石川県立音楽堂開館記念委嘱作品 9月16日初演
オラトリオ
呼びかわす山河〜前田綱紀の時代〜
脚本:佐々木 守
作曲:池辺晋一郎
指揮:岩城 宏之
オラトリオとは? 簡単に言えば、朗読劇を音楽にしたものです。これに振り付けが入ると、オペラになります。 登場人物、合唱、そして語り手が入ります。 |
物語そして、登場人物 加賀百万石前田氏の5代目、前田綱紀(つなのり 1643〜1724)の時代を語る。 祖父の3代利常から綱紀の時代にかけて、‘百万石文化’が華開いたと言われる。 元禄2年(1689)、松尾芭蕉の奥の細道の旅は、加賀の国、金沢に至る。芭蕉と曽良,金沢の門人達との交流と、 ちょうどその頃、江戸屋敷にいた前田綱紀と、側室預玄院(お町)との会話が交互に描かれている。 前田 綱紀 吉田 浩之(テノール) 正室 麻須(保科 正之 二女) 小川 明子(メゾソプラノ) 側室 預玄院(お町) 豊田 喜代美(ソプラノ) 保科 正之(会津藩主) 池田 直樹(バリトン) 松尾 芭蕉 直野 資(バリトン) 河合 曽良 高野 次郎(テノール) 生駒 万子(門人 武士) 池田 直樹(バリトン) 金沢の門人達 アンサンブル金沢合唱団より選抜 混声合唱 アンサンブル金沢合唱団 児童合唱 エンジェルコーラス 語り手 壇 ふみ |
前田 綱紀について 加賀藩中興の英主と言われる綱紀は、父である4代藩主光高の死により、わずか3歳で藩主となる。 若くして隠居していた祖父利常が補佐し、義父保科正之の薫陶を受けて成長する。 幕藩体制が安定した頃であり、徳川家との関係も、常に取りつぶしの危機にさらされていた3代までと違い、親藩並の 扱いを受けるようになるほどで、大変時代に恵まれた、幸運な藩主だったと言える。 (祖父利常は、幕府の手前、バカ殿を装って鼻毛を伸ばした、なんて伝説が残る人である。 政治家としては、幕府との危ういバランスを乗り切り、藩の繁栄のもとを築いた彼の方が、魅力的だと思う。) 学問を好み、木下順庵,室 鳩巣などの学習を多く招聘し、儒学の振興を図る。 また、多くの書籍を蒐集し、新井白石をして、「加賀は天下の書府なり」と言わしめる。 (しかし、新井白石の書簡には、この言葉は出てこないそうである。どうやらずっと後の人が造った言葉のようだ。 蒐集も、いまいち脈絡が無かったらしい。) 祖父の影響で、美術工芸を大いに奨励したが、これが後々の百万石文化の礎となった。 彼の残した「百工比照」と言われる美術工芸の標本集は、現代でも嘆賞の的である。 祖父利常の残した財産は、彼が使い切ったと言われるくらい、金にいとめは付けなかったようだ。 施政の面でも、領民を大切にし、飢饉の際もすばやく米倉を開き、領民を救った。 年寄りを大事にし、「90歳以上の男には1日に玄米五合、女には三合与えた」と、オラトリオの中で歌われるが、 家にある関連本数冊には、なぜかその記述がない。(伝説か?) 綱紀は非常に長命で、79年の長きにわたり藩政を司った。 跡継ぎの男子がなかなか授からず、嫡子吉徳を得たのは、彼が47歳、 綱紀の死により、吉徳が跡を継いだのは32歳であった。 吉徳の死後に、跡継ぎをめぐって有名な加賀騒動が起きる。 その後は藩主がたてつづけに夭逝し、財政も逼迫、庶民の暮らしもさらにひどくなっていった。 (北国新聞社 原谷 一郎著「百万石物語」より) 綱紀について、このように記述するものもある。 「細工所の完成、百工比照、尊経閣文庫の基を築くなど、前田氏中興の英主と称されるが、他方、被差別部落を 設定して士農工商・穢多非人の制を確立、また、金沢町人から、町人精神を欠落させた。」 (河出書房新社 石川県の歴史より) 歌詞の中にもあるが、藩主の正義はすべてにおいて正義ではない。正の歴史があれば、負の歴史もある。 繁栄を謳歌したのは一部の商人であって、庶民の生活はやはり苦しかったと言われる。 余談だが、来年の大河ドラマは「利家とまつ」、綱紀のひいじいさんの代の話。 この中で、利家の一向一揆の弾圧をどう描くのだろう。 あまりに多くの人々が処刑され、白山麓の村々は、後々まで荒廃したという。 ちょいとやぶにらみに見てしまいそうなワタシ。 |
歌のなかから 混声合唱は、綱紀が蒐集した書物のひとつ、「作庭記」(ガーデニングの本?!)の記述、四神相応をなす庭について歌う。 東の流水は青竜,西の大道は白虎,南の池は朱雀,北の丘は玄武・・・。 続いて、「七十一番職人歌合わせ」で、様々な職業が、だ〜っと列記される。 壁塗り、檜皮葺(ひわだぶき)・・・。楽譜ではひらがなで書かれているので、時にとんちんかんな解釈をしてしまう。 「おんようじ」で、なんで楊枝くらいに御を付けるのか、と思っていたら、脚本で見ると「陰陽師」だった。(おばか) おかげさまでずいぶん漢字の勉強になるテキストだ。 五拍子でとてもテンポが速く、落っこちる危険大。 そして、綱紀が城内に作った細工所について、時に刀剣造りと陶磁器造りについて、歌う。 男声合唱が、まるでうっぷんをはらすがごとく、声を張り、女声が横からちゃちゃを入れる。 混声で「加賀野の土は日本一」と歌い上げて、混声合唱のしめくくりとなる。 陶芸の大樋(おおひ)焼は、確かに綱紀の頃に完成したが、古九谷については、いささか疑わしい。 加賀藩江戸屋敷(東大赤門のところ)からは多くの古伊万里の破片が出土しているが、古九谷は無いそうだ。 はっきりしている吉田屋窯(青九谷)が出るのは、ずっと後の文政年間である。 ただ、このハナシはこちらでまともにすると、袋叩きに逢う・・・かもしれない・・・よ。 たとえ古九谷がマボロシだとしても、別に現在の九谷焼の価値が下がるものでは絶対ないと思いますがね。 男声合唱は、芭蕉の金沢の門人達の役目を担うので、私たちよりも出番が多い。 句会で、「三日月のまだ落チつかぬ秋の来て いそげと菊の下葉摘ミぬる・・・」と合唱で歌う所はたいへん美しい。 また、我々の中から、門人A〜Fで出る方達は、堂々のソロである。 どれも大変歌いにくい難しいメロディで、もう、「ガンバレ〜」と心から応援するしかない。 小松出身の私には、「石山の 石より白し 秋の風」とか、 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」とかが歌になって欲しかったよ〜。 |
正室と側室 正室の麻須(保科 正之の二女)は10歳で嫁ぎ、18歳で子をなさずに夭折したそうだ。 幼なじみとも言える正室を亡くし、綱紀はあらためて正室は迎えなかった。 6代藩主吉徳(1690〜1745)の生母である側室預玄院(お町)は、21歳。 47歳の綱紀にとっては、子供ほどの歳の差という事になっている。 跡継ぎを産んだとはいえ、家系図には側室の名は残らない。 吉徳は綱紀と麻須の間の子として記されている。 歴史に名を残さない預玄院に、オラトリオは手向けの花のようだ。 でもなあ・・・、 綱紀に向かって「今度こそ、男のお子を 元気な男のお子を産んでみせまする!」と絶唱する場面は、 もう鬼気迫って、女性陣には・・・・不評(気分悪い!!)。 |
河出書房新社「石川県の歴史」より 前田綱紀像 |