インド印象記'97 A

Ψ平和共存の原理      

 伊那谷のような人口減少に悩む過疎の地から、いきなりインドへ行く
と、人の多さにまず圧倒される。もちろん東京だって人は多いが、その
質が全然違う。インドの場合、何というか、どこからともなくウジャウ
ジャと人が湧いてくるという感じなのだ。おまけに彼の地では人に加え
て、牛をはじめ、犬や山羊や豚やニワトリや烏や、ありとあらゆる動物
が街のなかを勝手に(?)闊歩している。だから、交通ルールがあるよ
うでないような、あったとしても全く意味をなさないような、そんな路
上のカオスが現出する。それでいて不思議なことに、全体としては何ら
かの秩序と平安がいつも保たれているのだ。これはいったい何だろうと、
道を歩くたびに首をひねった。そして、やっと思い当ったのが、
「平和
共存の原理」ということばだ。

 今回滞在したシャンティニケタンでは、ベンガルの農村部の先住・少
数民族であるサンタル族の村に空き家を借りて自炊していたので、周囲
には家畜をはじめとする動物たちがいつもウロウロしていた。うっかり
部屋の戸を開けっぱなしにして用を足してくると、部屋の中に山羊が勝
手に上がりこんで、ゴミ箱のバナナの皮をあさっていたりする。
 ある日、村の往来を歩いていると、目の前を、ひよこをたくさん従え
ためんどりが横切っていった。その向こうを豚の親子連れが走り抜けて
いく。いつもの光景である。ふと横を見ると、ひよこたちが野犬の寝そ
べっているすぐ横で水を飲んでいた。その時、突然気がついた。いつも
飢えているこの野犬どもは決してひよこを襲わない、ということに。
 考えてみれば、これだけの種類の動物たちが始終顔を突き合わせて暮
らしていながら、少なくとも白昼は、種同士が食いあったり、強者が弱
者を殺したり傷つけたりするのを見たことがない。つまり彼らは、「平
和共存の原理」で生きているのだ。誰に教えられたわけでもない、みご
とな自然界のルール。これこそまさにインド世界の原理ではないか。

 だいたい、インドでしばらく過ごしていると、良い・悪い、正しい・
正しくない等々という二元的な価値判断が、自分の中であまり意味をも
たなくなってくる。昨日、天国を垣間見たかとおもえば、今日は地獄に
でも墜ちたかのようないやな思いを味わう。毎日が、そんなことの繰り
返しだからだ。
 この世には、善人がいれば、悪人もいる。健常者がいれば、不具者も
いる。金持ちがいれば、乞食もいる。ヒンドゥー教徒がいればイスラム
教徒もいる。英語もヒンディー語もベンガル語も、無数の言語があり、
宗教があり、民族がある。そのどれかひとつだけが正しいということは
ない。
人の生も死も、善も悪も、正義も不正義も、その全部をひっくる
めて、この世界という<全体>はある。そのすべてが、平和共存の原理
のうちに息づいているのだ。インドで感じる安堵感はこれだ。
 日本という「均一性」を至上価値とする平和な島国にいると、あらゆ
る出来事に対して良い・悪い、正しい・正しくないという価値判断を性
急に下しやすい。あたかも、世界は善と正義だけから成り立っているべ
きだ、というように。けれども、本当に大事なのは、善も悪も含みこん
だ<全体>のバランスである。そのバランスを、ひとつの価値観・ひと
つの正義だけによって切り崩さないように気をつけたい。
 久々のインドで、そんなことを感じた。

 初出「まんまる10号」(1997・6月)

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