前八犬伝/第1話

少年は、終わりを望む


 おだやかな、春の日だ。
 物見櫓の上に登ってみて、番作はようやくそのことを知った。
 城内はあまりにも荒れ果てて、草木も生えてこないから、外の世界にどんな季節が来ているのか、下からではまるでわからなかった。
 東に見える筑波山は、なだらかな山稜がまるで踊るように、新緑に彩られていた。
 風はおだやかに吹いていて、淀んだ空気を洗ってくれていた。
 番作は、櫓の上に寝転んだ。
 雲ひとつない青空が、目の前に広がる。
 まるで吸い込まれてしまいそうな、青い空。
 だけど手を伸ばしても、空は番作を吸い込んではくれず、重力は番作の体を城へと縛りつけていた。
 嘉吉元年(1441)、下総国結城。
 大塚番作のいるこの場所は、戦場だった。

 この戦のそもそもの発端は、関東武士団を統べる鎌倉公方・足利持氏が、幕府に対して反乱を起こしたことに始まる。これが永享十年(1438)のことで、関東管領・上杉憲実と幕府の軍勢の前に、戦い敗れた持氏とその嫡男は翌年自刃したが、次男の春王丸と三男の安王丸の幼い公達は鎌倉を逃れ、下総から下野にまたがる一帯を支配する結城氏朝のもとへ身を寄せた。氏朝は関東の武士団に檄を送り、両公達を旗印として、関東管領に対して叛旗を翻した。これが、後に結城合戦と呼ばれる戦である。
 戦はすでに、足掛け三年も続いていた。
 はじめの頃こそ激しい戦闘があったが、城方の頑強な抵抗が続くうちに、戦況はすっかり膠着状態になってしまっている。
 番作は十四歳のときにこの城に入って、今では十六歳になっていた。

「おい番作、なに怠けてんだぁ?」
 からかうような声が、はしごが軋む音と一緒に聞こえてきた。
 頭をあげると、番作と同い年の兵が、櫓に上がっていた。
 同じ仕事をするようになってから親しくなったが、名前まで覚えていない。
「おまえか」
「おまえか、じゃねえよ。こんなところで寝て、もし敵さんが攻めてきたらどうするつもりだよ」
「来ないよ」
 番作は城の外を指し示す。
 敵の大軍は城を遠巻きに取り囲んで、あちこちの陣で旗がたなびいていたが、それが動き出すという気配は全くなかった。
「そうだよなあ。今年に入ってから、戦らしい戦はほとんどないからなあ」
「今日は特に天気もいいしな」
「ははは」
「おおかた、うちの大将方と同じように、向こうでも連歌会でもやってるんだろうよ」
 番作は今度は、城の中を指し示した。
 荒れ果てた城内のうち、ただ一箇所だけ緑の残る、本丸の庭園。
 礼服を着た一団が、おごそかな会合を開いているのが見て取れた。
「連歌会か。今年で何度目だい」
 同僚はあきれたように言った。
「さあ。でも大事なことなんだろうよ、大将方が寄り集まって結束を固めるのは」
 庭園には帷幕が張られていたが、物見櫓の上からは、その中の様子が一望できる。
 帷幕の真中に配された足利家の家紋を背にして、小さな床机に小さく座っているのが、十歳の春王丸と八歳の安王丸。
 両公達のすぐ側で、大きな腰を床机に預けているのが、城主の結城氏朝。そこからやや間隔があって、宇都宮、里見、小山、桃井と、名だたる関東の武将がずらりと列を作っている。下座の方はよく知らない武将も多かったが、城方の主だった武将は、ほとんどこの風雅な連歌会に参加している。
 坊主頭の宗匠が読み上げる良くわからない文句の歌と、ときおり混じる笑い声。
 ただ、楽しい雰囲気かといえば、そんなことは決してない。
 三年の籠城は確実に武将たちの戦力を削っているし、このところの寄手の静けさは、よけいに厭戦気分を煽っている。そして大部分の武将の参戦理由であった関東管領への不満は、しだいに両公達と、それを傀儡として意のままに操る結城氏朝への不満に変わり始めていた。武将たちの結束を固めるための連歌会が何度も開かれるということは、それだけ武将たちの結束が弱まってきている証拠でもあった。

「お、あれ、番作の親父さんじゃないか」
 同僚に指差され、番作は今まで意識して見ないようにしていた場所に、目を向けさせられた。
 帷幕の隅、両公達の背後にあたる場所。
 錦の袋に入った刀を持って、恭しく蹲踞している中年の侍が、番作の父、大塚匠作であった。
「いいよな番作は、親父さんが公方さまの直臣で。俺なんか陪臣の陪臣もいいところ、目通りなんて夢のまた夢だよ」
「馬鹿言え。目通りは俺もできないよ。そもそもそんな立派なご身分だったら、陪臣の陪臣なんかと同じ仕事をしてるか」
 大塚匠作は、もとは足利持氏の近習である。鎌倉にあって持氏に仕えていたが、いよいよ鎌倉が陥落するという段になって持氏の命を受け、春王丸と安王丸の護衛の一人として、各地を転々としながら幕府の追跡を逃れ、結城氏朝のもとに迎え入れられるまで守りつづけたのが、この匠作である。
 つまりはこの合戦の功労者の一人であるのだが、そもそもが小禄の身であり、政治力などまるで持ち合わせていないため、氏朝が両公達を手なずけてまるで父親のような立場になってしまうと、匠作の役目は結局、両公達の護衛しか残っていなかった。
 そして近習という身分は一代限りであるため、その息子である番作は結局、ただの雑兵と同じ扱いしか受けていなかったのである。
 番作は、父から目をそむけた。

 しばらくぼんやりと、連歌会を眺める。
 すると、自分の視線が、いつのまにやら一人の若い武士へと集中していることに気がついた。
「おい。あいつ、誰だ?」
「誰?」
「あいつ。坊主の隣にいる、あの若いの」
 番作は指差す。連歌会の進行役である宗匠に従って、執筆(しゅひつ)と呼ばれる書記役を務めている武士。
 番作の一歳か二歳くらい上だろうか、そらぞらしい空気のこの集まりの中で、ただ一人だけ心の底から連歌を楽しんでいるようだった。
「ああ、あれは里見の御曹司だな」
「里見?」
「そう。確か又太郎義実(よしざね)とか言ったっけ、季基(すえもと)さまの嫡男だ」
 里見といえば、清和源氏新田家の流れを汲む、上野国の名門である。領主の季基は、武勇に優れ、結城氏朝の強力な支持者として、籠城軍における副将的な役割を担っていた。
「へえ、あの里見の…」
「なんでも父親以上の秀才だそうで、若くして和漢の兵書を読破した上に、敷島の道にも通じているらしい」
「ほう」
「まあ、兵書の方が実戦に役立つかどうかは知らないが、今日のところは敷島の道の方で大活躍だな」
「なるほど」
 番作は、義実の顔を見る。
 遠目からもわかる白い肌は、関東の荒くれ者たちの集団には似つかわしくない、高貴な雰囲気を漂わせていた。
「で、あの御曹司がどうしたって?」
「えっ」
 突然たずねられて、番作は戸惑った。
 ごまかすように、冗談を言った。
「いや、あいつも俺たちと同じ仕事してるんだろうか、って思って…」
「同じ仕事?」
「あいつが仕事したら、ずいぶんと人気者になるだろうなあ、ってな」
「仕事ってあれか? あはは。多分そうだろうなあ」
「ああ、違いない」
 二人して、義実を笑った。

 そのとき。
「番作殿ーっ」
 櫓の下から、番作の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
 番作が身を乗り出すと、顔なじみの老兵がこちらを見上げていた。
「番作殿ーっ、我が主君・井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)が、すぐに西の曲輪にお越し頂きたいとーっ」
「直秀殿が? 今から?」
 番作は怪訝に思いつつ、慌てて本丸の庭園を見る。
 確かに、連歌会の帷幕の中に、直秀の姿はなかった。
「ですが、私には物見の役がーっ」
 番作は理由をつけて断ろうとする。
「見張りは、それがしが代わりに勤めよとのことですーっ」
 老兵の返事は、簡単だった。
 番作は大きなため息をついた。振りかえると、同僚がくすくすと笑っていた。
「何がおかしい」
「いや、お前だってずいぶんな人気者じゃないか」
「そんなもんじゃないよ」
 番作は、不機嫌な顔で梯子を降りていく。
 降りがけに、同僚がはげました。
「がんばってこいよ」
「まあ、適当にな」
 櫓の下で、老兵が待っていた。
「西の曲輪ですね」
「はい。それでは、よろしくお願いいたします」
 老兵はぺこりと頭を下げて、代わりに梯子を上っていく。
 番作は老兵が安全に上りきるまで、空を見上げた。
 もう吸い込まれそうな青空は、この場所にはない。
 さわやかな風も吹かない。
 本丸の庭園も、ここからでは見えない。
 赤い土。
 煤けた城壁。
 黄ばんだ旗指物。
 ここが、番作の住む、結城城という場所だった。






「おお番作、よく来てくれたのう」
 暗い部屋の中で待っていると、突然あらわれたひげ面の男に抱きしめられた。
「わしはのう、そなたと睦み合いたいために、連歌会に出なかったのじゃ」
 ごつごつとした手が、番作の着ている衣と素肌の間に割って入ってくる。
 この感覚にはいつも慣れることがなくぞっとするが、物事を円滑に進めるために、番作はあっと小さな声をあげておく。
「うむうむ」
 そうすると、男は満足そうな笑みをうかべるのだった。
 この男が、井丹三直秀だった。
 信濃国の御坂から、十数人ばかりの手勢を率いてはるばる結城までやって来た。
 結城城には、鎌倉公方の支配権の及んでいた関東の各地から、このような小領主が数多く集まっていた。彼らは妻子を連れて来るだけの経済力はなく、城の方にもその余裕はない。
 そのため、番作のような年若い、戦力としてはあまり期待できない少年達に与えられた仕事。
 それが、狭い城に押し込められた荒くれ者達の、欲求不満のはけ口になることだった。
 十四歳のとき、父に連れられてこの城に入った最初の夜から、十六歳の今日まで、少年から青年への移行期にある番作の体は常に、自分よりも力の強い男たちにねじ伏せられ、蹂躙されてきた。
「だが、わしは違うぞ」
 直秀は、そんなことを言う。
「わしはそなたのことを心から大事に思っておる。体だけではなく、心までもひとつになりたいのじゃ」
 だが、番作にとっては余計なことだった。
 ただ体の機能だけを求められて、物として取り扱われる方が、ずっと楽でいい。体だけでなく心まで蹂躙されては、たまらなかった。
「そこでのう、番作。そなたに、わしの娘を娶わせることにした」
 直秀は、番作の帯を解きながら言う。
「そなたとわしが永久に結びつくため、大塚家と井(いの)家の間でも結びつくのじゃ。そなたの父上にもすでに許しを得ておる」
 直秀の生臭い吐息が肌に吹きかかってきた。番作は抵抗せずに、直秀のなすがままにされている。
「どうした番作、うれしくないのか」
「いえ、ありがとうございます…」
「ははは。安心せい、わしには似ずに器量良しに育った娘じゃ。戦が終わったら、祝言じゃ」
「…終わったら?」
「そう、終わったらじゃ」
「終わったら…」
 直秀の話は、番作の耳に入っていなかった。
 ただ「終わる」という言葉だけが、番作の頭の中で繰り返されていた。
 ──終わってほしい──
 この瞬間が、できるだけ早く終わること。
 直秀に抱かれながらいつも番作が望むことは、ただそれだけだった。





 西の曲輪を出たときには、すでに夕刻になっていた。
 番作は夕暮れの城内を、自分の宿所へと歩いていた。
 ふと、前方から、快活な若い男の笑い声が聞こえてきた。
 顔を上げると、連歌会の帰りだろう、若い武将が、二人の従者を従えてこちらの方に歩いてくるのが見えた。
 里見義実だった。
 さっきまでは遠目に見るだけだったが、こうして近くから見てもやはり肌の白さが目につく。だが顔色が悪いのではなく、正反対に健康的で、籠城の苦難などまるで感じさせない、涼しげな顔立ちだった。
「こら、無礼者」
 荒荒しい声が、番作の耳に入ってきた。
 気がつくと、御曹司の集団は番作の目の前にいた。
 義実は京の公家みたいな顔だが、二人の従者はいかにも関東武士という顔立ちで、歴戦の勇姿であることは、その目の色からわかる。その二人に、番作は睨まれていた。
「何をしておる、そこをどかぬか」
「あ…」
 どうやら道の真中で、義実主従の通行を塞いでいたらしい。
「も、申し訳ございません」
 番作はすぐさま、道の脇へと飛びのいた。
 しかし、従者の怒りは冷めていないようだった。
「無礼者が。このお方をなんと心得る」
「このお方はな、清和源氏の嫡流、八幡太郎義家朝臣から数えて十一世の…」
「まあ、良いではないか蔵人、木曾介」
 やんわりと、御曹司が従者を制する。
 そして、柔和な笑みを浮かべつつ、自分から名乗り出た。
「私は里見又太郎義実と申すものです」
「お、大塚番作、一戍(かずもり)と申します…」
 番作は、戸惑いつつも諱名(いみな)まで名乗る。
「大塚…といいますと、公達さまのご近習、大塚匠作殿のご子息ですか」
「は、はい」
「なるほど、確かによく見れば、顔が似ておられる」
 じっと覗きこむような義実の視線に、番作は慌てて目を伏せた。
 義実は気にせず話し掛ける。
「いやあ、今日の連歌会は、楽しゅうございました」
「そうですか…」
「春王さまと安王さまも詠まれたのですが、これが素晴らしい歌でございまして。これも匠作殿をはじめとするご近習方の養育がよく行き届いていらっしゃるからでしょうなあ」
「そ、そのような…」
「番作殿も、お出になられればよかったのです。それとも何か大事なお役目でもございましたか?」
「……」
 嫌味や皮肉でないことは、その表情の純粋さからわかる。単純に、春王安王の近臣の子ということで、自分と同格に思っているのかもしれない。それにしても、少し配慮のない言葉だと番作は思った。
「…私は…これまで一度も歌を詠んだことなど…」
「それはいけませんね。武芸を磨くだけが武士の務めではございません。戦の中で季節を感じ、それを文字にあらわすことは、自らの心を落ち着かせると同時に、主君の心も和ませる忠の道にもつながります。そもそも連歌というものは、古くは万葉集巻八に見られる尼と大伴家持の…」
 よどみのない弁説、よどみのない表情。どうしてこんなことを平気でできるのか、番作にはわからなかった。そして義実は、結びにこう言った。
「そうだ、よろしければ私が古今集など指南いたしましょう。今宵、我らが宿舎においでなさいませ」
「!」
 番作は、一瞬びくりとした。
「…若様!」
 従者のひとりが、慌てて義実を止める。
「若様、この者は…」
 彼が何を義実に耳打ちするのか、番作には理解できた。もうひとりの従者が、こちらを軽蔑するような目で見ていたからだ。
 番作は、身を固くして義実の次の反応を待っていた。耳打ちを聞いたあと、義実は従者と同じような軽蔑のまなざしを向けて、つばを吐くように去っていくのだろうか。それとも井直秀と同じように、いやらしいまなざしを向けて自分を誘うのだろうか。
 だが、義実の反応は、それらとは全く別だった。
「…はあ? なんだ蔵人、その役目は?」
 義実は、番作に向き直る。そして同じ笑みを浮かべて言った。
「申し訳ない。歌の話はまた今度にしましょう。私は不才のため、番作殿のお役目がどのようなものか存じ上げません。ですがどの役目も、春王さまと安王さまへの忠義であるのは同じことです。お互い、身を尽くしてはげみましょうぞ。では私はこれで」
 義実は一礼をして、去っていった。
 番作は頭を下げたまま、彼とその従者が去っていくのを見送った。
 そして三人の姿が視界から消えてから、番作は足元の土を蹴り飛ばした。

 番作が義実に何を期待していたのか、それは番作自身にもよくわからなかった。
 ただ唯一わかったことは、自分は汚れていて義実は汚れていないが、彼が汚れていないのは単に、汚れないような環境にいて、それを多くの人間が守っているだけだから、ということだった。
 そしてそれが、自分と義実との間を分ける、大きな壁のような差だった。
 ──終わってほしい──
 番作はもう一度土を蹴って、いつもと同じことを思った。
 みんな終わればいい。この瞬間も、この身体も、この城も──。
 日は完全に西に落ちて、赤黒い世界が、番作の周りを取り囲んでいた。

つづく
目次へ戻る