10月16日 「えらばれる恵み」 エレミヤ書1章4−8節、
ヨハネによる福音書15章16−17節
東方敬信牧師
エレミヤ書1章
4
主の言葉がわたしに臨んだ。5
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
6
わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
7
しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。
8
彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す」と主は言われた。
ヨハネによる福音書15章
16
あなたががたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
私達はこのイエス・キリストの「あなた方が選んだのではなく、わたしが選んだのである。」という言葉に驚かされる。私達の生活は何事も各自の好みに従った選択によって成り立っており、またそのことに私達は喜びを感じる。日本においては宗教もこれらと同様に扱われ、人間が宗教の主人となり、宗教は単なる道具とされてしまっている。しかし、聖書の信仰は逆であり、「救い・選び」の主体はいつも主イエス・キリストなのである。この主イエスによる「選び」はこの世におけるエリート(選良)主義とは違う。主イエスの選びは「にもかかわらず」というものである。これはまた聖書全体で言われていることである。主イエスの弟子らは平凡な者たちであり、また神に選ばれたイスラエルの民は世界のどの民より貧弱であった(申7:6)。この「にもかかわらず」とは「ただ主の愛によって」ということである。よって主の選びとは、神の愛の決断、私達にとっては思いがけない恵みなのである。この恵みにより、私達の中に感謝が生まれる。主イエスはこのことをその身を低くし、強制することなく、私達の友人となってお示しくださった。私達は祈ること(天を見上げて決意すること)をもって、この主イエスの示された姿に立たなくてはならない。
ルターは「自分のような罪人がイエス・キリストの愛によって、赦され生かされている」ことを確信したとき、「自分が値しないにもかかわらず、神に愛されている」というこの喜びを敵とも分かち合いたいものであると告白した。ここには新たな連帯感が生まれている。自分の中の異質(破れ)、他者の異質を認め、愛すること。これが主イエスの「互いに愛し合いなさい」と教えられていることであり、この連帯する愛こそ、主イエスが示しておられる「選び」である。
背景の旋律は,“Come let us join our friends above”の歌詞に配されたギャラハー」(GALLAHER)の曲です。
詳しくは、讃美歌第2編167番を参照ください。