畑などどこにも見当たらない。
 それを思うと最後まで鍬一本でやる畑にこだわり、山仕事も決してチェーンソーは使わず、鋸と鉈だけで木を伐り出した三省さんのアナクロな生き方は一貫していた。勿論ワープロもパソコンも使わず、原稿はいつも万年筆で書かれていた。亡くなる少し前に屋久島のお宅にお邪魔したとき、居間の片隅に置かれた白い電話とFAXがほとんど唯一の文明の利器だったことを思い出す。
 さてある時点まではほとんど似たような暮らしを志向していたぼくの方は、いまではこうしてインターネットもやるし、ミニトラも使うし、草刈り機のエンジン音も響かせる。テレビとエンジンチェーンソーを除いて、ふつうの田舎の家庭が持っているほどの機械はだいたい使っているといってもいいだろう。こうしてロマンチシズムがリアリズムに取って代わってきた結果、さていま自分の手元には何が残っているのか? 三省さんの本を紐解きながらあれこれ再考している次第である。


8/12(火)「蜂刺され」 

 夕方、庭先にしゃがみこんで草刈りをしていたら、突然蜂の群れに囲まれ、手や足を数ヶ所刺される。どうやら誤って蜂の巣に触れてしまったらしい。チクンチクンと体に痛みが走ると同時に鎌を手放して立ち上がり、Tシャツに取り付いて離れない蜂を手で払いよけながら家の中に駆け込んだ。それから着ていたものを全部脱いで水シャワーを浴びて患部を冷やす。一瞬パニック状態になりかけたが、冷静になってよくみてみると、痛みや腫れの程度はさほどではないし、さっき目にした蜂の姿も少なくともスズメバチのような大型の蜂ではなかったことに安堵して、あとはそのまま患部にキンカンなど塗って着替え、地下足袋を履いて元の場所に戻った。
 そして刺された現場を恐る恐る調べてみると、生い茂った雑草の中ではなく、その横に積んである薪の束の裏に直径10センチぐらいの蜜蜂(?)の巣があるのを発見。巣の周りには数十匹の蜂が蠢いていた。そういえば2〜3週間前、テラスの軒下に巣食っている蜂の巣を見つけて撤去したことがあったが、あのときの生き残りがこんなところにまた巣を作ったのかもしれない。夏場とてほとんど薪をいじることもなかったから、それまで気がつかなかったのだ。
 夕闇が迫り、蜂たちの活動も鈍くなってきたところで、スプレー式のキンチョールを持ってきて、「君たち悪いけどよそへ行ってね」と声をかけながら、巣のそばからそおっと噴霧した。一発目で巣の外側に張り付いていた蜂はだいたい逃げていったが、まだ中で蠢いている剛の者がいる。二発目・三発目のスプレーを吹きかけると、巣の中で絡み合っていた数匹の蜂ももぞもぞ出てきて、一緒に固まって巣からだらんと垂れ下がった。真ん中の黒い大きな塊がたぶん女王蜂だろう。これでもう残っている蜂はいないはずだ。そばにあった棒で巣を突いて、庭の端に捨てに行く。
 それにしても風呂場に駆け込む間、尋常でない主人の雰囲気に恐れをなして、いつものように家の中で昼寝をしていた豚猫のタマが慌てて外に逃げ出したのがおかしかった。それを見て昔、山の家でスズメバチに刺されたときに、悲鳴をあげながら家の中に駆け込んできたぼくの姿を見て興奮状態になり、のたうちながら一緒に家の中を転げ回ったいまは亡き牡猫麻太郎の顔つきを思い出した。


7/25(金)「反則」

 あんまり暑いので、このところ夜は庭のパオで寝ることが多い。ドーム状の天井を見上げながら、遠くを走るローカル電車の響きや耳元から聞える虫の鳴き声などに耳を澄ませていると、いつしかうつらうつらしてきて気持ちよく眠ってしまう。木枠の周りに古シーツとテント地一枚張ってあるだけの夏仕様だから、夜明け方になるとちょっと寒いほどで毛布一枚では足りないぐらいだ。
 ところが先日、その夜明け方に時ならぬエンジン音とおしゃべりの声で目が覚めた。枕もとの腕時計を見るとまだ5時。すぐ隣の畑の持ち主が朝早くから耕運機のエンジンをかけて仲間と仕事を始めたらしい。やれやれ、またかよとため息をつく。これでもう三度目だ。日中の暑さを思えば、朝早くから畑仕事をやること自体はやむをえないが、このエンジン音はたまらない。いくら田舎は朝が早いと言っても、まだ朝刊が届く前の時間だ。
 おまけに隣の畑は、麓の市街地に住んでいる年金暮らしの老人が親戚の人たちと趣味でやっている家庭菜園で、こんなに朝早くから耕運機のエンジンをかける必然性がない。いくら去年までは荒地だったとはいえ、土地の分筆のときには印もついてもらったし、すぐ目と鼻の先に新しく住宅ができて人が住み始めたことは了解済みのはずである。だいたいいまこの時期に土を起こして何をしようというのだろう? 野沢菜や大根の種まきにはまだ早いし、いまどき耕運機をかけている畑は他に見かけない。
 朝になって女房が役場の生活環境課を通して地主に苦情を申し入れると、畑ではとくに何も作っていないという。ただ荒らしておくわけにはいかないから、土を起こして草を生やさないようにしているだけだと。この返答には呆れてしまった。朝からオイル臭いエンジンをぶっぱなして騒音を立て、そこまでして草一本生やさないようにしないといけないの? 道理で何回も何回も耕運機を動かしていたわけだ。いつかも畑の縁に植えておいたニラが隣の除草剤で枯れてしまったことがあるが、隣からすれば草に埋もれかけた我が家の畑などさぞ見苦しいにちがいない。
 こうなるといよいよ除草剤なんか絶対使うもんか。草をそこまで敵視しなくてもいいじゃないのと言いたくなってくる。
 それにしてもこの頃、他人のことなどお構いなく、やってしまった方が勝ちという感じで、人間社会の暗黙のルールが破られる「反則」が相次いでいる。それも案外こんな小さなことから始まるのかもしれない。


7/21(月)「草とのたたかい」 

 「くさかんむり」に「早い」と書いて「草」と読む。毎年今頃の季節になると、本当にその通りだなとつくづく思う。とくに昨年移り住んだこの500坪ほどの土地は、それまで十年ほど地主がほったらかしにしていた荒地だけに、スギナがあたり一面にはびこっていてどうにも始末が悪い。冬の前に農協に頼んでトラクターで開墾までしてもらったのだが、春を過ぎるとやはりスギナが芽を出し、オヒシバやメヒシバといった雑草の常連とともに、草刈りをしてもしても、一晩に2〜3センチぐらいずつ伸びてくる。要するに畑仕事とは、この雑草や害虫の類を取り除けて、作物がよく育つよう環境を整えてやる作業にほかならない。
 しかしこの酷暑の日々、仕事の合間をぬって、痛む腰をさすりながら地べたに這いつくばって草とのたたかいに明け暮れていると、とても中年夫婦二人ですべて無農薬でやりきれる広さではないなと思ってしまう。誰か手伝いを頼むか、あるいはせめて庭の部分だけでもいよいよ除草剤を使うしかないのか?と女房と議論になったりもする。現に近所の人からは「なぜスギナ殺しを使わないのか? そうすれば楽になるのに」とよく言われる。もちろん我々以外、周辺の畑はすべて除草剤を使っている。若いときと違って、田舎の市民社会の現実をある程度知っているいまは、いちがいにそれを非難する気にもなれない。しかしこの二十年余りこだわってきたものを、そうかんたんに放棄するわけにもいかない。福岡流の不耕起自然農法も考えないではないが、あれはあくまで周辺に農薬を使う畑がなく、しかも十分に肥えた土ができあがっていてこそできる農法である。


 そんなことを思いながら鎌を使う手を休めて汗をぬぐっていると、庭先で3メートル近くにまで育った向日葵の大輪の花が、こちらを見下ろして風に揺れていた。その手前ではコスモスが涼しげな薄紫の花を少しずつつけてきている。今日はジャガイモを男爵、大白、アンデス、メークインとそれぞれ10キロ余り収穫した。トウモロコシもそろそろ髭を垂らしてきたし、今年初めて蒔いてみた雑穀のアマランサスもぐんぐん育っている。去年に比べればかなり土も肥えてきたことはたしかだ。もう引っ越さなくてもいいのだから、何とか除草剤を使わずにもう少し頑張ってみようと女房と話す。


7/4(金)「静けさとインド音楽」 

 昼下がり、古本の用事を済ませてから、庭先のパオで久しぶりにインドの弓奏楽器エスラジの練習をする。四方に網戸をくり抜いてはあるのだが、この季節テント地のパオの中はあんまり蒸し暑いので、外のウッドデッキに出て弾く。目の前には黄色い花をつけたカモミールの群れ。そろそろ花をつけてきそうな向日葵の列。ネットを張った胡瓜と実をつけてきたミニトマト。横に這うカボチャの葉。隣の玉蜀黍畑を隔てて共同墓地があり、その向こうに雑木林の防風林と靄にかすむ山々が見える。時おり吹き抜ける南風が心地よい。
 弾いていてふっと思った。「今日はなんて静かなんだろう」と。そうだ、エンジン音が全然しないじゃないか。周囲を全部畑に囲まれていると、たとえそれが家庭菜園であっても、トラクターに始まって草刈機、農薬散布機、あるいはチェーンソーの音と、どこからか絶えずエンジン音が響いてくる。それが今日は見渡す限り、珍しく畑に誰も出ていない。我が家でも昨夕、機械のエンジンをギンギンに響かせて草刈りをやったばかりだから、今日は何もしなくてもよい。へぇー、こんな日もあるんだなと驚く。まるで一瞬時間が止まってしまったような午後のひと時。せっかっくだからいろいろとチューニングを変えて、楽器の肩慣らしをする。
 インド音楽のラーガ(曲・音階)は、原則として太陽の運行に合わせて演奏される時間帯も決まっている。やはりその時間帯にあったラーガを弾くのが気分的にもぴったりくるから不思議だ。昼下がりのこの時間帯なら、「ブリンダバニ・サーラン」というラーガがある。ドレミの七音階のシの音(インドの呼び方なら、サレガマパダニサのニの音)を半音と全音両方使うのが特徴だ。太陽がやや傾きかけてきて、そろそろ沈みそうだけどまだ昼の光も放っている、そんな不安定な時間帯の音。これが有名なバイラビという夜明けのラーガなどになると、ほとんど半音ばかりの物悲しい音色になる。
 記憶を頼りに少しずつラーガを弾いていると、十年前、これを師匠について習ったインドのシャンティニケタンの民家の午後の一室が思い出されてくる。あそこも暑かったな。床にマットを敷いて座り、対面したインド人の師匠から1対1でフレーズを口移しに教わるのだが、借りていたサンタル人の平家はスレート葺きの屋根で、天井には扇風機が回っているのだが、夕方になると必ず停電した。ベンガルの先住民族であるサンタル人の村でも、伝統的なわら葺きの屋根は廃れ、新しくできる家はどこもスレート葺きかトタン屋根になっていた。雨の音はうるさいし、何よりもくそ暑い。
 しかしたった1ヶ月の短期集中レッスンだったが、それまで何年間か東京で日本人の師匠の下に通っていた時にはわからなかったことが、体でわかった。東京では師匠から書いて与えられたフレーズをその通り正確に弾くことがまず求められたが、インドではどうやって自分でフレーズを作り出すか、つまり即興演奏の仕方にレッスンの主眼が置かれていた。だから受け身ではいられない。そしてその即興の部分、それを体で理解し会得するには、少なくとも数年間は朝から晩まで集中してレッスンに明け暮れる必要があり、自分にはもうそんな余裕はないということ。そしてとてももうこの歳で、インド人の早弾きと複雑なリズムの取り方の真似などできないという当たり前の事実も身に沁みてわかった。(おまけに日本人のインド音楽演奏家が、なぜあんなに性格に癖があるのかということも…)。
 そんなわけで、いまは時々子供たちの歌の伴奏をしたり、猫を相手に自分の楽しみで弾いているだけのエスラジだが、もしあの時あと十歳若かったら…とふと思うこともないではない。

*(写真手前)通常サイズのエスラジ。カルカッタの楽器屋などでときどき見かける。主弦4本・共鳴弦15本。(写真上)特注品のビッグエスラジ フレットはほぼシタールと同じで主弦が6本ある。これはいまプロで活躍しているK氏が昔カルカッタから持ち帰り、その後神戸在住の女性に十万円で譲渡。ほとんど弾かずにマンションの押し入れに入れておいたところ、阪神淡路大震災に遭遇。ケースが一部壊れただけで奇跡的に助かった。時々弾いてくれるならということで、三代目の小生が十年前に貰い受けた。低音の響きが素晴らしい。これを考案した私の師匠の師匠にあたる故ラナディール・ロイは、あまりに激しい演奏をし過ぎて、コンサートの後、楽屋でシャワーを浴びているうちに心臓発作を起こして急逝。まだ40代半ばだった。楽器を膝に垂直に立て、左手を上下にスライドさせて演奏するので、心臓に負担がかかりやすい。
 


6/23(月)「蛍の木」

 
♪ホタルを見るのに日本ではお金がいるんだね
  ホタルを見るのにここでは夜を待てばいい
           (豊田勇造「ブンミー」)

 辰野町の松尾峡で毎年恒例の「ほたる祭り」が始まった。一度見に行ったことはあるが、蛍の数より人の数の方が多いくらいで、やれフラッシュをたくな、懐中電灯の明かりを消せだのとスピーカーからの音がうるさく、落ち着いて蛍を鑑賞する気分にはなれなかった。それに最近の調査では、松尾峡に生息するゲンジボタルのほとんどは1960年代に滋賀県などから移入・繁殖された西日本種の子孫で、在来種に比べ発光する時間が短いという。何も入場料まで払ってこんな人ごみに行かなくても、例えば以前住んでいた駒ヶ根の東伊那という農村地帯などでは、梅雨の晴れ間の夕刻、天竜川沿いの田んぼの水路を犬を連れてぶらぶら歩いていると、数こそ少ないが闇にまぎれてちらほらと飛び交う地元の蛍を目にすることができた。
 そんな蛍を目で追っていると、闇の向こうにもう二十年以上昔のインドの旅の一シーンが甦ってくるのだった。
 ちょうど雨季の今頃、ガンジス河上流のヒンドゥー教の聖地リシケシにいたときのことだ。滞在していたアシュラムの庭に大きなガジュマルの木があって、夕刻になるとその木の枝全体に蛍が群がってまるでクリスマスツリーのように輝いた。白人のヒッピー旅行者の溜まり場になっていたそのアシュラムの屋上では、毎晩夕刻になるとそんな光景を横目に、オレンジ色の衣をまとったインド人の若いサドゥーを中心に輪になってチラム(大麻パイプ)を回し飲みするのが恒例の行事になっていた。興が乗ってくると誰かがシタールを弾き始め、それに合わせて笛を吹く者が出てくる。
 階段の下の二畳ほどの板の間を部屋にあてがわれていた私は、ある晩うっかりドアを開けたままで屋上のパーティーに出かけた。回ってきたチラムでいい気持ちになり適当なところで部屋に引き上げてくると、部屋の中に蛍が十匹近くも舞い込んでいて出ていかない。まあいいか、蛍を見ながら寝るのも乙なもんじゃないかと思い、そのままローソクを吹き消して横になった。しかし目をつぶっても時々チチーと鳴き交わしながら部屋の中を飛び交う蛍が瞼にちらついて、なかなか眠れない。そうでなくても堅い板ベッドにシュラフを敷いて横になっているだけである。背中は痛いしチラムの効きもあって目が冴え、なかなか寝つかれずに夜明けを迎えた。そうして朝の光の中で間近に蛍を見てみると、インドの蛍は日本のものと比べかなり大柄で、結構グロテスクな昆虫だなと思った記憶がある。
 果たしてあの蛍の木はまだ残っているだろうか?


6/20(金)「山歩きの楽しみを邪魔するもの」

 
梅雨の晴れ間の先週末、実に久々に伊那富士(戸倉山)へ登る。今年初めてだ。人の少ない旧長谷村の市野瀬からのルートを取ったのだが、案の定山頂以外では誰とも遇わず、新緑の森を、犬を放して気持ちのいい山歩きができた。やっぱり森を歩かないとインスピレーションが湧いてこないな。
 しかし歩いていて気になることがひとつあった。「頂上まで○○m」という木の標識がなんと100mおきに立てられていて、それが目障りでしょうがないのだ。これは昨春、長谷村が伊那市と合併してから後、市の観光課が登山道の整備の際に設置したものらしいが、それ以前の何もない山道を知っている者からするとうっとおしくてしょうがない。

 だって山にきたときぐらい、市民社会的なスケールから逃れたいわけじゃない? 山歩きの楽しみというのは、麓の町を後にして森を抜け尾根を越え山ふところに入っていくにしたがって、少しずつ市民社会のあれこれを忘れ、心身ともに自然界の時空に浸っていく、その醍醐味にこそあるわけでしょう。ところが息をぜいぜいさせて一息つき、鳥のさえずりに耳を澄ましふっと顔を上げると、「頂上まで○○m」の看板。余計なお世話だと言いたくなる。登山口から片道2時間足らず、標高1680mの里山だもの。自分がいま全行程のどの辺にいるのか、おおざっぱに意識できていればそれでいいじゃない。同じコースを歩いていても、その日の天気や体調・気分によって、えらく先が遠く感じられるときもあれば、気がついたら、なんだもうここまで登ってきてしまったのかと驚くときもある。そういう時計で計測できない漠然とした時間の感覚というのが、たぶん人生においても、実は大切なのではないだろうか。
 登山道そのものはよく整備されていて気持ちいいのだが、標識などというものは要所に何箇所かあれば十分だ。駒ヶ根側のキャンプ場からのルートにも「○合目」の標識がところどころに立っていて気にはなるが、これほど目障りではない。ついでに言うと市野瀬ルートの中腹にある南アルプスの絶景をぐっと間近に拝める休憩場にも、「見晴台」というでっかい看板が立てられ、せっかくの本物の見晴らしが台無しになってしまっている。そう思っているのは私だけではあるまい。


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