☆四国歩き遍路日記

 第三回 コロナ禍の秋遍路(愛媛篇) 2020(令和2)年10月

 


 歩き遍路区切り打ち三回目。本来なら春三月に行っていたはずが、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が出て行くに行けず、とうとう秋に持ち越した。もちろんいまだって感染が収まったわけではない。しかしこのままコロナの終息を待っていても、いつ四国に行けるかわからない。四国八十八ヶ所霊場会の公式HPなどを見ても、「6月から各寺院の納経受付は全て通常通りとなっている」とあり、コロナ禍中の巡拝についても、「手洗い、うがい、マスク着用」の上、三密を回避してくれれば構わないとある。念のため、老舗の遍路宿に電話して聞いてみたら、少しずつ歩き遍路も増えてきているという。ならば、この辺で行くことにしよう。GO TO 四国。

 なお今回はコロナの関係で、休業中あるいは廃業した民宿・遍路宿も少なくなく、ほとんど「じゃらん」などを通じてビジネスホテルを事前にネットで予約した。結果としてそのままGO TO トラベルの恩恵に浴することになり、これまでで宿泊費は最安になった。だが自分個人としてはアベもスガも大嫌いだし、GO TOトラベルそのものにも反対である。現に自分たちのやっているAir bnbの農家民泊は、GO TO に参加していない。だから客の大半を占めていた外国人客はコロナで途絶え、日本人客も来なくなり、おかげでお遍路にも出られた。

*宿の個人的評価基準は次の通り。

 ◎ ぜひまた泊まりたい 〇 次泊まっても苦しくない △ できれば次回は避けたい
 


10/20(火) 晴/曇 羽田〜松山〜卯之町

 用事があって東京の実家に一泊。翌朝、何十年ぶりかで浜松町からモノレールに乗って、羽田空港へ。二十代の頃、今は亡き親友のTとマル・ウォルドロンのジャズ・コンサートの後、酔いを醒ましにモノレールに乗って夜の羽田空港に来たことをふと思い出す。若い頃の記憶は、もう前世の記憶だな。

 昼過ぎの全日空で松山まで飛ぶ(格安チケットを買えば、新幹線と特急を乗り継いで松山まで行くのとほとんど変わらない値段)。ただし金剛杖だけは取り上げられ、別送手荷物扱いに。

 それにしても伊那〜新宿の高速バスも、羽田〜松山のANA便もすべて満席で超混雑。平日だというのに、この三密ぶりはなんだ? コロナの関係でバスも飛行機も大幅に減便されているところへ、GO TO トラベルが加わって人の大移動が始まっているのだ。その影響をもろにかぶった感じだ。そういう自分自身、今日も GO TO トラベルの割引料金でビジネスホテルを予約しているのだから、文句も言えまい。防護マスクをつけ、隣の子連れ客の騒ぎをじっと我慢して松山へ。


 予定より一本早い特急に乗れて、15:30卯之町着。まだ時間の余裕があったので、リュックから白衣と輪袈裟を取り出し、前回最後に打った43番明石寺を参拝する。一年ぶりに歩く遍路道がなつかしい。さてこの一年、自分はいったい何をしてきたのか?

(第一ビジネスホテル松屋泊)〇


10/21(水)晴/曇 卯之町〜大洲別格8番十夜ヶ橋〜内子 歩行距離約33q
     (
*歩行距離は遍路地図などを参照した大体の目安)
 

 7時出発。明日は一日雨予報なので、今日の内にできるだけ歩いて距離をかせぐことにする。
 鳥坂峠の旧遍路道を越えて林道に下りてきたところで、逆打ちの女性遍路と出会う。「あ、ここが遍路道で間違いないんですね」とほっとした表情。人気のない林道を延々と歩いてきて、本当にこの道でいいんだろうかと不安に思っていたところだという。峠道は結構荒れていて、下りは特に滑りやすいからと注意して別れる。今年はうるう年で逆打ちの遍路とこの後何人もすれ違うことになるが、逆打ちの場合、遍路道の標識を探すだけでも大変だ(その分、ご利益も3倍になるというが…)。


 林道をようやく抜け、廃寺?の番外霊場札掛太子堂を横手に、トラックの行き交う国道56号を下る。かなりの交通量だが、歩道はない。わずかにあっても雑草が茂っていて、結局路肩を歩くしかない。山の旧道の遍路道は、荒れてはいてもそれなりの雰囲気があるが、この国道歩きだけは何度やってもうんざりする。しかし歩くしかない。

 大洲の町へ入ってきたところで、食堂を見つけて昼食。そこからまた国道を抜けて、別格8番十夜ヶ橋へ。その昔、弘法大師が野宿されたという橋の下には横になる大師の像が祀られている。川べりを見ると鯉が群れていて、カップ一杯50円で餌まで売られている。餌を買って川に投げ入れようとすると、今度は鳩がどっと集まってきて餌の奪い合い。それを黙ってお大師様が横になったまま眺めている。


 大洲からまたひと踏ん張りして内子まで約10qの道のりを行く。17時前にやっとホテル着。しょっぱなから今日は30q以上、歩いた歩いた。さすがに後半はへばった。
  決して楽しいわけじゃない。でも黙々と歩いていると、だんだんひとつ向こうの世界へと入っていくのを感じる。どんなに焦っても、この二本の足しか頼るものはない。それにすべてを任せて、一歩一歩、自分のペースで前へ進んでいくことでしかたどりつけないものがある。そういう諦念。それはどこか禅にも通じる。自分自身は全部を歩き通す四国遍路は一生に一回でいいと思うけれど、これを何回も繰り返しやりたくなる人の気持ちもわからないではない。

(ホテルAZ内子泊)〇


10/22(木)雨 内子〜砥部町 22q


 ホテルで朝食を取って、ゆっくり8時発。内子の旧い街並みを抜けたところで小雨が降ってきた。道の駅でチャプスだけ下半身に着け、折り畳み傘を差して小田川沿いの国道を行く。少し歩くと、前方にポンチョに菅笠を被ったお遍路の姿が見えてきた。ゆっくり、ゆっくり歩いている。今回初めて会ったお遍路だ。追い抜きながら声をかける。70代位の男性。履いてきたトレッキングシューズで靴擦れができて、幅広のウォーキングシューズに買い替えた。しかしこれだと山道はきついので、だいたい国道を歩いている。今日は雨だからあまり歩かず、十数キロ先の小田泊りだという。


 トンネルをひとつ抜けたところで、道沿いにお遍路無料宿があったので覗いてみた。十畳位の小屋にはきちんと布団も積まれていて、寝泊りに問題はない。掲示を見ると、この善根宿を開いた女性は87歳で亡くなったとある。ベンチで一休みしていたら、傘を差した別の男性遍路がトンネルから現れる。区切り打ちで、今回は高知の37番岩本寺から足摺岬を越えてきた。退職した直後で、失業保険の関係でどうしてもハローワークに顔を出さねばならず、通しで歩けないのが残念だという。四国は何度も来ているらしい。

 内子から10qほどで山間の集落大瀬に入る。大江健三郎の出身地だ。十代の頃熱中して読んだ作家の生家が、今は大瀬の館という記念館になっていると聞き、ぜひ訪ねてみたいと思っていた。ところが町の通りを行ったり来たりしても看板も何も出ていない。雑貨屋が開いていたので尋ねると、店の主人が「隣!」と指さす。外に出て見てみると、たしかに旧い木造の立派な二階家の表札に「大江」とある。開き戸を開けて声をかけるが、誰も出てこない。展示も何もない。雨の中、ノーベル賞作家の生家の前に佇み、有名作家と故郷との関係についてつくづく考えてしまった。
 しかしそのすぐ先にある大瀬小学校の木造二階建ての校舎と校庭の雰囲気は、どことなく初期の傑作「芽むしり仔撃ち」の舞台を彷彿とさせるものがあり、納得する。なるほど、こんな山の中から出てきたんだよな、大江先生は…。


 休憩所でサンドイッチを頬張っていると、いよいよ本降りになってきた。ポンチョを被って先を急ぐ。廃業になった豆腐料理の民宿来楽苦を過ぎ、突合で二手に分かれた道を左手の鶸田峠方面へ取って、川沿いの谷間の道をどんどん進む。今日は送迎サービスが売り物のたちばな旅館に予約済みだ。
 15時頃、指定された落合総津のバス停から電話を入れてみたが、何度かけても留守電のまま返事がこない。早く着きすぎたのか? しかし大瀬の館もやっていないし、雨だからどうしようもない。ポンチョの内側は蒸れて汗びっしょりになり、じっとしていると冷えてくる。雨も激しくなってきた。15分ほど待ったところで諦めて、最後の1.5qも歩いて行くことにした。宿が近くなった頃、軽バンに乗ったばあさんがぼくを探しに来た。入口には野良猫?がお迎え。田舎の旅館である。


 夕食時、泊り合わせた76歳の男性遍路と差し向いに卓を囲んでいて、旅館の迎えが来なかった理由がわかった。区切り打ちで前回大瀬まで来ていたというこのお遍路さん、大瀬までバスで来て、そこから歩いて14時頃には砥部町に入り、バス停のずっと前の薬師堂から宿に連絡を入れ迎えを頼んだ。しかしうまく行き会えず、宿の人もさんざん探し回ったらしい。その結果、後からやってきたぼくの送迎まで手が回らなかったというわけだ。

 それにしても愛知から来た今度で7回目というこのお遍路さん、八十八寺はもちろん、別格二十寺も全部廻っている先達である。4年前に胃の全摘手術を受け、しばらく臥せっていたが、どうしてもまた歩きたくてお遍路を再開。コロナで春は来れなかったが、9月から毎月一週間ずつ歩いている。夕食の御馳走を前にして、「わたしは胃がないからこんなに食えんわ、ここに管が入っているんだよ」と言いながら、コップ酒をついーっと一杯やる。すると配膳にきた75歳の女将が、「わたしだって何年も透析に通っていて、ほら血管だってこんなに膨れていて」と腕をめくりあげる。そんな老人二人に囲まれ、俯いてビールのグラスを傾ける。 

(たちばな旅館泊)△


10/23(金)雨/晴 砥部町〜鶸田峠遍路道〜44番大宝寺〜45番岩屋寺打ち戻り 30q


 朝はバス停までおばあちゃんが車で送ってくれた。車での会話。
「家の真ん前に猫を捨てに来る人がいるんだよ。しょうがないから隣の人と餌をやったりしているんだけど、餌がなくなる頃になるとHさんという女の人がキャットフードをもって現れるの。たぶん自分が捨てた猫だから悪いと思って、餌だけもってくるのかもね」。

 雨の中、傘を差して7時出発。最初の下坂場峠にさしかかる頃に雨は上がったが、濡れた山の遍路道は所々川のようになっていて歩きにくい。いったん車道に出て下り、再び山道で鶸田峠を越えて久万高原町へ入ってきた。昼前にようやく44番大宝寺着。山の中の渋い寺だ。
  明石寺からここまでの2泊3日六十数キロの道のりは、四国遍路の中で足摺岬、室戸岬についで距離が長い。山あり谷あり国道あり、密度の濃い変化に富んだ道で、さすがにきつかった。鐘を打ってからマスクを着け、本堂でゆっくりお経を唱える。


 寺を出て遍路道の標識に従って歩いて行ったら再び山道に入り、峠をひとつ越えてトンネル手前の国道に出た。そこを下って、今日の宿「癒しの宿八丁坂」でカレーの昼食。13時過ぎ、荷物を預けて再び山の遍路道に入り、45番岩屋寺へ向かう。よく手入れされた石畳の遍路道は雰囲気があるが、雨の後は滑る。それにしても今日何度目の峠越えになるだろう? くねくねと登る八丁坂は空身だから歩けるが、重いリュックを背負っていたらさぞこたえるだろう。

 やっと登り切ったところで槙の谷からの山道と合流して、尾根筋をしばらく行くと、岩を回り込んで暗い森の斜面に出た。道のあちこちに石仏が祀られていて、おどろおどろしい雰囲気が漂っている。切り立った岩場を見ながら下っていくと、岩窟にそそり立つ巨大な不動明王がぎろっとこちらをにらんでいる。圧倒される存在感だ。本堂はまだずっと下の方にある。遍路道からくるといきなり奥の院に入ってしまうらしい。石仏を拝みながらどこまでも暗い森を降りていくと、やっと裏門から大師堂へ出た。やれやれ、やっと人間界へ出た気分でほっとする。
 凄い森だった。生半可な気持ちでは通れない。本堂から見上げる岩壁は、若い頃行ったインドのアジャンタの石窟を思わせる。印象的な寺である。四国の奥深さをつくづく体感する。


 納経を済ませ参道を下ろうとしたら、内子で雨の中追い越したお遍路さんとばったり。ウォーキングシューズに履き替え山道は歩けないと言っていたから、どうやってここまで来たのか聞くと、小田から真弓トンネルを抜けてひたすら川沿いに国道33号を歩き、南側から大きく迂回して岩屋寺まで来たという。だから大宝寺はまだ行っていない。あとで遍路地図を見て、いろんな歩き方があるものだと感心する。

 そこから参道を延々と下って国道へ出る(上りだと30分近くかかるらしい)。途中また遍路道へ入るかどうか迷ったが、もう夕闇も迫ってきたので国道をたどり荷物を預けた宿へ17時過ぎ着。今日も長い歩きの一日だった。

(癒しの宿八丁坂泊)◎


10/24(土)曇/晴 久万高原〜三坂峠〜46番浄瑠璃寺〜49番浄土寺 30q


 7時出発。明るくてとても気持ちの良い宿だった。ここまで歩き遍路とは数人しか出会っていないが、ここは盛況だった。

 さて久万高原からどうやって三坂峠へ抜けるか。たいていの人は峠御堂トンネルを抜けて国道33号へ出るようだが、623mのトンネルは交通量も激しく、できれば通りたくない。最新版の遍路地図(12版)には、11版では消えていた千本峠のへんろ道というのが復活している。スマホで調べてみると、へんろ道保存協力会が10月初めに草刈りと道の整備を行なったとある。ならば、この道を行こう。

 山の遍路道にさしかかると、古びてはいるがきちんと「四国のみち」の木の標識も出ている。一時は倒木や崩落などで通行困難になっていたらしいが、これが昔ながらの遍路道なのだろう。きれいに草も刈られている。
 朝のすがすがしい山の空気を吸って歩いていると、後ろから鈴の音が。振り返ると、内子から何度か追い越し追い越されている失業保険申請中のお遍路Nさんがやってくる。「連れがいれば、安心ですね」。前回一度通ったときは、草がすごくて大変だったそうだ。Nさんを先に行かせて、ゆっくり山道を登る。歩き遍路には必ず旅の道連れができるものだが、今回はこの人がそうらしい。


 高野休憩所で一休みして、標識に従い村の畑道を下る。しかし最後は藪をかき分けて、本当にこの道でいいんだろうか?と不安に思っているところで、車道へ出た。

 国道33号の単調な歩きが続く。歩道は狭く、交通量は多い。四国遍路の大半を占めるこの国道歩き。これが忍耐である。ただ二本の足を前へ前へと出していくのみ。他に手はない。自分の歩幅で生きていくしかない。
 途中、寒風が吹く三坂峠付近で、逆打ちの遍路と三人ほどすれ違い、挨拶する。どの人もさすがに年季が入った姿・歩き方をしている。それにしてもこの寒さはなんだ? 久万高原が四国の軽井沢と言われるのも頷ける。去年の秋に歩いた高知の暑さに比べると、同じ四国といっても全然ちがう。

 三坂峠から再び山の遍路道に入り、ガレ場の坂道をほぼ下りきったところで坂本屋へ出た。無料の遍路休憩所だ。コロナの関係でいまは週末しか開いていない。運よく今日は土曜で、お茶と柿・焼き芋のお接待にあずかる。千本峠の山道を越えてきたため、途中にコンビニなどなく、今日は昼飯の用意がない。ほかほかの焼き芋はありがたい。


 時刻は13時過ぎ。一足先に坂本屋を出て行ったお遍路は、今日は46番浄瑠璃寺の前の長珍屋泊りというから、余裕だ。主人がお宅はどこまで?と聞くので、できれば49番浄土寺までと答えると、腕時計をにらみながら難しそうな顔をする。「間に合わなければ、浄土寺は明日に回してもいいんです」と言いながら、席を立った。

 そんなこともあって自ずと急ぎ足になる。不思議と元気なうちはゆっくり歩けるものだが、疲れてくるとどんどん早足になってくる。しかし浄瑠璃寺の門前の長珍屋を通りかかったら、バスが停まっていて白衣を着た団体客がどっと下りてきたところだった。「よかった、ここに泊まらなくて」と思いながら、先を急ぐ。

 47番八坂寺を打ち、遍路道の標識に従って歩いていたら別格9番文殊院へ出た。別格の寺は雰囲気のあるところが多いが、ここも小さいながら独特の雰囲気がある。境内にある釈迦の生涯をたどったインド仏跡のプレートを踏んでいくと本堂に突き当たる。ルンビニー、ブッダガヤ、サルナート、クシーナガラ…と、昔二十代の頃のインドの旅の足跡が思い起こされてなつかしい。


 48番西林寺を打ち終えたときはまだ16時前だった。地図を見ると次の浄土寺まで約3q。これなら行けると松山市郊外の街並みをずんずん抜け、49番浄土寺まで打って終わりにする。近くのたかのこの湯へはちょうど17時着。今日も30q以上歩いた。
 ホテルの部屋にはシャワーしかなく、隣の日帰り温泉施設は週末の夜とあって超混雑。でもぬるめの源泉湯にはゆったり浸かれて癒された。

(たかのこのホテル泊)〇


10/25(日)晴 たかのこ〜50番繁多寺〜53番圓明寺〜伊予北条 30q


 7時発。50番繁多寺を朝一番に打って、住宅街の遍路道を抜けて51番石手寺へ。日曜日で観光地道後温泉に近いということもあるのか、ここは寺も活気があって面白い。太鼓の音もある、花や線香の匂いもある、説教も流れている。どこかインドのヒンドゥー寺院を思わせる祭りの雰囲気が漂っている。本堂の横手から入る曼荼羅洞窟の石仏群も凄かった。懐中電灯を持たずに入ったので、ほとんど真っ暗な中を手探りで石仏に触れながら進んだ。去年行った別格4番鯖大師のお砂踏みの洞窟を彷彿とさせる。またゆっくり来たいと思わせる寺のひとつだ。

 道後温泉へ抜ける遍路道を歩いていたら、面白い木札があった。「大きな石にはつまずかないが、小さい石につまずく。御用心御用心」。本当にその通りである。


 日曜の人出でいっぱいの道後温泉の市街地で道に迷い、うろうろしてからようやく遍路道沿いにある山頭火の一草庵へ。いかにも日本文学研究者という感じの外国人を連れたグループが、庵の前でいろいろとレクチャーしている。山のふもとの静かな佇まいの平屋だ。ここなら道後温泉にも近いし、晩年の山頭火も満足して過ごせただろう。


 一草庵を出て住宅街の遍路道を歩いていると、すれ違ったおばあさんが寄ってきて、千円札を差しだしてくる。「ご苦労様です。次の太山寺まで行くんでしょ? わたしゃもう足が悪くてお参りに行けないから、このうちから10円でもいいからお布施しておくれ」。恐縮してお接待を受け取り、お札を返す。これまでも果物や菓子などのお接待を受けたことはあるが、千円札は初めてだ。気を入れ替えて、歩きはじめる。

 遍路道の標識に従い、太山寺近くの蜜柑畑の丘を登って行ったら道の途中に工場の柵。しかし矢印はどうしても柵のある方を向いている。何かの間違いではないかと思いながら引き返し、手前の道を登っていくと、蜜柑畑の上から声がかかった。「お遍路さーん、道を間違えてるよ。柵の脇に小道があるから、そこを行って」。ああよかった。きっといままでも間違えて上へ登った人が何人もいるのだろう。引き返して、ようやく52番太山寺の山門に至る。


 山門から本堂までの長い長い坂の参道を息を切らして登りながら、さっきのおばあさんの言った意味がよくわかった。たしかに足腰達者でなければ、本堂へ行くだけでも大変だ。参拝してお経をあげ、お接待の千円札をそのままお布施する。どうかおばあさんにご利益がありますように。

 時刻はもう正午過ぎ。山門への道を下っていくと、向こうからTシャツ一枚に菅笠姿のNさんが汗びっしょりで急ぎ足にやってくる。たしか昨日は長珍屋に泊ったはずだ。ここまでかなりの距離がある。凄いスピードだ。今日はどこまで?と聞くので、北条までと答えると、自分も同じだという。まだ12q位はある。いまからじゃ夕飯に間に合わないかもと、かなり焦った様子のNさんを後にして53番圓明寺へ。

 圓明寺を打って、堀江港の先からやっと瀬戸内海沿いの国道に出る。潮風に吹かれて歩いていると、向こうから歩いてきたトレーニングウェア姿の中年の男性が声をかけてくる。八十八寺をすでに廻っている地元の先達で、何か困っていることはないかと言う。時刻は15時を過ぎたところ。伊予北条の駅まで、ここから歩いて1時間半と聞き、「それならちょうどいいです」と答え別れる。しかしその先からは海の見えない内陸側の狭い国道に戻り、10qほど単調な国道歩きが続いた。我慢、我慢。


 結句、その日の宿シーパMAKOTOに着いたのは17時近く。通された2階の部屋は六畳ほどだが、瀬戸内海を見渡す部屋ごとにゆったりとした掛け流しの温泉がついていて、湯船に浸かるとちょうど正面に線香花火のような夕日が落ちていくところだった。感謝感激、南無大師遍照金剛。

(シーパMAKOTO泊)◎


10/26(月)晴 伊予北条〜54番延命寺〜55番南光寺 28q


 部屋付きの温泉で朝風呂まで浸かって、今日は元気。7:30出発。遍路道を鎌大師まで来ると、またNさんと会う。今日も相前後して今治まで行く。

 今日はほとんどが国道歩き。瓦の生産で有名な菊間の町を過ぎ、やっと国道から海沿いの細道に逸れたと思ったら、正面に巨大な石油コンビナートの煙突が見えてきた。いよいよ今治工業地帯に入ってきたのだ。太陽石油菊間製油所の巨大な敷地を通り過ぎたところに、見捨てられたようにして番外霊場青木地蔵があった。霊水の脇に祀られた大師様の丸い石像がとても雰囲気があり、印象的だった。


 なおも延々と国道を歩いて、やっと54番延命寺へ。Nさんはすでに参拝を終えて、今日の宿を電話で取っているところだった。聞くと、ぼくと同じ今治駅前のビジネスホテル。しかも早めにホテルに着きそうだから、レンタサイクルで市内を廻るつもりだという。元気あるなと驚く。

 延命寺を打ち終えて、遍路道の高台に出ると、向こうの森の上に「加計学園」の看板が見えた。そうか、石油コンビナートと加計学園かと頷きながら、遍路道を下って今治市内に入り、55番南光坊へ。団体の参拝客や車のお遍路さんがたくさんいて、ここは早めに切り上げてホテルにチェックイン。コインランドリーに着てきたものを全部投げ込み、缶ビールを開けて、9階の窓から今治市内を眺める。正面には22階建ての国際ホテルが聳えている。いかにも金の回っていそうな地方都市である。



(ホテル・アーバン今治泊)◎


10/27(火)晴 今治〜56番泰山寺〜59番国分寺〜壬生川 30q

 7:30発。子どもの挨拶度と田舎度は比例する。街の子はめったに挨拶しない…などと考えながら今治の住宅街の遍路道を歩いて行ったら、駐車場の看板の矢印に惑わされてか、56番泰山寺を1q余り過ぎたところで、行き過ぎてしまったことにはたと気づく。四国遍路無縁墓地という石碑の横に遍路小屋があって、その標識に「←泰山寺1.1km 栄福寺1.7k→」とあったのだ。墓地を掃除していたおばさんに確かめると、ずっと手前の山のふもとに泰山寺はあるという。慌てて来た道を引き返す。途中で近所の人も出てきて、「逆打ちの方ですか?」などと聞かれるが、「いや間違えて行き過ぎてしまっただけです」と答えながら早足で行き過ぎる。今朝は順調に出発して気分も良かっただけに消耗する。


 泰山寺に着くと、Nさんなど数名のお遍路が参拝しているところだった。また一緒になってしまった。Nさんに事情を話すと、「じゃ今日は2qのハンデですね」。

 泰山寺を打ち終え、来た道をまた1q戻り、蒼社川を越えて57番栄福寺へ。先に来ていたNさんはまだ今日の宿を決めていないという。明日は伊予最高所の60番横峰寺が控えている。通常ならふもとのビジネス旅館小松が歩き遍路の定宿となっているが、コロナの影響でいまは休業中だ。ぼくはやむなく伊予西条のビジネスホテルに連泊して、横峰寺を打ち戻りすることに決めた。そんな話をNさんにすると、「大丈夫、温泉しこくやがあるから」という。でもなかなか電話が通じないようだ。さて、どうなるか。

 栄福寺から58番仙遊寺への遍路道は、よく手入れされた気持ちの良い山道だった。青いリュックを背負った男性遍路が、路傍の石仏のひとつひとつに合掌しながら先を行く。精進料理で有名な仙遊寺への最後の参道は、沢を遡行しながら急な階段を息が切れるまで登る。すばらしい雰囲気の山寺だ。今度来ることがもしあれば、ここの宿坊に泊まりたい。


 仙遊寺から山の遍路道を下り、再び国道へ出て59番国分寺へ。参拝を済ませ、サンドイッチを頬張っていると、青いリュックの中年の男性遍路とNさんが相次いで現れる。男性遍路は、去年に続いて区切り打ち二回目で今度は最後まで回る予定。やはり明日は、伊予北条に宿を取り、横峰寺を打ち戻りするつもりだという。一方、Nさんは「湯の里小町温泉しこくや」の予約が取れたという。「その日に電話すれば、たいてい取れますよ」と余裕顔。「でもまだそこまで相当距離があるじゃないですか」と青いリュックの男性。「そうなんですよ、まだ20qはあるかな。じゃ先を急ぐので、これで」とNさんは行ってしまった。


 国分寺の握手修行大師に、「いやな記憶はみな忘れさせてください」とお願いして、ぼくもNさんの後を追うように国道をたどる。高速をくぐりぬけて旧道に入り、世田薬師、臼井御来迎、日切大師と参拝したところで遍路道を折れ、国道を壬生川のビジネスホテルに向かう。
 高速の地下横断路をくぐり抜けたあたりから、本来の道にはない無理なアップダウンが続き、とても疲れた。結局、今日もハンデを含めて30q余の歩行。靴を脱いでみたら、両足の小指にマメができていた。

(ホテルトレンド西条泊)△


10/28(水)曇/晴 壬生川〜60番横峰寺〜63番吉祥寺〜壬生川 30q


 バンドエイドを張った両足の小指にさらにテーピングを施し、ホテルに荷物を置き、軽装になって7時出発。国道を4qほど歩き、遍路道と合流する。
 妙谷川に沿って、谷あいの国道を歩いて行く。朝の山はやっぱりいい。舗装路でも、少しずつ川沿いを歩いて山ふところへ入っていくのは悪くない。ただ遍路地図には「雨天の際は水量が急増し危険。下流の妙谷川の流水量に注目」とある。その意味がわかったのは、舗装路のどん突きの湯浪休憩所から横峰寺まで最後の2.2qを結ぶ山道「横峰寺遍路道」に入ってからだ。


 国指定史跡になっているだけあって、昔ながらのすばらしい遍路道で、いままで歩いた中でもベスト3に入る。大小の滝が流れ下る苔むした沢道を、森の音に耳を澄ませて少しずつ登って行く。随所で眺めに見とれて、デジカメのシャッターを切る。しかしもしこれが大雨の後だったら、道は冠水して一部濁流のようになり、石畳は滑ってとても歩き通せないだろう。天気が続き、空身で来れたことを感謝する。


 横峰寺へたどりつくと、昨日の青いリュックのお遍路さんとまたばったり。彼は香園寺からの山道を登ってきたという。Nさんはすでに30分くらい前にここを通過したとか。この標高750mの横峰寺は四国八十八寺で三番目の高所にあり、山の霊気に包まれたすばらしい雰囲気の寺だ。やはり自分には山寺の方が呼吸が合う。

 参拝を済ませると休憩所でサンドイッチの昼食を取って、香園寺への下りにかかる。番外霊場の星ヶ森へは行けなかったが、樹林越しに見える尖った峰が石鎚山だろうか? 少し下ると舗装路から山道の遍路道に入り、これが延々と続く。湯浪からの行きの道は、最後の2qを除けば緩やかな舗装路の登りだったが、こちらは直登ルートで急坂の山道がどこまでも続く。かえって大変だ。


 膝を気にしながら下りきったところで、やっと香園寺の奥の院に出た。そこから車道を歩いていくと、途中に「四国八十八ヶ所道守り遍路の鉄人 中務茂兵衛の碑」があった。生涯の巡拝度数280回。思わずうーんと唸る。
 61番香園寺は、まるでコンサートホールを思わせるようなコンクリートの建物。靴を脱ぎ、2階のホールの奥に祀られた金色の大日如来に参拝する。

 そこから1q余り国道を歩いた62番宝寿寺は、対照的に小さな町の寺といった趣き。霊場会との関係がこじれて一時期は納経所が二ヶ所に分かれ問題になっていたが、2019年12月から宝寿寺も霊場会に復帰して、いまではふつうに納経ができる。打ち終えたときは、まだ16時過ぎ。あとは予讃線で壬生川のビジネスホテルに戻るだけだが、電車は1時間に一本しか出ていない。あと1.4q国道を歩き、63番吉祥寺まで打ってから電車に乗ることにする。

 17:17伊予ひみ発の電車は通学の高校生たちで満員。皆おしゃべりもせず、スマホに向かっている車内の光景はいずこも同じだ。

(ホテルトレンド西条連泊)


10/29(木)曇/晴 伊予ひみ〜64番前神寺〜伊予土居 32q


 朝7:42壬生川発の電車で伊予ひみ駅まで戻り、歩き始める。
 前神寺までの遍路道を歩いて行くと、途中に赤い大きな鳥居が見えてきた。石鎚神社である。とくに参拝する予定はなかったが、あまりに立派な神社なので朝の参道をずっと歩いて本殿へ。ちょうど神主たちが祝詞をあげているところだった。一緒に柏手を打つ。何か清々しい気持ちになる。
 これだけ大きく立派な神社に来たのは、お遍路の開始の日に、鳴門の1番霊山寺の奥にある大麻比古神社に詣でて以来だ。共に大麻を祀っている。山門の天狗も背中の羽を揃えて翔んでいるし、アニミズムとのつながりで言えば、神道の方が自分の好みには合っているのかもしれないなどと思う(ただし天皇制・国家との関係さえ別にすれば…)。


 大麻札を購入して長い参道を戻り、さて64番前神寺へ。ここも石鎚山の修験道の本山にふさわしい山寺である。マスクをしてしっかりお経を唱えてから、納経所に寄る。今回は一巡目だから納経帳に全部揮毫してもらっているが、もし二回目もまわるとしたら、たぶん納経はしないだろう。そんなことを考えながら遍路道に入る。


 住宅地を通る遍路道を標識に沿って行くと、畑の間の二股の道に出た。電柱もなく、矢印もない。地図を見ながら立っていると、右手から歩いてきた地元の人がこっちこっちと合図をしている。助かった。こういうところで遍路道をはずれると、あとで結構消耗するのだ。

 国道11号横の旧道の遍路道を延々と歩いて行く。昔なら旧道歩きで問題なかったのだろうが、道幅が狭いわりに、いまでは結構交通量もあって危ない場面にも遭遇する。排気ガスを浴びながらの4車線の国道歩きはたしかに避けたいが、歩道はしっかりついているから逆に安全ではある。

 新居浜市を抜ける。新居浜沖に浮かぶ大島には、昔二十代の頃、東京池袋の芳林堂書店に勤めていたとき同僚だった中島光祥さんが、歩き遍路の末に出家して陽向山吉祥寺の住職をしていると聞いていた。十年余り前、連絡を取り合ったこともあり、去年1番寺を出発したときから、新居浜を通ったらぜひ立ち寄るつもりでいた。しかし今回出発前に寺に電話して聞いたら、数年前脳梗塞で寝たきりになり、昨年6月に逝去していたことを知る。実に残念だった。


 今日も目いっぱい、限界まで歩いたという感じだ。夕方四国中央市に入り、別格12番いざり松の延命寺を最後に参拝してから伊予土居駅前の旅館へ。
 形通りに検温などされてから2階の部屋に通され、泊り客は自分一人というから安心していたが、一階が割烹になっており、夕食に下りていくと三密の宴会?の真っ最中だった。カウンターの端に座らされ、酔っぱらい客がマスクをはずして大声で話しかけてきたりして、ゆっくり食事もできない。今回はコロナ禍で、ほとんどビジネスホテルを利用してきたが、やむをえなかったなとつくづく思う。

(つたの家泊)△


10/30(金)晴れ 伊予土居〜伊予三島 12q


 7時半発。宿から国道11号の旧道を10q余り歩き、伊予三島駅近くのコンビニで買物をしてリュックに詰め直していると、車から降りた中年の男性がつつーと寄ってきて500円玉のお接待を受ける。よっぽどお遍路の雰囲気が出てきたのか、あるいはよほど疲れた表情をしていたのか。ともかくありがたく頂戴する。今回の締め括りである。南無大師遍照金剛。


 さて残すは、ほぼ讃岐のみとなった。来年の春に来られることを願って、四国を後にする。

 10:46発の岡山行きの特急に乗り、ぐったり寝る。名古屋までの新幹線も空いていて、行きのすし詰めの全日空に比べればずっと快適だ。特急しなのでワンカップの日本酒をちびちびやりながら木曽の山々が見えてくると、ああ帰って来たなとほっとした気分になる。塩尻経由で飯田線に乗り換え、19時前伊那沢渡着。長野はやはり寒い。

 

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