9月8日 「神の豊かな器を知る」 マルコによる福音書
4章21-25節「ともし火」と「秤」のたとえ
21
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。蜀台の上に置くためではないか。22
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。23
聞く耳のあるものは聞きなさい。」24
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。25
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
現代は疑惑の渦巻く時代である。その中で感覚が麻痺してしまい、信じられない心、希望を持てない心が出てきてしまう。今、本当に光が必要とされている。キリスト者のあかし人としての使命が神によって大きく求められている。希望の失われることのない、揺るぐことのない平安の源が人間には必要である。それを身をもって知らされているのが教会に集う者である。
イエスは全ての人々の光となってくださったのにも関わらず、私達の世界はその光をあたりを照らすように机の上に置くのではなく、下に置いてしまっている。そのために隣人を信じられず、未来に希望をいだけなくなっている。イエスという光はただ照らし、進むべき道を明にするだけではない、その光を知ることは救いそのものである。私達は現実となった救いをもって毎日を歩んでいるので、希望を持つことができる。
神は光と共に豊かな力を示す。神の豊かな器の中に私達は生かされている。御言葉の無限の力を忘れてはならない。勝利の光の御言葉を無限の器で受け止めること、そうすれば、ますます恵みが増し加えられ、喜びが泉のようにわき起こる。一方、自分の限られたはかりや器で受け取ろうとするなら、恵みを奪われ、希望を失ってしまうだろう。日々悔い改めの心を持つときに神の豊かな器を新たにされ、神の光を再確認できるのである。
BGMは、賛美歌第2編195番「キリストにはかえられません」です。
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