☆四国歩き遍路日記

 第二回 高知から愛媛へ 2019(令和1)年10月

 



 歩き遍路区切り打ち二回目。10月後半の高知がこんなに暑いなんてまったく想定外だった。長野を出る時はもう朝晩石油ストーブを焚き始めていたのに、南国高知へ来たらTシャツ一枚で十分。連日25度を越える夏日で、白衣を着て歩いていると汗ぐっしょりになって、宿へ着く度に先を競って洗濯。おまけに台風21号の豪雨にも遭遇した。

10/16(水)晴/曇

 9:08の高速バスで伊那谷発。12時過ぎ、名古屋着。新幹線で岡山へ。岡山から土讃線の特急で瀬戸大橋を渡る。香川と徳島の県境あたりからぐんと山深くなる。大歩危峡沿いに列車は深い谷間を走り、南国市を抜けて高知市17:41着。
 半年ぶりの四国である。高知はやはり暖かい。着ていたハイネックのシャツを脱ぎ、Tシャツ一枚になる。はりまや橋からの路面電車を降りて歩いていると、電柱に遍路道の赤い矢印を発見。ああ四国にやってきたなと実感する。前回最後に泊った市内のビジネスホテル泊。一日列車に揺られて、くたくただ。長野からだと結構な長旅である。

(ホテル土佐路たかす泊)


10/17(木)晴/曇 最高気温26℃ 31番竹林寺〜34番種間寺 歩行距離27km
(*歩行距離は遍路地図などを参照した大体の目安)


 朝7時にホテルを出る。長袖を着て出たが、途中で暑くなって脱ぐ。湿気も凄い。白衣を着ているとTシャツにベストだけで十分だ。前回最後に打った31番竹林寺から再出発。3月には蕾だった桜の木の下を本堂への階段を登って行く。お遍路の姿もちらほら。


 竹林寺から下りて川沿いの遍路道をたどり、禅師峯寺への階段を登って行くと、途中に猫がはべっていた。四国は「猫度」が高い。境内からは土佐湾が一望の下に眺められる。


 長野からやってくると海の眺めが本当に新鮮である。雪蹊寺へは種崎から渡船に乗って対岸の長浜へ。休憩所でひと息入れ、スーパーで弁当を買ってお寺へ。参拝を済ませてから境内で弁当を広げていると、横の土産物屋で剃髪したアジア系の尼さん一行が果物などを買っている。言葉からするとタイ人か? 屋台を覗くと鯨ジャーキーというのを限定販売で売っていたので、つい買ってしまう。鯨肉なんてもう何十年も食べていない。
 34番種間寺へは遍路道の標識に従って、田舎の道を行く。15時過ぎ参拝して納経所へ入ると、朝のホテルから所々で一緒になったいかにも元営業マンという感じのお遍路さんが、掛軸に御朱印をもらいドライヤーで乾かしているところだった。言葉を交わして寺を後にし、地図を頼りに今日の宿に向かう。ふと、納経帖をもらったときにお姿の絵札をもらうのを忘れていたことに気づく。よほど戻ろうかと思ったが、まだ宿まで2〜3kmはあるし、お札をもらうために歩いているわけではないので、迷った末にやめた。
 切り詰めたとはいえ、久々に7kg余りのリュックを背負って25km以上の道のりを歩くとさすがに疲れる。

(天然温泉はるるの湯泊 *公営温泉で待遇は役場的。ただし寿司食堂の特選ちらし寿司は美味)


10/18(金)曇/雨 35番清瀧寺〜36番青龍寺 30km

 朝食は近くのコンビニで買ってきたサンドイッチで済ませる。昼から雨予報なので、できるだけ早く宿に着きたい。6:15発。
 曇り空の下、国道から仁淀川を渡り、山の中腹にある清瀧寺へ。そこから土佐市内へ打ち戻し、トンネルの手前から山道に入り塚地峠遍路道を越える。峠からは浦ノ内湾が一望の下に見渡せる。麓へ下りてくると、ここで行き倒れになったお遍路の墓や苔むした石像が道沿いに次々に現れて感慨を誘う。


 宇佐の町へ入って行くとちょうど昼時だったので、通りがかりのお好み焼き屋に入る。汗をかいた白衣を脱いで焼きそばを注文。店の女将さんによると最近はほとんどの人がトンネルを通るので、山越えで来るお遍路は少ないそうだ。
 店を出ると雨が降り出していた。折りたたみ笠を差して宇佐大橋を渡る。風はないので助かる。青龍寺へ至る参道には山際に一番札所からの石仏が数メートルおきに置かれていて、それを見て行くと春に回った徳島から高知への道のりが自ずと思い起こされてくる。
 ずっと小雨が続いていたが、宇佐大橋に打ち戻ったあたりから雨足が激しくなる。入り江に沿って狭い国道をかなり歩き、今日の宿・民宿なずなに16時頃たどり着いた時は土砂降りになっていた。ぎりぎり間に合ったという感じだ。
 風呂から上がり、汗びっしょりになった衣類を全部洗濯していると、もう一人のお遍路さんがびしょ濡れになって入ってくる。何度か行き合った掛軸のお父さんだ。今日の客は我々二人だけ。豪勢なおかずが並ぶ夕食時、ビールを傾けながら話をする。岡山の某自動車販売会社を定年になったばかりで、45日の予定で通しで回っている。出発二か月前までに、45日分の全部の宿の予約を取ってきたというから驚いてしまう。なかには早過ぎて予約を受けつけてくれない宿もあったとか。明日も土砂降りが続くなら、いつも背負っている大切な掛軸が濡れないかどうかをえらく気にしていた(笑)。

(民宿なずな泊◎ 細かいことに気がつく女将さん 食事も豪勢)


10/19(土) 晴/曇 酷暑27℃ 仏坂不動尊〜別格5番大善寺 歩行距離不明

 


 参った、参った。7時前、民宿の女将さんにしっかり説明を聞いて、深浦から巡航船に乗って横浪に行くまでは良かったのだが、そこで岡山のお父さんと別れて、一人で仏坂遍路道をたどり山奥の岩不動(仏坂不動尊)を参拝して林道を下りてきたところで道を間違えてしまった。T字路のガードレールの遍路標識が剥げかけていて、自分の勘に頼って右手の集落のある方に登って行ったのが間違いだった。この辺は手元の遍路地図でも大まかにしか描かれていないので、途中で出会った地元の爺さんによく道を確かめるべきだった。
 集落を抜けるとくねくねと続く林道に入りこんで、いくら歩いてもめざす車道に出ない。遍路道の道標が全然現れてこないのも気がかりだったが、これが仏坂という意味なんだろう、いずれどこかに出るはずだとずんずん山道を歩いて行った。引き返すにはもうかなりの距離を歩いてしまっている。一時間ほど山道をさ迷ったところで、あれ?どこか記憶にある立札が見えてきた。なんとまた岩不動への入口に来てしまっているではないか。しばし茫然とする。とてもじゃないが、またあのつるつる滑る谷道を下りて、T字路までたどり直して行く元気はない。どっと消耗する。


 またやってしまったよ、と思う。春に12番焼山寺を打った翌日、雨の中鍋岩から13番大日寺へ向かう途中、橋を渡ったところで道を間違え、ぐるぐる回って4〜5km歩いてまた元の場所に出てしまったことがあるからだ。このおどろおどろしい岩不動で、狐に化かされたのか、それとも仏にからかわれたのか。
 やむなくそこからさらに30分ほど林道を歩き、そもそもの出発点の石標まで戻り、車道を歩いて須崎を目指すことにした。須崎市内にたどりついた時は、もう正午過ぎ。山道を二時間近く余計に歩いた計算だ。せっかく巡航船で海の遍路道を8km分楽させてもらったというのに、それが全部帳消しになってしまった。
 別格5番大善寺へたどりついた時はもう14時。目指す土佐久礼の宿まではまだ最短で10kmはある。その間角谷峠と焼坂峠という二つの峠を越えなければならない。とても山越えの遍路道を行く余裕はないので、山道で痛めた右膝を引きずりながら、長いトンネルを二つ抜け、17時過ぎ土佐久礼の町へ入る。修行の土佐ならぬ、苦行の土佐だった。

(福屋旅館泊 *食事は部屋食でいいが、仕事関係の客が多く風呂も洗濯も落ち着いてできない)


10/20(日) 晴/曇 暑 37番岩本寺 23km インド音楽

 昨日の山道の迷走で、すっかり右膝を痛めてしまった。足を引きずりながら、土佐往還そえみみず遍路道を上り下りし、七子峠へ。期待していた昔ながらの遍路道だが、実際に歩いてみると階段と石だらけのガレ場が多く、とても歩きにくい。山道はやっぱり長野の方がよく整備されていて歩きやすいなとつい思ってしまう。


 七子峠からは国道をずっと歩き、落ち着いた佇まいの窪川の町に入る。15時頃岩本寺に着いて本堂に入ると、中からインド音楽の音色が聴こえてくる。何かイベントをやっているらしく、中で誰かがシタールを弾いている。こちらに気づいて演奏をやめようとするので、「いや、そのまま続けてください。インド音楽大好きだから」と言って、シタールの音色を耳にしながら般若心経を唱える。
 納経を済ませて本堂に戻ると、シタールを抱えた日本人の男性が出てきた。今晩ここでシタールのミニライブをやるので、音出しをしていたのだという。実は自分もエスラジというインドの弓奏楽器をやっていて、と話を始めると、なんと東京では同じ日本人の師匠についていたことが判明。つまり兄弟弟子ということで、不思議なご縁にお互い驚く。千葉出身でインドのバラナシでシタールを習い、高知に移住。いまは土佐町の山で暮らしているというダヤカールのソロライブは夕刻18時から。


 数日前、岩本寺の宿坊に予約を取ろうとしたが断られた理由がやっとわかった。今日は他にもヨガ教室やカレーディナーなどがあって、宿坊には関係者が詰めているのだ。本堂に猫の絵からマリリン・モンローまで様々な天井画が並ぶ岩本寺は、こんなイベントにいかにも相応しい。
 夜、久々に寺の本堂でゆったりとしたラーガ・ヤマンのアーラープを聴いて、旅の疲れもしばし癒された。

(まるか旅館泊)


10/21(月)曇/雨 29km 犬連れ遍路

 7時前宿を出る。国道から市野瀬遍路道を下り、再び国道56号に合流。しばらく行った荷稲というところで郵便局を見つけ、読み終わった文庫本や厚手のトレーナーなど不要な荷物をゆうパックで自宅へ送る。局員二人の小さな郵便局で、お遍路姿の余所者が荷物を送るとあって大騒ぎだ。
 郵便局を出たあたりから雨が降り出し、土佐佐賀温泉に着いた頃には本降りになる。休憩所でポンチョなど羽織っていると、自転車に「福島県」というプレートを付けた遍路姿の爺さんがやはり雨支度をしていた。挨拶をして伊予喜川沿いの遍路道を歩いていると、すーっと自転車が追い越していった。菅笠を被ったさっきの爺さんが、自転車の後部座席に傘を据えその下には黒犬がちょこんと座っているではないか。一瞬わが目を疑ったが、間違いない。自転車の荷台に犬を乗せて遍路道を回っているお遍路は初めて見た。四国遍路はインドと同じで、やってしまえば何でもありなのである。雨の中を歩いていて、思わず笑みがもれてくる。


 今日はとくに道にも迷わず、山の遍路道も一ヶ所だけだったのに、だんだん疲れがたまってきている。三日目の迷走の疲れがまだ残っているのだ。この先の足摺岬を越えるルートはいくつかあるが、もう山道は飽きたなと思う。ホテルにおいてあったガイドブックなど参照しながら、多少距離は長くても海岸回りのコースを行くことに決め、宿の予約などを取る。

(ホテル海坊主泊◎ 外見にかかわらず部屋はきれいで海の眺めも最高 食事・接待も良)


10/22(火)晴 暑 33km 四万十川


 7時発。まだ疲れが残っている。海の王迎えを過ぎて、入野松原を行く。浜辺の気持ちの良い道だ。川に突き当たって、車道へ。遍路道の道標に従って、四万十大橋を目指す。途中、何度か行き合った白人の青年が自転車で追い越してゆく。
 地面ばかりみつめてひたすら歩き続けていると、虫や鳥やいろんな小動物の死骸が目に入ってくる。道中、タヌキが車にはねられて死んでいる。と思ったら、今度は野球のグローブぐらいの大きさの亀の死骸が路上に横たわっていた。四国では亀も車にはねられるのだ。なんということだろう。


 しかしそんな感慨も、初めて見る四万十川の美しさに薄れていった。こんな美しい佇まいの川は生まれて初めて見た。四万十大橋を渡りながら、素直に感動する。フリークやミュージシャンが高知に移住する気持ちも頷ける。ぜひ一度ゆっくり滞在してみたいと思ったが、今日は30km以上歩かねばならない。後ろ髪を引かれる思いで先を急いだ。


 途中のスナックで昼食を済ませた時は、その先の伊豆田トンネル(1620m)を抜けてまっすぐ行くつもりだったが、トンネルの手前で真念庵への遍路道の看板を見ているうちに、つい峠越えの伊豆田遍路道へと歩き出してしまう。信州で暮らしている習性みたいなものだ。結構な山道を登り、森を抜けて真念庵へ。庵はあいにく普請中だったが、石垣にずらっと並ぶ八十八の石仏の姿は壮観だった。


 そこからいよいよあしずり遍路道に入り、途中で高群逸枝が花を手向けたという福岡出身の女性遍路の墓に出会う(大正7年の若き高群逸枝の四国遍路については、いずれまた書きたい)。なおも国道を10km余り歩いて、16時過ぎ民宿いさりびへ。宿に入ろうとしたら、中庭のテーブルで早くも浴衣姿でビールを飲んでいる岡山出身のTさんがいる。巡航船で別れて以来だ。今日の歩行距離は33km。よく歩いた。

(民宿いさりび泊)


10/23(水)晴/曇 足摺岬 38番金剛福寺 26km


 朝6時。水平線から昇りくる朝日を拝む。ゆっくりめに朝食を取り、7時半発。砂に足を取られながら、浜辺の遍路道を行く。途中からショートカットのつもりで、標識に従って古道の遍路道に入るが、400mもアップダウンを繰り返す草深い山道で、行けども行けどもなかなか抜けられない。やっと墓地を抜けて国道に下りたら、「注意:この遍路道は急坂が続き危険です。国道を行けば30分で行けます」などと書いてある。なんで登り口に書いてないんだよ!と腹を立てるが、これも修行の土佐さと諦めて国道を行く。


 途中、金剛福寺からの打ち戻りの遍路と何人かすれ違う。内一人は大きなリュックを背負った若い女性遍路だった。
 善根宿の休憩所でひと息入れて、足を引きずって歩いている男性遍路を追い越す。「うわー、今日はもう二人に追い抜かれてしもうた」と背後で叫んでいる。「ゆっくり、ゆっくり」と声をかけて先を行く。


 ヤブツバキがトンネルをつくるいかにも南国らしい遊歩道を抜けて、ついに足摺岬に到達。手前の天狗の鼻から、絶壁に押し寄せる波しぶきを感慨と共に眺め下ろす。金剛福寺を参拝して遅い昼食を取り、さらに6kmほど先の民宿へ。歩いていると、なぜかあらゆる生命のいとおしさをひしひしと感じてしまう。

(民宿青岬泊 食事◎)

 
10/24(木)豪雨 20km

 夜中から雨が降り出し、朝食を済ませた頃にはどしゃぶりの雷雨になっていた。待っていて止むのなら宿で待機していたところだが、予報では午後から大雨。覚悟を決めてスパッツにポンチョを被り、杖を突いて雨の中を歩き出す。
 それにしても凄い雨だ。岬の林の間を流れ落ちる雨は濁流となって滝のように道路に溢れ出す。人里離れた民宿なので、早いうちにこの海岸沿いの岬を抜け出して国道に出なければ先へ進めなくなるかもしれない。必死になって坂を上り、国道のトンネルに入ったときはほっとした。雨の日のトンネルがこんなにありがたいものだとは初めて知った。
 1km余りの松尾トンネルを抜け、ジョン万次郎で有名な中浜の港町へ入る。遍路道の標識に沿って町を抜け、矢印に従って進んでいったら、未舗装の山道に入った。国道を行くとかなり遠回りになる。ショートカットのつもりで歩き始めたが、今日もまた行けども行けども抜け出せない。土砂降りの雷雨で足元が小川の濁流のようになった山道を、靴もズボンもグショグショになりながら歩く。
 1時間ほどしてようやく国道に出たら、道沿いにホームセンターが見えてきた。軒下に飛び込んでひと息つくと、何度か行き合ったやはりカッパを着た男性のお遍路さんが話しかけてくる。大岐の浜から東岸沿いに足摺岬に行こうとしたが、民宿の女将から危険だからと止められ、西岸の中の浜から岬を目指すことにしたと言う。遍路道はどうだっかと聞くので、「いや絶対やめた方がいい。川の中を歩くようなものだから。遠回りになっても国道から行った方がいい」と答える。
 ホームセンターで五本指ソックスを補充し、再び雨の中を歩き出す。土佐清水の町を抜ける頃には一時小雨になり、歩いていると「お遍路さーん」と呼ぶ声がする。振り返ると近くの民家からおばあさんが、「いまお芋を揚げたところだから食べていきませんか?」と声がかかる。ありがたく庭先で揚げたてのお芋を頬張る。
 あしずり港を過ぎ、国道を延々と歩き、道の駅めじかの里土佐清水に着く頃には、横殴りの雨が暴風雨となって叩きつけてきた。道の駅でしばらく雨宿りして、暴風雨が治まるのを待った。いくらか雨の勢いが弱まったところで、竜串のはずれにある今日の宿まで全身びしょ濡れになって一気に歩く。
 これでも今日は距離が比較的短いからよかった。「一生に一回だな、こんなことをやるのは。何回もやる人の気が知れない」とつくづく思う。毎日少しずつデジカメで写真を撮って歩いたが、この日の写真だけは1枚もない。
(後になってこの日の豪雨が翌日さらに北上して関東方面を襲い、千葉などで大被害が出たことを知った)。

(ホテルオレンジ泊 *パンフレットの広告には「洗濯機・大浴場完備」とあるが、実態は名ばかり)


10/25(金) 晴れ 月山神社 30km

 深夜まで暴風雨が吹き荒れ心配したが、朝になると雨も上がり快晴に。
 竜串から奇岩・奇勝を眺めながら海沿いの国道を行く。素晴らしい海の眺めだ。たいていの人は足摺岬から真念庵まで打ち戻って、三原村の山中を抜けて39番延光寺を打つようだが、距離こそ長くなるとはいえ、この海岸回りのルートは捨てがたい。お遍路の数も少ないからゆっくり歩ける。今日歩いているのは、自分の他には同じホテルに泊まった東京から来た男性遍路二人ぐらいしかいない。


 途中いくつかトンネルを抜けて叶崎黒潮展望台に上って行くと、猫がうじゃうじゃ出てくる。野良猫かと思ったら、そばの電柱に「動物の遺棄・虐待は犯罪です」という貼紙がある。捨て猫が野良化したのだろう。お遍路が野宿できそうな東屋には、猫のトイレや餌箱・ケージがいくつも置かれ、ここは捨て猫の避難所になっているようだ。
(なお遍路地図には叶崎の手前に民宿が二軒載っているが、いまはどちらもやっていない)。


 大浦の分岐から港を背に国道を離れ、月山神社へ至る大月遍路道に入る。実によく整備されたきれいな遍路道で、ところどころに「おへんろさん がんばってください」と書かれた地元の小学生の絵札が木の枝からぶら下っている。


 山道を降りきったところで4〜5m幅の小川に出た。ふだんはさらさらと流れているだろうその小川が昨日の豪雨で一気に増水して、とても歩いては渡れない。さてどうするかと思案していたら、向こう岸の林に神社の関係者だろうか、白衣姿の人が藪を払っている。声をかけると、20mほど下流に車道の橋があり、崖伝いにそこまで行けるという。最初はためらったが、いまさら引き返すわけにもいかない。杖を川岸に突き、木の枝に掴まりながら崖にへばりつくように這って車道の橋に上がった。やれやれである。


 やっとたどり着いた番外霊場月山神社は、思ったよりもこじんまりとした質素な神社で、裏山を少し上がった崖の中腹にご神体の月形の石が祀られている。参拝を済ませ、また遍路道に戻る。素晴らしい大月遍路道も海岸に出て終わり、あとは田舎の道を抜けて宿毛市はずれの今日の宿まで延々と単調な国道歩きが続いた。
 小筑紫町の港に面した旅館の今日の泊り客はぼく一人。風呂から上がって洗濯を済ませ、足の小指にできた豆を鍼で潰す。かなり疲れているが、今回の区切り打ちの山は越えたなと思う。洗面所で十日ぶりに髭をそる。


(大島屋旅館泊 *港に面した隠れ家風の旅館。古いけど落ち着く。看板はないので手前のGSで場所を聞いた。)


10/26(土)晴/曇 39番延光寺 22km

 朝、宿を出てしばらく国道を歩き、宿毛湾を望む港で初めてメモノートを広げる。ここまでそんな余裕がまったくなかった。歩いて、その日の宿にたどりつくのが精いっぱいだった。何よりも連日25度以上の高知の暑さには参った。そしてあの豪雨。
 港を眺めながら、いろいろと反省する。
 区切り打ち二回目ということで、侮っていた面もある。やはり歩き遍路は甘くない。区切り打ちだと、自分の歩くペースが掴めるまで4〜5日はかかる。つい前回の延長のつもりで飛ばし過ぎ、それまでにばててしまう。7kgのリュックを背負って毎日30km近く歩くというのは、やはりふつうのことじゃないのだ。山道のガレ場もあれば、車の行き交う国道もある。もっと長く歩けるつもりでいたが、1日30km以上はさすがにきつい。ヘロヘロになる。25km前後がちょうどよい感じだ。
 仏坂遍路道で迷った三日目以降、右足の膝と足指を痛め、しばらくは汗びっしょりになって足を引きずって歩いていた。年相応の等身大の自分の姿をつかむということ。やはりこれが大事だ。何度も四国を回る人もいるが、自分は一生に一回でいいなとつくづく思う。
 宿毛市内から延光寺へ向かっていると、三原村から山越えで来たお遍路たちと何人かすれ違う。その一人は豪雨の日にホームセンターで出会った男性で、結局あの日は国道を海岸沿いに歩いて行ったが、途中で危ないからと地元の人の車に拾われて民宿に戻り、翌日足摺岬を往復したという。
 国道から延光寺への遍路道に曲がると、これまで何度も一緒になった茨城から来た77歳のお父さんとまたばったり。前回は金剛福寺、その前は四万十大橋手前のコンビニで話をした。豪雨の日は一日休んで、四万十市の病院へ行って血液検査など受けたそうだ。糖尿の気があって定期的に検査を受けているが、今回は血糖値がずっとよくなっていると笑顔で話す。やっぱり歩いているからですよ、と答える。
 今日は途中で市内の宿にリュックを預け、身軽になって延光寺を往復したというのに、宿に着いてシャワーを浴びて缶ビールを一本飲んだらもうぐったり。足腰疲労大。でもこれでとうとう高知は今日で最後だと思うと感慨がある。室戸岬から足摺岬まで、本当に「修行の土佐」だった。

(まなべ旅館泊◎ 設備よし食事よしロケーションよし)


10/27(日)晴/曇 愛媛入り 40番観自在寺 20km

 久々にコーヒーとトーストで遅めの朝食を取る。旅館の朝食にはさすがに食傷気味だったので、ありがたい。8時過ぎ、出発。今日は約20kmと距離は短めだから、松尾峠への遍路坂をゆっくりゆっくり登って行くと茨城のお父さんがいた。峠への入口で迷ってしまい、一時間ぐらい余計に歩いたとぼやいている。


 峠の東側にはには「従是東土佐國」の石碑が、西側には「従是西伊予國宇和島藩支配地」の石碑が立っている。とうとう高知から愛媛に入ったのだ。
 そこでお父さんとは別れて頂上の展望台を探しに行ってみるが、森の道は行きどまりで展望台などない。峠へ下りてくると、休憩小屋に別のお遍路さんがいた。京都から来た70歳過ぎの男性遍路。四国を回るのは4回目だという。「いつも秋に回っているが、今年はお遍路の姿が少ない。昔からの民宿もやっていないところが多くて、すいぶん変わった。若い人たちはスマホ片手に歩いているけど、おれたちみたいに旧い地図見ながら歩いているのはもうアナログやねん」。いろいろしゃべりかけてきて止まらない。何回もお遍路をする人は、きっとふだんは孤独な人なのだろう。
 結局、茨城と京都のお遍路二人と前後しながら観自在寺を参拝。1番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる寺だ。はるばる来つるものよ。


 宿坊に泊まる京都の先達とはここで別れ、温泉大浴場があるという少し先のホテルにチェックインする。ロビーには立松和平の色紙などが飾ってある。そうか立松さんは四国も歩いていたのかとよく見ると、BSの番組で歩いていたらしい。早めに着いたので風呂はゆっくり入れたが、夕方団体客がバスで到着。夜は廊下で大声をあげたりしてよく眠れなかった。

(ホテル・サンパール泊)


10/28(月)晴 23km

 山越えの柏坂遍路道は急登が続く結構な山道だった。しかし天気がいいので気持ちは良い。入口付近で弁当屋を探している茨城のお父さんを追い越し、頂上を越えた見晴らし場で京都の先達に追いつく。


 宿毛あたりから山の尾根に風力発電の巨大な風車を見かけるようになったが、この柏坂も頂上直下の尾根沿いに巨大な風車が回っていて、森の中にもその音が響いてくる。遍路道から見上げると、ちょっと異様な感じがする。
 10km余りの山越えの道を下り、川沿いに国道脇の道を歩いて津島町へ入る。高速のバイパスが新しく貫通し、交通量の多い国道56号からほとんどの車はそちらへ流れていた。
 今日の宿は獅子文六ゆかりの老舗旅館。建物はかなり老朽化しているが、落ち着いた風情があってゆっくり休めた。



(大畑旅館泊)


10/29(火)雨/晴 41番龍光寺・42番仏木寺 30km


 朝から雨である。小雨だから傘だけ差して出発する。当初は峠越えの遍路道を行くつもりだったが、雨なので覚悟を決めて全長1710mの松尾トンネルを抜ける。バイパスができたから以前ほどの交通量ではないが、それでもトラックなどが通ると物凄い騒音がこだまする。マスクをしてひたすら下を向いて歩き続けるトンネル歩きは、一種の修養みたいなものだ。
 宇和島市に入り、別格6番龍光院に詣でる頃には雨も上がってきた。久々に電車の踏切を渡って田舎の国道を行く。宇和島からはJR予土線が出ているのだ。明日はこの電車に乗って帰ることになる。


 三間町に着き、今日の宿にリュックを預け、身軽になって41番龍光寺・42番仏木寺と続けて打つ。仏木寺には動物を供養した家畜堂まであって、犬のぬいぐるみやらペットフードなどが供えられている。マタやポンタやタマやリラなど、これまで飼ってきた何匹もの犬や猫の顔を思い浮かべながら合掌する。納経所では動物のお守りも購入。


 この辺のバスは乗りたいところで手を挙げれば乗せてくれるというので、帰りはバスが通らないかと期待しながら後ろを振り向いては歩いていたが、結局そのまま民宿まで4km歩いて戻る。部屋は襖で仕切られた3室のみで、客は茨城のお父さん・京都の先達・自分の3人だけだった。
 廊下のテーブルに泊り客が残していった文庫本などが置いてあり、ペーパーバックを手に取ってみるとなんと独語のドストエフスキーだった。しかもタイトルを判読してみると「二重人格」。こんな本を読みながらお遍路をするドイツ人なんて、相当屈折した奴なんだろうな。

(民宿みま泊 *ロケーションはよいが、襖一枚で隣室の音は筒抜け)


10/30(水)晴/曇 43番明石寺 卯之町駅〜長野 15km

 昨夜、襖を隔てた隣室の京都の御仁がテレビを付けっぱなしで寝ていて、こちらは不眠気味。それでも今日は午前中に明石寺を打って、近くの卯之町駅から昼の特急に乗らなければ長野まで帰れない。おまけに仏木寺の先の歯長峠の遍路道が、7月の豪雨で崩れ通行止めとなっているという。迂回して国道をかなりの距離歩かねばならない。
 5時過ぎに起き出して支度をし、そばのコンビニで買ってきたコーヒーとサンドイッチで朝食。霧の中を6時半出発。民宿の息子さんが昨日歩いた仏木寺まで車で送ってくれたので助かった。


 仏木寺を少し行くと早速「遍路道 崩落のため 通行止め」の黄色い看板。国道をうねうねと上り下りして休憩所の小屋に出ると、その先の遍路道の入口にもロープが張られ赤い布が垂れていた。隧道を懐中電灯を照らして抜け、再び国道を延々と歩いて山の遍路道の下の出口に出た。森を見上げて思わずあっと声がもれた。激しい鉄砲水が出たのだろう。倒木や土砂や岩が押し流され堆積していて、凄まじい荒れ方だ。とても歩いて通れるものではない。これでは将来的にいつ復旧できるかどうかすら覚束ない。


 道沿いの遍路墓の脇を抜けて歩いていたら、突然胸ポケットのスマホがピロピロン ピロピロンと鳴り出した。「緊急避難速報 これは訓練です」という声に続いて、「原発の緊急事故が発生しました 半径○キロ圏内の人は至急避難してください」とのアナウンス。一瞬ぎょっとしたが、考えてみればここは西予市。伊方原発がもう近いのだ。もし巨大地震があって津波が起きたら?ということは、海抜0メートル付近を歩いてきたから常に頭の隅にあったが、原発事故で緊急避難することまでは考えていなかった。この先はそれもどこか頭の片隅において歩いていかなければならない。
 遍路道の標識に従って明石寺へついたのは10時半頃。山の遍路道が通れれば10kmほどのところを、14〜5kmは歩いたことになるのか。納経を済ませ、ひと息ついていると京都の御仁が荒い息を吐きながら汗だくになって階段を上ってきた。昨日は龍光寺止めだった彼は、そこから仏木寺までぼくより3kmは余計に歩いてきているはずだ。すごいスピードである。「この先の別格に寄りたくて、今日はあと20km歩かねばならない」と息を切らして言う。遍路道崩落の凄まじさなどを話して別れる。
 土産物屋のおばさんに駅までの道を説明してもらって、JR卯之町駅へ。12時10分発の松山行の特急には十分間に合った。今回の区切り打ちはここまでである。次回は来年春の予定。まだ先は長い。四国よ、再見!


 

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