《§伊那谷スケッチ 2007春 3/4〜5/25》


5/25(金)「聖なる森」 

 何度来ても飽きない森がある。昨日も息をハアハアさせながら伊那富士の中腹にある雑木林まで登ったが、樹林越しに木漏れ日が射しこむ森の中に踏み入っていくだけで、ほっと安堵する気分になった。とくにこの伊那富士は標高こそ低いが東西南北四方から山道がついていて、四季折々に違う表情を見せるから飽きない。このコースをたどり、この森の斜面に寝転がって鳥のさえずりに耳を澄ませるのも一年ぶりのことだ。
 耳元で乾いた落ち葉がカサコソと音を立てる。投げ出した腕の上を蟻が這う。連れてきた柴犬のリラは何か獣を見つけて森の向こうへ消えてしまった。そのハーネスにつけた鈴の音がどこからともなく聞えてくる。
 「森林浴」とはよく言ったものだと思う。たしかにその通りだ。こうしているだけで、何か抜けていくものがある。市民社会に生きる緊張がほぐれていく。とくに今年は自営で家を建てているので、仕事に加えてストレスが重なっている。家の建築そのものはビルダーの友人たちに任せているが、工務店を通してやっているわけではないので、請負業者との折衝など個人だとなかなか話の通じないことも多く、結構気疲れする。おまけに現場の方も作りながら細かいところは決めていく「アドリブ建築」だから、正直言って出来上がってみるまではどんな家になるのかわからない。ある程度の消耗は覚悟していたが、ぎりぎりの低予算で家を建てるというのは思ったより大変なことだなと日々実感している。だから山で息抜きをするこうした時間がこの頃とみに貴重だ。

 しかしこうやって頭上の梢を見上げながら物思いにふけっていると、去年も一昨年も五年前も十年前もここでこうしていた自分を思い浮かべて妙な気分になる。ことさら「進歩」を望んでいたわけではないが、何も変わっていない自分に呆れもする。と同時に、まあこれでいいかという居直りの境地にもなる。
 ソローは二年二ヵ月にわたるウォールデン湖畔での「森の生活」を切り上げるにあたって、次のように述べている。〈私は森に入った時と同じ理由でそこを去ったのである。どうやら、私には生きるためには、もっと別な生活をしなければいけないように思えた。(中略)注目すべきことは、どのようにして人は知らず識らずのうちに、あるきまった生活にはまり込んで、自分自身の慣れ親しんできたやり方を踏襲するか、ということである〉(佐渡谷重信訳)
 これは常に変化を求めてフロンティアを開拓してきた若きソローならではの言葉だが、これに照らせばいまのぼくなどさしずめ「自分自身の慣れ親しんできたやり方を踏襲することに汲々としている」行き場のないヒッピー崩れの中年男に過ぎない。だがソローもよく知っていたように、森もまた日々生成変化している。夏の森と冬の森は全然別ものだし、去年の森と今年の森も同じようでいてまったく同じではない。ひとつの森を隅々まで知ることは、宇宙を知ることにも通じる。


 昨日も久々に七合目手前の尾根から急斜面の崖をロープを頼りに下り、滝まで行って水を浴びたが、その中腹にどっしりと根を張る巨木・差鴨居のミズナラの霊気に打たれ、はっと目が覚める思いだった。樹齢が何百年に達するのかはわからないが、「枝が差鴨居のようになっていることから、昔の人々はこの木を切ることで不幸になるのではないかと縁起をかつぎ、代々切られることなく今日にいたっている」という周囲約6メートル50センチに達する巨木だ。じっと一ヵ所に根を張って存在し続けることでここまで変貌を遂げてきたこの森の聖なる主である。近寄るだけでものすごい存在感に圧倒されるその木の幹に手をまわしゴワゴワした木肌に頬を触れ、無言の祝福を与えてもらった。


5/17(木)「夜勤明けの温泉で」

 連休が明けて、病院の夜間救急外来の混雑ぶりもやっと治まってきたなと一息ついていた昨晩、深夜2時を回ったところで下痢や嘔吐を訴える中学生たちが次々に救急車で運び込まれてきた。白樺湖の某ホテルに宿泊している横浜からきた中学生たちで、どうやら集団食中毒が発生した模様だ。当初は10人ぐらいという連絡だったが、患者は次々に増え始め、朝7時までにぼくの勤める諏訪の病院だけで30名以上を収容。廊下にずらっと並べた簡易ベッドに点滴のチューブにつながれた生徒たちが横たわる中、カルテ作りや救急隊、引率の教師などとの対応に追われ、昨夜はとうとう一睡もできなかった。
 こんなとき諏訪には早朝からやっている銭湯風の温泉が何軒かあって、ぼくも仕事が引けてからきどき利用するのだが、今朝はあまりに疲れていて諏訪で湯に浸かってしまうと家までたどりつけない気がして、途中の箕輪町で温泉に寄っていくことにした。
 運転していてもハンドルを握ったままいつのまにかうつらうつらしてしまい、危うく対向車のトラックとぶつかりそうになりながらも、何とか9時45分のオープンに合わせて町営長田の湯へ。来てみるともう駐車場はぎっしりで、雨模様の冷たい天気とはいえ、こんな平日の朝から結構みんな温泉にきていることに驚く(もっともほとんどは老人だが)。サウナや露天風呂につかったりしてから人肌ほどの温度の低温湯に気持ちよく寝そべっていると、源泉の濃度の加減でかふわっと体が浮いてきて、そのときふっと昔泳いだスリランカの海を思い出した。

 ネゴンボという名のビーチで、首都コロンボから車で1時間余り。もう20年近く前、南インドから日本への帰途に立ち寄ったのだが、タミル人ゲリラと政府軍との攻防で爆弾事件が勃発する政情不安定な折りで、航空券の予約がなかなか取れず、そこで足止めを食らっていたのだ。海辺に立ち並ぶホテルは、2〜3を除いてどこも「CLOSED」もしくは「FOR SELL」の看板が入り口に垂れ下がっていた。ゴーストタウンのような海辺の通りを抜けて泳ぎに行くと、これが塩分の密度の非常に濃い海で水に入るだけでふわっと体が浮いてきてしまう。そのまま立ってどこまでも歩いていけそうな気分になる海だった。当時、タイやインドの海でも泳いだが、こんなに密度の濃い海に入った記憶は後にも先にもない。
 さぞかし昔は観光客で流行ったに違いないと思いながらホテルに戻ると、閑散とした食堂に泊り客は我々以外は2組だけで、その2組ともヨーロッパ人の親とスリランカ人の養子の組み合わせだったのが印象的だ。かたやドイツ人の父親がその養子の青年と、向こうのテーブルではイギリス人の母親がその養子の息子と額をつき合わせて何やらひそひそしゃべっている。青年の一人とは知り合いになり、タールという現地の大道芸人がよく使う片面太鼓を帰るとき記念にもらったが、今ごろどうしているだろうか?
 徹夜明けのぼーっとした頭で温泉に浸かっていると、内戦状態にある国のそんな過去の旅の一場面が脈絡もなく思い浮かんできた。


5/1(火)「脇道の誘惑」

 なんでこんな藪をわざわざ歩いているのだろう?と思った。行けども行けども野茨の茂みが深くなるばかりで、杖にした枝切れでそれを払いながら進んでも一向に出るはずの林道が見えてこない。こんなに難渋するとは思わなかった。
 夜勤明けの午後。あまりにいい天気で寝ているのがもったいなくなり、水筒にお茶だけ詰めて裏山の物見屋城へ登った。山頂で一息入れたあと、ふと思い立ってふだんめったに人が歩かない北側の山道を降りて行く気になった。そこで藪にはまってしまったのだ。よっぽど引き返そうかとも思ったが、ここまで来てしまったからにはそれもまた面倒だ。しょうがない、我慢して前へ行くしかないなと舌打ちして先へ進む。いつものことながら、ふとしたことからつい脇道にそれてしまう自分の性癖を呪った。これでどれだけ人生を狂わせてきたことか。しかし次の崖の斜面を回り込んだとき、見覚えのある林道とその手前に見事な実をつけて伸びるタラの芽が目に飛び込んできた。やれやれと安堵のため息が洩れる。よく見るとあたり一帯タラの芽だらけじゃないの。そうか、これに導かれてここまで来たんだなと妙に納得する。
 とはいっても、ここは山里。すでに誰か人が入っていて、さすがに手の届きそうな範囲はもう半分くらい芽が採られている。だがまだ晩のおかずの天ぷらにするくらいの芽は残っている。早速リュックからナイフを取り出すと、軍手をはめて芽をかいていった。



 と翌日の夕方、ここまで書いたところで呼び鈴が鳴った。ドアを開けるとログハウスの杉材の皮むきをやっているF君が立っていたのでびっくりする。この前貸した傘を返しに寄ったという。今日は雨だから当然現場は休みだと思っていたら、合羽を着て一人でやっていたらしい。「そんなに無理しなくてもいいのに。もっとゆっくりでいいよ」というと、週末から四国遍路に出るから早く仕事を終らせたいという。
 今年23歳になる彼は大鹿村在住の「新住民二世」。親が日本中を旅して歩いたオールドヒッピーだから、息子の彼もことあるごとに旅に出される。「もっと世界を広く見て、自分の住む土地を見つけろ」と。そして沖縄へ、八丈島へ、タイへと何度も旅を重ねるのだが、数ヵ月もするとブーメランのように伊那谷に舞い戻ってきてしまう。いま彼に本当に必要なのは、じっくりひとところに腰を落ち着けて何か職を身につけることの方ではないかと思うのだが、今度もまたどこまでが本人の意志なのか判然としないまま、旅の予定だけが先に決まっているという按配だ。杉の皮むきのアルバイトだって、今夜も雨の中現場に張ったテント泊りだ。ヒッピーの息子という役割も決して楽ではない。でもまあいいか、どこかでとんでもない脇道にはまって、思わぬ発見をしないとも限らない。そう思ってF君を送り出すことにした。


4/23(月)「アカシヤの匂い」 

 匂いで呼び覚まされる記憶というものがある。
 地鎮祭がやっと終った翌朝、雨の中高遠の森林組合まで薪の調達に行った。毎年春秋の2回行われる薪の頒布会で、間伐材などを丸太のまま安く譲ってくれる。冬から十年ぶりに薪ストーブを使うつもりなので、いまのうちに少しでも薪を確保しておかねばならない。今回は軽トラック一杯が4000円。薪を買うのは初めてのことだが、昔と違って山の中に住んでいるわけではないから、ある程度の出費は仕方がない。
 9時開始のところを少し早めに8時半頃行ってみると、もう何台も軽トラックに乗った人が集まっていて、森組の人が次々にチェーンソーで切り分けてくれる薪を物色しては荷台に積み込んでいた。ぼくも早速その中に加わる。広葉樹の丸太と一口にいっても、とても斧では割り切れない太いものから細長いものまで、樹種もサクラ、ナラ、ホオ、ケヤキ、シラカバ、ニセアカシヤなどいろいろある。真ん中辺りにナラの丸太が結構転がっていたので、ためらわずに直行して自分の軽バンに積み込み始める。やっぱり重い。汗をかきかき積み込んでいると、横にいる中年の女性から声がかかった。さっきから携帯で家族と連絡を取り合っていた女性である。
「それ、何という木ですか?」
「ナラです」
「じゃ、これは?」と足元に集めてある丸太を指差す。
「ケヤキです」
「これ、薪になりますよね?」
「もちろん。ただケヤキは乾くと硬くて割るのが大変ですけどね。ナラはあったかくていい薪ですよ」
 などという会話を交わしながら、丸太で荷台をいっぱいにして引き揚げた。

(注)あとで森林組合の人に聞くと、いまどき薪ストーブを使うほどの人はたいてい薪割り機も持っていて、硬くて太い薪でも平気らしい。しかし手斧で薪割りをする楽しみを放棄してしまうなんて、なんともったいないとぼくなど思ってしまう。十年間のブランクは結構大きいことを薄々感じる。

 さて天竜川を渡って自分の土地に戻り、車の後部ドアを開け、丸太を運び下ろそうとした瞬間、ふっとなつかしい木の匂いが鼻をついた。甘酸っぱい饐えたような独特の匂い。久しく忘れていたニセアカシヤ(ハリエンジュ)の樹皮の匂いである。ほとんどナラのつもりで積んだ薪だったが、よく見ると半分近くアカシヤが混じっているではないか。急いで積み込んでいたし樹皮の部分もナラと似ているから、すぐには気づかなかったらしい(アカシヤは薪としてはナラより一段落ちる)。
 しかしその匂いが二十年前、山で暮らし始めたばかりの信州生坂村の山の中の風景を一気に眼前に呼び起こした。川沿いにある谷底の一軒家を借りて暮らしていたが、少し上流でかなり大きな崖崩れがあり、その周辺に茂っていたニセアカシヤがなぎ倒されてあちこちで倒木となっていた。来る日も来る日もそこに出かけて、倒木を鋸で引いては薪を作っていた。誰もいない静まり返った森に、小川のせせらぎと鳥のさえずりに混じって鋸を引く音だけがかすかにこだまする。まだチェーンソーすら使っていなかった。時の止まったようなあの森のひととき。ときには枝に挟まっていた幹がブーメランのようにしなって跳ね返り、自分の顔面をしたたかに打ったこともある。切り分けた丸太を肩に担いで家まで運ぶ間、ずっとお供をしてついてきた牡猫のマタロウもいまはいない。そんな遠い記憶が木の匂いとともに甦ってきた。


4/11(水) 「四角と八角 イエルカの薪ストーブ」

 中川村の山中に住むイエルカ夫妻の家に、薪ストーブの見学と注文に行く。伊那谷に暮らして20年余りになるイエルカは、チェコのプラハ出身。本職はギリシアから取り寄せたヤギの毛を素材にした織物職人だが、焼き物もやるし、独特の薪ストーブの製作でも知られる。伊那谷でも知り合いの何人かが彼の薪ストーブを使っており、その円を基調にしたストーブのデザインといい、内部に耐熱レンガを敷き詰めたオーブンの構造といい、実用的かつ美的な手づくりストーブで、家を建てるならぜひ注文したいと思っていた代物なのだ。
 古い庄屋の屋敷を改造したイエルカ宅を訪ねるのは今回が初めてだが、イエルカ夫妻とは実は16〜7年前に一度会っている。塩見岳のふもと三峰川の源流域の小瀬戸渓谷に、いまはもうなくなってしまったが塩見荘という鉱泉宿があり、我々が伊那谷に越してきた翌年、そこに一晩泊った。夏の終わりの平日とあって客は我々一組だけだった。一風呂浴びて食堂でビールなど飲んでいると、どやどやという話し声とともに真っ暗な吊橋を渡って対岸の林道から歩いてくる連中がいた。風呂にまだ入れることを確認すると、長髪を背中で束ねた青年を先頭に、女性や子供まで含めた5〜6人連れが食堂に上がりこんできた。聞くと皆大鹿村在住で、そのうちの一人がイエルカ、女性は奥さんのエツコさん、白人の顔立ちをした女の子はイエルカの先妻の娘、鉢巻タオルに顎鬚を生やした一人がその後癌で亡くなったアキラ、もう一人の長髪青年が今度家を建ててもらうシャイアンだった。聞くと皆で塩見岳まで日帰りで登り、いま下りてきたところだという。(その後だいぶたってから我々も同じルートで塩見岳に登ったが、ともかくアプローチが長くて勾配もきつく、あれを女子供連れで日帰りしてくるなんて、いまでもちょっと信じられない)。


 そんな話をしながら、とろとろと燃えるナラの太薪を横目にコーヒーをごちそうになっていると、結局は断念した八角形のログハウスのことに話題が移った。その昔塩見荘で会ったアキラこそ八角のログハウス作りの元祖で、大鹿の山中に立てた自宅の八角堂は知る人ぞ知る伊那谷フリークのスポットでもあったからだ。しかしイエルカが言うには、「八角堂は人が集まったり何かイベントをやったりするのにはいいけれど、そこで生活するのはちょっと苦しいね。アキラも八角堂に住んでいたから早く亡くなった面もある。なぜって世の中みんな四角だから。スクウエア(四角)をバカにしてはいけないよ」。
 勿論、フリークたちの精神的支柱でもあったアキラが四角をバカにしていたというわけではない。実情はむしろその逆だっただろう。しかし1960年代のチェコ動乱時にパリに留学していて祖国に帰れなくなり、その後転々と亡命生活を送りながら伊那谷に腰を落ち着けたイエルカの口からそんなせりふを聞かされると、どこか重みを感じてしまう。
 八角をあしらった薪ストーブも見せてもらったが、家が四角だからストーブはやっぱり丸でいくことに決めた。製作はこの秋。これで薪を燃やせる日がいまから待ち遠しい。


4/5(木)「太古の時間」

 春の吹雪が舞った翌日。快晴。旧長谷村・市野瀬から伊那富士(戸倉山)に登る。去年の秋以来だ。森の日陰には昨日の雪がまだうっすらと積もっている。1時間ほど歩き、標高1545mの見晴台から春の日に白く輝く南アルプスの山並みに眺め入る。眼下はるか谷底に市野瀬の集落。そこから谷は南へ蛇行して、長谷最奥の杉島の集落を経、山並みの向こうにうねっていく。ひとつ向こうの谷筋が小瀬戸渓谷だろう。谷筋が再び北へ曲がる辺りが巫女淵で、それを遡っていくと、雪を戴いた正面の仙丈岳へとたどりつく。
 山頂部が深くえぐれた仙丈岳のカールを真正面に眺めていると、2万年前の氷河期、降り続く雪で山頂に厚く堆積した氷がついに自らの重さに耐え切れなくなり、ズルリズルリと山肌を削って轟音とともに滑落していく様が思い浮かぶようだ。いったいそれからどれだけの歳月が流れたことだろう。こうしていると、そんな太古からの大きな時間の広がりの中に自分の生も包み込まれていくような気がする。死後、自分の魂が還っていく時間…。何ともいえぬ安心感が広がる。眼前の風景の中に、ときおりそんな時間を実感できるからこそ、何度も山へ来るのだろう。


(切り株から滲み出た樹液が凍りついてツララになっていた)


 伊那谷のようなところに暮らしていると、わざわざ飛行機に乗ってヒマラヤまで行かなくても、ネパールの村は、ほらすぐそこにあるじゃないかと言いたくなる。村から登山口まで至る林道は落石や土砂の崩落がひどく、車を運転していて何度もヒヤッとさせられるが、多少の危険を冒してもまた来たくなる場所だ。


3/30(金)「どんぐりの記憶」(蘆花恒春園にて)

 東京世田谷の実家からの帰途、少し遠回りをして蘆花恒春園に寄り道をする。車の行き交う環八沿いに、この一角だけ昔ながらの雑木林が残されていて、いつもくるとほっとするのだ。園内の桜はもう八分咲き。伊那谷はまだやっと梅が咲き揃ったところだから、ずいぶん違うものだと思う。周囲はすっかり変わってしまって、見慣れぬアパートやマンションが所狭しと立ち並んでいる。ケヤキやクヌギの大木が茂る雑木林も、昔に比べればごく一部が残されているにすぎない。
 蘆花記念館でトルストイからの英文書簡や日記・原稿などの遺品を眺めてからノートに記帳して帰ろうとしたら、記帳場の横にどんぐりにペイントをあしらった可愛い人形が並べてあって、ご自由にお持ちくださいとある。それを手にとって見ているうちに40年以上前、小学生の頃にこの森でどんぐりを拾って遊んだ記憶が蘇ってきた。時代で言うなら昭和30年代後半、東京オリンピックの前後にあたる。あの頃は勿論環八などまだなく、もっと鬱蒼とした森が遠くまで広がっていて、道も未舗装のままだった。
 文豪徳富蘆花が都心の青山から「都落ち」をして、当時まだ草深かったこの千歳村粕谷に移り住んだのが明治40年、蘆花40歳のときのこと。以来昭和2年に没するまでの20年間を家族とともに晴耕雨読のうちに過ごしたわけだが、これはいまで言う「田舎暮らし」の先駆に他ならない。自分が少年時代を過ごした東京の実家のすぐそばに、実は田舎暮らしの先駆者が昔暮らしていて、その跡地の森が公園になっていることに気づいたのは、ずっと後年、私自身東京を出て山で暮らすようになってからである。特にその記録とも言える随筆集「みみずのたはこと」を読んでからは、蘆花という人は一種畏敬すべき存在にかわった。いま岩波文庫版の「みみずのたはこと」を紐解いてみると、巻頭に「恒春園南面」といういかにも田舎道らしい田んぼ道を前景にした公園の風景写真が載っているが、これこそまさに少年時代の記憶と重なる風景だ。

 いまなお保存されている茅葺の旧家を前にどんぐりの人形を手にして思い出にふけっていると、40年以上前にこの森で遊んでいた少年時代の自分、さらにそこから40年以上昔にこの地で生き耕し書いていた蘆花、その蘆花がはるばる訪ねたヤスナヤ・ポリヤナのトルストイにいたるまでが、どこか遠い時間の糸で結ばれているようで、不思議な錯覚にとらわれてしまった。


3/13(火)「市民社会の内と外」

 いつも犬の散歩に行く雑木林の手前に共同墓地があり、その近くにずっと荒れたままになっている一反ほどの畑があった。家を建てる土地を物色し始めてからいろいろと候補地を見て回ったが、最終的にここが気に入り、地主を探して直接話をつけたのが去年の春。といってもここは「農振農用地区域」に入っているので、その解除申請が認められなければ家は建てられない。仮契約を済ませてから、市と県にその申請手続きを出したのが昨年6月。半年待って12月にやっと農振の解除が認められた。申請を出してもなかなか認可が下りない場合もあるので、一発で通ったのは運がよかったと思う。
 正月が明けて大雪の後に、近隣の地主に立ち会ってもらい、測量士に土地の分筆をしてもらった。これで土地は画定し、今度は農地転用の許可申請を農業委員会に提出。その許可が今月下旬には下りる見込みなので、知り合いの神主さんに地鎮祭の準備を頼み、家を建ててもらう予定の大鹿村の友人たちと荒地の草刈りなどをして、建築図面の検討に入った。オーソドックスな四角のログハウスでいくか、それとも彼らの得意とする八角ハウスでいくか迷ったが、実際に建物を見学してみると八角の方がやはり独特の雰囲気がある。よしこれでいこうと決め、何日かかけて間取り図を作った。半分が吹き抜けでロフトのある2階建ての八角堂である。友人たちもいよいよその気になり、4メートルの杉の丸太を製材所にまとめて注文した。
 4月に入ったら現場小屋用として中古のパオも知人から借り受けられることになり、さてあとは移転登記を済ませて着工を待つばかりというところまでこぎつけたある日、ひどく初歩的な思い違いをしていることに気づいた。建設予定の土地は一番近い隣家まで約50メートル。周辺は全部畑で、その先には共同墓地と雑木林が広がるばかり。農地転用の許可さえ下りれば、これまで山の中で友人たちがしてきたように、あとは自分たちの好きなように家を建てるだけだと思い込んでいたのがとんでもない間違いだった。念のため調べてみると、こんな農村地帯でも都市計画区域内に入っており、防火区域等の建築制限こそないものの、建築確認申請は出さなければならないのだった。これが素人でできるものではない。友人たちも建物を作る腕こそ一人前だが、図面引きや構造計算まではできない。そこで伝を頼って建築士に話を聞くと、なんと八角のログハウスというのは前例がないし、仮に図面を出してもそのままでは建築許可が下りないだろうという。ボルトや鉄筋でよほど補強して、その構造計算書を付ければ通るかもしれないが、それだけでもかなりの予算がかかる。さてどうするか?
 ここで計画は振り出しに戻り、四角のオーソドックスなログハウスで間取り図を書き直し、それを基に正式な図面を作ってくれる建築士を探すことになった。しかしいずれにしても建築基準法にのっとって建築確認申請を出すからには、ログハウスの工法にもそれなりの細かい規制がかかり、それに伴って予算も増える。長らく山の中で暮らしてきたから、どうしてもこういう法的感覚がぴんとこない。これが昔住んでいた入笠山の廃村や大鹿村の山の中なら、こんな余計な手続きは一切いらなかったのになと思ってもいまさら仕方がない。やはりあそこは市民社会の外部だったんだ。山を降りたいまとなっては、いくら自分の土地であっても勝手に家を建てて住むことは許されていない。それが市民社会の中に住むことなんだなとあらためて思う次第。


3/4(日)「大鹿ふりだし塾」 

 今年は花粉症の出始めも早い。半月ほど前、家の近くの荒地で枯れ草刈りをして草を燃やしたその晩からアレルギー症状が出始め、以来薬を服用して何とかしのいでいる。毎年のことだが、春は辛い季節である。おまけに今年はその荒地を取得して、そこに家を建てることになったので、休みだからといって寝ているわけにもいかない。
 勿論自分だけで建てるわけではない。ログハウスのビルダーをやっている友人に頼んで、格安で建ててもらうのである。昨日もその打ち合わせと見学を兼ねて、大鹿村の山奥まで行った。場所は塩見岳のふもと鹿塩集落の一番山の上にある標高1300メートルの山林。げたさんこと大倉さん一家が、そこに数棟のログハウスを建て、ソーラー発電を用い、文字通り自給自足の農業生活を営んでいるのだ。最近は大鹿ふりだし塾を開いて、無農薬農業や山暮らしに興味がある都会からの若者を常時居候として抱えている。しかしこれが行くまでが大変な場所で、つづらおりの山道をやっと山頂部まで登ったと思ったら、そこからまた未舗装の細いぬかるみ道を、車を何度もスリップさせながらあえぎあえぎ登り、やっとたどりつくといった所である。友人の案内がなければ、とても一人ではたどりつけなかっただろう。山暮らしの猛者が住んでいることで知られる大鹿村だが、上には上がいるなとあらためて感嘆することしきり。
 いまは二人の若者が居候として泊り込んでいて、げたさんの指導の下、森から切り出したカラマツでヤギ小屋を兼ねた小型のログハウスを作っているところだった。最近は「えっ?風呂に毎日入れないんですか」という理由で、来た翌日に山を降りていく若者も多いというが、こうしてしっかり住み込んで山暮らしの技術とスピリットを習得している若者もいる。
 二階建ての八角のログハウスをじっくり見せてもらってから、三階建ての大きなログハウスの方で、コーヒーを淹れてもらい、しばし雑談。周囲の本棚には農業や精神世界に関する本がぎっしり詰まっていて、二階は居候たちのためのミニ図書館にもなっている。ぬーぼーとした風貌で中国の仙人のようなヤギ髭を生やしたげたさんは今年57歳。インドでお手当て療法を学び、そのヒーラーをやっていたこともあるというが、「農業とヒーラーは両立するのが難しいから、もうやってません。ヒーラーをやるにはあるトビに入らなければならないけど、農業はどこまでも現実的でしょう。それにせっかく具合悪くなって会社を休んで山の中まできた人に、一生懸命治療してやってまた会社に復帰させるというんじゃ何かむなしくなってね。結局何もしないのが一番いいという結論に達したんですよ」。
   


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