§伊那谷スケッチ 2006夏 7/17〜9/3》


 
9/3(日)「すうの動物病院」 

 すうさんの家は大鹿村の山の中。力持ちの夫シャイアンを手伝って家を建て、二人の子どもと犬・猫・ヤギとニワトリとで斜面に段々畑を作って暮らしていた。
 ある日、飼い犬のトビが近くの森で雌鹿を襲って家まで引きずってきた。ふつうの村人ならそこですぐ解体して鹿肉にしてしまうところだが、驚いたすうさんは、鹿の傷口に薬を塗ってやり包帯を巻いて介抱してあげた。2〜3日たって傷がいくらか癒えてきたので、すうさんは鹿を森に返してやった。包帯姿の鹿は森の入口ですうさんの方を振り返りポロリと大粒の涙をこぼした。一緒にいたシャイアンも見ていたからそれは本当のことだと思う。
 鹿が森に帰ってほっとしたその翌日。今度は傷ついたアナグマがすうさんの家の庭に紛れ込んできた。というより、森で噂を聞きつけて自分からやってきたのかもしれない。すうさんは今度もアナグマの傷に薬をぬって森へ返してやった。以来「すうの動物病院」の噂は森中に広まったらしい。
 しばらくたったある日、今度は肩を血だらけにした老犬がすうさんの家の庭に入ってきてうずくまった。見ると、近寄るのも恐いような大型の猟犬である。年を食って役に立たなくなったためか、主人に鉄砲で撃たれたものらしい。弾が急所をはずれ、辛うじて息をしていた。犬としては必死の思いで、「すうの動物病院」に飛び込んできた模様だ。こうなってはすうさんも放ってはおけず、シャイアンと一緒に恐る恐る犬に近寄っては今度も薬を塗り傷の手当をしてやった。犬は翌日探しにきた主人のもとに連れられていったが、その後どうなったかまではわからない。

 優しいこころの持ち主は早死にをする。木村すうさんが、長い闘病生活の末に癌で亡くなってから早や2年。そろそろ三回忌である。
 
                   (池山・野生動物観察棟にて)


  8/31(木)「リラ、蛇に咬まれる」 

 飼い犬のリラ(柴犬雌2歳)が、山で続けて蛇に咬まれた。
 一度目は先日大鹿村へ行ったときのこと。夕刻、山道を登り始めたところでいきなり前足をやられた。するするっと草むらに逃げていく小さな蛇は見えたが、蝮だったかどうかまではわからない。しばらく足を引きずりながらついてきたが、途中でしゃがみこんで動けなくなった。どうしようかと思ったが、夕暮れの山の中である。とりあえずヨモギの葉をちぎって傷口にあて、ハンカチで包交した。おおげさな悲鳴をあげて痛がるので、やむなく抱っこして山道を運びあげ、友人の別荘で一晩様子を見ることにした。夜になり、前足は熱を持ちかなり腫れてきたが、翌朝には歩けるようになり、事なきをえた。
 二度目はその記憶もまだ覚めやらぬ一昨日の朝のこと。裏山へ行く林道で放してやったら、いつものように興奮して藪を走り回り、しばらく出てこない。何度か鳥寄せの笛で呼んでやっと姿を見せたと思ったら、ハーネスにつけておいた鈴がちぎれてなくなっており、後ろ足もびっこをひいている。獣を追っかけて捻挫でもしたのかなと始めはさして気にせずにいたが、だんだんびっこがひどくなってきて3本足でしか歩けなくなった。やむなく家に引き返して様子を見ていたら、後ろ足がどんどん腫れあがってきて憔悴しきった表情をしている。これはやばいなと思い、近くの動物病院へ連れていった。
 獣医は腫れあがった足を見るなり、「蛇だね、これは。ヤマカガシが蝮か。人間ほど危険じゃないけど、相当ひどい。もう壊死を起こしている」と言って、後ろ足の毛を剃り、真っ黒になった患部に抗生剤の注射を打ってくれた。おかげで最悪の危地は脱したが、今回は重傷で、それから朝晩薬を飲ませているが、なかなか元に回復しない。もし獣医のところにすぐ連れていかなければ、少なくとも片足ぐらいは切断していただろう。
 今年は夏の異様な暑さのせいもあって、蛇も気が立っているのかもしれない。 

 前飼っていた雄犬のポンタは、元々山の廃村育ちのせいだからか、蛇に咬まれたことは一度もなかった。それでもアカバチに刺されたことがあって、以来蜂の巣には近寄らないようにしていた。16歳でエイズで死んだ雄猫の麻太郎は、若い頃庭先で蝮と格闘して咬まれ、死にかけたことがあった。だが麻太郎の場合は獣医にもかからず、荒い息をしながら押入れに潜ったまま数日間ひたすら断食して耐え、その後やっとミルクに口をつけ、奇跡の復活を果たした。えらい猫だった。


 8/26(土)「究極の山暮らし」

 夏の終わりの3日間を大鹿村の山中で過ごした。伊那谷最奥といっていい赤石山麓の大鹿村。そのさらに村はずれの山の上に、友人たちが数年がかりで建てた木造りの八角ハウスがあり、そこに寝泊りさせてもらった。林道から山道をよじ登って30分ほど。車などまったく入らない丘の上の畑の跡地に、よくもこれだけ立派な家を建てたものだと感心する(写真)。円形の板の間の中央には大きな薪ストーブがでんと据えられ、鹿の角などが飾られた神棚の周りにはジャンベやギターが並べられている。電気はソーラーバッテリー、水は湧き水が蛇口まで引いてある。アネックスの台所にも小型の薪ストーブが置いてあるので、久々に薪で煮炊きして、テレビもラジオもインターネットもない山の一日を堪能した。明るくなれば目覚め、日が落ちると寝る。久しく忘れていた原初の感覚。


 
3日目、そこからさらに車で30分ほど林道を走り、村のもう一方のはずれの釜沢集落に住むSさん宅を訪ねた。Sさんはイギリス出身の翻訳家。日本人の奥さんとの間にできた娘さんももう大きくなり、最近前よりもっと不便な山の中に古家を改造して引っ越したというので寄ってみた。行ってみてやはり驚いた。釜沢というところは、赤石岳を望む急斜面に家が立ち並ぶ集落自体がほとんどチベットの秘境のようなところで、それだけでも大変なところなのに、そのまたどんつきで車を降り、さらに山道を5分ほど登った森の中にSさんの住む古家はあった。朽ちかけた土蔵を横目に中庭を通り、土間に上がると正面の襖絵がいかにも古めかしい。明治の頃から何度も張替えをしたらしく戦前の黄ばんだ新聞紙やら証文の写しやらが見てとれる。その左手が改造した台所、右手の奥に寝室と書斎と仕事部屋があり、部屋の中央にある大きな薪ストーブと机の上のノートパソコンが不思議な雰囲気を醸し出していた。まさにインターネットがあるからこそできるようになった「究極の山暮らし」。文字通りのローンイーグルだ。20年近く空き家になっていた家を買い取ったということだが、この日本でこれ以上奥はもう望めないだろう。
 Sさんは年の頃50代半ば。けっして人付き合いのいい方ではないが、会って話してみると気さくで穏やかな人柄である。ヒッピージェネレーションらしくロックも聞き、禅にも造詣が深い。しかしここまでとことん突き詰めてやってしまうのは、やはりイギリス人の血のなせる業だろうか。
 とはいっても、どんなに山奥に住んでも人は一人では生きていけない。途中、生協の購買車が来たという連絡が入り、あたふたと買い物袋を片手に下に降りていくSさんの姿が印象的だった。

 


 8/22(火)「野球部Mのこと」

(*今回はちょっと脱線。伊那谷とは何の関係もないけれど、書いてみたくなりました)
 
 夏の甲子園の高校野球で決勝再試合の末、早実が駒大苫小牧を破り初優勝した。ふだん高校野球などめったに見ない私だが、今回の決勝だけは2日ともテレビで見てしまった。37年ぶりの決勝再試合ということもあるが、早実は私の出身校だからでもある。
 といっても、思い出したくない記憶の方が多い高校時代だ。卒業は1974年(昭和49年)。30年以上も前のことだが、同窓会の類は一度も出たことがない。
 試合を見ていて、野球部のMのことを思い出した。3年生のとき、東京大会の決勝まで駒を進めた早実だったが、優勝まであと一歩及ばず、甲子園には出られなかった。だがその決勝の模様はNHKでテレビ放映され、捕手のMが相手チームの盗塁をうまく見抜いて二塁で刺す場面などがまだ記憶に残っている。
 当時新聞部に所属していた私は、全共闘運動の余韻を受けて自分たちの主張だけで紙面を埋めるような偏った高校新聞を発行していたが、この野球部の決勝の模様だけはアリバイ的に記事にした。「最後の闘いを終えて」というキャプションを添えて、捕手のMたちがベンチに引き上げてくる場面のアップ写真が一面の中ほどを飾った。
 二学期が始まってすぐ、新聞が構内に配布されるとクラスメートのMが早速寄ってきて、この写真の元があれば記念にくれないかという。彼と連れ立って校舎の北側の端にある新聞部の部室へ行った。散乱した机の内外を探してみると白黒のキャビネ版が出てきたので、他の何枚かとともにMにあげた。Mはうれしそうにして、教室に戻る途中ですれちがった後輩の野球部員にそのうちの一枚を渡し、「いい男に撮れているだろう」などと冗談を言っていた。
 それから半年たって卒業式の日を迎えたが、Mはまだ進路が決まっていなかった。当時の早実は早大の系属校になって間もない頃で、かつてのスポーツで鳴らした商業学校のイメージを払拭して、進学校としてのイメージに切り替えるのに躍起になっていた時期である。卒業生の約3分の一は早大へ推薦で進学したが、あとは他の大学を受験しなければならない。
 その日のMは朝から溜めていた。卒業記念に誰を殴るか、担任の教師のTを殴るかどうするかなどという話が誰からともなく伝わってきていた。大隈講堂での式が終わって教室に引き上げたところで、卒業証書と一緒に記念アルバムが各自に手渡された。これで解散というところで、Mが声を荒げてアルバム作成委員のHを呼び止めた。アルバムには各クラスの記念写真や授業風景などの他に、クラスメートそれぞれのスナップが一枚ずつ収録されており、Mのものは平凡パンチだかプレイボーイのヌード写真を掲げて運動着姿で笑っている彼の姿が写されていた。いかにもMらしいスナップで、これを選んだアルバム委員の判断も妥当だと思ったが、Mはこれが気に入らず、なんでこんな写真を載せたんだとHに喰ってかかっていった。本当は誰でもよかったのだろう。気がついたら、MはHの顔を殴り始めていた。担任の教師のTの目の前でである。Tは止めに入ることすらしない。見かねて私が、「M!殴るならTを殴れよ。Hのことはいいじゃないか」と叫んで止めに入ろうとしたが、その私を小突いてMはHを殴り続けた。Hの顔面はみるみる腫れ上がっていく。
 殴るだけ殴って気が済んだのか、その後Mは何か捨てぜりふを残して教室を出て行った。残された私たちは、後味の悪い思いを引きずって無言で校舎を後にした。
 翌年、担任の教師だったTは早実を辞めて、故郷の奈良にある私立高校へ転勤していった。私自身はその後何度もTをナイフで刺す夢を見て目が覚めた。

 今回の母校野球部の優勝場面をMはどこで見ていただろうか。


 8/13(日)「豪雨の爪痕」

 久々に伊那市と宮田村の境を流れる藤沢川に沿って、我が裏山こと物見や城まで登る。例年の今頃の日曜なら結構車が入っているところだが、先の集中豪雨で林道は途中から全面通行止めになっているので、ほとんど人は入っていない。さすがに山道に入ると土の感触が足に柔らかくほっとしたが、林道の荒れ方は想像以上だった。復旧は当分見込めそうにない。

 

(最初の道路陥没)

(アスファルトがこんなになってしまった)

(土砂が林道に堆積して川との境がわからない)

 


 8/7(月)「脱ダムの行方は?」

 県知事選で田中康夫が敗れた。結果を聞いて、やっぱりと思ったのは私だけではあるまい。ともかくくだらぬパフォーマンスをやり過ぎて、県民の支持を失っていた。とくに南信の泰阜村への住民票移転問題は決定的だった。あの辺で知事への支持を見切った人は多かったのではないか。
 たしかに誰だって好きなところに住む権利はある。たとえそれがどんなに不便な場所であろうと、そこを気に入った個人が住むのは勝手だ。だがそれが公の立場にある県知事が住む場所となると、話は別だ。信州のほぼ南端に位置する泰阜村から県庁のある長野市まで直線でも約150km。これは都庁のある新宿を起点にすれば諏訪湖まで届いてしまう距離だ。いくら気に入った土地、応援したい自治体だからといって、この距離を公費を使って通うというのはどういうことか。高速を使っても3時間はかかる。だいたい生態系の観点からいっても、泰阜村は天竜川水系であって、北信の千曲川や犀川水系とはまったく環境が異なる。そこまでごり押ししてでも住みたいのなら、なぜ知事をやめないのか? 
 そんなふうに思っていた私だが、今回の選挙ではあえて田中康夫に1票を投じた。ひとえにダムを作ってほしくなかったからである。
 伊那谷にも国土交通省により建設中の戸草ダムがあるが、県の直轄ダムでないとはいえ、田中康夫が知事に就任して脱ダム宣言をして以来、みごとに建設が中断している。どんなに個人的には好きになれぬ知事であっても、これだけは継続してほしいと思った。この塩見岳のふもと、三峰川の源流域にあたる小瀬戸渓谷には巫女淵と呼ばれる紅葉の絶景の谷があり、U字形の地形からいっても南アルプス最奥の子宮のような場所である。この渓谷だけは今後も埋め立ててほしくない、ほとんどその一点の思いからだけ投票した。
 しかし現実は、知事個人の様々なパフォーマンスに対する「いい加減にしろ!」という県民感情の方が上回ったようである。無理もないと思う。だが、それでは脱ダムの行方はどうなるのか? 新知事となった村井仁という人は先の岡谷の豪雨災害のとき、「きちんとダムを作って治水をしておかないとこうなる」と述べた人である。これまでの反動で振り子が思わぬ方向に動かないとも限らない。巫女淵の紅葉も今年が見納めとなるかもしれない。お盆が明けたら、キャンプでもしに行こうかと思っている。


 8/6(日)「山小屋から」

 酷暑を逃れて朝から山小屋へ。ここは標高1500m。中ア空木岳の中腹の森にある「池山野生動物観察棟」。5〜6年前に駒ヶ根市が建てたまだ新しい木造の小屋だが、1時間ほど登ったところにもうひとつソーラーバッテリーなどを完備した市営の池山小屋があり、大半の登山客はそちらへ行く。だからめったに人がこないので、ふだんから別荘代わりによく利用している。
 しかし長梅雨が明けて最初の週末となる今日はさすがにいつもと様相が違い、下の林道の駐車場は車でぎっしり。この小屋にもときおり人がやってくる。無理もない。伊那谷でもこの数日の暑さは半端でないからだ。
 夜勤明けの昨日も、家に戻ってとても寝ているどころではなく、涼を求めて久々に駒ヶ根の市営プールへ。幼児がプールの排水溝に吸い込まれて死亡したばかりだからか結構空いていて、ゆっくり平泳ぎで流しては上がって甲羅干し。そんなことを何度か繰り返しているうちにふと気がついたのは、周囲を飛び交うかけ声や嬌声のほとんどが日本語ではなく、ポルトガル語だということ。そう思ってプールサイドをよく見てみると、タオルを広げて寝そべっている若い女の子も長髪の男性も水の中で浮き輪やボールを投げ合って遊び戯れている若いファミリーも大半がブラジル人だった。「飛び込み禁止」という看板の目の前で男の子が堂々と走り飛び込みを敢行しても、それを知ってか知らずか係員は何も言わない。やれスイミングキャップを被れだの一方通行で泳げだのウォーク専用コースだのとやたらと規則尽くめが多い公営プールの中で、この横手に田んぼが広がる市営プールはまるで外国にでもいるような、あるいは30年前の日本にでも戻ったかのような勝手気ままな雰囲気が漂っていた。


 
この野生動物観察棟も、12畳ほどのがらんとした板敷きの小屋で、周囲をアルミサッシの窓とテラスがぐるりと取り囲んでいるだけの建物だが、この季節に涼を求めてやってくるには最高の「別荘」である。下界がどんなに暑くても、ここでなら昼寝ができる。すぐ近くに水場がないことと、網戸がないため窓を開け放しておくと虻や蜂が入ってきてしまうことが難点だが、森を透かして向う正面には南アの山々が見えるし、鳥のさえずりは聞こえるし、無料の別荘としては言うことがない。駐車場から徒歩約1時間。リュックを背負って登ってくると靴を脱いでまず備え付けの箒で中を掃除。汗でぐっしょり濡れたTシャツやパンツを着替えてテラスの手すりにかけ、犬をつないで弁当のおにぎりを食べ、中でこうしてノートパソコンや本など広げて寝そべっていれば、もし誰かやってきたとしてもまず中までは入ってこない。テラスからの眺めをしばし楽しむとすぐ出て行ってしまう。犬など完全にここは自分たちの本物の別荘だと思い込んでいる。
 田舎に住んでいるとこういう公けの無駄な空間というのが結構あって、それをうまく使うとほとんど金を使わずに楽しめる。家の近くにある「かんてんぱぱガーデン」の木陰の東屋もそのひとつだ。ここも夕刻を過ぎるとめったに人がこないので、昨夕も持参した缶ビールとつまみを片手に紫陽花の庭を眺めながら女房と犬とで涼んでいた。すると背後から「まあ可愛い犬ね」と声がする。観光客のおばさんたち2〜3人連れが人影につられて入ってきたらしい。もちろんここは誰でもが利用できる無料の休憩場所だから入ってくるのは自由である。しかもこの夏で2歳になる柴犬のリラは人とみれば誰にでも尻尾を振って抱きつく犬だから、よけい人が寄ってきやすい。しかし私が「何だお前たちは?」という顔をして無視して座っていると、ちょっと様子を覗いただけでおばさんたちは出て行ってしまった。あとになって女房が言うには、「ここはあんただけの場所じゃないんだからね。そんなまるで自分の庭に入り込んだ人を見るみたいなブスっとした顔していたら、みんな出て行っちゃうじゃないの」。


 8/1(火)「夕立」 

 夕方、暑熱のこもった西向きの部屋でパソコンに向かっていたら、カーテンをそよがせて急に涼風が吹き渡ってきた。窓から空を見上げると黒雲がもくもくと迫ってくる。一雨くるなと思い、まず傘を片手に急いで犬の散歩。戻ってくる頃にはぽつりぽつりと雨が降り始め、犬を軒下につないで部屋に入ったところでどしゃぶりとなった。家中の窓を閉め、缶ビールとつまみを持って二回のベランダへ。窓から夕立を眺めながら一息つく。

 夏のひととき、こうやって雨を眺めるのは嫌いじゃない。昔二十代の頃、インドを旅していて西のタール砂漠に近いラジャスターン地方で体をこわしてダウンし、やっとたどりついたニューデリーで辛うじて危地を脱出したあと、おもいきって全長5000キロを走る大陸縦断列車に乗って南端のケララ州に行ったことがある。椰子の林に囲まれた海沿いの民宿に部屋をとったその夕刻、スコールがやってきた。実に数ヶ月ぶりで出会う雨だった。もうそのときのなつかしさとほっとした気持ちといったらなかった。テラスに椅子を出して、長いこと雨を眺めていたことを思い出す。
 しかしこの夏はやはり雨になると、まず災害を思ってしまう。幸いぼくの住む伊那近辺では岡谷や辰野のような死者こそ出なかったが、一歩山に入れば土石流やがけ崩れの爪痕はいたる所に残っている。

 
一昨日、ほぼ二週間ぶりに我が裏山の物見や城へ行ってみたが、川沿いの林道を500メートルほど入ったところで早くも「道路陥没につき通行止め」の看板。やむなく車を乗り捨てて歩いていってみると、すぐ先で土砂崩れがあり道が埋まっていた。でもこれぐらいならいずれ重機を入れれば通れるはずと思いながらもう少し先へいくと、今度はふだんから道にちょろちょろと水の出ていた箇所が完全に川になって水が溢れていた。だがここまではまだ予想の範囲内だった。そこを越えてもう数歩行ったところで思わず立ちすくんでしまった。舗装路が縦5メートル深さ3メートル以上に渡ってえぐられ、完全に陥没しているではないか。辺りには道のいたる所に流木や砂利が堆積していて、川の氾濫のもの凄さをあらためて思い知らされた。これじゃあ通行止めも無理はない。すぐ近くに人家のない地域だから復旧も後回しになるだろう。はたして今年中に通れるようになるかな?と思いながら、車まで戻った。
 
 伊那谷ではこの夏、毎年恒例の岡谷の太鼓祭りを始め、市町村の夏祭りが軒並み中止となった。毎年40万人以上の人出がある8月15日の諏訪湖の花火大会だけはやるらしいが、4万発も花火を打ち上げてまた山が崩れでもしなければいいがとちょっと心配になってしまう。(ちなみに諏訪湖畔・岡谷の湊地区に住む被災者は昨日ようやく帰宅を許された。JR飯田線の辰野・岡谷間はまだ止まったままだし、湖岸通りも通行止めが続いている)。
 


 7/24(月)「裏山が…」

 
大雨による被害の状況が次第に明らかになってくるにつれ、驚きを隠せないでいる。というのも家のすぐ周辺の地域で結構甚大な被害が出ているにもかかわらず、それをまるで知らずにいたからだ。やっぱりテレビのニュースを見ているだけでは肝心なことは何もわからない。たまたま山際でも川沿いでもない段丘の上に住む我々の地域だけが一種のエアーポケットのように無事だっただけで、ここから県道を隔てて1キロほど山側に入った集落では土石流が発生して家が泥水に浸かったり、道路が寸断されたりしていた。
 なかでもショックだったのはそのさらに先、伊那市と隣の宮田村の境を流れる藤沢川一帯の山腹斜面が数百メートルにわたって山腹に大きな亀裂が走っているのが発見されたことだ。物見や城と呼ぶ昔狼煙を上げた丘や水芭蕉やあやめの群生のあるこの山は、いわば我が家の裏山で、一年を通してほとんど地元の人しか入らず、週末ごとに犬を連れて歩きに通っていたところである。このところの雨で山を歩けずにうずうずしていたから、晴れ間ののぞいた昨日などよっぽど様子を見に行こうかと思ったが、川沿いに車で林道を数キロさかのぼらねばならず、しかもふだんから山の斜面のあちこちで水の出ているところなので大事を取って見合わせたばかりである。
 しかし今日の新聞(信濃毎日HP)に発表された自衛隊のヘリから撮った写真を見ると、いつ大規模な山崩れが起きても不思議ではない。これでは当分立ち入りはできないなとため息をつくしかなかった。田舎で暮らす者にとって、裏山に入れないというのは自分の庭を歩けないことと同じで、とたんに窮屈な気持になる。雨が降ったりやんだりの今日は、仕方がないので近くの温泉に打たせ湯に行くことにした。
 


 7/22(土)「避難勧告」
 
 大雨が降り続き、箕輪町で天竜川の堤防が決壊したのが三日前。その少し下流、ぼくの住む伊那市でも各地で警戒水域を越え、住民の避難が相次いだ。川から徒歩15分ほどのところにある我が家は幸い段丘の上にあり難は逃れたが、それでも当日は夜通しの激しい雨と消防団のサイレン、そして川沿いの住民に避難を呼びかける役場のスピーカーの声などで、おちおち寝ていられなかった。朝になって下の郵便局に本を発送しに行くと、局の裏手の崖が崩れ、いつも通る道が通行止めになっていた。遠目に眺めやる天竜川は、ここから見てもほとんど水位がぎりぎりまで上がっているのがわかった。しかし人間とは不思議なもので我が身に直接災いが降りかからない限り、間近に迫った危険もどこか他人事のような気がしてしまうものらしい。
 翌日の夕方になって雨が上がったので久々に町まで買い出しに行った。川沿いを走る国道153へ降りてまず目についたのは、橋桁が濁流に呑まれて陥没した殿島橋である。いまは100メートル上流に新しい春近大橋ができて、この旧橋は歩行者専用となっているが、水の勢いの凄さをまざまざと見せつけられた。空にはヘリコプターが飛び交い、国道は通行止めとなった中央高速から迂回してきたトラックで数珠つなぎの渋滞で、町は騒然とした雰囲気につつまれていた。
 用事を済ませて戻ろうとすると、役場のスピーカーからまた避難勧告の地区名が新しくアナウンスされていた。耳を澄ませて聞くと自分の住む地区名だった。まさか川沿いの一部の住民のことだろうと思って家に戻ると、道端に近所の人たちが集まってきている。話を聞きにいくと、土砂崩れの危険ということでやはり我々も避難勧告の対象になっているのだという。ここは丘を登って50メートルは高台に入っている地区だ。東海大地震が来るのならともかく、ちょっと大げさすぎやしないか。それでも「勧告」が「指示」に変わったら夜中でも食料や衣類をまとめて近くの小学校まで避難しなければならないという。誰もが興奮して上ずった調子になっていた。


 その晩、昔我々も住んでいた高遠町の山の廃村に住む友人に電話をかけた。もともと災害対策で旧住民が山を降りていったところだし、後ろに崖は背負っているし、危険度は我々の住む地域の比ではない。やはり土砂崩れで道が塞がり、横の沢が溢れて家も床下浸水になっているという。しかし行政上は放置されている廃村だから「避難勧告」ひとつ出てはいない。本当に恐いのはこういう地域である。役場の有線も届かない場所だから、状況を説明して少しでも早く降りられるうちに山を降りることを勧めて電話を切った。
 ぼくの地区の「避難勧告」は幸い「避難指示」に変わることなく昨夕解除された。


 7/17(月)「ジャンピングマウス」を聞く

 
伊那市郊外の山の中で、「ジャンピングマウス」の語りを聞く(語り・古屋和子 インディアンフルート・のなかかつみ)。降りしきる雨にも関わらず、会場となったログハウス眺岳台は3〜40名ほどの聴衆でぎっしり。1時間余りの熱演が終わってから、参加者一同車座になって感想を述べ合う。優れた物語には「物語の力」というものが確かにあって、この「魂の明け渡し」の物語は、それを聞いた人の内面に何かを生じさせるようだ。仕事に行き詰って休職中の人や自閉症児を教えている人、子どもが鬱で入院中の親などが、それぞれの立場から自分の物語を訥々と述べた。
「ぎゅっと握りしめていたものを、思いきってぱっと放したときに人は変わるのかもしれない」という若いお母さんの話が印象的だった。

 実はこの春、同じ伊那谷で、このアメリカインディアン・シャイアン族に伝わる秘話を私は英語で聞いた。「インターナショナル・ストーリーテリング」と名打ったイベントがはねたあとの打ち上げの席で、イギリス人のストーリーテラーが少人数の関係者を前に即興で始めた語りだったが、簡約版ながら渾身の語りで、細部はわからないながらも確信の場面はぐいぐい迫ってきて、聞いているうちに目頭が熱くなってきたものだ。
 その後、子ども向けの英語版の物語を取り寄せて読み、北山耕平訳の日本語版にも目を通してみたが、やはり活字で黙読するのと実際にそれを声に出して語られるのを聞くのとでは感動の質がちがう。もともと物語とは口承で伝えられてきたものなのだ。近代の活字文化が失ってしまったもの、物語にひそむパワー、何か忘れていたものを強く思い起こさせてくれたひとときだった。


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