河合隼雄のエッセイより
ふとした機会に、江崎雪子さんの『きっと明日は』という闘病記を読んだ。
重症筋無力症という大変な病とのたたかいのなかから、『こねこムーのおくり
もの』という児童文学の作品を生み出していった経過が語られている。
主人公は黒い木馬。デパートの屋上から淋しい公園の片隅へと移された木
馬は悲しんでいたが、そこに猫の親子が現れる。猫は木馬の背に乗って眠る
ようになり、子猫のムーと木馬は友人になる。しかし親猫は病で死に、ひとり
ぼっちのムーを木馬が支え励ましてやる。ムーはだんだん元気になってきた
が、ある日犬に噛まれて大けがをする。木馬はどうすることもできず、公園に
よく来るおばあさんに頼んで、ムーを引き受けてもらう。木馬はずっとムーの
帰りを待つが、何日経っても帰ってこず、泣くばかりの日が続く。そんななか
で、木馬は夕日の美しさにふと気づき、自分が多くの素晴らしい仲間に囲ま
れていることに気づく。木の葉も夕日も風も‥‥すべてが仲間なのだ。春の
おとずれを感じるなかで、木馬の心もはずんでくる。
この物語を小学校低学年の子どもたちが喜んだ。ところが、江崎さんは、
「とてもおもしろくおもったのは、主人公の黒い木馬より、小さなお友だちの
ほとんどが、こねこのムーのほうに気持ちをよせてくれていることでした」と
いう発見をする。これは実に考えさせてくれる事実である、とわたしは思った。
華やかな青春の最中に、病に倒れ、働きたくても働けない苦しみを味わっ
た作者が、公園の片隅にあって忘れられがちになる、動くことのできない木
馬を主人公に選んだ気持ちは痛いほど伝わってくる。ところが、子どもたち
は、子猫ムーを主人公としてしまった。受動的で動かない木馬よりも活動的
な子猫の方を、子どもたちは、主人公と考えたかったのだというのは、少し
浅い解釈のように思われる。ここで、私が思ったのは、主人公というもの
は、たとえ一番よく活躍するとしても、一番大切な存在ではないのだ、と
いうことである。一番大切な存在は、作品の「主人公」にはなり得ないのでは
なかろうか。(略)
人間の人生をひとつの物語として見ることは、意義深いことと思っている。
自分の人生を物語として見るとき、さしずめ「主人公」は自分ということに
なるが、それが一番大切な存在ではないことを知ることによって、その物語
が深みをもつのではなかろうか。主人公としていろいろと体験をしながら、
自分よりも大切な存在とは何かを常に問いかける姿勢をもち続けることに
よって、たとえ答えは簡単にでてこないとしても、人生が豊かになると思わ
れる。
(平成7年度長野県公立高校入試問題・国語より)
* 日本におけるユング心理学の第一人者として知られる河合隼雄氏
のエッセイの一節である。河合氏の本は、高校生のときに岩波新書
の「コンプレックス」を読んで感動して以来、折に触れて読んできてい
るが、この文章を初めて入試問題で目にしたときには、正直言って
驚いた。入試問題などで読むには、あまりにももったいないような内
容だったからである。
以後、毎年のように、冬になると中3生たちとこの文章を読む機会
がやってくるが、読むたびに「ウーン、深いことばだなあ」という思い
を新たにする。(どなたか出典をご存知の方がおられたら、教えてく
ださい。)