本格派におけるリアリティについての考察


 「赤い部屋の謎」(A・A・ミルン作)はレイモンド・チャンドラー氏に「現実性がない」とバッシングされたらしい。しかし、その見方はチャンドラーの専門分野、ハードボイルド派からの視点で見た意見だろう。確かに松本清張などの社会派推理小説、映画「あさま山荘事件」などの犯罪実録の現実性をウリとしている分野の小説はリアリティがなくては話にならない。しかし、本格派は必ずしもリアリティが必要でないと考えている。
 本格派で重要な点は「いかに犯罪を不可能に見せるか」である。それ以外の設定は現実離れしていても好いわけだ。例えば身体が縮んでしまったとしても、名探偵の孫である高校生が事件を解決したとしても現実離れしているが全く問題はない。現にポワロ、ホームズなどは民間人であるし、日本物で言えば逆に刑事が探偵役を演じている作品のほうが少ないのではないだろうか?
 しかし、逆に「いかに犯罪を不可能に見せるか」という事が課題であるが故に現実性を必要とされる箇所がある。トリックだ。トリックが到底実現不可能なもので「読者への挑戦状」を出されたとしたら、思わず本を破り捨てたくなる。例えば、超能力者が犯人であるだとか、あるいはドッペルゲンガーが犯人だったとかである。
 次に本格特有のクローズド・サークルを考えてみよう。クローズド・サークルとは、クリスティの「そして誰もいなくなった」に代表される土砂降りなどの理由で外部の介入を防ぐという舞台設定だ。この効果は近代捜査のメスが入るのを防ぐ役割、犯人を特定しやすくするというメリットがある。しかし現実世界で雪山の山荘、あるいは嵐の山荘で殺人が発生しているだろうか?また本格派の花形、密室殺人についてもこれは言える事だ。
 つまり、トリックを除いては現実性がなくても構わないので、レイモンド・チャンドラーの指摘は全く的外れといえよう。 Topへ 前へ