なんかな〜劇場
なんかな〜(その11)
10月は忙しかった、あっという間に終わった、そしてもうあさってには11月。仕事は順調、だけれど最近思う。私って、便利屋か???まあ、自分が好きでやっている仕事だからね。
久しぶりにバレエを踊った、体がすごく重かった。足もがくがくで、思うように体が動かない。それならやめればいいのにどうしてなのか知らないけれど、妙に「くやしかった!」。それで、今も踊っている。歌も相変わらず、誰のためでもない、私のために。それで最近、踊りながら歌いたくなった。やってみたものの、以外に難しい、踊りながら歌うのは、とても体力がいることなんだと初めて気が付いた。だったら無理の無いようにすればいいのに、無理してあれこれやってみた、それでいま体ががたがた。友人に笑われてしまった。
なんかな〜(その10)
夜10時前だったと思う、画面が急に切り替わりビルが燃えている様子が写っていた。とそのとき、右横の方向から飛行機が飛んできてあっという間に隣のビルに激突炎上した。「なに、いまの?」「どうなったの」「なにが起こったの?」「飛行機事故??」「今の旅客機よね」なんだか大変な事が起こったなあ。
CNNのアナウンサーはかなり興奮した状態で最初の状況を伝えていたが、2機目が衝突した時は、声を張り上げ、絶叫状態だった。テロと言っていた。テロかあ、それにしてもすごいな、あのビルに当てるなんて・・・
その後、いろいろな情報が伝わり、日本人も事故に巻き込まれ、行方不明のかたもいらっしゃるとか。
ニューヨークのワールドトレードセンタービル・・たしか最上階に展望台があった。かつてボストンにいたころ、ニューヨークに遊びに行って、記念に登り、そこからのすばらしい景色に見とれた記憶がある。せっかくアメリカに来たのに、忙しくてどこにも行ってない、という私をかわいそうだと友人が連れていってくれた唯一の場所だった。地上から遙か高い所からの景色は大変に美しく、そして海がきれいだった。日本人が設計したビルなんだよ、と友人はビルの歴史も話してくれた。それから、すっかりお気に入りの場所になり、ニューヨークでミュージカルを観て展望台に昇る、というのがおきまりのコースになった。
あの、ビル、ふうん。そうか、なつかしいあのビルね。ああ、三宮といい、あのビルといい、どうして青春を過ごした大切な場所が無くなっていくんだろう。過去を振り返る年齢ではないよ。と誰かが教えてくれているのだろうか?それにしても、ニュースをみながら、とんでも無いことが起きたのは事実だし、いったい何人の犠牲者がでるのだろうかと、悲しくなった。あのビルにつっこんだ、テロリスト達だって、家族もいれば、恋人だっていたかもしれない。何人の人が涙を流せばいいのだろう。いやな話しだ。(9/12/01)
なんかな〜(その9)
最近友人と話した。話の内容はいつものように、たわいのないことだった。仕事のこと、お互いの家族のこと、趣味や飼っているペットのこと、一通りお互い言いたいことをあれこれ言い終わって、彼女が切り出した。
「オフの顔とオンの顔って別だよね」「どう使い分ける?」
オフの顔?オンの顔?そう言われても、私にはピンとこなかった。私にはその区別がはっきりと付いているわけではないのだから。「あなたの場合は白衣着ている時がオン、そうでないときがオフなの」と友人に聞かれ、そうなのかもしれないとそのときは思った。
数日後、何気なく立ち寄った本屋で、園芸の本を買おうとしていたとき、仕事仲間の一人に会った。「バラの花お好きなんですか?そんな風には見えないですよね。意外ですよ。」と、その人はそう言った。仕事をしている時の私から園芸だのバラの花だの、そういうたぐいの言葉は想像つかないらしい。
そうか、私にも自分で気が付かないうちにオフの自分とオンの自分を使い分けているんだ。そうなんだ。でも私の場合は、オンとオフの切り替えは簡単。めがねをはずし、着替えるだけ。それで、気持ちも切り替わる。
でも、私にくらべて、オンとオフがはっきりしない友人は大変だと思った。どこまでがオフでどこまでがオンなのかわからないから。「私のオンはね、家を出たときから家に帰るまでで、オフは家にいるときかな」と友人は言った。
自分の本当の顔や気持ちを伏せたまま、作られた自分を演じなければならない友人は辛いだろうな。
作られた自分が好きならいいけれど、そんなもの、結局誰かにやらされているだけのこと。映像なんかに残ったりして、ますます辛い。本当の私はこんな人よ、と叫びたいのだろうが、それも出来ず。やれやれ、私は有名人でなくて良かったこと。(9/9/01)
なんかな〜(その8)
私の嫌いな夏がもう少しで終わる。何も起こらない夏であってくれい。夏はやなんだよ〜。とあれほどお祈りしたのに、今年もお騒がせな夏になった。やれやれ、よほど神様は私と夏がよほどお似合いとお思いなのだろう。夏にはやなことばかりうじゃうじゃうじゃ。
今年の夏はとっても忙しかった。今から考えてみると、そう、あの人のあの言葉が発端だったような気がする。「我々男では、無理なこともあるんだよ。」そう、私が必要なのね!分かったわ!、いいわよいいわよ。
私がある資格を取ったのは仕事上仕方のないことだったのだけれど、専門をこれに決めたのはもちろん亡くなった彼の病気があってのことだったし、そのおかげでこうしてこんな仕事ができるのも運命なのかもしれない。
「わかりました」と調子よく返事をしたのがいけなかったのか。相変わらずの不器用が災いしたのか、それから忙しかったのなんのって。鳥たちの面倒をみる暇もないほどだった。
疲れをいやしてくれる出来事もあったが、今年は辛い事も多かったような気がする。
一番辛かったのは、やはり幼い子が一人旅だっていくことだった。こちらがどんなに手を打っても、先手を打ったつもりでも、悪魔は私たちを笑うかのように幼い子におそいかかる。だんだんと衰えていく子を観ているご両親はどんなお気持ちであったのだろうか。かわいい子が永遠にいなくなってしまう。こちらとしてもそれだけは、阻止したかった。子供は成長が早い分だけ、病気の進行も早い。また大人なら我慢もできるだろうが、子供はそれが出来ないこともある。それでも、なんとか両親に笑顔を見せ、泣かないで耐えた幼いあの子はりっぱだったと思う。今は神に召され、苦痛から開放され天使のようなほほえみでこちらをみているのかもしれない。
この悪魔のような病も今は完治とまではいかないが元気ですごすことができるようになった。あの子ももう少し長く生きていていたら、もっとたくさん楽しいことが待っていたはずなのに。
明日まで生きていたら。明日まで生きていたら。
幼い子が亡くなるときはいつもこんな気持ちがつきまとう。(8/26/01)
なんかな〜(その7)
観ました。ベルばら、でも一日に2回はやっぱり無謀だった。アドリブやっぱり本当に少なかった。でもその帰り、とんでもないことが起こってしまった。友人と観に出かけ、その友人がある人に間違われて・・・私たちは逃げまどうはめに。。。「やっぱり○○さんよ」「ほらほら、こっち」「ホントだ!!」という声を聞きながら私たちは逃げた。なんで逃げたのか後になってよく考えたらくだらないこと。でも、そのときの私たちにはなんの知恵もうかばず、「とりあえず逃げよう」だった。おかげで足のまめはつぶれ、靴が履けそうにない。やっとのことでタクシーを止め、なんとか追っかけから開放された。集団にマジで追いかけられるということがこんなに恐ろしいことだとは思わなかった。(8/12/01)
なんかな〜(その6)
観たかった宝塚、「ベルサイユのばら」。なんと千秋楽の2公演のチケットをゲットすることが出来た。やっと手に入れた2枚のチケット。楽しみだわ。千秋楽の舞台はなにかと面白い。アドリブ満載!!でもちょっと待って、ベルばらにアドリブは似合わないでしょ。。でも、組長さんや、トップの和央さんの挨拶が聞けるかも。。。。ちょっと楽しみ。(8/10/01)
なんかな〜(その5)
私は夏が嫌い。でもそうでない時代もあった。子供の頃は、旅行など楽しいことが多かったせいか、わくわくして夏を待ったものだった。いつから嫌いになったのだろう?それは、ひょっとしたら、あの年からかもしれない。
夏が好きで夏を待ちこがれていた頃、神の前で永久の誓いをするのはこの人以外には考えられないと、心から慕う人がいた。彼の仕事が一段落する年の夏のある月の15日に、通った学校の礼拝堂で式をあげるはずだった。
その年の初夏、式の準備で忙しくしていた日曜日の午後めずらしく電話が鳴り、電話口の女性の声は悲しみで満ちあふれているように感じられた。
それは彼の死を予感させる不安な知らせだった。私はかなり動揺したが、電話の相手の女性の気持ちを考えると、泣いてはいられなかった。電話で教えられたのは、どこかで聞いたことのある病名だった。図書館でどんなに調べても、涙が止まらない。彼の病気は、当時の医療では直すことの出来ない悲しいものだったから。
あと半年、彼が永遠に私の前から姿を消すまで何をしてどうして過ごせばいいのだろう。何を語ればいいのだろう。私の記憶の中に、彼のすべてをとどめるのにいったい時間は足りるのだろうか。彼は本当にいなくなるのだろうか。
何とかしなければ、そう、なんとか。そう思った。が、実際はなんにも出来ず、ただ時が過ぎて行くだけだった。
日に日に弱くなっていくかれ。両手の肘は点滴の痕で青く腫れあがり、針を刺す場所も無くなっていた。薬のせいで顔も腫れ、やせ細っている割には、ふくよかに見えたが、私の心は沈んでいくばかりだった。その年の夏、礼拝堂に出向き、昔教えを受けた先生に、式の延期を告げた、いつかお二人の幸せをお祈りいたしましょう。と先生は優しくおっしゃってくださった。私は涙が止まらなかった。
翌年の春、ちょうど復活祭のころ。彼は一人で遠いところへ行ってしまった。私には何も言わないで。。。。。
夢にみた彼との式は永遠にやって来なかった。一人、高台の海が見える墓地に眠るかれ。あなたの好きなフォーレのレクイエムをこんな形で、こんなにも早く聴く日が来るなんて、想像もしないことだった。
あれ以来、
夏が来るたびに、彼の物憂げな表情が思い出された。
こんな別れを迎える恋が、本当にあるなんて思いもしなかったし、もしあっても、私の知らないお話で終わるはずだった。夢を追いかけていた20代。その夢の一つが無くなって、私は夏がいやになった。
人は、別れを乗り越えられると言う。別れを忘れられるように神が人を作ったのだとも聞いたことがある。今こうして昔を懐かしみ、まるで他人事のように書き留める事ができるのも、過去を忘れられるからなんだね。(8/1/01)
なんかな〜(その4)
乗馬の続き編:乗りましたよ、馬に。本格的に乗ったのは、半年ぶりぐらいかな。全然うまく出来るやん、と思いながら走って、自信満々で「どうです?こんなのでいいですかぁ〜」と担当の人に声をかけたら、「もっとゆっくり走ってもらえませんか、男性の代わりにやってもらっているわけではないので、そんなに早く走らなくてもいいですから」とのお返事。私「・・・・・あ・・・・はい。」だったらはじめっからそう言ってくだされば、こっちだってね。と思いながらも。そうだよね。、男とちがうもん、ええ調子で乗ってたってあかんやん。と反省。その日は、天気がもう一つだとかで、別の日にもう一度といういことで、帰った。その夜、見事に足が痛くなった。

高校時代の写真編:中学高校とお世話になっていた(いいやずっとかな、今でも)叔母から思いがけないものが届いた、、封筒の中身をみて、私唖然。それは数枚の写真だった。
「いやぁ、こんなんまだあったの!もう無いと思ってたのにな。
それにしても若いなー、それにきれいやなー(誰が?)」、私にもこんな時代があったのだと思った。
送られてきた写真は、高校時代のもので、それも男装・・・
当時高校のイベントにクラス対抗の英語劇、というのがあった。みんなで出し物を決め、せりふは英語で、発表会というのもあったと思う。父兄が観に来たはず。。確かね。
私たちのクラスは担任の先生が、大学時代にシェークスピアを勉強なさったとかで、出来の悪い私たちに、古典英語でのロミオとジュリエットの芝居を押しつけた。それも現代版でやるのだという。大人びていた私たちも、ジュリエットの相手役に頭を痛めた、というのも、恋物語にはラブシーンがつきもので、ジュリエットの相手を男の子から選ぶと、恥ずかしくて芝居が出来ない、と言う意見が多く出されたからだった、それでたまたま配役を決める日に風邪で休んでいた私が勝手にロミオに決められていた。
「ふぅ〜ん、ロミオかぁ、悪くないやん。おもしろそうやしな。英語か〜、それが一番の問題やな。」と私はかなりやるきまんまんだったらしい、と叔母が言ってた。
どうせやるなら、と劇発表会当日、私は行きつけの美容院で髪を切り、茶色に染め、元宝塚ジェンヌだったという友人のママに、ばっちりメークしてもらった(もち他のキャストも)。おかげで、すてきな(?)ロミオに変身できた。劇が始まるまでは、ビジュアル最高と誰もが思い、勝利を確信していた。とここまではよかったのだが。結果はさんざんだった。というのも古典英語がむずかしく、高校生ごときの脳みそで、それも短時間では、そうそう覚えきれるものでもない。私を含め、みんなぼろぼろで、結果はひどいものだった。私は、その上に、叔父や叔母から、勝手に髪をきり染め(学校は染めることに反対ではなかった)たこと、男装するなんて聞いてなかったこと、などなどについて、かなりしかられた。叔母は友人を連れて観に来ていて、私の姿に逃げ出したくなったとか。でもこの事が原因で、私は本当に宝塚を受験することになってしまった。
あと、身長が5センチ高かったら、宝塚行ってたかもね、、考えてたかな。。。。。
なつかしい高校時代。なんでも出来たあのころ。怖いものは無かったころ。若いって本当にいいことだったんだ。
(7/10)

なんかな〜(その3)
ちょっとした昔の仲間から電話があり、乗馬をする羽目に、それも着物姿で・・・「まあ、引き受けるわ、誰もやらへんのでしょ、だったらうちがさせていただくから、心配しんときな〜」ってなわけで、ちょっと変わったお仕事が舞い込んで〜。昔もやってたんだけれど、こんなおばちゃんでもいいのやろか?
私がすごした京都は、太秦の映画村があって、祇園祭りという大きなお祭りがあって、そのたびに人手の足らない部分は学生のバイトを使っていたと思う。私は馬術をしていたこともあり、馬に関係するバイトが多かったが、当時エキストラでずいぶん映画には参加せていただいていた。いまさら私が馬術ですか〜?とも考えたのだが、「まっいいでしょ」と軽く承諾。「なにかあれば、辞退すればいいのだし、気軽にね」と自分に言い聞かせてる。(7/2)
なんかな〜(その2)
6月、大変忙しかった。さすがに参った。仕事は疲れるなあ、と思いながら、なにげにテレビを見たら「今度のドラマは、主人公が白血病で・・・・・」「またや、またや、、、」「どうして白血病なん?」「あの病気は本当に苦しく、辛い検査、治療が待ってるはずやのに。。。」「番組の担当は誰やの〜!!」って怒りたくなった。
まあ素人さんに言ってもしかた無いのかも。別に番組が悪いわけではないのだから。それにしても、この名前安易に使わないで欲しい。化学治療も限度があり、骨髄の移植が効果的といわれて久しいのに、それでも骨髄移植をしていただくためのドナーが足らない。家族間での移植の希望を断たれた人たちにどうか、善意ある心を届けていただきたい。
なんかな〜(その1)
4月のはじめだったか、某放送局の朝の番組をなにげに見た・・・どきっとした。画面いっぱいに見覚えのある顔、見覚えのある衣装、見覚えのある階段・・そうあれは大階段!!そしてあの歌・・・ごらんなさい〜♪ごらんなさい〜♪♪
「なんやの」「ベルばら?」「なに今頃??」そして、アナウンサーのお話が・・・「4月から東京と大劇場で公演されている、2001ベルばら、主演のフェルゼン役をなさっている宙組の和央ようかさんと相手役の・・・・」
私「・・・・・・・」「知らなかった??・・・・・いつから?・・・・」
あれは平成3年の夏だった。20世紀最後のベルばらになるだろうと言われた涼風真世さん主演のベルばらをみたのは。それから10年、いろんな事があり、宝塚から遠ざかっていた私には今回の事はまさに青天の霹靂に等しいことであった。さっそくチケット探し、、、、とりあえずもう春の公演のチケットは無いらしい、そんな、初演の日はもう間近、急がないと・・なんとかチケットを手に入れ、大劇場へ。10年ぶりのベルばら。あのころのいろんな事が思い出され。宝塚のことはなんにも知らないのに、ベルばらを観になんども出かけたこと、当時の友人達のこと、追っかけた人のこと。笑われるかもしれないけれど、あのころの2〜3年間は、本当にはまっていた。
配役も代わり、好きだった日向さんのかわりに和央さんがフェルゼンとして舞台にたっていらした。お話もあの当時とは少し変わっていて、舞踏会のダンスはなかった。あのの当時の人たちは今なにをなさっているのだろう?と、そんなことを考えた一日だった。
7月からの東京の舞台を観に行く予定。。今回残念だったのはチケット。友人の話だと、4月からの東京公演のチケットは、発売と同時に完売。それなのに、某所のオークションでは、たくさんのチケットが売られて、さばきのチケットもたくさんあったとか・・・東京の宝塚劇場の周辺では、束でチケットを持っている人が居て、手頃な値段で売っていたと聞いた。観たいと思っている人にはチケットが回らず、こんなに売りに出て、それを買わなければ空席になる。なんとも悲しいお話しだった。