原作・ジブリ・あなたはどちら派?
ハウルの動く城
ダイアナ・ウィン・ |
「千と千尋の神隠し」後の宮崎駿監督作品が「ハウルの動く城」と決定したすぐに原作を購入。 娘はすぐに読んだのですが、ワタシは映画公開直前になってあわてて読みました。 「よしっ、ツボは押さえた」と勇んでシネコンに行った(04.11.23)のですが・・・・「あれっ?」・・。 画はホントに綺麗だし、久石譲の音楽流れているだけでウルウルだし、 話題の声優さんたち(キムタク,美輪明宏etc.)はぴったりだし・・・でも「ありゃ?」・・。 観ている時はムードに酔っていたのですが、終わってからう〜んと考え込んでしまいました。 ナニ言いたいんだかわからない! 観に行った知人や同僚たちと話していたのですが、ワタシと同感な方や「千ちひの方がよかった」 「原作の方が好き」の声多しなのです。(あくまで仲間ウチ・・・なのであしからず) 原作未読で今から観に行かれる方、絶対先に読んじゃいけません! 是非とも後からにして下さい!!(ついでに、ここも読まない方が・・爆) |
☆きわだったキャラたち☆ |
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ソフィー・ハッター |
18歳、帽子屋の長女、赤銅色の髪。荒れ地の魔女の呪いで90歳の老婆にされ、家出。 荒野に彷徨ううちに、魔法使いハウルの城に入り込み、掃除婦として居座る。 ・・と、ここまでは原作も映画も同じ。 ソフィーは三人姉妹の長女。 ‘おとぎ話で成功するのはいつも末娘。長女は何をやってもダメ!’が、 原作ソフィーのコンプレックスです。跡取り娘であったために、父の死後帽子屋の 仕事に没頭するのですが、繁盛しすぎておしゃれもせず、眼を真っ赤にして仕事場 に‘ひきこもり状態’に。老婆の姿になり居場所を失った彼女は、逆にこれ幸いと、 果敢にジンクスを打ち破るべく、冒険の旅に出るのです。実は‘無自覚な魔女’である ソフィーのやる事なす事、自分の運命を思わぬ方へ転がしててしまう。 ついつい「うまくいかないのも私が長女だからさっ」が口癖に。 ソフィーは一言で言えば実にかわいい。 その1,気が強い!その2,プライドが高い!!その3,直情径行!!! ・・・え、どこがかわいいって? ソフィーがアンゴリアンにやきもちを焼いた事でハウルが好きなのだと自覚し、 認めたくなくて癇癪をおこすところ,(「私なんか、おばあちゃんでなかった時も全然 きれいじゃなかった」と泣くジブリ・ソフィーなどは、‘ソフィー’の風上にも置けない!) 自分の正体がとっくに見破られていた事を知り、家出part2をくわだてるところ, ‘荒野の魔女に(ハウルが愛する)アンゴリアンが捉えられた!’と知るや、後先顧みず 殴り込みをかけるところ(おい)なんか、かわいいと言わずして何と言おう! 映画では、彼女は魔女などではなく、無力なただの娘。しっかり者で優しくて、ハウル に真っ直ぐな愛情を向け、実にけなげな主人公です。(老々介護をする主人公・・・) しっかりしすぎて、‘読売ー日テレ’の陰謀なのでは・・とダメ主婦の私は深読みする。 ‘等身大の少女’はどちらかと言えば原作版の方なのでは、と思いますが。 ・・いや、原作ソフィーの愛し方が屈折している、などとは言いません。ハウルの欠点 全部ひっくるめて愛しているのです。 ジブリ・ソフィーが摂政サリマンの前で言い放った「あの人は自由に生きたいだけ!」 は、あれはあれでハウルの生き方を認めた名セリフなんですが。 それより何より、続編「アブダラと空飛ぶ絨毯」での、ソフィーがハウルの事を説明する セリフ、「・・・ずる賢くて、わがままで、クジャク並みにうぬぼれが強いし、 臆病なの。何一つはっきりした事はいわないし・・・」 これほど彼女のハウルへの愛情を表わす言葉は無いのです。 |
魔法使いハウル 又は、ハウエル・ ジェンキンス 又ある時は魔法使い ペンドラゴンetc. |
(後の)愛妻にこきおろされる世界一の魔法使い。27歳(生まれてから一万日÷365)。 火の悪魔カルシファーと契約し、魔力を得ている。 王室付き魔法使いになりたくない&荒れ地の魔女から逃げるために、‘動く城’に住む。 見目麗しく、ハデ好き。二時間以上お風呂に入って磨き上げ、女の子をひっかける (心臓を食べる)のが趣味らしい。 癇癪をおこすとカラダから緑のねばねばヘドロを出し、まわりにいやがらせをする。 ・・難しい性格のヒーローですが、どうも彼の育った家族関係や土地の影響大なのかも。 実の姉との関係がとっても悪く、ろくでなし扱い。会えば、ソフィーまで庇いたくなるような 言いぐさで責め立てられます。なのに、故郷を離れて魔法使い業(?)をしているのに縁 を切れず、城の自室からは姉の家族の様子が覗けるようになっているのです。 ハウルに言わせれば、見内が魔女に襲われたら怖くてもイヤでも出て行けるように、 との配慮らしいのですが、なんとも切ない風景・・。 彼は「認められたい」のです。あれだけカッコよくても、自信が無いのです。 (たぶん・・・汗) まだ(ホントは)若くて色々抱え込んでいるソフィーには、そこのところ全部受け止め切れ ないので、即ケンカになってしまうのでしょう。 なんだかんだ実は優しいハウル、陰でこそこそソフィーの為に駆け回ります。 何やってんだか何考えてるんだがちっとも見えてこないのですが、物語のお終いにな って、‘臆病’なハウルらしい緻密な行動が一気に明らかに。でもでも、見栄えに人一倍 気を遣う彼が、ソフィーのピンチにはボサボサ頭に無精ひげで飛んで来たのですよ〜。 ‘愛’じゃよ〜!(あ、違う話だ。) で、エンディングでいきなりプロポーズに持っていっちゃう・・・。 ソフィーとのケンカの日々は、他人との深い関わりが築けなかったハウルにとって、新鮮 かつ「また楽し」ってやつですか。 ・・・ジブリ・ハウルの行動やソフィーに対する気持ちは、実にわかりやすい。でも、彼の やってる事って、なんなんでしょう?戦争に協力したくない→妨害のために戦闘機の間 を飛び回る→効果はあるのか?(直撃一発は完璧防げた模様) あの鳥の格好はうさんくさ過ぎる・・・。 ‘力を使いすぎると戻れなくなる’との事、力を借りているのはあくまでカルシファーから であって、奇妙な鳥さんでは無いはずなんですが。契約が危険なのは、火の悪魔との 関係が悪くなると、悪魔の方に支配されてしまう・・・と言うのが原作設定であり、まさしく ‘荒れ地の魔女’が、そのなれの果てだったんですよね。・・ま、いいんですけど。 |
☆家族の物語☆ 児童書なのに家族関係がシビアだな〜、と、つい思ってしまうのは、児童書に対する認識が甘いのか。 ハウルと実姉の関係は、良くなる気配がありません。 続編ではソフィーでさえ「義姉とは折り合いが悪い」と言い出すし。 ソフィーは三姉妹の長女、次女にレティー、三女に異母妹のマーサ(ジブリでは噂話の中の名前・・)。 義母にファニーがいるのだが、ソフィーの失踪一週間でもう再婚。 レティーやマーサはこの母に対し、とても手厳しい。長女をこき使って店に縛り付け、邪魔なふたりは追い出し、 自分は遊び回っている,と考えています。 ソフィーもだんだんそんな気になっていったのですが、原作では彼女たちの関係は修復されます。 ソフィーが自分が老婆になって初めて、義母の気持ちがわかるのです。 「彼女なりに娘達の事を思っていた」じゃ無く、「ただ歳を取って店に縛り付けられていくだけの恐怖」を。 ・・・やっぱりシビアですよ〜。「女」として気持ちがわかる、って言うのですよ。 ソフィーの呪いが解けた後は、とりあえず元よりも「なかよし家族」になった模様。 もっとも、ジブリの義母とのシーンは痛すぎ。(堂々と娘を売る義母、仲直り出来たと勘違いする義娘) ジブリではレティーとマーサはひとつのキャラになってしまいますが、二人はそれぞれ個性的で、自ら人生を 切り開いていくタイプです。 おとぎ話では勝利者となるはずの末娘マーサは、意外と結婚願望が強く(ある意味勝ち組なのか?)、魔女フェア ファックス夫人の弟子になるも、ケーキ屋の看板娘になったレティーと魔法ですり替わってしまいます。 器量よしの二女レティーは姉ソフィー以上に魔女の資質があり、どんどん才能を伸ばしていきます。気の強さも 姉以上、言い寄るハウルに決してなびかないし、続編では夫を捕らえに来た国王の兵に対し、口で負かしてしまう ほど。レティーが一番の出世頭になるタイプです。 ・・・そして、三姉妹は華麗なる魔法使いの一族を形成するに至ります(たぶん)。 レティーの夫になる魔法使いサリマンは、彼女より一回り以上年上。ハウルとは違ってマジメ一本やり、女性に 対しても全然慣れてなさそう。このカップルには、それなりドラマがあるのでしょうね。 マーサの夫になるだろうマイケルはまだ15歳、現在ハウルの弟子。ジブリでは10歳にも満たないような小さな 男の子‘マルクル’になっていました。(それはそれでかわいいのですが。) ソフィーとハウルの間でおたおたするばかりの彼、二人の王室付き魔法使いの義兄には・・・う〜ん、手が届くとこ ろまで行けるかな? |
☆ジブリ「ハウルの動く城」☆ なんだかんだ、ワタシが原作派って事はバレバレですが、映画もほめておこう。 1に音楽! 久石 譲の音楽が無かったら、この作品の魅力は半減だったと。(つーか、駄作・・・あわわw) 「困った時の久石 譲」とばかり、お仕事(!)で多いに使わせていただいております。 その2は「空」。 ジブリの作品は「空」が好き! 空の色、雲の動き、どのアニメより素晴らしいと思っていますが、ハウルでもじっくり堪能しました。 今回、それに加えて風景が綺麗・・・街並みも、山々も、湖も。特に、ソフィーとマルクルが湖のほとりでランチ する場面、お気入りです。 観て思い出したのは「天空の城 ラピュタ」と、なつかしいところで「未来少年コナン」。 宮崎ワールドな空飛ぶメカ満載でしたね〜。「動く城」も、ガラクタ寄せ集め状態がなんとも楽しい! ‘戦時色’の強い作品でしたが、戦争の表現が2つの作品に比べ、観念的と言おうか、生々しくないと言おうか。 「ラピュタ」なんかは、残酷シーンも遠慮がなかったように思うのですが。・・そもそも何のための戦争だったの か、全然わかりません。(ありゃ、まだほめるつもりが・・・) 人物で一番「うげ〜っ」だったのは、魔法使いサリマン。 ハウルと同郷で兄弟子のサリマンが、彼らの師匠であるペンステモン夫人,そして荒れ地の魔女のキャラと と混ざって、女性になってしまいました。時間制限のある映画で、登場人物が簡略化されるのは仕方ないと 思います。が、サリマンが荒れ地の魔女よりも上の悪役・・と言うのは。彼女が「そろそろこんな戦争は終わり にしましょう」と言って終わる戦争って・・・?! 最大の謎は、何故ソフィーは老婆にされたのでしょうか? 原作でも、かなり注意して読まないとわかりません。始めはソフィーが帽子の仕上げをしながら、無自覚の内に 帽子にまじないを注ぎ込んでいて、それが荒れ地の魔女のアンテナにひっかかって「私にはりあおうなんて!」 てな事になったのか、と思っていました。真相はフェアファックス夫人のもとでサリマン捜索に関わったレティー と、「ハッター」違いされたようです。 じゃ、映画の方は何故だったんでしょうか。 その前に、荒れ地の魔女がハウルを追いかけていたのは何故なのでしょうか? 原作では、自分の自在になる‘王’を作るためだったのですが、映画では? ハウルの力が欲しかった?それとも‘ツバメ’が欲しかった? ハウルと空中デートしていたソフィーにやきもちやいた、と言うのなら‘ツバメ’説が妥当になる・・(萎)。 あと、1番気になったのは、ソフィーが‘なし崩し’に若くなってしまう事です。 ソフィーは老婆の姿になる事で、かえって自由を手に入れ、世界が広がりました。 原作では、「ハウルは私の事なんか好きじゃないし」と、‘老婆の姿’に逃げ込んでいる雰囲気もありましたが。 (ハウルが「好きで変装していると思うしかない」と言ったのは言い得ている) 寝ている間は元の姿に戻る、と言うのは許す。が、呪いも解けないていないのに、なぜに若くなってしまうのか。 ソフィーの真っ直ぐなココロのあり方を表現しようとしたのでしょうか。 いや、単にビジュアルの問題のような気もしたりするんですが。 「強力な魔法」と言うのだったら、カルシファーとの契約が成立するまで、きっちりおばあさんでいて欲しかった ですね〜。 |
続編 「アブダラと空飛ぶ絨毯」 30人の怒れるお姫様’sと、夢見る青年(違)。 はからずも王室付き魔法使いとなってしまった ハウルは、とんでもないしっぺ返しを受けます。 パワーアップしたソフィー、そして本編に続き いじくられまくりの王子サマが大活躍、ハウルが かっこつける隙なんてありません。 続編と言うより、作者によれば「空飛ぶ絨毯の話 が書きたかった」のだが、それに「ハウル」のその 後をくっつけたもの。‘ハウルファミリー’が何に 変身しているか読み解くのがオモシロイ!! |