インド印象記`97@

 Ψバウルとの満月の一夜     

 十数年ぶりのカルカッタは、相変わらず強烈だった。地下鉄が開通し、
乞食の姿をあまり見かけなくなったことを除けば、あとは相も変わらぬ
アナーキーな混沌世界。大気汚染はますます進行し、物価も高くなった
が、人々も牛も野犬もせっせと生きている。

 二月末、そんなカルカッタの悪臭と喧騒を離れて、汽車で約三時間半。
地平線まで果てしなく広がる広大なベンガルの田園地帯を通り抜けて、
詩聖タゴールゆかりの地、シャンティニケタン(平和郷)にやってきた。
 今回の旅のそもそもの目的は、ここで誰か師匠を見つけて、短期間な
がらインド古典音楽の手ほどきを受けることだった。果たして願いはか
なえられて、ぼくはエスラージという弓奏楽器を、女房の芳枝はタブラ
と歌をそれぞれの師匠について習うことになった。
 初めの半月は、二人ともほぼ連日の個人レッスンと練習に明け暮れて、
食料の買い出しに村のバザールへ出かける以外、ほとんどどこへも行か
ずに過ぎた。三月も後半に入ってホーリー(北インド最大の春祭)の日
を中心に、やっと一週間の休みがとれた。古典音楽を習いにきたとはい
うものの、せっかくベンガルの田舎へ来たのだから、心の片隅ではいつ
もバウルのことが気にかかっていた。
 バウルとは御存じのように、ベンガル地方を中心に歌い歩く、宗教的
大道芸人の呼び名である。汽車の中で、わずかにその歌声に接しただけ
で、シャンティニケタンに来てからはまだ一度もバウルの歌を聴く機会
がなかった。この辺りの農村地帯は、特に多くのバウルが住んでいるこ
とで知られる。農村こそ、バウルの生活の場なのだ。ホーリーの祭を目
前に控えた今、いつ・どこで彼らの歌に出会えるのだろう?
 そんなある晩、バザールに食事に行く途上、芳枝が「あ、前歩いてい
くの、あれバウルじゃない!?」と言うなり駆け出していった。見ると、
オレンジ色の衣装を着け、長髪を頭に結ったバウルが、薄闇の雑踏をス
タスタと歩いていく。ぼくも自転車を引きずって後を追う。芳枝が片言
のベンガル語と英語を交えて話しかけると、向こうも応じてくる。どう
やら近くに滞在しているらしい。明日の朝、訪ねていく約束をする。

 翌朝、村はずれの大衆食堂で待っていると、近くの川で朝の行事を済
ませてきたバウルが現われた。すぐ裏手のわら屋根の農家の一室に彼は
独りで暮らしているという。この辺では当たり前だが、電気も水道もな
い。
 バウルの映画を撮っているという別のインド人客と一緒に狭い部屋に
入る。今44歳というこのバウルは、かなり有名人らしい。敷きっぱな
しのせんべい布団の上に座らされて、これまで彼を訪ねてきた外国人客
の名簿や自分のコンサートの写真等を次々に見せられながら、雑談。外
国人の弟子たちからカンパを募って、この地にバウルの学校のようなも
のを建てたいと口舌をふるう。ともかく、今晩ここで投げ銭コンサート
をやるということで話は落着。 
 映画関係者が帰ったところで、持参したビディとガンジャを手土産に
差しだすと、とたんにごきげんになり、ゆっくりと葉をほぐすと一服し
て、静かに歌ってくれた。「みんな好き嫌いはいろいろあるけれど、歌
うことだけは誰もが好き」という歌。
神は誰もの心の内に宿るというの
がバウルの信条だ。

 その晩は、ホーリーの前夜祭で、満月だった。月明かりに照らされて、
自転車でバウルの家にたどりつくと、農家の中庭のテラスで彼は早くも
他のインド人客とともにチラムパイプを回していた。しばらく雑談する。 
 彼が、お隣のバングラデシュへ行った時の話。歩いて国境を越えて行
こうとしたのだが、国境の検問所で当然のように止められた。パスポー
トも何も持っていなかったからだ。彼が言うには、「国境なんぞ誰が勝
手に決めたのだ。私には国境も証明書もいらない。私は自分が行きたい
ところに行く権利がある。通せ」という調子でやったらしい。すったも
んだの挙句に、バウルなら何か歌ってみろと言われて、一曲歌ったとこ
ろ、係官たちが感動して、飯を食わせてくれたうえに小遣いまで持たせ
て通してくれた、という。多少脚色はあるにしても、いかにもインドな
らありそうな話で皆で腹を抱えて笑った。
 そうこうしているうちに、「客がもう集まってきているよ」と仲間の
若いバウル二人が彼を呼びにくる。土俗そのものといった若いバウルの
真っ黒い顔の輝きに、強い印象を受ける。親分バウルは気むずかしく、
なかなか腰を上げない。しばらくまたチラムを回してから充分にできあ
がったところで、ようやく出陣。いよいよ場末の大衆食堂プロバシャホ
テルでの投げ銭コンサートの始まりである。

 シャンティニケタンのホーリー祭は有名で、カルカッタからもたくさ
んの観光客が押しかけてくる。おかげで、こんな田舎の食堂にまで小金
持ちのインド人客が溢れている。バウルの三人は店の中央に、地面にゴ
ザを敷いて座る。それを上から見下ろすように、イスとテーブルに陣取
った客が4〜50人。
 印象的な笛のイントロから、演奏が始まった。横笛、カンジーラ(タ
ンバリン)、ドターラ(インド風三線)にジャンジャン(足鈴)という
シンプルなバンド編成。野外食堂だから、ひっきりなしに人が出入りす
るし、周囲は車の騒音等でけっこうやかましく、勿論マイクなどないか
ら、リードボーカルの親分バウルも初めはなかなか歌に乗り切れない様
子だったが、若いバウルがそんな周囲を圧倒するみずみずしい声で絶唱
したあたりから、だんだん歌も演奏も白熱してくる。
 親分バウルのカンジーラのうまさは抜群で、こんな小さな太鼓ひとつ
でよくもこれだけの複雑なリズムがたたけるものだと感心する。まさに
職人芸の世界だ。歌と掛け合いでメロディーを追っていく横笛の演奏も
すごい。(あとで笛を見せてもらったら、あまりに笛を使い込みすぎて、
吹き口がすり減ってしまっているのには驚いた)。そして何よりも、ド
ターラを弾きながら歌う若いバウルの声のみずみずしさ、声量の豊かさ
は圧倒的だった。
 聴衆も盛り上がってきたけれど、まだ誰もパイサを投げないので、先
頭きって大枚50ルピー札を喜捨する。つられて何人かが10ルピー札
を投げる。こうしてかれこれ約二時間。三人とも大変な熱演で、やっと
150ルピー(約450円)程度のパイサを稼いで、コンサートは終了
した。

 バウルの音楽の水準のずば抜けた高さと、その扱われ方のあまりの低
さ。彼らがどれほど芸能人化しようとも、インドでの扱いはどこまでも
河原者のそれである。だが
河原者の歌にこそ、音楽の根源のパワーがあ
。そんなことを感じながら、彼らとともに農家の中庭に戻った。月は
煌々と中天に輝いている。それから夜明けまで、時にチラムと怪しげな
ウォッカを回しながら、どこからともなく歌を聴きに集まってきたイン
ド人たちと、バウルを囲んで満月の夜の宴は続いた。             

 
初出「まんまる9号」(1997・4月)

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