はまってます!佐藤賢一



若い頃、井上 靖の歴史物や遠藤周作にはまりこんで、ずいぶんかためて読んだ私。
最近はとんと一人の作家を集中して読むことなど、なくなっていた・・・。
(あ、塩野七生は好き。歴史物が私のツボなんです。)
ひさびさ「う〜ん、読んでみよっかな」と思ったのが佐藤賢一の作品。
古代〜近世のヨーロッパを舞台にした歴史活劇!!もともとヨーロッパ史の歴史学者という
プロフィールの佐藤氏、背景描写は読んでいて説得力バツグン。
生き生きした登場人物達に、ぐいぐい引き込まれていきます。
まだまだ全部読みあさった・・てな段階ではないのですが、私の読んだ分だけ(笑)ご紹介!



カエサルを撃て B・C50年代ケルト人とローマとの戦い
双頭の鷲 14世紀百年戦争前期フランス、一人の英雄
傭兵ピエール 15世紀百年戦争後期、ジャンヌ・ダルクのお話
王妃の離婚 百年戦争後のフランス 前代未聞の離婚裁判
カルチェ・ラタン 16世紀宗教改革の時代のパリの混乱
ジャガーになった男 17世紀斜陽のイスパニア〜新大陸 日本人が主人公



双頭の鷲                                  2001新潮文庫

この物語の主人公は、ベルトラン・デュ・ゲグラン。
・・・?聞いたことのない名だ。

時代は14世紀、百年戦争の頃・・・ジャンヌ・ダルクよりも先の時代。
彼はジャンヌ・ダルクなど問題にならない、ナポレオンさえぶっとんでしまうような大将軍、フランスの英雄なのだ。
彼ほどイギリスをうち負かしたモノはいない。
フランス国内にイギリス領がある異常事態を彼は打開し、完全にイギリス軍を追い出してしまったのだ。
では、なぜ日本人の私たちに知られていないか、と言うと、すべてナポレオンのせいらしい。
彼はフランス国民の愛国心をあおるために、ジャンヌ・ダルクやヴェルチンジェトリクスを発掘し、国民に紹介した。
デュ・ゲグランを取り上げなかったのは、ナポレオンは彼を越えられなかったから。(つまりジェラシー、ですかな。)

その英雄はどんなヤツか・・・。
ブルターニュ生まれの貧乏貴族の長男坊、背は低いわ腕が異常に長いわギョロ目赤鼻、無教養で乱暴者、
女嫌いで、42歳まで童貞だった・・。

実は彼は醜く産まれてきた事で、母親によるキツイ虐待を受け続けた。
‘女嫌い’の原因もここにある。
自分は人に愛される、人を愛する資格がないのだと、思いこんでしまったのだ。
読んでいると本当にツラいんだが、作者に言わせると、「あまりに悲惨で、とても伝承のまま書けなかった」のだそうで。
愛情のほとんどは、自分に似て美しく産まれた次男坊に。
腹をすかせた猿のような長男は、手下を引き連れて村の畑を荒らし回る・・・。
その経験が、彼をして戦いの天才と言わしめ、大出世する遠因になるんだから、人生わからない。


ベルトランは決して愛されなかったわけでない。
‘双頭の鷲’を旗印としたフランス最大の英雄は、自分の意志では何ひとつ決められない男だった。

いとこで修道僧のエマヌエルは、彼の知恵袋として、秘書として、若き日からずっとささえてきた。
彼のハチャメチャな戦法を理解し、共に戦い続けたモーニ。
彼を愛し、運命を占い続けた女占星術師ティファーヌ・ラグネル(彼女は後にベルトランの妻となる)。
敵ではあるが、互いにシンパシーを感じたイギリスの将軍グライー。
彼を‘師’と仰いだ王弟アンジュー公ルイ。
何より、ベルトランと最強のタッグを組んだフランス王シャルル五世
‘文政’の才能があった彼は、ベルトラン・デュ・ゲグランを得る事で窮地を切り抜け、王となり、絶対王政の礎となった。

ベルトランは、彼を愛し、支持する人々の指し示す通り、戦っていればよかったのだ。
彼の躓きは、母に愛されなかった思いであり、それがすべてだった。


彼の晩年の様子を読むのは結構つらい。
妻に先立たれ、後妻に裏切られ、彼の突然の死は、弟による毒殺を示唆している。
最後の言葉は、‘ママン’だった。


ベルトラン・デュ・ゲグランとシャルル五世が、もう少し長生きしていれば、百年戦争は半分で済んだかもしれない。
彼らはあまりに時代に先駆け過ぎて、遺志を継ぐものがいなかったのだ。
逆に言えば、文武ふたりの天才は、産まれてきた時代がいささか早すぎたのか。




カルチェ・ラタン                             2000集英社

「神とは、信仰とは?」
集英社はなんともおかたい アオリ文を付けたもんだ!
「修道士と夜警隊長,漫才コンビのパリの夜の捕物帖」とか。(部数がもっと伸びないかな?)
「22歳を過ぎてまだ童貞、超奥手『泣き虫ドニ』の成長譚」では主人公がカワイソ過ぎか。
では「16世紀パリの『シンドラー』の若き日」ではどうだ・・・誰も読まないか。

この本の主人公、またまた日本人にはなじみがない。
ドニ・クルパン。
パリの大手船会社クルパン家のしがない次男坊、
カルチェ・ラタン(ラテン語の街の意。パリ大学の学生街)に学ぶも、学位を取る事も出来ずじまい、
部下にいじめられる夜警隊長、
女性への理想が高すぎて、いつまでたっても童貞を捨てられない。
なんでこんな男が主人公なんだ、と思うだろうが、彼は後に大バケする。

もうひとりの主人公。
マギステル・ミシェル。
眉目秀麗、頭脳明晰、ケンカにも滅法強い。
マギステルは平たく言えば『先生』、カルチェ・ラタンきっての秀才だが、
教授になりたいわけでなく、実家(ドゥ・ラ・フルト伯爵家)の力で司教になるわけでもなく、
修道僧のクセに、女をとっかえひっかえしている自堕落な生活ぶり。
家庭教師をした縁で、ドニ・クルパンとともにパリの怪事件を解決していく。
しかし、本当のところ彼は実在の人物の一体誰なのか、はっきりしない。
ドニ・クルパンの回顧録にだけ名を残す、謎の人物だ。

*「ドゥ・ラ・フルト伯爵家」の登場はこれで3度目、ベルトラン・デュ・ゲグランの遺志を継いだのがアルマン・ドゥ・ラ・フルト、
「傭兵ピエール」は父親の血筋がドゥ・ラ・フルト。この時代にあっては、国王と洗礼名で呼び合う間柄の、名家中の名家だ。


実はこの本、佐藤賢一の作品の中で、一番速く読み切った。(つんどく期間は最長だが。)
これまで読んだ作品は、ジャンヌ・ダルクとカエサル以外、ほとんど知識がない時代の人物中心だった。
が、「カルチェ・ラタン」は、世界史の教科書にのっていた人物のてんこもりなのだ!

時代は16世紀、カトリック教会の堕落が進み、ヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れようとしている頃。
カトリックの信者さんが読んだら、ちょいと不快に思われるだろう記述がこれでもか、と出てくる。
「ゾンネバルト事件」は、まるでオウム真理教による事件を連想させる。
が、大丈夫、
イニゴ・デ・ロヨラは熱血中年だ!
若き日のフランシスコ・ザビエルは、やっぱりさわやかだ!
立場は違うがジャン・カルヴァンは真実一路だ!
この3人が同席しているではないか!
マギステル・ミシェルを取り合いしているではないか!
彼のために、共に戦おうとしているではないか!
おまけに、ノートルダムの鐘突き男のカジモドまで出てくる!
それに歴史上の事件の記述が出てくると、もう、うれしくって仕方ない。

楽しく読んでいて、読者にさりげに「神とは?信仰とか?」と考えさせる、最高の本だった。
そして、物語の最後には、きっちり泣かせてくれるのだ。


ではドニ・クルパンはどのように成長したか。
彼は歴史に名をとどめる人物ではなく、同時代に名をはせた名物男だったらしい。
剣術に優れ、人情も肝っ玉もある、優れた夜警隊長。
様々な事件を通して、彼は「泣き虫ドニ」から、実にバランス感覚の良い大人のオトコに成長したらしい。
実家の方は先に断絶したが、彼の血筋は後々まで栄えた。

彼の勇気を称える事が出来る事件ー。
フランス宗教史の最大の汚点、1572年の聖バルテルミーの大虐殺(皇太后カトリーヌ・ドゥ・メディシスの陰謀で、
プロテシタント信者を襲撃)の際、ドニはカトリック信者であるにもかかわらず、実家の船舶を総動員して、プロテシタント
信者を可能な限り逃亡させたのだ。

‘神様’はどの時代、どの地方にも『シンドラー』を用意してくださるようだ。
残念ながら、本文中には記述がない。(読みたかった!)
事件に対する諸外国の批判が高まる中、彼はこの件で貴族に取り上げられたそうだ。



傭兵ピエール                                  1999集英社文庫

ジャンヌ・ダルクものである。
コテコテに歴史活劇である。(お約束!)
彼女は火刑台で焼かれたのでなく、なんと二児のママになったというお話。
彼女をイギリス軍の手から救出し、夫となったのがピエール、‘ドゥ・ラ・フルトの私生児ピエール’、傭兵部隊の隊長

15世紀フランス、百年戦争下の、無秩序で暗い時代。
名家の庶子であったピエールは10歳で戦いのさなかで父を失って、傭兵となりさがり、略奪の限りをつくして生きている。
そんな時に、彼は男装の不思議な少女出会う。
いつものように追い剥ぎを働き、相手が女と知ってレイプしようとして、留まる。

「私はフランスを救うために神に遣わされたものです。使命を果たすまでは、処女でいなくてはなりません。」
「使命を果たしたら、ピエール殿、私はあなたに処女を捧げます。」

傭兵としてオルレアンに着いたピエールが出会った、神の声を聞くという‘ラ・ピュセル(処女)’は、まさしくその少女、
ジャンヌ・ダルクだった・・・。

物語の前編オルレアンの解放までは、残忍極まりないムクつけき傭兵隊長が、ほんと、まるで少女漫画のような
淡い恋に陥る物語なんである。
戦闘シーンなんかはむちゃくちゃリアルで血生臭くてこわいんだけど。
ベッソン監督の映画「ジャンヌ・ダルク」そのまんま・・・・←夢に出た・・・。)
もちろん下心(事が終わったら処女をいただいちゃう)はあった。
なのにいつしか‘ラ・ピュセル’のカリスマ性を認め、彼女を支え、一緒にオルレアン解放を願い・・・。
ジャンヌにとってもピエールは、信頼し、心を許せる唯一の男だったのに。
ピエールは恋心を認めたとたん、彼女から離れる。「神の声が聞こえなくなった」と悩むジャンヌを戦場に残したまま。


2年後、ピエールは得体の知れぬ相手から‘ジャンヌ・ダルクの救出’の依頼を受ける。
そして彼らが再会したのは、ルーアン、ジャンヌ・ダルクが魔女裁判を受けるために収容されている牢獄の中。
ピエールの目前で、ジャンヌは牢番の兵士からレイプされている真っ最中だった。
(この場面、もう何度読んでも涙が出てしまうんです・・・・・筋なんてわかりきっていても。)

物語の後編は、身も心も傷ついたジャンヌを本当の意味で救出するための‘旅’なんである。
‘ラ・ピュセル’ことジャンヌ・ダルクは死に、ピエール・ダラニー卿の麗しき(いや、かなり口うるさい)奥方ジャネットとして蘇る。
彼女を蘇らせたものは、「守る、守られる」とかいうのでなく、
ピエールの「彼女が負った苦しみをすべて自分がかわりに負うのだ」という姿勢。(これよっ!!)
もちろん、‘てんこもり’の冒険、もとい、試練を乗り越えて・・なのだけど。

佐藤賢一が女性を描いている所を読む時、最初ちょっとつらいものがあった。
「傭兵ピエール」の出だしも、いきなりレイプシーンである。
作者が悪いのでなく、女性の人権も何もあったものじゃない「そういう時代」だったからなのだ。
傭兵達が街を襲い、ありとあらゆる物を略奪したら、最後に襲われるのは必ず女性。
(ありゃ、現代でもたいしてかわらないんだった・・・・)
「女は処女か淫売」。決して尊敬される事もない。
そんな時代になんとか生きようとしている彼女達を、作者はエールを送りながら描いているように思える。
ジャンヌしかり、ジャンヌの身代わりに殺されたカトリーヌしかり・・・
そしてピエールの生母らしき稀代の女傑ヨランド・ダラゴン(王太子妃マリーの母)しかり。

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「ジャンヌ・ダルク物」は、美内すずえの「白ゆりの騎士」、「傭兵ピエール」、ベッソン監督映画「ジャンヌ・ダルク」の順で
見ているのだが、描かれ方が一番違うのが、‘ジル・ド・レ’だ。
よく調べたわけでないのだが、彼はどうも「青ひげ公」のモデル?らしい。
佐藤賢一は、ジル・ド・レを幼児を虐待して性欲を満たす異常性愛者として描いている。
美内すずえはイギリスの手先の錬金術師にだまされたあわれな男として。
(まるでドラキュラのような衣装をなんとかしてほしい!あれで戦場にまで行くんだから。)
ベッソンのジル・ド・レはジャンヌ・ダルクの力を認めるや、彼女を支えて戦うカッコイイ騎士として描いている。
や、やるじゃないか、ジル!イイ男だぞ、ジル!!

(ただし、ヨランド・ダラゴンは映画ではとおってもイヤなおばさんである。メイクがなかなかコワかった。)





カエサルを撃て                               2000中央公論新社

カエサル、と言えば‘ユリウス・シーザー’。ローマ帝国の終身独裁官、かのクレオパトラ七世の夫(正式ではないけど)。
「賽は投げられた!」とか「ブルータス、お前もか」とかの名セリフで有名な方。
その彼に楯突き、一泡も二泡もふかせた若きガリア王ヴェルチンジェトリクスが主人公。
(ガリアは現在のイタリア北部からフランス一帯、ケルト人の部族の集合体。ローマ以前はケルト人がヨーロッパのほとんどに
住んでいたようです。「ケルトと言えばアイルランドに住む人たち」などという超貧困な知識しか無かった私・・・。)


ヴェルチンジェトリスク(勇者の中の勇者にして偉大な王の意)はアルヴェルニア族の首領の息子。
石灰で固めて逆立てた金色の髪、巨漢(ついでに巨○の持ち主)、凶暴で粗野な性格、カリスマ性と暴力でガリアを率いる。
19世紀に、フランスの国民意識の高揚と他民族への抵抗のシンボルとして、ヴェルチンジェトリスクが見直され、
最後の抵抗(B.C51)の地となったアレシアに、彼の巨大な像が造られている。
まだ20歳にもならない彼を突き動かしたものは、‘ローマに徹底的に搾取されるガリアの怒り’でもなく、
‘一族の勢力争いで殺された父の恨み’でもなく、‘彼を育てるために身を売った母の呪縛’であり、
‘彼に「父の跡を継ぎ復讐するのだ」と言い続けた者たちの期待’であった事が痛ましい。
ただ「カエサルを撃つ」事のみが、自分を縛るものから自らを自由にする事ができる。
愛する事も、愛される事の喜びも知らない若者・・。

対するカエサルはこのとき48歳、元執政官で属州監督としてガリアに赴任
女ばかりの家族の中で育った文学青年で、立身出世にすべてをかけてきた。
三頭成治(カエサル・クラッスス・ポンペイウス)の危ういバランスのもと、ローマをにらみながら、
ガリアで搾取した富を選挙資金にあてようとしている、ハゲを気にする中年男。不倫されるのが怖くて赴任地に連れてきた
妻カルプルニア(愛妻というより政略結婚で得た妻)をヴェルチンにかどわかされる始末。
読み進めていくと、なぜか主人公よりもカエサルの方に感情移入していく事に気づく。(自分が中年だからか?!)

窮地に追いつめられたカエサルは、まるでヴェルチンの若さ,野生に触発されたように変身する。
わずか五万の兵でガリア軍を包囲する狂気ともいえる作戦を採り、しかも二八万ものガリアの援軍を迎え撃つも、
みごとにガリアを撃ち砕く。
(徹底的に訓練されたローマ兵と、烏合の衆であるガリア軍の差でもあるが。)
そしてガリアを完全征服し、B.C49ルビコン河を軍とともに渡るのだ。



ここで描かれる女性は、対照的なふたり、ヴェルチンの政略結婚の相手である14歳の少女エポナと、
カエサルから略奪したカルプルニア(29歳女ざかり)。
ヴェルチンはなかなかの絶倫男であり、彼にとって女は完全に道具である。
だが、それは幼少の頃の弱い自分、今は心の片隅に追いやっている弱い自分の裏返しらしい。

カルプルニアはヴェルチンに獣のように飼われ欲情の対象となり、誇り高いエポナは自分を侮辱したヴェルチンを遠ざける。
ヴェルチンは豊満なカルプルニアの体に溺れ、言葉の通じない彼女と心を通わせようとするも、
彼女が決して壊れず、夫カエサルを忘れていない事に失望し、敗北感を味わう。
形式的な妻であるエポナをからかいの対象とするものの、‘壊してしまう’事を恐れ、手をつけない。
だが、カエサルに敗北し、投降の覚悟を決めたヴェルチンが、最後に抱いたのはエポナ
(素直で幸せだった頃の自分を思い起こすもの)だった。
エポナ(ケルトの馬の女神;勇者の魂を冥界に運ぶもの)との最後の場面は、このお話の中で一番ぐっとくる所だ。

解放されたカルプルニアは、‘カエサルの妻’に戻っていく。(クレオパトラの出現にもめげないっ!)
そんなたくましさ、したたかさがオンナにあってもいいと思う。
エポナはどうなっただろうか。一応ハドウェイ族のお姫様なので、一族に守られて逃げおせたただろうか。
それとも、ローマ軍の略奪の対象になってしまっただろうか。
いずれにしても、たった一度の夫との思い出故に、結構たくましく生きていった・・・のではないかしらん。



本には挿し絵はおろか、地図のひとつも載っていないので、図書館から「図説 ケルト(東京書籍)」を借りてきた。
ヴェルチンジェトリスクのプロフィールが描かれたコインや、青銅像の絵などなどが出ていた。
巨漢で金髪の逆立ったヘアスタイルで・・・マンガにすると、まるで‘スーパーサイヤ人’じゃないか、と思っておりました。



蔵書で〜す。
蔵書。「カエサルを撃て」は図書館にて。
「カルチェ・ラタン」は現在‘つんどく中’


王妃の離婚       第121回直木賞受賞作             1999集英社

「正義とは、何か?」
「青春とは、何か?」
「そして
    叡智とは、何か?」


これは本の帯に書かれていたキャッチコピー。
これを見て、一瞬引いてしまった。(集英社はワンパターンにも、この調子で「カルチェ・ラタン」でもやっている。)
でも、たまにはタイムリーに話題作でも読むとするか、と平積みからこの本を取り上げたのだが・・・。
やられた。もう、これを読むたびに泣けちゃうのだ。この本で佐藤賢一に、みごとにはまってしまった。


47歳の田舎弁護士フランソワ・ベテゥーラスは、ルイ12世とジャンヌ王妃の離婚裁判を傍聴している。
戴冠したばかりの王は、カトリック教徒というのに王妃を離縁しようとする。「結婚の事実は無い。この結婚は無効だ。」と。

〜体に障害を持つ女(と言ったって、乳児の折に足を美しくするために巻き付けた布が適切でなかったために変形しただけ)
 を政略結婚で押しつけられたのだ。
 王となったからにはもっと美しく、財産のある先王の妃をもらおう。
 それに、あんな醜い女とは「やって」ないぞ・・・・〜

絶対王妃不利の出来レースだったハズなのに、王妃は徹底抗戦に出る。フランソワはそれを冷たい目で見ている。
なぜなら王妃は、彼から青春のすべてを奪った暴君ルイ11世の娘だから。
・・・なのに、フランソワは彼女の最後の頼みの綱になってしまった。
「被告ジャンヌ・ド・フランスの処女検査に先立ち、原告ルイ・ドルレアンの男根検査を請求いたします。」
まさしく、崖っぷちからの宣戦布告!


カトリック教会にとって‘結婚’の目的は「子供をもうけること」。それゆえ、結婚の完成は「やっちゃうこと」なので、
この裁判の論点は、「やった」か「やらなかった」か、なんですな。それで、双方それを証言する者を探し出したり、
「カラダを検査しちゃうぞ!」などという展開になるんです。
もう一つ、近親結婚の禁止、というのがありまして。
あくまで結婚の目的は子孫をもうけることゆえ、あんまりいちゃいちゃするのはダメなので、これが兄弟姉妹の結婚だと、
必要以上の愛情で結びついちゃうので、禁止するらしいです。(遺伝の考え方がまだ無い・・・)
ジャンヌとルイは親戚で幼い時より知り合っていたので、「霊的に兄妹」になるのだとか。
だからこの結婚は無効、という考え方もできますが、用意周到にも結婚に際して、ローマ教会に
(もちろんお金を払って)お許しをもらっていますので、原告側はこの論法は使えなかったようで。



フランソワは‘カルチェ・ラタン(ラテン語の街の意。パリ大学の学生街)’の風雲児、伝説の男だった。
神学や法律などを学ぶ学生達は、すべからく修道僧。妻帯はおろか、女と交わるのも許されないハズ・・・・
なんだが、彼には同棲する女がいた。家庭教師をしていたスコットランド系貴族の娘、ベリンダ。
結婚できない男のもとに、14歳(!って、ジュリエットよりもトシ?!)の彼女はころがりこむ。
才気走ったフランソワはルイ11世の王妃の不倫問題についての論文で王の怒りを買い、
(王妃は、王の手の者より、はめられていた)カルチェ・ラタンから逃亡する。
そして、近衛兵だったベリンダの弟オーエン・オブ・カニンガムに捕らえられるや、男根を切り取られちゃったのだ。
残されたベリンダは、ジャンヌの侍女を勤めながらフランソワを待つが、オーエンから事実を突き詰められ、
‘もう彼はもどってこない’と知り、生きる事をやめてしまう。
愛する姉を死なせたオーエンもまた、苦しみを背負っている。
そのオーエンが、忠誠を誓うジャンヌ王妃に、フランソワを差し向けたのだ。

「インテリが権力に屈したらおわりだ!」
裁判は「自分の不幸な青春時代を取り戻そう」とのフランソワの決意、オーエンや、かつてのおとうと弟子の
ジョルジュ・メスキ、その傘下の学生フランソワ・オブ・カニンガム達の協力により、有利に進むものの、
王側のはげしい妨害に逢う事になる。(差し向けられた刺客により、オーエンは命を落とす。)
結局裁判は、意地(自分が賭けた結婚に裏切られた怒り)から解放された王妃の意向により、敗訴というカタチではあるが、
豊かな領地と「名(ベリー女公、後に聖ジャンヌとして列聖)」を得る事により、実質的な勝利を得る。
フランソワは20数年来の屈辱から、自らを解放したのだ。

******

フランソワを導いたものは、何よりベリンダだった。
はたちにもならないのに、彼女はフランソワとのくらしに、すべてを賭けて‘戦って’いた。
徹夜で論文を書くフランソワをベットからじっと凝視しながら。
「カルチェ・ラタンの悪い女に鍛えられているから、フランソワの手管は凄いんだ」なんて王妃にしょっちゅうノロケ話をしながら。
そして、別れた後に産んだ一粒種のフランソワ・オブ・カニンガムに、父の学究者としての偉大さを伝えながら。
(彼は父の跡を追う事で、自らのアイデンティティを保っていた・・かも)
ベリンダは生きる事をやめてしまったが、彼女の魂は愛した男を生き返らせたのだ。


そんなわけで(?どんなワケだ?!)「ガラスの仮面」的に、このおはなしを舞台化するとしたら・・・・。

 
ベリンダとジャンヌ王妃の2役で北島マヤ
 フランソワの若い頃と息子のフランソワの2役で桜小路 優(う〜ん、ものたりない、市川染五郎でどうだ!!)
 フランソワに赤目 慶(そうなると松本幸四郎でどうだ!)
 オーエンに・・・・ガラカメに該当者なし(ここは川崎 麻世に賭けよう!)

・・・・原作には無いが、裁判を終え、静かに勝利をかみしめるフランソワのかたわらに、王妃と2役のベリンダの幻が現れる。
「ベリンダ、お前だったか、私をここに呼び寄せたのは」
「何いってんの、このスケベ坊主!!何を王妃さまにやらかしてくれたのよ!!」
「あの方は自分の‘オンナ’を賭けて戦っていたんだ。自信を持たせねば・・・」
「はん!屁理屈こいて!!あの世であんたのイチモツ探して待ってるからね、覚悟しときな!!」・・・

なんて言わせてみたいね。




ジャガーになった男   1993第6回小説すばる新人賞受賞作  1997集英社文庫

この作品の主人公は、日本人である。
だけど舞台はお約束のヨーロッパ、17世紀の斜陽のイスパニアだ。
そう、トラこと斎藤小兵太寅吉は、伊達政宗が派遣した支倉常長の遣欧使節団の随員だったのだ。

彼は時代に遅れて生まれてきた男、生きたい時代に生まれてくる事ができなかった男だ。
根っからのサムライの彼は、戦国時代末期に生まれ、成年に達した頃は、すっかり天下太平になっていた。
‘自分らしく生きよう’として、許嫁 米(よね)を捨ててまで遣欧使節団に加わるものの、使節団の使命をはたせないまま、
尻つぼみに終わってしまう。

それならばとイスパニアに残って‘武士’から‘イタルゴ’になり、武勲を上げ‘アッチラのトラ’と恐れられたが、
イスパニアのイタルゴの輝ける時代は、とうの昔、前世紀に過ぎ去っていた。
友人ベニトの妹エレナと恋仲になり、結婚する決意をするが、様々なすれ違いからエレナは自分を追いつめ、
気が狂ってしまう。

生活にも精神的にも息詰まったトラとベニトは、新大陸に夢を求めてピルーに渡る。
しかし、そこにもエルドラドはない。インカ帝国の遺産はとっくに奪い尽くされ、ヨーロッパに流出してしまった後。
ひょんな事から、トラはインディオに捕らわれ、彼らのイスパニア人への戦いに身を投じる事になる。
トラは、インディオにとって最高のジャガーを精霊に持つ男、現人神たる‘ジャガー人間’だった。
ジパンギ族の巫女オーネママ・ホシワルカイ(彼女は許嫁だった米にうりふたつだった)を得るために、
初めて女のために戦う決意をする。
だが、インディオの抵抗運動も、その輝かしい時代は、前世紀のトゥパク・アマルの反乱を頂点として、下火になっており、
インディオ同士の部族の意地の張り合いをしているありさま。
トラ=ジャガーはオーネママの代わりに妹のネラをおしつけられ、有利に進めていた戦いも、部族間抗争のあおりをくって
破れ、捕らえられてしまう。

「わしは戦いが好きだ。そんでもって女も好きだ。女のために闘えたら、それが最高じゃが、いかんせん、そういう時代に
うまれなかったわい」
それでも、寅吉は自分の生き様に悔いなく、処刑台で切腹して果てた。
そして、彼はホントにジャガーになる。


狂ったエレナは寅吉の子を産んでいた。
その子孫達は、‘ハポン’姓を名乗る。


実際、セビリア郊外の町には、支倉遣欧使節団の落胤の子孫と思われる‘ハポン’姓の人たちが何百人もいる。
それが日本に知られるようになったのは1989年。
佐藤賢一は、その知らせに、さっそく自分の‘寅吉’をその時代に投げ込んだのだろう。
佐藤作品の中ではとりわけフィクション度が高いが、荒唐無稽のお話が、かえって時代の変わり目のエネルギーやら、
悲哀やらを感じさせる。
なお、文庫化にあたって、もとは寅吉の一人称で語られていた文が、三人称に書き改められたそうだ。