《§伊那谷スケッチ 2006〜7冬 12/4〜》


 2/25(日)「山の景観(3) 蓼科山」 

 
その姿を見るだけで、ふと拝みたくなる山がある。ぼくの場合、例えば蓼科山がそうだ。仕事で週に2〜3回、車で諏訪まで通っているが、辰野から有賀峠を越えて急坂のカーブを曲がりきったところで、不意打ちのように蓼科がその端正な姿を目の前に大きく現わす。するといつも思わず片手を挙げて、窓ガラス越しに蓼科を拝んでしまう。そういう癖がついてしまった。
 蓼科の裾野を白樺湖方面に抜けるバイパスをビーナスラインと呼んでいるが、蓼科のその丸みを帯びたすっきりとした山容は、まさに女神の山と呼ぶにふさわしい。山にも雌雄、女性名詞・男性名詞があるとすれば、蓼科は言うまでもなく女性名詞であろう。一方、すぐ隣に見える北八ヶ岳の横岳は男性名詞が似合っている。合わせて夫婦のように見えるところが面白い。同じことが南アの母仙丈と父甲斐駒の組み合わせについても言える。中アで言うなら、空木は女性形、木曽駒は男性形ということになるだろうか。
 先日のある晴れた日、昨夏の豪雨災害で通行止めになったままの林道を歩いて久々に裏山の物見屋城に登った。林道も山道もすっかり荒れて歩きにくかったが、山頂からの眺めはやはり気持ちのいいものだった。とくに伊那側は、去年誰かが藪を払ってくれたおかげで抜群の眺めで、はるか向こうに蓼科まで遠望することができた。「おっ、蓼科」と思わず手を合わせたのは言うまでもない。


2/10(土)「縁結びの錠前」

 
朝起きたら、昨夜来の雨は上がって薄日が射していた。ひょっとしてこの暖かさならもう山が歩けるのではないかと思い、久々に駒ヶ根高原スキー場を越えて池山林道へ。空木岳の麓、古城公園の見晴台に車を止め、林道を歩き始める。ここまでは除雪されているが、ゲートを越えて北側の斜面に回りこむとまだ積雪がある。とはいっても例年なら腰まである雪が、今年はせいぜい足首程度。車の轍に沿って行けば、十分歩ける。途中の南斜面から山道に入り、雪解けの土の道を登る。息をぜいぜいさせながら急斜面を登り、所々で立ち止まっては深呼吸。久々に山の空気を胸いっぱい吸い込む。まだ2月だというのに、これはもう春の陽射しだ。飼い犬のリラも興奮して腰を振って抱きついてくる。
 夏の間はこの上の林道の駐車場まで車で行ってしまうからめったに歩かないコースだが、やっぱり土の道はいいなあとつくづく思う。先日東京でコンクリートの上を歩き回ってこじらせた腰痛も、これなら大丈夫だろう。遭難者の石碑が並ぶ二本木地蔵を抜けて林道の終点まで出て、東屋で昼のひと時を過ごす。


 帰り際、駒ヶ根の市街地を見下ろす古城公園の見晴台で、不思議なものを見た。東に突き出たテラスの金網のフェンスに大小様々な錠前がロックされてずらっと並んでいるのだ。近寄って見ると、錠前の胴の部分にマジックでいろいろ書かれている。
「いつか……またここにきて そのときはけっこんしよ」
「毎年くる約束して1回目だね」
「ずっとそばにいるよ・オサム ずっと一緒よ・カオリ」
「大好き 二人で幸せになろうね」
 こんな言葉の書かれた錠前が金網に所狭しとくくりつけられているのだ。中には来る度に新しい錠前をつけていくカップルもいて、どうやらここは密かに知られた恋人たちの縁結び(?)の場所らしい。たぶんそれぞれが同じ鍵を持ち帰って、また来る時に愛の誓いを確かめ合うのだろうか。冬以外はいつも車で通り過ぎてしまう場所だから、いままでは気付かなかった。向こう正面には薄もやを透かして仙丈がぼおっと浮かんでいて、シュールな光景だなと見とれていると、横から女房の声がした。
「ずいぶん錆付いた鍵もあるわね。これってどういうことかしら?」


2/5(月)「山の景観(2) 富士山・甲斐駒・戸倉山」
 
 
東京へ行く高速バスの窓から、久々に雪を被った真っ白い富士山を拝んだ。一瞬雲かと見間違えたほどだが、すっくとそそり立つその姿はやはり神々しい。それにしても当たり前のことだが、やはり富士山は高いなあとあらためて思った。ふだん木曽駒や仙丈など三千メートル級の稜線にばかり目が慣らされていると、そこからさらに七百メートルも上空に突き出た富士の姿には、一瞬虚を衝かれた感じになる。いつも同じ高さの山ばかり眺めていると、視線がある高さに固定されてしまうのだろうか。
 同じことが甲斐駒の眺めについてもいえる。伊那谷では中アの木曽駒のことを西駒、南アの甲斐駒のことを東駒と呼びならわしているが、伊那谷から見える東駒こと甲斐駒ケ岳は、仙丈と鋸に挟まれて、いつもとんがり屋根のような切り立った姿を晒している。しかし見えるのは全体の山容の三分の一程度で、ふところの大きさではすぐ横の仙丈が圧倒している。仙丈こそ母なる山、伊那谷から見える南アの盟主である。
 甲斐駒の本当の姿はその名の通り、山梨側から眺めてこそ初めてわかる。今回も久々に中央高速の行き帰りで甲斐駒を眺めたが、黒戸尾根から聳えるその姿はほとんど仁王立ちという言葉がぴったりする感じで、他の山々を圧倒して天に向かって踏ん張っていた。山梨側から見れば、甲斐駒こそ父なる山、南アの盟主であろう。もし山にも顔や背中にあたる部分があるとしたら、山梨側の甲斐駒こそ表の顔で、伊那谷から見える甲斐駒はその背中の部分にすぎないという気がしてくる。
 ところで伊那谷では旧長谷村と駒ヶ根市にまたがる戸倉山(標高1680メートル)のことを伊那富士と呼んでいて、里山ブームの昨今、県外から訪れる人も多い。登山口から片道二時間足らずで登れて、しかも山頂からの中アや南アの眺めは抜群とあって人気の山だが、ときどき出会う中高年の登山客などから「この山どこから見れば富士に見えるの?」ととぼけた質問をされることがある。しかしそれも無理はない。名古屋方面から来て駒ヶ根のインターを下ってきた人ならば、伊那富士といわれても仙丈の手前にどでーんと横たわる前山が見えるばかりで富士の由来まではわからないだろう。そういう人はちょっと遠回りをして伊那の市街地を越え、箕輪あたりまで足を延ばして東南の方角を眺めてみるといい。そうするとそこに、低いながらもすっきりとした形の戸倉山の表の顔が眺められるはずである。それを見れば伊那富士の由来は一目瞭然であろう。


1/30(火)「山の眺めの不思議

 
季節の訪れが2か月ほど早い気がする。まるで春のようなぽかぽか陽気に誘われて、今日は駒ヶ根の天龍川畔を歩く。車に15分ほど乗らなければならないが、やはり天龍ウォークはこの辺が一番広々としていて、静かに歩けて眺めもよい。橋で言うなら赤い鉄橋の大久保橋から駒見大橋、天竜大橋にかけての3キロほどの区間だ。ここなら東岸の土手で体操、西岸の草地で横になったりしながらゆっくり往復しても2〜3時間ほど。所々に東屋やベンチもあって、ウォーキングをしている人も多い。以前、この近くに5年ほど住んでいたことがあるので、この辺の川原は隅々までよく散歩した。しかし1年ぶりに歩く川原からの雪を被った中アの眺めは相変わらず抜群で目を射る。
 中でも一番古い大久保橋の辺りは、川幅がもっとも狭くくびれている所で、江戸末期の俳人井月も、よくここで天龍を渡った。そこからまた川幅は東西に広がり、ゆったりした流れになる。そこをこうして山を眺めながら歩いていると、井月の時代の人もやっぱりこの同じ姿・形の中アの山々を眺めて歩いていたんだなということが不思議に思える。人や町並みはすっかり変わってしまったとはいえ、ましてやいまはその山肌にロープウェイまで走っているとはいえ、この山の姿だけは百年千年前と、いや1万年前とだって変わらない。実際、この辺からは弥生時代の遺跡も発掘されているから、古代人もこの同じ山の姿を眺めていたことになる。そのことの不思議さを思う。
 そんなことを考えながら東岸を天竜大橋から駒見大橋にかけて歩いていたら、犬のリラが突然何かの気配を察して駆け出して行く。見ると右手の土手沿いの田んぼの中に5メートル四方ほどの奇妙な鉄の檻があって、カラスが十数羽中に閉じ込められてもがいていた。上から入ることはできても、出ようとすると下に突き出た針金が邪魔して出られないカラス捕りの檻である。西春近でも見たことがあるからとくに驚かないが、以前はなかったものだ。それだけカラスの被害がひどいのだろうか。しかし閉じ込められたまま衰弱して死ぬのを待つだけの残酷な檻だ、見ていてあまり気持ちのいいものではない。風も出てきたからそこはさっさと通り過ぎ、向こうに見えてきた赤い大久保橋を目指して再び川岸を歩いていった。


1/29(月)「四国徒歩遍路」

 この正月、ひょんなことから長らく会っていない昔の知り合いの消息が知れた。
 去年の「新着情報・歳時記」欄に、1980年代に勤めていた池袋の芳林堂書店のことを書いたら、それを読んでくれた旧友のSから年賀のメールが届いた。曰く、「終戦後、医者を開業していた母親一家が北朝鮮から命からがら引き揚げてきた後、芋を年貢としてもらう条件で、四国の無医村の離島に3年間暮らしたことがある。いまは東京在住で70代半ばに達した母親だが、思春期を過ごしたその島が忘れがたく、昨年の初夏60年ぶりに自分が付き添ってその島を訪れた。島は当時の面影をまだ残していて、往時の知人に会うことも叶い、それなりの親孝行ができた。ところでその折に、いろいろと世話になった島の寺の住職が東京出身で、その昔やはり池袋の芳林堂に勤めていたことがあるという。ひょっとして、お前この人知っているんじゃないの?」。
 さてそこにある名前を見て驚いた。風の便りに、どこかで出家して坊さんになったと聞いていた昔の同僚のNさんのことじゃないの。いずれ調べて消息を確かめようと思っていただけに、偶然の廻り合わせに人のご縁の不思議さを感じた。
 Nさんとは職場で袖摺り合わせたのもわずか2年足らずの仲だが、20年前、ぼくが信州の山村に引っ込む少し前に新宿で飲んだことがある。そのとき30歳前後だったNさんは、書店勤めから足を洗って業界紙の記者稼業に転じたばかりだった。彼より一足先に業界紙の世界に足を突っ込んでいたぼくと、何をしゃべったのかしゃべらなかったのか。
 Sから送られたNさんのプロフィールを見ると、「昭和63年の正月、ある取材先でビールをコップ半杯飲んだところで昏倒(自称半アル中時代)、サラリーマン生活から脱落する。リハビリと再起を賭けた四国徒歩遍路によりお大師さん(弘法大師空海上人)と出会う。帰京するがお大師さんの国・四国に住む思い捨て難く、平成元年、遍路で出会った讃岐のお坊さん(香西吽性師)を頼り、その人が守るお堂に転がり込む」とある。そうだったのか、四国遍路か。自分の場合はインドだったけど、人によって人生を変える機縁はいろいろあるんだなとあらためて思う。早速メールを入れてみるとすぐ返事がきて、さばけた雰囲気の気持ちのいいお坊さんになったNさんこと中島光祥師がそこにいた。人生ってわからないものである。
 そんなこともあって何だか急に四国が身近に感じられるようになり、書棚の奥に眠っていた辰濃和男著「四国遍路」(岩波新書)という本を引っ張り出して読んでみた。するとこれが面白い。結構みんな歩いているんだね、野宿したりして。車の行き交う国道歩きだけは辛そうだけど、まだまだ日本も捨てたもんじゃないと思わせるものがある。そうでなくても歩くことは、いまの自分にとって生のバランスを取るための最も基本的な行為である。そう遠くない将来、ちょっと足を延ばして四国を歩かないとも限らない。そのときにはぜひNさんの寺に寄らせてもらおうかなと思っている。

毘沙門天・吉祥寺のホームページへ


1/25(木)「天龍川を歩く」

 まるで小春日和のようなぽかぽか天気の下、犬を連れて久々に天龍川の河畔を歩く。
 わが家は天龍川を望む河岸段丘のはずれにあり、川まで坂を下って15分ほど。去年の春までは川に並行して南北に走る国道153を越えると、殿島橋という歩行者専用の旧い橋に出た。そこを渡れば向こう岸の土手に出て、未舗装の河原道をぷらぷら歩くことができた。ところが昨夏の豪雨による洪水で殿島橋の橋桁が流されてしまい、いまはそこを渡ることができない。復旧には2〜3年かかるという。中学生の通学路にも使われていた橋なので、やむなくそれまで実質的に車両専用だった百メートルほど北寄りの春近大橋に、急遽歩行者用の通路が設けられ、そこを歩くことになった。しかしここは日頃からトラックが行き交う交通量の多い橋で、歩いて渡るには距離も長い。


(春近大橋から殿島橋の残骸を眺める)


 それでも家から車に乗らずに歩いて河原まで行けるのはありがたいと思い、排気ガスの臭いを我慢して春近大橋を初めて歩いて渡った。歩いていて、ふとカルカッタのハウラー橋のことを思い出してしまったのは、大げさすぎる連想だろうか。時間にして4〜5分の距離だが、やっと渡り切って向こう岸に出てみて驚いた。土手に雪が全然残っていないのだ。例年ならいまが寒さの一番のピークのはずだが、この暖かさはなんだ? 今年は季節の感覚が少なくとも1ヵ月は早い。周囲の山を見渡してみても、伊那山地など標高の低い山々はほとんど黒々とした地肌を晒している。
 土手道を少し歩いてから河原の草地に下り、陽だまりに長々と横たわって空を仰ぐ。真っ青な空がサングラスを透かして目に鮮やかだ。この季節に河原でこんなことができるなんて思わなかった。それにしても久しぶりだな、こうやって空を仰ぎ見るのも。たまにはこういうことをしないと、市民社会の圧力で窒息してしまいそうだ。この頃、ことにその内圧が高まっているように感じられてならない。
 しばしそこで日向ぼっこをしてから起き上がり、犬と河原を歩きまわってみると、見渡す限り砂利や倒木が堆積していて、去年とはすっかり地形が変ってしまっていることに気づいた。無理もない、あの洪水で何もかも流されてしまったのだ。記憶の中の細い河原道をたどり、枯れススキの茂る藪をかき分けて、水際まで出て戻る。
 


2007年 1/11(木)「三峰川を歩く」

 暖かかった冬も先週大雪が降り、さすがに冷え込みが厳しくなってきた。積もったのは3〜40センチほどだが、年末より体調を崩し、おまけに重度の腰痛を患って雪かきどころではないので、我が家の周囲は雪が凍ってカチンカチン。英語教室の子どもたちが来る日は、直前に砂撒きをして急場をしのいでいる。
 しかし今日は久々にリハビリを兼ねて、三峰川の河原を歩いた。ゆっくり外を歩くのもひと月ぶりのことである。もちろん山を歩きたいのは山々だが、冬はうっかり近くの里山に足を踏み入れるとハンターの放つ流れ弾と猟犬が煩わしいし、それに一度大雪が降ってしまうと雪道をラッセルするだけでも大変な労力がいる。歩ける場所も限られてくるから、大雪を境にいつも河原歩きに転じるのだ。


 とはいっても昨年夏の豪雨で天竜川にかかる歩行者専用の殿島橋が流されてしまったので、去年までのように家から歩いて河原まで行くわけにはいかない。車で春近大橋を渡り、三峰川の河川敷公園まで10分ほど。そこから夏の間はサイクリングロードに使われている河原の道を歩いた。一年ぶりだ。正面に南アの入笠山に至る山並みを、背後には木曽駒を中心にした中アの山々を眺めながら半分凍りついた雪道を歩いていると、30分ほど歩いたところで石に刻んだ井月の句碑が見えてきた。「若鮎の瀬に尻まくる子供かな」と読める。江戸時代、この辺の子供たちは、もちろん着物の下には何もつけていなかったのだろう。ぴちぴちした若鮎と元気な子供の尻をかけた見事な句である。
 そこからさらに30分ほど行くと通行止めの看板があって、「道路消失につきこの先通行不能」と出ていた。やはり去年の大雨で被害が出たのだろうか。行けるところまで雪をかき分けていってみると、案の定、去年まであった道が流されてすっぽり河に落ち込んでいた。やむなくそこで引き返すことにする。裏山の物見屋城といい、この三峰川の河原道といい、気軽に歩けたウォーキングコースが今年は見事に寸断されてしまっている。


2006年 12/4(月)「冬本番」 

 朝起きてカーテンを開けると、辺り一面霜で真っ白。昨日舞った雪で、山は朝日に白く輝いている。
 夏の間下駄箱の奥に仕舞い込んでいたスパイク付きの防水トレッキングシューズを取り出して履き、紐をきゅっと締めると、いよいよ冬になったなという実感がする。ゴム底の後部に折り畳み式の簡易なスパイクが付いたこの防水シューズは、雪が降ると便利な代物でここ数年愛用している。大雪が降るまでは、里山ならこれで十分歩ける。ただし冬に入ると狩猟も解禁になるから、簡単に車で行ける半端な里山は銃声と猟犬が気になっておちおち歩けない。昨日もちょっと迷ったが、ハンターがうようよしている伊那富士方面は避け、中アの池山から空木岳の登山道を歩くことにした。結果的にこれは正解だった。今朝ラジオを聞いていたら、まさにその伊那富士の麓、旧長谷村の市野瀬の林道で猟銃の暴発事故があり、ハンターの連れの女性が足に大怪我を負って病院に運びこまれたというニュースをやっていた。毎年のことだが、冬は行ける山も限られてしまう。
 しかし新雪の浅く積もった池山の山道は、歩いていて実にすがすがしかった。樹林越しに見える雪をいただいた南アの山々が神々しい輝きを放っていて、随所で立ち止まって見とれてしまう。
 そういえば八百万の神々が里に下り、煮えたぎる湯をかけあって人と集う遠山郷の「霜月祭り」も、ちょうど始まったところだ。以前二度ほど行ったことがあるが、夜通し行われる本祭りでは面を被った神々の登場してくるのが夜中の3時頃になるので、それまではひたすらぜいたくに薪の火を焚いて大鍋に湯を沸かし、単調な笛と太鼓を鳴らしながら神々の出番を待つ。観客は村が用意した仮眠所などで横になったりして時間をつぶし、やっと本番を迎える。正直言って、いまどきこれほど単調で無駄な間合いの続く祭りというのも珍しい。しかしそれがまた一種独特の雰囲気を醸していて、この合理主義の世の中にあって、神々は一見無駄な時間・空間の中にこそ住みたもうのだなと思ったものである。

 さて冷え込んだ今日は、雪がちらほら舞う中、女房を手伝って野沢菜を30キロほど漬ける。いよいよ冬本番だ。


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