§インドの魔法のことば

 北インドのヒンディー語圏を旅行するときに、知っていて絶対に損し
ないことばに、「
バス」というのがある。「もう充分、もう結構」とい
う意味で、例えばレストランでカレーを食べていて、ボーイがライスや
チャパティのお代わりを持ってきたとき、もう腹いっぱいだったら、
「バス」とひと言いえばよい。あるいはリキシャやタクシーに乗ってい
て、ここで降りたいと思ったら、「バス!」とひと声。買い物のときや
客引きにつかまったときなど、いろいろな場面でこの「バス!」のひと
声が威力を発揮する。

 ガンジス河中流、ヒンドゥー教最大の聖地バラナシ(ベナレス)の近
くに、サルナートという仏跡がある。その昔、悟りを得た仏陀が弟子た
ちに初めて教えを説いた初転法輪の地として仏教徒には名高いが、仏教
の衰退してしまったインドでは、バスで1時間足らずの所にあるバラナ
シの賑わいに比べると、こちらはまるで見捨てられたようにひっそりと
した静寂の土地である。円筒形の大きなストゥーパ(仏塔)を中心にし
て、林に囲まれた遺跡公園(鹿野苑)が広がり、そのまわりにチベット
寺など二〜三の巡礼宿がある。

 二十代の頃、インドを長く旅していたときのことだ。そのひとつに泊
まっていたぼくは、日がさんさんと降り注ぐ冬の昼下がり、園内を散策
してから、気持ちの良さそうな1本の大木の木陰で横になった。お昼に
バラナシのヨーグルト・ショップで飲んだバング(大麻ジュース)が、
いい具合に効いてきていた。その日はたしか日曜日で、いつになくイン
ド人の観光客の姿も目についた。茶店で買ってきたビスケットとリンゴ
を頭上に置き、木漏れ日を仰ぎながら夢想にふけっているうちに、いつ
のまにかぼくはうたた寝をしてしまったらしい。
 ‥‥‥気がつくと、誰かに肩を揺さぶられていた。目を覚まして見る
と、そばに紺色の制服を着た警備員ふうの初老の男が立っている。そし
て向こうをあごでしゃくって、一緒に来るようにというジェスチャアを
する。何か自分が悪いことでもしたんだろうか?と、ぼくは寝ぼけ眼を
こすりながら立ちあがり、男の後をついていった。
 すると公園の事務所の前で、数人の男たちが、シャツにスラックス姿
の12〜3歳の少年を取り囲んでいるのが目に入ってきた。ぼくの姿を
見つけると、男の一人が「これはあんたのものだろう?」と、もう開封
されて中身が半分ほどに減っているビスケットの箱を差し出してきた。
 そういえば‥‥と、寝ていた木の方を眺めやると、たしかに頭のあた
りに置いておいたはずのビスケットとリンゴがなくなっていた。そうか、
つまりぼくがバングでぶっとんでうたた寝をしている隙にビスケットと
リンゴを失敬した少年を、この警備員がどこかで見ていて、ぼくの知ら
ない間に捕まえてきてくれた、というわけだった。

 「やれやれ‥‥!」とぼくはトリップから覚めて思った。この警備員
の真面目な仕事ぶりには感謝すべきだったが、金目のものが盗られたの
ならともかく、ビスケットとリンゴぐらいでそんな大げさに騒がなくて
もいいよ、と。
 しかし、ここは日本ではない。いつのまにか周囲には、噂を聞きつけ
た地元の村人やら観光客やら物見高いインド人の人だかりできており、
時間とともにその数はますます増え、しばらくするうちにぼくと少年を
真ん中に囲んで、ぐるっと厚い人の輪ができてしまった。
 さあ、困ったのはぼくの方である。警察沙汰にするほどの事件ではな
いし、かといって何もせずに無罪放免することはできない雰囲気があた
りには漂っていた。少年の方を見やると、おどおどと怯えた目つきでぼ
くの顔を伺っている。格好から見て、貧しい階層の少年ではない。ほん
の出来心でやったことだろう。

 そのときふと、少年の向こうに、午後の日を受けて鈍く輝いているス
トゥーパの姿が目に映った。とっさにぼくは覚悟を決めて、「よし、俺
は日本からきた仏教徒だ。おまえも俺と一緒に仏陀に謝罪して祈りなさ
い!」と言って、その場に少年とともにひざまずいて、ストゥーパに向
かって南無妙法蓮華経を三唱した。(ぼくはべつに日蓮宗の信者ではな
いが、ここに来る前にラジギールという仏跡で日本山妙法寺の宿坊に泊
めてもらったおり、朝晩の勤行で太鼓に合わせてこれをやっていたのだ。)
 インドでは祈りは神聖である。
 合掌して立ち上がり、さあこれでパフォーマンスも終わったと思った
が、まだ人々の輪は解けない。何かひと言いわなくてはいけないのはわ
かっていたが、うまいことばが浮かんでこない。一瞬立ち往生してしま
ったぼくの耳に、周囲から囁く声が聞こえてきた。
「バス?‥‥バス?」
と言っているのである。
 そうか、こういうときにもこのことばが使えるのかと納得して、
バス!
とひと声発した。その途端、まるで魔法の呪縛が解けたかのように、ざ
わめきとともに人だかりの輪が一斉に崩れた。そして人々はこちらを振
り返りつつ、口々に何かしゃべりながら、それぞれの方向に散って行っ
た。ぼくは少年に背を向けて、半分に減ったビスケットの箱を手に、何
だか今日は不思議なトリップをしてしまったなと思いながら、宿の方へ
と歩き出した。

          2000年 1月

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