ワトソン役の意義


 かのコナン・ドイル卿が生み出したホームズはワトソン博士がいなければ、あんなにも人気を博さなかっただろう、という事は前回述べた。しかし、ほとんどの本格と呼べる推理小説には事件の相談役とも言える「ワトソン博士のような存在」がある。これをこのエッセイでは「ワトソン役」と定義する。
 ではワトソン役の起源はホームズとワトソン博士なのだろうか?いや、違う。その起源はミステリの祖であるエドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」に出てくる。デュパン勳爵士と「私」である。他「黄金虫」のルグランと「私」などその基礎はもう推理小説が世に生み出された段階で出てきた。
 ポオやドイル卿と言った推理小説の古典と呼ばれる人たちがワトソン役の一人称(ドイル卿の作品には二作品のみ、例外あり)で語っているが、五〇年代になると、その関係も崩れる。例えばエラリイ・クイーンは三人称だし、横溝正史に登場する金田一耕助と等々力警部に至っては犯人の一人称のものもあれば三人称のものも、と実に多彩である。しかしワトソン役は消滅する事はなかった。この事実から言える事はそれだけワトソン役が重宝されているという事だ。その証拠に「ロナルド・ノックスの十戒」にこのようなものがある。

(9)ワトソン役は彼自身の推理を読者に知らせるべきである。また、読者より頭の悪い人間が好ましい

 これは本格においてワトソン役の存在が必要であると言う事を意味しているのではないか、と考える。
 ではいよいよこのエッセイの本論に入ろう。なぜワトソン役が必要なのだろうか?徐々に「ボズウェルの役割」から一般読者の代表になっているのではないかと考える。いや、ドイル卿がワトソンの一人称にした事も読者に感情移入しやすくする働きがあるのではないか。つまり、同じものを見ているにも関わらず探偵の意外な推理に驚かされるという感覚をともにすることが出来るのだ。
 そう考えるとホームズの高慢な発言も納得がいく。例えば、「ボヘミアの醜聞」に出てくる「君は見ているだけで観察はしていないのだよ」などがそうだ。これはワトソンを媒体役として読者へと向けられたメッセージなのである。この発言を聞いた後にホームズの推理を見せつけられると、次は解くと言う決意が読者に固まるだろう。
 そして推理のポイントが解り、事件の真相に辿り着いたとしよう。その際の読者の視点はもうワトソン役ではなく探偵になっている。そうすると、こう言う事が読者の中で起きてくる。つまり、高慢な発言を見て探偵に同調する。
 ワトソン役のもう一つの役割として「道を塞ぐ」と言う事が挙げられる。これはどう言う事かというと、読者が考えそうな推理をワトソン役に喋らせる事で、その推理は間違っていると示唆する事が出来る。つまりは本格の中枢でもある「不可能さ」をより押し出す事が出来るのである。
 従って、ワトソン役は非常に大切な存在と言える。