§老ジャーナリストの筆跡
 ― 中村正生氏の思い出

 昨年、『山暮らし始末記』(太田出版)という本を出したときのこと。
何度も手を入れた原稿にやっと編集者のOKが出て、装丁や校正の打ち
合わせに出版社まで出向いたところ、ゲラの校正が済んだら献本先のリ
ストを用意しておくようにと言われて、ちょっと困ってしまった。
 出版界には「著者献本」という慣習があって、本が出ると通常30〜
50部程度を、著者の希望する相手に版元の方から直接送ってくれる。
日頃から取材やパーティーなどでこまめに人と会っているタイプの物書
きなら、これだけでは足りないぐらいだろうが、ぼくの場合、これが結
構負担になった。
 もともと個人的な暮らしや思索について書かれた本である。それに十
年余り山にこもって暮らしているうちに、昔の友人や親戚とはすっかり
疎遠になってしまっていた。山に来てから知り合った数少ない仲間とは、
ほとんどが文字や本といったものを介さないところでの付き合いである。
どうしても本を贈りたい相手など、両手の指があれば足りた。
 それでも、せっかくの申し出をむげに断るのももったいない気がして、
家に戻ると昔の手帳やら捨てずに取っておいた古い手紙や年賀状の類を
引っ張り出してきて、数日かけて二十数名の名前を何とかリストアップ
した。そして本が出ると同時に、もう十年以上も会っていない昔の友人
や恩師などのもとに、かんたんな挨拶状の入った献本が届けられること
になった。

 しかしその反応は?というと、「読んだ」とか「受け取った」とかい
う何らかの返事があったのは半数に満たない。薄々予期していたことだ
とはいえ、やっぱりこんなものなのかなと過ぎ去った時の流れを思い知
らされた。もちろんすぐに感想を書き送ってくれた人もいるし、なかに
は自分の関係する雑誌に好意的な書評を書いてくれた人までいるのだが、
大半は黙殺といっていい反応だった。
 そんななかで一冊だけ「転居先不明」で出版社に返送されてきたもの
があった。昔ぼくが東京で旅行雑誌の記者をやっていた頃にお世話にな
った旅行ジャーナリストの中村正生氏へ送った分である。出版社からの
問い合わせに「もしや?」と思い調べてみたら、案の定一年前に亡くな
っていたことが判明した。今度の本はぜひ読んでもらいたかった一人で
あるだけに、たった一年のすれ違いがとても悔しかった。

 中村さんとは十五年前、ぼくが信州の山村に移り住む直前に新宿で飲
んだのが直接お会いした最後で、以後「ぜひ一度、山の家を訪ねてみた
い」と何度かお便りをいただきながらも、ついにその機会がなかった。
もし御存命なら今年七十になられていたはずで、酒の匂いとともに昔気
質の一匹狼的なジャーナリストの雰囲気を常に身辺に漂わせている人だ
った。
 中村さんというと思い出すのは、飲むたびに二軒目はきまって新宿の
おかまバーに連れられていったことと、もうひとつは何といっても
あの
筆跡がある。
 いつも4Bの鉛筆で原稿用紙の桝目いっぱいに、黒々とした太い文字
を独特の癖字で書きなぐっておられたが、そこには長年筆一本でめしを
食ってきた男の心意気というものが感じられ、初めてその原稿を手にし
たときには何か圧倒されたものだ。エジプトの空港で手荷物調べの際、
コンドームの袋が出てきて、「これは何だ?」と説明を求めてきた係官
とのやり取りをユーモラスに綴った短文だったが、その内容もさること
ながらその筆跡が、「これでどうだ!」と言っているのである。まさに
「字は人を表わすだな」と思った。
 この堂々とした書きっぷりにはぼくも少なからず影響を受けて、仕事
で使っていた鉛筆も次第にHBから2Bに、そして最終的にはやはり4
Bに行きつき、中村さんに劣らぬ黒々とした癖字で原稿用紙の桝目を埋
めるようになった。ときあたかもワープロが一斉に普及し始めた頃だっ
たが、中村さんもぼくもそんな周囲にはお構いなく、相変わらず4Bの
鉛筆と消しゴムで原稿用紙に向かっていた。

 ぼくの方はその後思うところあって会社を辞め、山で暮らし始めるこ
とになるのだが、二年ほど経ってからいろいろとたまった思いを書き連
らねて個人誌を出した。電気もきていない山の廃屋住まいだったから、
もちろん手書きのコピーである。レポート用紙十数枚に、滅びゆく山村
の現実に関する観念的な考察をびっしりと書き綴った、著者としてはひ
そかに力作と自負する内容だったが、数少ない読者の反応としては内容
のことよりも、「いまだに手書きだなんて読みにくい」とか「早くワー
プロを使え!」というものが大半だった。
 それでも懲りずに一年後に再び手書きの第2号を出すと、少したって
中村さんから感想が送られてきた。しかも、何とワープロで、である。
<社員旅行をさぼって、誰もいない会社で電話番をしながら一人ワープ
ロの練習をしていたら、やはり昔社員旅行をすっぽかしてみんなの話題
になったおまえさんのことを思い出した。そこで練習がてら手紙を書く>
とあった。個人誌の内容についての丁寧な感想のほかに、中村さん自身
が最近雑誌に書かれた文章のコピーも同封されていた。たしか、オリン
ピックの取材で久々に訪れた韓国で感じた戦中派ジャーナリストとして
の心象スケッチといったふうのものだったと記憶している。
 ありがたいお手紙だったが、しかしその一方でぼくには、そんなお歳
の中村さんまでが、とうとう4Bの鉛筆の代わりに誰もいない会社の一
室で無理をしてワープロのキイに向かっているのかと思うと、どことな
く痛々しい感じがしてならなかった。ぼくの知っている中村さんはあく
までもあの黒々とした筆跡が似合う中村さんであって、彼とワープロほ
ど不似合いな組み合わせもないと思ったからである。

 だがそうはいっても、テクノロジーだけはそんなこちらの思いとは無
関係にどんどん進化していく。かくいうぼく自身、やがて町に借りた仕
事場の方で必要に迫られてワープロを使い始め、『山暮らし始末記』の
初稿もワープロで打ち、出版社へはフロッピーディスクで原稿を送った。
ところが十年前に購入した古い機種のワープロで書いたため、出版社に
ある新型のワープロにはこのままでは変換できないと返事がきて、ショ
ックを受けたものだ。本人は困らなくても、
周囲と歩調を合わせていく
には、使うテクノロジーも時代に応じて更新していかねばならないのだ。
しかも、その変化のスピードは年々加速度を増していく。つらい時代に
なったものだなと思った。
 戦後生まれのぼくでさえこうなのだから、中村さんのような昔気質の
戦中派ジャーナリストにとって、いまの時代の変化に歩調を合わせてい
くのはさぞかし大変だっただろうと想像する。

 中村さんからはそれからも時々年賀状などをいただいたが、お互い毎
年律儀に賀状を出すタイプの人間ではなかったので、ここ数年は音信も
途絶えていた。それでもあまり気にせずにいたのは、彼特有のユーモア
感覚にこちらがまんまとだまされていたせいかもしれない。最後にいた
だいた月遅れの賀状は、こんな言葉で結ばれていたからである。

<この年になり年賀欠礼いたしますと「ひょっとして奴は逝ったか?」
という嬉しそうな声の問い合わせがしきりです。そこで、遅ればせなが
らアリバイ連絡と春のご挨拶に一筆啓上まで>

 思うに、このときすでに中村さんは相当体を悪くされていたのかもし
れない。いまとなっては、山の囲炉裏で一杯やれなかったのがつくづく
残念である。
                     (2000年3月23日)

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