近代化の罪:「唇の捩れた男」と「黄色い顔」を題材に
目次
- 序論、謝辞
- ネヴィル・セントクレアの罪
- セントクレア夫人の罪
- アイザ・ホイットニーとネヴィル・セントクレアの関係
- 脱中央化としてのネヴィル・セントクレア
- 「黄色い顔」との比較
- 結論
- 引用・参考文献
1.序論、謝辞
コナン・ドイル「唇のねじれた男」(『シャーロック・ホームズの冒険』収録)は従来、失踪したネヴィル・セントクレアに道徳上の罪(sin)があり、セントクレア夫人には罪がないとする考えが一般的だった。
しかし本当にセントクレア夫人には罪がないのだろうか。本稿では彼女のsinを検証し、それが近代化の流れの中でどういう位置付けにあるか考える。また冒頭に登場するアイザ・ホイットニーと比較、及び「黄色い顔」との比較をする。なお本稿に於いて、罪は宗教上の罪を指し、刑法上の罪は犯罪と言う語で定義する。
なお、本稿を表すきっかけを作ってくれた「THE HOUND ON INTERNET」の関係者各位に、特に管理人であるMasaru.S氏に厚く御礼申し上げたい。
2.ネヴィル・セントクレアの罪
最初にネヴィル・セントクレアの罪について考えていく。ネヴィルがヒュー・ブーンの格好をして「膝のまえ(中略)においてある(中略)ハンチングの中へ小銭」を恵んでもらう。記者という職がありながらこういった行為を行うのは罪である。またこの台詞からも彼の罪が窺い知ることができるだろう。
すこしばかり顔を塗って(中略)さえいれば一日でそれくらいの金[=二十六シリングと四ペンス]になる途があるのに、一週二ポンドぽっちでこつこつ働いてくすぶっていなければいけないのはどれだけ辛いことかお察しいただけるでしょう。
(コナン・ドイル「唇の捩れた男」新潮社[1])
結局、彼は「矜持をすて(中略)金を得」る。
第二の罪はセントクレア夫人に相当な心配をかけていることである。ワトスン博士がセントクレア宅を訪れたとき、彼女は「首を前へ出すように眼を輝かせて(中略)一刻も早く吉報を聞きたそうに立っている」。また、「ホームズが一人でないのを見て、うれしそうに声を上げるが(中略)ホームズが頭を振」ると、「歓喜はたちまち失望の溜息となった。以上のことからも心配しているのは明らかであり、ネヴィルが罪を犯しているのは明らかである。
また夫婦間に秘密を作ったのも罪を犯していることになる。本来ならホームズの言うとおりセントクレア夫人を信頼し、「友人のための手形の裏書きをしたため、二十五ポンドの支払命令書を背負いこみ、(中略)途方にくれている」ことを彼女に話す方が「はるかによ」いのだ。
また唇を変形させることは口から発する言葉の変形、すなわち嘘を吐くことのメタファとして読み取れる。そして一人二役ということは不倫のメタファである。なぜなら、妻には何事もなかったかのように振舞わなければならなく、まさに別の顔を持っていることになるからである。
3.セントクレア夫人の罪
「パサージュ論」[2]によると探偵小説が発生した理由について、次のように記されている。
探偵小説の根源的な社会的内容は、大都市の群衆のなかでは個人の痕跡が消えることである。
(ベンヤミン『パサージュ論1』岩波書店)
本来、「個人[=ネヴィル]の痕跡」を追うのは、近親者のセントクレア夫人の役割である。なぜなら彼女はホームズよりもネヴィルを知っており、消えかかった「個人の痕跡」を追うのに適役であると考えられるからだ。それにも拘らず、赤の他人であるホームズに依頼するのは追跡者の面目が立たない。ここで興味深いのは次に掲げるネヴィルの台詞である。
私[=ネヴィル]のほんとうの職業について疑念すらいだくものはありませんでした。妻も(中略)まったく無知なのでした。
(コナン・ドイル「唇の捩れた男」新潮社)
以上の文面だけ見れば純粋無垢な妻だと受け取れるが、無知ということは関心を払っていないとも受け取れる。バタイユによると相手と一体化しようとすることが恋愛であり[3]関心を払わないと言うことは一体化の願望がないとも読みとることができないだろうか。
しかももっと大きな罪はブーンを「恐ろしいいざり」と見下していることである。原文でも「a crippled wretch of hideous aspect」[4]と差別語であるcrippledやhideous(酷く醜い)[5]と明らかに侮蔑しているのが解る。これだけでも充分罪に値するのだが、ブーンを見下すことは間接的にではあるが、ネヴィルを見下していることになる。
3.アイザ・ホイットニーとネヴィル・セントクレアの関係
さて冒頭部に出てくるアイザ・ホイットニーとネヴィルの関係に目を転じてみよう。端的に言えばこのエピソードはネヴィルとの縮図である。
「たいへんおそくにうかがいまして……」といいかけてその婦人は急に自制力を失い、(中略)「私、私、困っていますの。お願いだからどうぞ助けて……」とばかりすすり泣き始めてしまった。
(同書)
上はケート・ホイットニーの登場シーンである。動揺振りはセントクレア夫人のそれと似ている。
共通点はそれだけではない。金の棒というアヘン窟で失踪することや、「セント・ジョージ神学校の校長だった故神学博士イライアス・ホイットニー氏の弟」という教養高い身分とネヴィルの父が教員で、高い教育を受けていることなど共通点が多い。
また、「奥さんはこの二日というもの、毎日あなたを待ち暮らしておいでです」というアイザ・ホイットニーにワトスン博士が投げかける台詞もネヴィルの「この一週間、妻はどれだけ心配したことでしょう!」と似ている。しかも、
そりゃア恥じてはいるんだけれど、君も誤解しているんだ。ここに来たのはわずか二、三時間前で、パイプにして三服か四服か、――いや数は思い出せないけれど、……帰りますよ、いっしょに。
(同書)
と時間について錯覚をしている。またネヴィルについても、以下の箇所から手紙が着いているという時間の錯覚が同様に指摘できるだろう。
「(前略)妻がさぞ心配することと思いましたので、巡査の隙を見て心配するにおよばないという意味[の手紙]を急いで認め、指輪を抜いて封じこんで、あのインド人にそっと渡して届けてもらったのです」
「その手紙ならきのうになってやっと奥さまの手に渡りました」ホームズがいっ
た。
(同書)
もしもホームズとであう以前と以後で区切れば、アイザ・ホイットニーはネヴィル、ケート・ホイットニーはセントクレア夫人、そしてワトスンはホームズというシメントリーを果たしているのである。
もちろん物語としてみれば、ワトスンがホームズと出会うきっかけを作ったにすぎない。しかしアイザ・ホイットニーとのエピソードはネヴィル・セントクレア失踪事件の抄録としての機能を果たしているといえる。
5.脱中央化としてのネヴィル・セントクレア
さて、この物語を近代化という側面で見てみるとまたネヴィルとセントクレア夫人が違った見方になる。近代化された社会は、
社会の都市化、知識水準と所得水準の向上、技術の進歩による輸送力の増大などによって、ヴィクトリア朝時代はこれまでになく現代に近づいたのだ。
(マカリスター『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』原書房[6])
とあるように光の側面が強調されがちであるが、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』にあるように、立身出世と引き替えに精神的豊かさが破壊される時代であった。
とうとう彼はまたもや不規則動詞を暗誦し始めたが、ひどく驚いたことには、ほとんど一つとして覚えていなかったのである。何もかも綺麗さっぱりと忘れていた!しかも明日は州試験なのだ!
(ヘッセ『車輪の下に』角川書店[7])
このあと、主人公のハンスは受験には成功するものの神学校の教育に挫折してしまう。そして酔っ払って崖から転落死する。
またわが国でも国木田独歩が「山林に自由存す」と詠んでいる。本来、山林にいては立身出世できず、都心に行かなくてはいけない。しかし立身出世からドロップアウトした、(いわば脱中央化、アンチ中央化の)文学が生まれてくる。
さて近代化と中央化というコンテクストの下、読んでいくとネヴィルは乞食になることで脱中央化を図ろうとしたとも読み取れる。「矜持をすて」た代わりに得たのは利益だけではなく、精神的な豊かさも同時に手に入れているはずである。つまりここに中心化と脱中心化の二項対立が生まれてくるのだ。
ホームズは脱中心化した人物であるのは言うまでもないだろう。「花嫁失踪事件」では、「依頼人の身分の高下なんか、(中略)問題じゃない」と述べている。また、「唇の捩れた男」は無償で引き受けている。
従って物語の構造から見ると、中央に向かっているブラッドストリート警部やセントクレア夫人には脱中央化したネヴィルの正体がブーンだと見抜けないのだ。ブラッドストリート警部が中央に向かっているのは彼が、「おそろしくきたないやつ」とブーンを評していることからも読み取れる。そして、
きたないのなんのって、やっと手だけは表せましたが、顔と来たらまるで鋳掛屋みたいに真っ黒ですよ。取調べがすんで刑でも決まれば、刑務所規則によって入浴させるんですけどね。
(コナン・ドイル「唇の捩れた男」新潮社)
と一方的に清潔にするという中央の論理を押し付けている。いわばブラッドストリートはスコットランドヤード、つまり大英帝国の象徴としても読み取れる。またセントクレア夫人も本稿で述べたように毛嫌いしているので、中央に向かっている。
またインド人水夫も脱近代化の象徴として用いられている。植民地計画でインド人は出世できなかったのは「政府による測量機関が19世紀中に設立され」たが「インド人はこれらの機関では職に就けなかった」[9]。このことからも解るようにインド人を含む植民地の人間は初めから脱中央化しているのである。
面白いことにホームズも一時的に中央化している。それが以下の場面である。
眠っていた男はスポンジでこすられて、木の皮の剥ぐように剥がされてしまったのである。銅いろの皮膚のキメのあらさも、斜に顔を縦断していた恐ろしい古瑕も、気味わるく嘲笑するかのように見えた唇のひきつれも、すべてあとかたもなく消えうせてしまったのである。
(同書)
ではなぜ、一時的に中央へと以降したのだろうか。それはホームズの起こした「諸君!ケント州リー市のネヴィル・セントクレア氏をご紹介いたします!」という台詞が読み解く鍵になる。このときの彼は驚かせるためにこういった演出をしたのであり、いわば一種の功名心があったことが推察できる。
功名心とは中央化した人間のみが持つものである。脱中央化とは人間は功名心より、精神的な豊かさを求めることという本稿の定義からも明らかだ。そしてホームズに功名心があったとすれば一瞬、中央化したのも納得できるのではなかろうか。
ワトスンも「あの怪奇な冒険の一つに参加できるとすれば、こんな愉快なことはない」と一時的に脱中央化している。しかしそもそもの目的はアイザ・ホイットニーの主治医として来たのであり、本来なら中央の人間と見ていい。
またここにドイルの医師としての姿を重ね合わせることができるかもしれない。そもそも『緋色の研究』を書き始めた理由は眼科医の看板を出したが、客が誰ひとり来なかったことにある[6][8]。医者である本業の収入より、作家としての副収入の方が多いという構図はネヴィルの、
すこしばかり顔を塗って(中略)さえいれば一日でそれくらいの金[=二十六シリングと四ペンス]になる途があるのに、一週二ポンドぽっちでこつこつ働いてくすぶっていなければいけないのはどれだけ辛いことかお察しいただけるでしょう。
(同書)
という台詞を思い起こさせる。しかも、
せっかく文学で得た金をウィンポール街などで眼科医院を開業して浪費するのは愚ではないか。そこで(中略)書くことにわが生涯を託そうという考えが浮かび、狂喜してそう決心した。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮社)
という発想は本業を放棄して副業に専念するという点でネヴィルと一緒である。つまりドイルも医師として脱中央化したのである。この物語が「ストランド」に発表されたのが一八九一年十二月[1]、この時期、ドイルは「ロンドン文壇の中堅たちと社交的交際をする」「自他共に認める作家で」[8]あったが、ホームズものに嫌気がさしていた[6][8]。いわば再び脱中央化を考えていたのである。
そして一旦は脱中央化したネヴィルだが、
「だが今後はやめなければいかん。(中略)二度とふたたびヒュー・ブーンなどという人物の存在しないことにしてもらわなきゃ困る」
(コナン・ドイル「唇の捩れた男」新潮社)
というブラッドストリート警部の言葉に「絶対にお言葉に従うことをかたく誓います」と言っている。つまり医師ではなく作家としての脱中央化の流れに復帰しようとする意気込みが現れているのである。
またそういった作家の流れとして捕らえなくともヴィクトリア朝の空気が脱中央化させなかったのだろう。罪の問題はここにも現れてくる。確かに市民革命によって平等となったかのように見える。しかし以下のような実態がある。
二百万の人々(中略)が、個人に雇われた召使いだった。召使いの賃金は安く、上流階級どころか、貧しいとしか思えない家庭でも一人ぐらいは雇うことができた。そういう場合は、さらに貧しい家庭の娘が、台所と言ってもいいような場所で寝かされ、こき使われることが多かったのだ。
(マカリスター『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』原書房[6])
実際、正典中でも「赤髪組合」のジェイベズ・ウィルソンが料理女を雇っていることからも推察できる通り貧富の差は拡大していったのだ。
また産業革命による環境破壊も深刻化していく。本来ならエホバ神が作った自然を破壊するのは罪であるが、「十九世紀末までは、下水道も完備されて」おらず「乱立していた皮なめし工場、醸造所、ガス工場、化学工場の廃棄物で、ロンドンの大気と運河は汚染されていった」のである。
以上のことから中央化することは罪である、と言うことがいえるのではないか。
6.「黄色い顔」との比較
さて「黄色い顔」(『シャーロック・ホームズの思い出』収録[10])と比較する前に「黄色い顔」のあらすじを見てみよう。グラント・マンローは妻のエフィーが家の近くにある別荘に入っていくのを目撃する。しかしエフィーは行っていないと主張している。グラントはその家で黄色い顔がのぞいているのを目撃する。しかしそれはアフリカ系黒人ジョン・ヘブロンとの息子であり、差別されることを恐れて秘匿していたのである。
エフィーは「アメリカに渡ってアトランタに住んでい」る。すなわち脱中央化の人間というわけである。しかし「アメリカにいや気がさしてイギリスに戻って」くることからも解るように中央化している。しかしここで注目したいのはロンドンに住まわず、ミドルセックス州という地方に住居を構えていることだ。つまりまだ完全には中央化していないのである。
中央化と脱中央化の境界に位置する場所が「市中に近い」が「たいそう田舎びた閑静な場所」、ミドルセックス州である。これはエフィーの経歴と重なることも留意しておきたい。
さて近代化の人種差別による罪を以下のようにエフィーは贖罪している。
たいそう立派な人でしたから、わたしは人種の絆をきって結婚しましたが、彼の存命中は寸時もそれを後悔したことはありません。(中略)ルーシイは父親よりもずっと黒いのです。でも色など黒くとも白くとも、これは可愛いわたしの娘なのです。
(コナン・ドイル「黄色い顔」新潮社)
そしてマンローはそれを受け入れる。その描写は具体的にはないが、「彼は子供を抱き上げてキスをし」ていることからも明らかである。脱中心化したエフィーだから人種差別という罪を犯さないですんだのである。確かに秘密を作ったという罪はあるのだが、夫に告白することで秘密を解消、罪を償っている。
一方「唇の捩れた男」は「万一今後おなじこと[=乞食]をやっているのがわかったら、(中略)事実を公表する」と言っている。つまり秘密は解消されておらず、罪は購われていないのだ。
また「黄色い顔」に登場するマンローの「心の中は(中略)[妻への]疑惑や猜疑でいっぱい」になるという罪を犯している。彼の罪を購う方法は当時、差別されていた黒人を受け入れる他にはない。黒人の娘を受け入れれば、当時の社会状況からして風評被害も出るだろうが、利益追求や立身出世よりも妻への愛情を優先したのだ。つまり脱中央化した存在になったのである。
そもそも「黄色い顔」の舞台がミドルセックスという脱中央化の属性がある場所で起きているのに対し、「唇の捩れた男」はロンドンという中央化の典型的な場所で起きているのにも着目すべきである。
中央化するということは罪である以上、「唇の捩れた男」は贖罪されない。一方、ミドルセックス州で起きた「黄色い顔」は脱中央化の要素を持ち合わせている。しかし中央化の要素もある以上、罪が生まれるのである。
7.結論
「唇の捩れた男」のキーワードは匿名性であろう。近代は大衆と言う概念が生まれ、匿名性が生まれた。これが探偵小説と深く関わっているのはベンヤミンを初めとする多くの社会学者が指摘するとおりである[11]。しかし本来、近親者という匿名性が発生しない場所にもそれは発生している。
さらに大衆は立身出世を目指すあまり、人間性を捨て「機械」となった。そのことを表しているのが、そういった背景のもとでネヴィル・セントクレアのように脱中央化する人々が出てきたのだ。
しかしロンドンという中心化の象徴とも言える場所にいる限り、脱中心化の夢は叶えられず、結局また中央化するのである。
8.引用・参考文献
- [1]コナン・ドイル著、延原謙訳「唇の捩れた男」(『シャーロック・ホームズの冒険』新潮社、1989/4)
- [2]ヴァルター・ベンヤミン著、今村仁司訳『パサージュ論(1):パリの原風景』
(岩波書店、1993/3)
- [3]ジョルジュ・バタイユ著、澁澤龍彦訳『エロティシズム』(二見書房、1973)
- [4]CamdenHouse(http://camdenhouse.ignisart.com 閲覧日[2006/02/22])
- [5]国広哲弥、堀内克明[他]『プログレッシブ英和中辞典第4版』(小学館2002/10 on-line[閲覧日[2006/02/22])
- [6]ディック・ライリー、パム・マカリスター著、日暮雅通監訳『ミステリ・ハンド
ブック シャーロック・ホームズ』(原書房、2000/2)
- [7]へルマン・ヘッセ著、秋山六郎兵衛訳『車輪の下に』(角川書店、1993/5)
- [8]コナン・ドイル著、延原謙訳『わが思い出と冒険−コナン・ドイル自伝』(新潮
社、1994/8)
- [9]B.C.ヴィッカリー著、村主朋英訳『歴史のなかの化学コミュニケーション』
(勁草書房、2002/12)
- [10]コナン・ドイル著、延原謙訳「黄色い顔」(『シャーロック・ホームズの冒
険』新潮社、1986/6)
- [11]吉田司雄『探偵小説と日本近代』(青弓社、2004/3)