アイデンティティの問題――綾辻行人『フリークス』を題材に――


目次

1.論点

 人間は他人との差異によってアイデンティティを形成している。にも拘らず我々は自らアイデンティティが備わるものだと思っている。綾辻行人氏の推理小説『フリークス』を読み解くことでアイデンティティを身に付ける課程を検証し、この短編集に流れるテーマを分析する。
 またこの小説の語りの特徴も検証していきたい。

2.J・Mおよび五人の畸形児たちについて

 この小説には五人の奇形児たちが登場する。つまり《一つ目》、《三本腕》、「全身が爬虫類の鱗のような皮膚で覆われている」《鱗男》、「ひどく背が低い、侏儒と云ってもいいような体格」の《傴僂》、そして「両手両足を切断され(中略)舌も抜かれて喋れない」《芋虫》である。
 「探偵」は《一つ目》、《三本腕》、《鱗男》、《傴僂》を推理作家である「私」だと断言する。

「右目の視力を全く失ってしまっている(中略)男がいる。君[=探偵作家の「私」]だよ、もちろん」

(綾辻行人『フリークス』光文社[1])

 同じように「左手の指が三本しかない」こと、「頬や首筋を(中略)掻いてしまう」こと、「人並みよりかなり短躯」である。これらのことが《一つ目》、《三本腕》、《鱗男》、《傴僂》の正体は、実は推理作家の私であることの判断材料となる。さてこの説を敷衍させると《一つ目》は眼鏡を掛けているなどの目に特徴がある人などのデフォルメという解釈が成り立つだろう。
 そして彼らを作ったJ・Mは彼らを虐待して「自分自身の「醜さ」を忘れる」ことができる「捻じ曲がった自尊心」の持ち主として描かれている。

「普通の市民」を自称しているが、つねに自分が普通であることを立証したいという不安におびえ、そのために<普通でないもの>を発見し、排除し続けてゆくことでアイデンティティを保とうと人々による共同体であるというものである。

(小熊英二他『癒しのナショナリズム』慶応義塾大学出版[2])

 という大衆の不安がある。J・Mもまた、「自分は醜い(中略)という容姿コンプレックス」を解消するため、「自分よりもっと醜い――と彼自身が信じられる――者たちがここにいる。その醜さをその者たち自身にもはっきり認めさせ(中略)自らの美的地位を相対的に高めようとした」。結果、「自分自身の「醜さ」を忘れることができた」、いわば内面の畸形なのである。つまりJ・Mは我々自身のデフォルメなのだ。またJ・Mという匿名性や具体的な地名は伏せられていることからもそのことが言える。

村外れに建てられた彼の家は、(中略)無機質なコンクリート造りの建物であった。人里離れた森の中だというのに、その敷地には高い塀が巡らされ、門は来客を拒むかのようにいつも閉ざされていた。

(綾辻行人『フリークス』光文社)

 この描写はJ・Mの研究所の描写である。しかしこの事件は「警察当局は情報を極力、表に流さ」ず「マスコミ側も(中略)自粛」した社会を具象化したイメージを受ける。つまり情報を一切漏らさず、上のように囲いを作ったのである。このことを考慮すると密室殺人も単に推理小説としての盛り上げではない。自分たちに都合の悪い五人を「密室」に追いやった社会を象徴しているのである。
 また彼らを「収容している」特別病棟は「鉄の扉」で仕切られており、重たく、閉ざされた印象を受けることも併せて補足しておきたい。この描写は彼らが拷問を受けていた、  

四方の壁も床も、コンクリートの打ちっぱなし。天井は二メートルほどの高さしかなく、これも灰色のコンクリートで塗り固められていた。
「入口のドアは分厚くて頑丈なスチール製でした(中略)」

(同上)

 という描写と共通点を見出せる。この描写の一致は彼らの待遇はどこにいても密室に隔離されるということを暗示しているのではないか。また、  

劣等感を無意識のレベルで他人に投射している人は、他人の劣っている部分に焦点を当てて、軽蔑したり嘲笑したりします。例えば、容姿や若さで認めてもらいたい女性は無意識のうちにメディア上の美女と自分を比べて劣等感を感じ、自分より容姿が劣っている者をわざわざ指差して嘲笑います。

(深堀元文『つい、そうしてしまう心理学』日本実業出版社[5])

 このように我々は無意識のうちに他人を嘲笑っている。半地下という舞台は無意識の世界だと解釈できるだろう。これが地下室という犯行現場の意味である。しかしやがて嘲っている自分に気付く。それが鏡という小道具ではないか。

3.アイデンティティの問題

 《一つ目》はT弁護士に、名前を尋ねられると、「困ったように首を傾げ」、「おとうさんはぼくのことを『一つ目』とよびます。それがなまえですか」と訊いている。また年齢は《傴僂》、《一つ目》、《鱗男》、《三本腕》の順だと「おとうさん」[=J・M]から教えられているけれど、正確には自分たちが何歳なのかは分からない」。
 このことは実は我々にも当てはまる。結局、自分の名前は親からそう呼ばれているから使っているにすぎない。また年齢も親から教わった生年月日をもとに計算している。また「普通の人間とは根本的に違う(中略)怪物だ」と教わっている。つまり畸形児たちにとって「自分は怪物である」ということがアイデンティティであるのだ。しかしこれは我々に於いても言える[3]。つまり人間だと教わって、初めて人間だと自覚できるのである。
 まずJ・Mは「生まれたばかりの畸形児をひそかに買い集める」が、失敗する。次に彼は、「ごく稀に生まれる重度の畸形児から正常な嬰児へとJ・Mの収集対象は変更され、(中略)彼自らの手でさまざまな改造手術を行」う。
 なぜ「生まれたばかりの畸形児」だと失敗するのか。前述したようにアイデンティティは後天的に親から教わるものである。畸形児であることを彼らのアイデンティティとするならば、先天的にアイデンティティを持っていると不自然なのである。
 さて戸籍の問題に目を転じてみよう。戸籍は政府が発行している存在証明であり、登録されてないと存在しないことになる。しかし奇形児たちは戸籍には載っていない。つまり戸籍では自己の存在を完全には証明できないのである。戸籍と存在証明の問題は「フリークス」以外にも綾辻行人氏『緋色の囁き』[4]にも出てくる。それが過去の娘の犯罪を揉み消したことを告白する以下シーンである。

そうして、医師との協力によって、あの子に与えられたのが山村トヨ子という架空の人物(中略)だったのです。
 その後、宗像加代は病院内で死ぬことになります。私たちは医師に死亡診断書を書かせその位牌をお寺に納めることにしました。実際のところはもちろん、山村トヨ子としての記憶を持って、あの子はひそかに退院したわけですが……。

(綾辻行人『緋色の囁き』講談社)

 このケースでも山村トヨ子は戸籍上、存在しない人物にも拘らず、存在するものとして扱われており、戸籍が全く機能していない。このことはアイデンティティを考える上で重要な問題となってくる。なぜならアイデンティティは自分が存在することが確認でき、初めて認識できるものだからだ。そして最終的に自己の存在を確認できるものは戸籍である。

4.逸脱することの意義

 以下はJ・Mが殺されたときの描写である。

「手足の解体にはチェーンソーが使われていました。(中略)さらにはその内臓をぐちゃぐちゃに切り刻み……といった具合です」

(綾辻行人『フリークス』光文社)
 なぜこれほどまでにJ・Mを解体する必要があったのか。それは<普通でないもの>を発見してアイデンティティを確立する大衆を解体したかったのだろう。その証拠に、

「〝正常〟という概念のいかがわしさについて、僕たちは常にもっともっと自覚的になるべきだよ。(中略)この世界には厳密な意味でのノーマルなんて存在しやしない。多かれ少なかれ僕たちはみんな畸形なんだよ。そもそも人間なんていう動物そのものが(中略)恐るべき畸形の種なんだよ」

(同上)

「自分はノーマルだと言い聞かせて安定するか、フリークであることを引き受けて世界に臨むか。これは実に重要な分岐点だ」

(同上)

 などという探偵の台詞が見られる。つまり「探偵」の価値は自分が畸形だと認識することで、アイデンティティは常に揺らぐが、劣等感は捨てられるというものだ。また綾辻氏は文庫版の後書で、  

ヒトというのは本当に異常な生き物である。チキュウというこの惑星にあっておぞましいまでに逸脱的な(中略)畸形の種である。

(同上)

 と語っており、また、  

この〝正常〟(中略)という概念が結構曲者なのである。誰もが経験的に知っているように、正常―異常の規定は(中略)その場の状況によって変化する。常識的には絶対に〝悪〟と判断される行為が〝善〟と判断されたり、またその逆が起こったりすることが同じ場所と時代においてさえある。
 何が正常で、何が異常なのか? その基準は何によって決められるのか?……

(綾辻行人「本格ミステリからの、逸脱。」文芸春秋[6])

 このように綾辻氏は逸脱行為に関心を持っており、それがこの『フリークス』にも現れているのである。そもそも精神病院という設定こそが逸脱行為の象徴的役割を果たしている[1]。ラストで訪れるのは「いわゆる正常と呼ばれている側の人間――の矛盾(中略)をもはや素直に受け取れなくなっている」[1]ことによる「深い混迷やまた別の異界への入口が開いたことへの畏怖の思い」である。つまり犯人やトリックよりも患者たちが抱える問題――「正常とは何か、また、異常とは何か」、「自分の心が見ているものは何か」、「他人の目に映っている私は本当の私なのか」、など「人間についての本質的な問題」――の解決を重視しているように思える。「フリークス」に挿入されている読者への挑戦状について綾辻氏は、  

狭義の本格ミステリの形式を「患者」シリーズに持ち込み、なおかつ……という妙に欲張ったプロットを考え(中略)た

(綾辻行人『フリークス』光文社)

 と語っている。しかし二重の意味での読者への挑戦状と解釈できるだろう。一つはJ・Mを殺したのは誰かという読者への挑戦状、二つ目は本格ミステリに固執している読者への挑戦状だ。
 つまり本格ミステリはトリックや論理を重視する余り、人間が描けてないという問題を孕んでいるのだ[7]。多くの日本の読者や作り手はそれに甘んじてきた、という現実がある。例えば土屋隆夫氏は『最後の密室』[8]で、「推理小説は下界の俗事を題材にした俗悪低劣な作文と考えれば一歩でも文学に近づきたい心境になろう」と述べ、「有害ではないが、たいして有益な議論でもない」としている。

もともと推理小説というのは、専門的な知識と技術を必要とする職人芸である。ノーベル賞作家がタバになってもすぐれた推理小説が書けるものでもあるまい。(中略)芸術サンのご機嫌を伺うより、職人芸に徹するべきである。

(土屋隆夫『最後の密室』廣済社)

 そういった動きの中、一見本格ミステリの形式を借りながらも読者に「人間の本質的な問題」[1]が含まれていることを示唆しているのである。そしてそれに気付くことができるかどうかを、「読者への挑戦」という形で表しているのではないか。
 また「探偵」も自己内対話だと解釈できる。注目すべきは、  

かれこれもうずいぶんと長い付き合いになる「探偵」の友人を、彼女に紹介したものかそこでどうかちょっと迷った。(中略)
 それじゃあ、辞めておこう、と私は思った。
 黙っていよう。彼のことは当分、誰にも話すまい。

(綾辻行人『フリークス』光文社)

 というくだりである。もし桑山女史が入ってきたとして、「探偵」が実在するのであれば、紹介せざるを得ない。つまり「探偵」は実在しない登場人物なのだ。また「不意に彼が声を掛けてきた」と傍点が打ってあることも注目したい。傍点を打つことは特別な意味を持たせたい時に使われる。ここでいう特別な意味とは実在しないことを示すのではなかろうか。
 また探偵が登場する際も、「探偵」が部屋にいることを描写しておらず、「彼の姿は(中略)消え」て移動している。これは「探偵」が実体のない存在だと受け取れる。つまり「探偵」が自己内対話であるという説を補強してくれるものである。

5.夢魔の手との比較

 さて、「夢魔の手」と比較してみよう。我々は記憶の上に自分のストーリーを構築することでアイデンティティを保っている[9][10]。  

一言で言うと、「記憶は再構成される」ということだ。つまり、記憶はテープレコーダーではなく、自分の都合のいいように組み替えられる。そして、「自分の記憶が正しい」という確信と、「実際にその内容がどれだけ正しいか」ということには、ほとんど関係がないのだ。

(E.F.ロフタス、K.ケッチャム『抑圧された記憶の神話』[9])

 従って日記を付けたことを覚えていない忠は健全である。
 しかしその一方で、故意に情報統制をすることで、アイデンティティが形成されることもある。「夢魔の手」で神崎峯子が、「忠はね、『ちゃんとした大人』になれば自分もわたしたちと同じような身体になるんだと信じ切っていた。わたしたちがそう信じ込ませたの。(中略)忠の〝現実〟を規定したの」、「自分は子供だからこんな形をしているんだ、大人になれば形が変わるんだ、って思い込んでたの。わたしたちがそう教えたから」などと語っているように善意とは言え情報統制でアイデンティティが形成されてしまう。
 情報統制という観点からみればマスメディアと符合している。これは神崎峯子が情報の作り手という点でマスメディアの代表、神崎忠を受け取る大衆の代表と受け取れる。神埼峯子は雑誌というマスメディアを使って「それは雑誌の切り抜きよ。雑誌に載っていた二重体児の写真。あなたたちの写真じゃないの」と神埼忠を騙している。これは「二重体児である」というアイデンティティを神崎峯子によって崩壊させられた瞬間である。
 また我々は見ているものが実在していると信じてアイデンティティを気付いている。しかし「夢魔の手」はそのことに「日課となっている贖罪の儀式を今日も無事終え、記憶は元どおりに閉ざされる」と警鐘を鳴らす。つまり三一二号室で行われていたことは全て神崎忠の妄想だったのである。「フリークス」にも「毎日のように同じ一人芝居を繰り返す患者」とあることがそれを裏付けている。このことは『人形館の殺人』でも扱われることとなる。

飛龍君の家と中村青司とは何の関係もなかったことになります。違う云い方をすれば中村青司が手を染めた「人形館」なる建物は、現実には存在しない、ということになります。

(綾辻行人『人形館の殺人』講談社[11])

 「人形館」どころか登場人物全員が実在しないという解決がなされている。つまり「夢魔の手」とも符合するのである。

6.結論

 おのおのの畸形児たちが示すものは個人的特徴をデフォルメしたものであり、本来は畸形ではない。集団に入ってから初めて自分が他とは違う部分(=「畸形」)に気付くのである。
 畸形児たちは「別に普通の人間と変わるところがない」にも関わらず、「普通の人間とは根本的に違う存在」と教育されている。しかもそれは先天性には何の異常もなく、後々になって植えつけられているのだ。これはアイデンティティが後天的に備わることの象徴として読み取れる。
自分が人間であるということさえ、自分以外の人間に教わらなければいけない。「夢魔の手」のように「善意」にしろ、「フリークス」のように完全な悪意があったにしろ、もし何らかの理由で嘘を吐いていても子供にはそれが現実となるのである。
 現実を我々は一人称で捉えており、アイデンティティ形成と深く関わっている。しかしその現実は意外にも脆いことが「夢魔の手」、『人形館の殺人』からも読み解くことができる。
 またこの作品は「自分とは何か」という哲学的な問いを推理小説に絡めた、という点で異色の作品だろう。

7.参考文献