騙すよりだまされる方が罪深い?
   ― 映画「ムトゥ・踊るマハラジャ」から

 日本でも大ヒットしたインド映画『ムトゥ・踊るマハラジャ』をビデ
オで借りてきて観ていたら、とても印象的なせりふにぶつかった。曰く、
騙すよりだまされる方が罪深い」。

 場面は回想シーンで、主人公ムトゥの父親のマハラジャが、従兄弟に
そそのかされた弟の裏切りによって自分の土地を騙し取られたことに気
づいたときに、祖先の肖像画の前でつぶやくせりふである。「お父さん、
騙すよりだまされる方が罪深いとあなたはよくおっしゃっていましたね。
私もとうとう罪深い人間になりました」と。そして彼は自分の所有して
いる莫大な財産をすべて弟の子供名義に書き換える書類にサインして、
赤ん坊のムトゥを請われるまま義理の妹に預けると、驚く周囲を尻目に
さっさと屋敷を出て行ってしまう。
 一方残された弟の方は、一瞬兄に殺されるのではないかと恐怖に怯え
たものの、その逆に騙した自分の息子に全財産を投げ与え、無一物で去
って行った兄の姿に衝撃を受けて、首を吊って自殺してしまう。歌あり
踊りありアクションありラブロマンスありの超エンターテイメント映画
なのだが、こういうシーンがさりげなく挿入されているところが、この
インド映画のすごいところである。

 ではなぜ「騙される方が罪深い」のだろうか? ふつうなら「騙す方
が罪深い」と思うのが当たり前なのに。
 ぼくの考えではこうである。騙されるのは、それだけその人がナイー
ブだからだ。ナイーブな人が騙されると恨みをためやすい。そこが問題
なのではないか。騙した側はますます傲慢になって、いずれは自分で墓
穴を掘っていくのが落ちだろう。ところが騙された方は自分でも知らぬ
うちに他者に対する憎悪を募らせていき、それが内向すると病気に、外
へ向かうと思いもよらぬかたちで罪を犯してしまいやすい。ニーチェに
なぞらえて言えば、「ルサンチマンの正当化」という弱者が陥りがちな
罠に、騙される者ほどはまりやすいといえる。ぼく自身、過去の経験か
らそう思うのである。考えてみれば、これほどマハラジャの大義に似つ
かわしくないものもない。
 その点映画の中で、騙した弟に復讐ひとつせず、逆に全財産を投げ与
えて出家してしまったマハラジャの行為は、どんな物理的な復讐よりも
弟にはこたえたはずである。それこそインドの王者に相応しい筋の通し
方だったからである。とはいっても、そんなムトゥの父親だって、それ
から長い年月インドのあちこちを放浪し、苦しい修業を続けたにちがい
ない。後年、ボロをまとった聖者として再び人々の前に姿を現した年老
いた彼の風貌がそのことを物語っていた。それほど
「騙された恨み」に
打ち克つのは難しいことなのだ、と映画は語っているようにも思えた。
 映画の冒頭で、いきなりマハトマ・ガンジーの肖像が出てきて面喰ら
ったが、見終わってみるとこの映画の底にはガンジーに通ずるそんな哲
学も流れていたことがわかるのである。

(ケララ州の山岳地帯の宿場町にて '89)

 ちなみにこの映画の主要な舞台は南インドのタミル・ナドゥ州だが、
途中でムトゥと旅回りの女優とが追手から逃れて隣のケララ州の山あい
の村に迷い込むシーンがある。そうするとタミル語を母語とするムトゥ
は、ケララ州の言語であるマラヤナム語が全然わからなくてとんでもな
い目に遭う。この辺いかにも多民族多言語のインドならではのストーリ
ーでインド人には受けただろうが、インドのことをあまりよく知らない
日本人にはちょっとわかりにくいところかもしれない。
 ぼくは昔インドを旅していて、亜大陸最南端のこの二つの州がとても
好きになり、数か月滞在していたことがあるのだが、大都市マドラスの
あるタミルの人たちからすると隣のケララ州というところはよっぽど田
舎に見えるんだなと思って、それがすごくおかしかった。わが愛すべき
ケララの知人たちはどんな顔をしてこの映画を観ただろうか。

  2000.7.2 

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