§ふるさとの変貌と無垢なる自然

 
 某日、テレビで『萌の朱雀』(河瀬直美監督作品)という映画を見た。
奈良吉野の山村を舞台に、過疎の現実のなかで山に住む家族が次第に離
散していく姿を、無駄なせりふを極力省いた間合いの長いカメラで捉え
た秀作である。97年度カンヌ映画祭新人賞を受賞した作品ということだ
から、見られた方も多いと思う。
 とてもきれいな映像で、小津安次郎の映画を思わせるようなゆったり
としたシーンの流れに、僕もはじめのうちは感心して見入っていたのだ
が、途中からだんだん不満がつのってきた。どういう点にかというと、
主人公の家族や村人たちの身の上には少なくとも十年以上の月日が流れ
て、それぞれの変化に直面していくわけだが、周囲を取り巻く山の自然
だけはいつまでも美しい姿のまま残り、風景が何も変わらないからであ
る(古い農家のたたずまいや薪の火で煮炊きする台所の風景も同じ)。
わずかに、鉄道が通るはずだった新築のトンネルが廃道となって薮に埋
もれていることぐらいが風景の変化で、それもひとつの象徴として出て
くるだけで、あとは変わらずにあり続ける美しい山や森の姿をカメラは
最後まで繰り返し繰り返し映してゆく。いわばふるさとの自然だけは、
いつまでたっても無垢のままだとでも言いたげなのである。
 見終わって、これは要するに一編の現代のお伽話なのだなと思った。
過疎の山村という現実を甘い砂糖菓子でくるんだような夢物語を、この
女性監督は撮ってみたかったのだろう、と。ちょうどきれいなコマーシ
ャルフィルムのような……。

 しかしこういう自然の捉え方は、都会人のある種の自然観のパターン
のひとつであって、とくに珍しいものではない。
 たとえば僕の住む伊那谷でも、以前地元のローカル紙に「ふるさと遠
望」という欄があって、郷土出身の名士たちが毎週ふるさとへの思いを
寄せていた。ほとんどがいまは東京など大都会で暮らしている人たちな
ので、僕のように逆コースをたどって東京から伊那谷に移り住んだ人間
には、彼らがいまどういう思いでふるさとを見ているかが伺えて興味深
かった。
 若干のニュアンスの違いはあるものの、だいたい共通しているトーン
は、幼年時代を過ごしたふるさとの町並みはずいぶん変わってしまった
けれど、たまに帰省したときに眺める仙丈や木曽駒ケ岳の雄大な姿だけ
は昔と変わらずに美しいといったものである。時代や場所は変わっても、
啄木のあの絶唱、
「ふるさとの 山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたき
かな」
が、ここではまだ生きているのである。実際には、その山ふところに分
け入っていけば、いまでは工事用の林道が縦横に走り、雑木林は伐られ、
山奥の村はダムで水没し、人口の減少と反比例するようにして観光客が
急増して昔の面影はなくなってきているとしても、である。遠望してい
る限り、ふるさとの山はいつまでも美しい。

               *
               
 先日、故郷伊那谷を舞台にした後藤俊夫監督の『こむぎいろの天使―
すがれ追い』という映画を見たときにも、そこに同じようなトーンを感
じた。監督の少年時代の蜂追いの体験をそのまま現代の伊那谷にもって
きて主人公の少年に演じさせ、そこに都会から転校してきた喘息持ちの
子供との友情を絡ませたこの映画は、児童向け教育映画としては秀作で
ある。いまなお美しい伊那谷の山村風景もよく撮られていると思う。だ
がやはりこれも「こうあってくれたらいいなあ」という、いまでは決し
てありえない監督の夢想物語のひとつであって、見終わって、あまりに
キレイごと過ぎるんじゃないかという印象は拭えなかった。
 これはいったいどういうことなのだろう? 僕のように東京郊外の新
興住宅地で育った人間には、これほどまでにふるさとの風景を美しく思
い描くことはできない。東京の場合、風景の変貌はもっとドラスチック
だったから、昔クワガタやカブト虫を捕った雑木林も、ザリガニを採っ
て遊んだ池も、野球をした空き地もこの数十年の間にすべて消滅してし
まい、もはや記憶の中にしか少年時代のふるさとの風景は残っていない
(とくに八十年代の地上げによる地価の高騰以降、風景は加速度をつけ
て一変した)。その上東京には目じるしとなる高い山がないから、ぎっ
しりと建ち並んだ高層マンションや店舗や建て売り住宅が道沿いにどこ
までも続く風景は、印刷された地図のようにのっぺりとしていよいよつ
かみどころがなくなってきた。その狭間にわずかに残された公園や神社
の古い大木に、辛うじて昔の面影を垣間見ることができるぐらいである。
これは大方の都会出身者にとって言えることではないだろうか。

  しかし大都会から自然が喪われ、風景が激しく変貌し、環境問題や
自然の大切さが声高に叫ばれるようになればなるほど、逆に田舎の風景
は過剰なまでに美化されていくきらいがある。都会が変貌を遂げたぶん、
田舎の風景だけはいつまでも変わらずに美しくあり続けてほしい、と。
だがそれはあくまでも都会人の身勝手な願望に過ぎないのではないかと
思う。
 たしかにいまの大都会に比べれば、少なくとも自然環境という点では、
田舎はまだまだましである。水も空気も土もまだ本来の香りが感じられ
る。だがその一方で、田舎の風景もどんどん変わってきている。僕が伊
那谷で暮らしてきたこの十年だけとっても、山間部と市街地を結ぶバイ
パスがあちこちに開通し、田んぼの跡地に大型店舗のチェーン店が建ち
並び、市街地の郊外に関してはどこへ行っても同じような風景が見られ
るようになった。風景が変われば、当然そこに住む人間の意識のありよ
うだって変わってくる。とくにこれだけキレイごとやタテマエのスロー
ガンに日々取り巻かれていれば、それと現実との落差が激しくなってき
ているだけに、それをもろに受けとめる子供たちの精神的なあつれきだ
って大きくなる。この十年近く田舎で中学生相手の学習塾をやってきて
いるので、年々子供たちが荒んでいく様子は決して他人ごとには思えな
い。もう田舎でも不登校児や引きこもり、学級崩壊の問題は日常的な出
来事である。
               *

 『こむぎいろの天使』を見終わって、少なくともいま自分の塾で面倒を
みている中学生の問題児なら、映画の途中で「ケッ」とか言って席を立
って出ていくだろうなと思いながら映画館を出た。
 近くの市立図書館横の駐車場に車を停めてあったので、そこまで戻り、
トイレに寄った。すると狭い入口には高校生ふうの茶髪の若者が二人た
むろしていて、携帯電話をいじりながら洗面所を塞ぐような恰好でタバ
コを吸っていた。こいつらにも全然関係のない映画だったよなと思いな
がら用を足して、
「おい、ちょっとそこどけよ」
と言って手を洗おうとした。しかし洗面所の上に土足のまま上がり込ん
で膝を抱えていたひとりは、足をちょっとよけただけでそこを動こうと
しない。流しにはタバコの灰がたまっている。その灰と突き出された靴
を見ながら手を洗っているうちに急にムカムカ腹が立ってきて、気がつ
いたら二人に説教を始めてしまっていた。
「おまえら、どこか他へいってタバコは吸ってくれよ。ここは公共の場
所だぜ。洗面所を灰皿代わりに使うなよ」
「じゃ、どこ行って吸えばいいんすか。交番の前で吸えってでも言うん
すか?」
「喫茶店か、その辺の河原でも行って吸えばいいだろう。高校生のくせ
に、あまり堂々とやるなよ」
 しばらく睨み合いがつづいた。
「なんかまだ文句あんのか? おまえら見ていると、この頃はこっちの
方がムカツイてくるんだよ!」
 そう捨てぜりふを吐いて、トイレを出た。我ながら大人げないなとは
思ったが、あまりにキレイごと過ぎる映画を見てきたばかりだったから
か、余計ムシャクシャしていたのかもしれない。しばらく町で用事を済
ませてから図書館に戻った。館内のロビーには以前はゆったりしたソフ
ァーと灰皿が各所に置いてあったが、高校生連中の喫煙とあたりをはば
からぬ男女間のいちゃつき行為があまりに目に余ったので、いまではソ
ファーも撤去され、館内は全面禁煙になっている。

 その日はちょうど七夕だったので、ロビーには大きな竹の枝が立て掛
けられてあって、利用者が自由に短冊に願い事を書いて、枝に吊せるよ
うになっていた。もうすでにたくさんの短冊が掛かっている。立ち止ま
ってそれを眺めていると、「〇〇高校に合格しますように!」 「〇〇
さんの健康を祈ります」等々といった短冊に混じって、「××死ね!」
「××を殺す!」と書かれた紙片が下がっているのが目についてギョッと
した。よく見てみると、その種の短冊がかなりの数混じっているのだ。
なおも呆れて見ていると、一番下の方に「さっきのクソおやじを殺す!」
とマジックでなぐり書きしてあるのがあった。ひょっとしてこれは俺の
ことかい?と思わず周囲を見返した。
 外に出ると、さっきの高校生たちは相変わらず駐車場横のトイレの入
口にたむろしていた。彼らを横目で睨みながらそこを通り過ぎ、そうい
えば塾の子供たちとも年々ことばが通じなくなってきているよなといま
さらのように思う。「現実が汚れていけばいくほど、表現はキレイごと
に走るのかもしれないな」と独りごちながら、車に向かった。遠くには
中央アルプスの山々が夕陽の残照を浴びて美しく輝いていた。

                    
(1999・夏)
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