《§伊那谷スケッチ 第4部 2008秋〜2009冬》


 3/13(金)「荒野へ」 

 すっかり旅からは遠ざかってしまったものだ。雨の一日、映画館で見逃したジョン・クラカワー原作の「イントゥ・ザ・ワイルド(荒野へ)」(ショーン・ぺン監督)をDVDで借りてきて観ながら、しきりにそのことを思った。何者でもありたくない、ただ生きてそこにあることに徹したいという熱烈な生への希求、それがアラスカの荒野にたどり着いた一人の青年の姿に実によく表れていた。戸籍や身分など社会的な属性を可能なかぎり捨てた単純化された生への欲望。自分自身、振り返って思えば出発はそこにあったはずなのに、いつしかその気持ちを喪って久しいことに気づく。しかし市民社会で生きて年を取るということは、大なり小なり何者かであらざるをえなくなるわけで、ましてや自分の背丈よりも少しでも大きな何者かであってほしいと願うのが家族や世間というものである。それを極力退けて生きてきたつもりが、いつしか何者かであろうとしてまた無意識にあがいている自分がいる。
 二十年以上前に一年ほどインドを旅して帰ったとき、体調を壊して帰ったせいもあるが、帰国してしばらくは身内以外誰とも連絡を取らず、ひっそりと旅の余韻に浸って過ごしていた。ここに自分がいることを誰も知らないという奇妙な快感。新宿の路上でばったり友人と出くわすまでの数週間は、まるで透明人間になったような気分で東京の街を歩いていたことを思い出す。あの安堵感はなんだったのだろう?
 その同じ旅で、バックパッカーで賑わう安宿のドミトリー・ルームにTシャツに半ズボン姿の白人の老人が、たった一人で滞在しているのを所々で見かけて奇異に感じたことがある。しかしいまになって思うと、あの老人の旅人も孤独と引き換えに社会的な属性を捨てた何者でもない自分の姿に戻って安堵していたのではないだろうか。そしてそれがひょっとして近未来の自分の姿であってもちっともおかしくはない。女房と二人でDVDを見ながら、そんなことをひそかに思ったりした。


 2/10(火)「このまま春に?」

 厳冬期にしては異様な暖かさが続いている。平地ではすっかり雪も解け、スタッドレスタイヤを履いているのがもったいないような道路状況だが、一歩山へ入るとさすがにまだ日影は雪で、つるつるに凍ったカーブを恐る恐るハンドルを切る羽目になる。いくらなんでもこのまま春にずれこむわけがないだろうという思いと、いやひょっとしてこのまま大雪も降らずに本当に春になってしまうのではないかという予感とが交錯して、なんだか落ち着かない気分で日々を過ごしている。
 今日久々に中ア南部の吉田山・戒檀不動への登山道に足を踏み入れたときにも、そんな自分の気持ちを裏書きするような光景に出会った。沢の手前の残雪の上に、細長い豆の莢が点々と散らばっているのである。なんだろうと思って上を見上げると、太い藤弦が幾本もの雑木に巻きついて垂れ下がっていた。そうか、フジの実がはじけたあとの莢じゃないか。


 もう二十年以上前になるだろうか、東京を出て、長野生坂村の山中で初めて冬を越したとき、3月も後半になり異様な暖かさに襲われたある日、辺りの崖一帯から家のトタン屋根や目の前の沢や庭先の木々の間に、何かパチンコ玉のようなものが物凄い勢いで飛んでくるのでびっくりしたことがある。何事かと思い、双眼鏡を取り出して周囲を窺うと、辺り一帯に茂っている藤の木の豆粒状の実が急な暖かさのせいで莢からはじけて飛び散っていることがわかった。なんともダイナミックな自然界の春の訪れ!と感嘆したものだが、それが二十年後の今は本来なら厳冬期である2月初旬の時点で、すでに起きてしまっているのだ。ヨーロッパの大雪といい、オーストラリアの熱波による山火事といい、気象の上での避けようもない「グローバリゼーション」を思うと、これを春が来たと素直に喜ぶべきなのかどうか、複雑な気持ちを抱きながら残雪を踏みしめて山道を歩いていった。


2009年 1/28(水)「アル中の友の死」 

 年の瀬に詩人のサカキナナオが山向こうの大鹿村で亡くなり、正月明けにはアル中を患っていた昔の親友のTが湘南のアパートで人知れず死んでいるのが発見された。ナナオは享年85歳。家族に看取られることこそなかったが、山深い居候先での放浪の詩人にふさわしい大往生だった。山奥の不便な場所にもかかわらず、通夜には数十人の仲間が集まり、飲めや歌えよの大宴会が繰り広げられたとか。これでまた次々と新たな「ナナオ伝説」が流布されていくにちがいない。
 それに比べてTの場合はまだ53歳。誰にも看取られることなく、徹頭徹尾孤独にあの世へ逝ってしまった。正月明け、老親の様子を伺いに上京した際、Tを呼び出して会うつもりで何度も携帯に電話したが、「お客様の都合でこの電話はただいま使われておりません」というアナウンスがむなしく流れるばかりで、まったく連絡がつかなかった。賀状の返事もなく、いったいどうしているかと心配していたところに遺族からの連絡が入った。死因も死亡日時も不明だという。去年の春、久々に電話で長く話したときに、その声音のあまりの磊落ぶりに、もう奴もそんなに長くはないなと予感していたから、死そのものは意外ではなかったが、その死に様を思うとやはり胸が痛む。
 以来、車を運転しているときとか、夜勤で仮眠ベッドに横になっているときとか、ふとした拍子にTとの思い出が脳裏に浮かんでくる。それもはるか昔のきれぎれの思い出ばかりで、中3の冬、一緒に通っていた塾を二人してさぼり、肉屋で買った揚げたてのコロッケをふうふう言いながら共に食べたこととか、高校生の頃、週末ごとに互いの家を行き来して、マル・ウォルドロンの2枚のレコード(Left aloneとAll alone)を繰り返し掛けながら夜明けまで語り明かしたこととか、他愛もない記憶ばかりが甦ってくる。
 そういえば浪人時代の冬だったか、そのマルの来日コンサートを二人で聴きに行ったことがあったな。えらく寒い日で、会場に着くとコートのポケットからそっとウイスキーの小瓶を取り出して自分にすすめたTの笑顔が悔恨のように思い出されてくる。しかし考えてみれば、自分の結婚の保証人にまでなってもらったというのに、この十年来、Tとは実際には一度も会っていない。ある時点からまるでボタンの掛け違いのようにお互いの生き方がずれてきてしまい、賀状と時たまかかってくる電話でのやりとりがあったにすぎない。それもたいていは泥酔状態での会話だったから、まともな話はしていない。だから仮にまだTがこの世に生きていたとしても、自分の中にいるTは記憶の中のTでしかないのだ。そう思い定めることで、この頃ようやく気持ちの整理がついてきた。
 遺族のたっての要望で、葬式にも焼香にも来てほしくないとのことなので、Tが若い頃好きだったブレイクの詩の一節をここに掲げて、私の弔いとしたい。Tの霊よ、安かれ。

 おお、堪えがたき人間の条件よ。
 一つの法則の下に生れながら、他の法則に縛られて、
 病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて、
 かくも相反する法則によるとせば、自然の意味とは、そも何か。


12/21(日)「風のガーデン」

 テレビドラマ「風のガーデン」の最終回を病院の仮眠室で見た。途中、急患のカルテを取りに行ったりしてゆっくり見られたのは後半の30分ほどだが、末期癌を患う麻酔科医が一度は絶縁された故郷に戻り、そこで家族と和解して死を迎えるシーンなど、それだけでも充分に見応えがあった。実際に癌を患っていた祖父役の緒形拳のやつれ方に対して、病人役の中井貴一がいつまでも健康そうで生き生きしているのにははらはらさせられたが、生と死・家族と医療をめぐる今日的なテーマが、思いっきりセンチメンタルに、いかにもテレビらしく描かれていて、倉本聡の最後の脚本というに相応しかった。
 テレビを消して、唐突だが山尾三省のことを思った。7年前、末期の胃癌で療養中の詩人を屋久島の自宅に訪ね、無理をお願いしてインタビューをさせてもらった際、「家族の中で人は死ねるか?」というのが、これから大きな社会問題になってくるだろうと述べていたからだ。
〈この生老病死の病・死の迎え方の問題というのは、あの……ぼくはまだ必ずしも死ぬと思っているわけではないんですが(笑い)、ひょっとしたら生きるかなと、生きようとは思っているんですが、再起のテーマというのはそれですね。「家で死ぬ」という家族の再構成です。「死ねる家族」、その中で死ねる家族の再構成といいますかね〉(月刊「望星」2001年8月号)。
 そうおっしゃっていた三省さんの、ぎょろりと光る病人特有の目のかがやきを思い出す。「風のガーデン」はまさにそのテーマをテレビを通して描いた物語だった。
 しかし考えてみれば、ともに東京出身で北海道と屋久島という両極の地についの栖を求め、テレビのシナリオライターと百姓詩人という、およそ縁のなさそうな二人が、生涯の最後にたどりついたテーマがほとんど同じだったというのは、不思議なことである。逆にいえば、そこにこそ真に今日的なテーマがあるということなのだろう。
 さてここからは私事になるが、その山尾三省のアンソロジーの編・解説の仕事を、さる東京の出版社から依頼されたのが、この7月。それからひと夏かけて、未読のものも含め40冊近い彼のほぼ全著作にあらためて目を通し、詩とエッセイの候補作品を絞り込み、編集者と何度もやり取りをして目次やページ数を決め、初校ゲラも出、それに沿って解説や略年譜も書き上げ、あとは校正に取りかかるだけというところまでこぎつけた10月のある日、作品の二次使用の許可を求めた某出版社からクレームがつき、それが思わぬ方向に発展して、ここにきて企画そのものが暗礁に乗り上げてしまった。著作権をめぐる法と出版倫理との考え方の食い違いから話がどんどんこじれてしまい、本来ならとっくに刷り上って書店に並んでいるはずのものが、果たして本が出るのか出ないのかさえいまだにわからない状況である。
 まあしかし、今年は薪もたくさん集めてあるし、野沢菜も白菜も大根も大量に収穫して漬物もたっぷり漬けてあるから、少々のことがあっても慌てることはない。季節とともに火を焚き、土を起こし、草木を育てながらアニミズムのカミを思い、日々を反復していくこと。それこそ屋久島の詩人自らが実践していた地の道の基本であり、それなくして言葉は虚業にすぎない。そう自分に言い聞かせながら、年の瀬の一日一日を過ごしている次第である。

(*)これを書いた数日後に年の瀬のどんでん返しがあって、ようやく著作権問題に片がつき、来年の2月刊行が正式に決まりました。一時は完全に諦めていただけに、ほっとしました。タイトルは「銀河系の断片 山尾三省ベストコレクション」。出版社は幻戯書房です。


11/30(日)「ムジナ救出作戦」

 炎上するタージマハルホテルの映像は、かつてのインド旅行者の目には衝撃的だった。インド・ムンバイで起きた同時テロ事件のニュースを複雑な気持で反芻しながら朝の散歩をしていると、飼い犬のリラが田んぼの脇の蓋が開いたままになっているマンホールの方へまた寄っていこうと紐を引っ張る。2〜3日前ここを通ったときも、しきりにこのマンホールを気にしていたことを思い出し、なんだろう?と近寄って穴を覗いてみた。すると直径50センチほどのマンホールは思ったより深い穴で、人の背丈をはるかに越えていた。しかもその穴底のぬかるみでは、茶灰色の毛をした小型犬ほどの獣が全身濡れそぼってショボショボした眼でこちらを見上げているではないか。その眼と眼が合ってしまった。
 黒い鼻筋からするとタヌキかムジナか? いずれにしてもまだ子供で、夜中にこの辺をうろついていて穴に落ちてしまったのだろう。少なくとも2〜3日はこの穴底に閉じ込められていたことになる。しかも昨日は雨だった。ドジな奴はどの世界にもいるものだ。何とかしてやりたいと思ったが、マンホールにはハシゴもないし、手を伸ばしても届く距離ではない。だいたい素手でそんなことをしたら、噛みつかれるのが落ちだろう。
 ああ見なければよかったのにと思いながら犬を連れていったん家に戻り、女房の芳枝と語らって、竹の棒などを車に積んで再び現場へ。ところが穴はよく見ると3メートルほどもあって、持ってきた棒は短すぎて何の役にも立たない。辺りを見回すと近くで畑をやっている人がいたので、声を掛けて訳を話し、ロープにジョレンを結わえて穴に垂らしてもらう。しかし獣は穴の底をぐるぐる逃げ回るばかりで、どうにもならない。そもそも誰かが蓋を開けっ放しにしておいたのが原因なのだから、役場に連絡して捕獲してもらうしかないなということになり、また家に引き揚げる。ところが昨日は土曜日で役場に電話しても守衛しかおらず、埒が明かない。半分は諦めかけたが、このまま放っておけば穴底でくたばるのは時間の問題だろう。
 何かいい方法はないものかとポリバケツやカゴを手にしては思案するが、なかなかいい知恵が浮かばない。そのとき芳枝が縄に首吊りのような輪っかを作ったのを持ってきて、「これで引っ掛けて吊り上げられないかしら?」と言う。よし、ダメもとでやるだけやってみるかとまた現場へ引き返す。
 縄をそろそろと垂らすと、狭い穴底をぐるぐる逃げ回っていた獣の子がうまい具合に前足を縄に引っ掛け、もがくうちに輪にした部分が胴体に巻きついた。よし、かかったとの掛け声と同時に芳枝が一気に縄を引き揚げると、獣は見事に脇の田んぼに投げ上げられた。やった! 目やにだらけで相当弱っているものの、まだ体に巻きついた縄に歯を立てるぐらいの気力は残っている。手を齧られないよう苦労して縄を解いてやると、獣の子はヨタヨタと足を引きずりながら向こうの藪に消えていった。
 やれやれ、である。果たして生き延びるかどうかはわからないが、少なくともこれで土の上で横たわることはできるはずだ。
 帰りがけ「見事な生け捕りの腕前だったね」と芳枝を誉めると、まんざらでもない表情で「男を生け捕りにするよりはよっぽど簡単よ」との答えが返ってきた。


11/26(火)「ゆく河の流れは…」 

 消耗する出来事が続き、すべてが徒労に終わりそうな予感に襲われたある日の午後、犬を連れて天竜川の日溜りを歩く。先週は雪が舞っていたというのに、今日はまるで小春日和だ。ほおをなでる風も穏やかで、着ていたジャンパーを脱いで手に提げる。
 正面には中ア経ヶ岳の四角錐のような山容がせり出して見える。向こう岸の国道153はひっきりなしに車が行き交っているが、東岸にあたるこちら岸は、河原に沿って田んぼと藪と雑木林が続くばかりで、ほとんど人はいない。こうしていると、三途の河原から俗世を眺めているような不思議な気分になる。
 欲と欲のせめぎあい。見栄と見栄の突っ張りあい。そういう俗世の力学に翻弄されて自分を見喪いそうになったとき、ここに来るとなぜか気持が落ち着く。
 対岸の車の流れを遠目に、こうして北から南へ流れ下る天竜の水を眺めていると、月並みだがどうしても方丈記のあの冒頭の一節を思い出してしまう。

 〈ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、又かくのごとし〉

 高校生の頃、さして古典は好きではなかったが、これだけはいまだに諳んじているのが不思議だ。それだけ身に沁みるものがあったのだろう。
 ふと視界の片隅を黒い影が過ぎる。顔をあげると、河の中洲に烏の群れが次々に降り立っているところだった。何か獲物を見つけたのだろうか? 降り立ってはまた舞い上がる黒い烏の群れ。その向こうからは、工事のダンプカーの騒音が風に乗って響いてくる。横では柴犬のリラが、飼い主に倣って神妙な顔つきで河の流れを見つめている。

 やがてこの天竜の流れも、いくつもの谷を抜け、200キロ下流の遠州灘で太平洋に合流して大海に呑みこまれてゆく。自分もまたそうしたこの世の流れのひとつとして、生と死の途上を漂っている木の葉のような存在にすぎない。そう思うと、だいぶ気持が楽になってくる。
 日が傾くと、さすがに風が冷たくなってきた。ジャンパーをはおり、河原石から腰を上げる。


9/30(火)「自殺をめぐるあれこれ」
 
 秋分を境に一気に寒くなった。早くも石油ストーブを出す。
 地方の病院の夜間救急外来の受付にも、この季節特有の患者がやってくる。ついこの間までは「蜂刺され」や「蕁麻疹」の急患が多かったのに、昨夜は「膀胱炎」を訴える中年女性が相次いだ。季節の変わり目は誰にとってもきつい。心肺停止状態で救急車で運び込まれた急患も二人。その内深夜に運ばれた六十代の男性については、付添ってきた家族の様子が尋常でなく、名前や生年月日を聞き出すだけでも苦労した。後になってわかったのだが、地方の小企業の社長を務める男性の死因は自殺で、救急隊員と医師・看護師が懸命になって心臓マッサージや人工呼吸・電気ショックを施して蘇生処置を試みたが、とうとう意識は戻らなかった。遺体に取りすがり、泣きわめく息子や家族たちの愁嘆場を横目に、これまでいったい何度こういう光景を眺めてきたことだろうと思った。
 自営業だけでは食えなくなり、アルバイトで週2〜3回この仕事に入るようになってかれこれ6〜7年。世の中に「表の仕事」と「裏の仕事」というものがあるとすれば、これは間違いなく後者だろう。だがそれも若い時分に市民社会の表街道を脱線して生きてきた結果だから、それに従事すること自体に異存はない。もともと人が寝ている時に働き、人が働いている時に誰もいない山をほっつき歩いたりするのが好きな方である。しかしそれでも間近で自殺者に接すると、曰く言い難い気持になってしまうのは致し方ない。なぜならほとんどの人は助かるために病院へやってくるのに、自殺者だけは例外だから。
 これまで三つの病院で当直に入ってきたが、どこにいっても自殺者はやってくる。とくに季節の変わり目には多い。同じ病院で一晩に3人自殺(未遂)者が運ばれてきたこともある。国内だけで交通事故の死者を越える年間3万人以上の自殺者が出ているというのは決して嘘ではない。しかもそれはあくまで実際に死に至った人の数であり、未遂まで含めると少なくともその10倍、いや100倍ぐらいの人が死の淵で日々揺れているのではないか。伊那谷のような地方でも、その事情は変わらない。
 始めの頃は、こうしたことのいちいちに体温を上げたり下げたりしていたものだが、いまではそれにも慣れて仕事のルーティンのひとつとしてやり過ごす術は学んだ。しかしどうしても気持のどこかに重く澱んだものが残ってしまう。自殺といっても段階があって、リストカットや薬物の大量摂取で運ばれてくる場合は、まだこの世に未練のある人が多く、たいていは未遂で終わる。しかし首吊りの場合はほとんどがこの世に心底絶望した確信犯で、まず助からない。そうした確信犯に接すると、まるでこちらまでこの世に置き去りにされたような妙な気分になってしまうのはなぜだろう? それはたぶんロープを首に架け、あの世へとジャンプするその一瞬の負のエネルギーの魔力に圧倒されるからかもしれない。

 家に戻っても今日は雨で気分転換に山を歩くわけにもいかず、所在なげに書棚を眺めていたら、ジョージ・オーウェルの文庫本が目に留まった。そこで久々に「絞首刑」を読み返してみた。ご存知のようにこれは若き日のオーウェルが大英帝国の警察官としてビルマで過したときの見聞をもとにした名エッセイだが、突然紛れ込んできた野良犬が死刑囚にじゃれついたりした突発事の後、神の名を繰り返し叫ぶ囚人を死刑台に立たせ、ついに絞首刑が執行されると、それまでしんとしていた周囲が突然にぎやかになり、まったく急に、みんなして、陽気におしゃべりを始める。誰もが興奮状態になり、謹厳な刑務所長までが「みんな外に出て一杯やったらよかろう」と愛想よく言い出す始末。このシーンは何度読んでもリアルで、生々しい人の死に立ち会った際の人間心理の不可思議さを見事に描き出している。
 翻って言えば、自殺というのは自分自身に対する絞首刑の執行である。だから自殺者が運ばれてくると、まるでその刑の執行に立ち会ったかのような妙な気分に陥るのかもしれない。
 ところでこれは蛇足だが、うつ病などで病院にかかりつけだった場合など例外を除き、自殺に健康保険は適用できない。これは知っておいた方がよい。救命処置から遺体の清めまで、病院で行なったすべての処置が全額実費で後日遺族に請求されるから、それだけでも高くつく。


9/24(水)「秋の林道を行く」

 ああ、ほっとする。何度来てもいいなあ、秋の山は。
 林道を数分も歩けば、心身の隅々にまで森の新鮮な空気が沁み渡ってゆく。
 夜勤明けの午後、久し振りのいい天気なので、眠い目をこすりながら犬のリラを連れて裏山の林道を散歩。実はこのコース、つい先日「発見」したばかりの道で、昔の狼煙台として知られる裏山の物見や城まで家から最短で行けることがわかった。


 灯台下暗しとはよく言ったもので、昨年までの借家住まいを含め、この西春近に住んで6年にもなるのに、なんでいままでこの道を知らなかったのだろう?と不思議になる。これまではずっと迂回して車で10分ほど山に入った南西側から、つまり表側からのみ物見や城へアプローチしていたのだが、この裏側の北東コースの存在は知らなかった。頂上から当たりをつけて山道を北東側へ下ってみたことはあるのだが、途中から道は切れており、さんざんな思いで藪こぎをして下の集落まで降りてきたことがある。あのときが、もう足腰が弱っていた老犬ポン太の最後の山行きとなり、必死で藪をかき分けついてきて、そこで精力を使い果たしたのか、そのあと寝たきりになり、間もなく老衰で逝ってしまった。
 そんなこともあったし、それに北東側の山の麓には「ラリーキッズ」というカーレース場があって休日には車の爆音がこだましているので、あまり近寄らなかったのだ。
 ひとつの山道を知るということは、山の知られざるもうひとつの顔を知るということだ。これでまたひとつ世界の奥行きが深くなったなとうれしい気持で沢沿いの道を歩く。まだ森の樹々は夏の名残りを留めて青々としているが、風はひんやりとしていてほとんど汗もかかない。連休明けだからキノコはほとんど採られ尽くしていてあまりないが、それでもこの辺でジゴボーと呼ぶ赤いハナイグチなら所々で目につき、味噌汁の具にする程度なら採れた。
 途中でいくつか道が分岐しており、それぞれに歩いてみると、ひとつは伐採用の道だったのか森の中で行き止まりになり、ひとつは迂回して元の道に戻り、もうひとつは林道が途切れたところから森の細い山道になり、ずっと下へ続いていた。たぶん登ってきたところとは別の集落へ出る道だろう。昔廃村に住んでいた頃、暇があるとあてずっぽうに周りの山々をほっつき歩いていた頃のことが思い出されてくる。荒れた山道を藪こぎをしては歩き回った無為の日々。厖大な時間を無駄に過ごしていたものよと思う半面、それをなつかしむ気持もなくはない。今日はもう日が落ちてだめだが、次回来たときはこの道をまた下ってみようかという気になる。


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