空 色 の 涙
プロローグ
朝靄に煙る木立の中。
日差しも深く傾き地面に木々の影が遠くへ伸びている。
今朝は少し肌寒い。
森の奥深く。
1名の魔影が見えた。
その魔影は森の中の湖の水辺に立った。
何か思いつめたような雰囲気はあるものの、長い髪の毛に半分隠された顔に浮かぶ表情は読み取れない。
先程よりは少し昇った太陽。
湖に指先を浸す。
やはりまだ冷たい。
しかし彼は思い切ったように着ていた物を全て脱ぎ捨てた。
散らばった服もそのままに湖に飛び込む。
冷たい水が身体中に染み込んでゆく。
何もかもが冷えて行き、そして流れ出していく。
心の奥にしまい込んでいた感情さえも・・・。
浮かび上がった彼の瞳からは、濡れた髪から滑り落ちる雫とともにこぼれ落ちる一筋の輝き。
意思とは関係なく止め処なく流れる涙は、木漏れ陽に反射する水面に吸い込まれて行った。
結界の扉を開ける。
自分が現れる時には誰かが居るのが当たり前の空間に、今は何の気配もない。
それも当然な時間帯ではあるのだが。
しかし、今日は都合が良い・・・というより、それを狙っての行動である。
明るい木漏れ陽の中を歩き進んでいく。
結界にしては広すぎる空間の最奥に位置する屋敷は外と相反し、魔気もなく冷たく淋しい。
何時もであれば、暖かく迎え入れらる筈の場所は、1名になるとこんなにも寒い場所であったのだろうか。
リビングの大きなソファは、別に場所を決めたわけではないのに、なぜか全員に定位置があった。
電気も点けず、自分の場所に身体を投げ出す。
張りつめていた気が抜けたのか、その途端、視界がボケて行く。
大粒の涙が1粒。
「くっ・・・。」
堪え切れず声が出る。
その声を隠すようにクッションに顔を埋めた。
温かそうな湯気が立ち昇る。
そのお湯をティーサーバーに注ぎこんだ。
お湯の勢いで舞い踊る茶葉に蓋をしティーコージーを被せ砂時計を逆さにする。
残りのお湯をティーカップに入れた。
ゆっくり落ちていく時間が、長く感じられた。
テーブルに飾ってある花に顔を近づけ香りを確かめる。
立ち昇る紅茶の匂いと、甘い花の香りが鼻孔をくすぐり、緊張していた身体をほぐして行く。
砂時計はもうすぐ落ちてしまう。
ティーコージーに手を掛け、取り去ろうとした時、最後の砂が落ちた。
それを待っていたかのように1滴、そしてまた1滴と落ちていく雫を、花弁は優しく吸い込んで行った。
とっておきの酒をテーブルの上に置く。
そしてグラスを2つ。
新しいボトルの栓を抜く。
2つのグラスに注いだ。
琥珀色の酒は、芳醇な香りを漂わせ、磨かれたグラスを照らす。
片方のグラスを持つと、もう片方のグラスに近づけた。
軽やかな音をさせ、口へと運ぶ。
甘いはずの酒が苦く感じられた。
しかし、今はその苦さが心地良い。
その、自虐的な感情が、今の自分を動かしている。
もう一口飲み煙草に火をつけ、置いたグラスを再び手にとると、窓際へ向かった。
大きく開けはなした窓からは、少し冷たい風が入り込んでくる。
瞳の奥から滲み出ようとしたものを、風がさらって行った。
窓から見える2つの月明かりが真っ暗な部屋を照らしていた。
その月に誘われるように窓辺に向かう。
小さく開いた窓から一陣の風が舞いこんだ。
机の上の書類が飛び散る。
書類はスローモーションのように床へと落ちていった。
その動きをじっと見つめていたが、静まった紙たちを見届けると再び月へと視線を戻した。
月の光だけで照らされる暗闇の遥か彼方に、かつて憧れた碧い惑星(ほし)が見えたような気がした。
自分にとってその碧は、安らぎをもたらしてくれるかのように染み込んでいく。
刹那、碧が幻であったことを知る。
すーっと流れる涙は頬を濡らす。
幾重にも重なって。
それは途切れることを知らないまま、彼を濡らしつづけた。