美少年録とその時代

 「近世説美少年録」の舞台となった時代は16世紀前半。戦国時代の前半である。しかしこの時代は、応仁の乱と信長・秀吉ら天下統一時代の狭間にあり、歴史教育に現れることは少なく、小説類も多くはない。
 このコーナーでは、「美少年録」をより楽しく読むために、その時代背景について説明を行い、同時に「美少年録」の時代考証をするものである。もちろん後者は、「正史と読本を混同するな」という馬琴の言葉のとおり、詮なき事である。また資料は主に、講談社「クロニック戦国全史」、秋田書店「歴史と旅」増刊号「戦国動乱135の戦い」を用いた。

戦国動乱・京都編

戦国動乱・関東編

戦国動乱・中国編

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戦国動乱・京都編

義稙と義澄〜将軍家の対立〜

 応仁の乱の原因ともなった八代将軍・足利義政の後継争いは、結局文明五(1473)年、義政の子・義尚(よしひさ)が九代将軍に任命されることで収まったが、その義尚は延徳元(1489)年六角氏征伐の陣中で死去し、将軍家の後継争いはまたもや昏迷してきた。翌年義政が死去し、十代将軍として足利義視(よしみ)の子、義稙が就任するが、それを嫌う管領・細川政元(ほそかわまさもと・八犬伝でも登場)のクーデターによって、明応二(1493)年、義政の異母弟・堀越公方政知(まさとも)の子が、第十一代将軍・足利義澄(よしずみ)として就任した(明応の政変)。義稙は再起を誓って京都を脱出し、越中の神保長誠(じんぼながのぶ)を頼る。義稙は明応七(1498)年に出兵し近江まで迫るが敗北し、その後も各地を流浪し、守護大名の支援を求めたため、「流れ公方」と呼ばれた。

義興上洛〜流れ公方の将軍復帰〜

 義澄を擁立し、京での権勢をほしいままにする政元だったが、私生活では修験道の呪法修行に凝り、女性を近づけないために嫡子がなかった。政元は前関白九条政基の子・澄之(すみゆき)を養子として迎えていたが、何を思ったのか一族の細川義春の子・澄元も養子として迎えてしまう。これによって後継争いが発生し、永正四(1507)年、政元は澄之派の家臣に暗殺され、澄之もまた、澄元に従う細川高国(ほそかわたかくに)・政賢らに攻められ敗死した。
 そのころ義稙は、周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼っていたが、政元暗殺後の政情不安を好機とみて、永正五(1508)年、義興の支援のもと、上洛の大軍を催した。義澄、澄元らは近江に逃れ、義稙は澄元から独立した細川高国に迎えられ、ついに京都に復帰、征夷大将軍に返り咲いた。その後も義澄と義稙との戦いは続いた。永正八(1511)年には、澄元の軍勢が義稙らを丹波に駆逐して入京するが、澄元は擁立する義澄に死なれ、さらに船岡山で高国・義興の反撃を受け、敗北した。これによって高国・義興の連合政権はようやく安定する。

享禄の乱〜高国政権の崩壊〜

 管領代として10年の間、義稙の幕府政権の一角を担った大内義興だったが、経済負担と尼子の台頭が原因で、永正十一(1518)年、国元に帰っていった。軍事力の低下した高国政権に、澄元の軍勢が襲いかかる。高国はこれを退けるが、かねてから高国の専横にに不満を持っていた義稙は、澄元のもとに走ってしまう。そこで高国は、大永元(1521)年、義澄の息子・足利義晴(あしかがよしはる)を将軍に据え、政権を維持する。
 大永五(1525)年四月、高国は厄年を理由に出家し、道永(どうえい)と名乗るが、その年の十月に嫡子・稙国(たねくに)が急死し、家臣団を取りまとめる求心力を失ってしまう。そして翌年七月、重臣香西元盛(こうざいもともり)を細川尹賢(ほそかわただかた)の謀略により殺害させたため、元盛の兄・波多野稙通(はたのたねみち)、弟・柳本賢治(やなぎもとかたはる)を阿波の足利義維(あしかがよしつな)、澄元の遺児・晴元(はるもと)勢力への内通・蜂起へと追いやってしまう。そして大永七(1527)年、義維・晴元を擁する三好元長(みよしもとなが)が堺に上陸、堺公方府を設立、高国と義晴は近江へ逃れ、高国政権は崩壊した。
 備前に逃れた高国は、三石城の浦上村宗(うらがみむらむね)の支援を得て、享禄四(1531)年、尼崎まで進出し、堺公方府軍と対決姿勢をとる。六月四日天王寺で激戦になったが、浦上村宗に父を殺された遺恨を持つ赤松政村(あかまつまさむら)の裏切りで高国軍は総崩れになり、尼崎の紺屋の甕の中に潜伏していた高国は、ついに捕らえられ自刃を余儀なくされた。

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戦国動乱・関東編

長享の乱〜山内上杉と扇谷上杉〜

 1438年の永享の乱、1454年の享徳の乱と、関東足利氏と関東管領家山内上杉氏との抗争は関東全体に発展した。そのなかで、山内上杉氏の支流であった扇谷上杉氏の扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)は、家宰太田道灌(おおたどうかん)の活躍によって勢力を拡大する。しかしそれに不安を感じた山内顕定(やまのうちあきさだ)の陰謀によって、文明十八(1486)年、道灌は定正に暗殺されてしまう。
 そののち、1488年に長享の乱が勃発、両上杉氏は全面戦争に発展する。古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)や長尾景春(ながおかげはる)、北条早雲らを交え、各地で干戈を交えるが、明応三(1494)年、高見原で対陣中、扇谷定正は落馬、急死する。享年五二歳であった。
 定正の跡は甥の朝良(ともよし)が継ぐが、体勢は挽回できなくないまま、両上杉氏の抗争は永正二(1505)年、朝良が顕定に和睦を願いでて終結する。山内顕定は永正七(1510)年、越後守護代の長尾為景(ながおためかげ)を攻めたとき、長森原で敗死する。享年五七歳。
註:馬琴作中では朝良は定正の息子となっているが、実際は甥である。またその跡を継いだ朝興は、朝良の兄・朝寧(ともやす)の子である。なお「八犬伝」で起こった文明十五(1483)年の関東大戦は、もちろんフィクションである。

北条氏の台頭〜北条早雲〜

 山内と扇谷の両上杉氏の対立の中で、着実に勢力を伸ばしたのが北条早雲(ほうじょうそううん・当時は伊勢新九郎)であった。明応二(1493)年、駿河の今川氏親(いまがわうじちか)の食客だった早雲は伊豆に侵攻、堀越公方足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を追った。茶々丸は足利義澄の兄に当たるため、京で起こった細川政元のクーデターと連動していたと考えられる。
 以後早雲は、伊豆韮山城を本拠として相模へ侵攻、同四(1495)年に小田原城を奪取し、ついに永正十三(1516)年に相模を平定した。この勢いに扇谷朝良と山内憲房(のりふさ)は休戦し、結託して北条氏と当たることになる。

北条氏の関東攻略〜北条氏綱と氏康〜

 永正十六(1519)年、北条早雲は死去、その跡は氏綱(うじつな)が継ぎ、さらに勢力を拡大させる。大永四(1524)年、氏綱は江戸城を攻略、扇谷朝興(おうぎがやつともおき)を河越城に追った。そして天文六(1537)年、扇谷朝興が没した機会をねらい、すかさず河越城を奪う。跡を継いだ扇谷朝定(ともさだ)は松山城に逃れる。
 さらに翌年、氏綱とその子氏康(うじやす)は、第一次国府台合戦で小弓公方足利義明(よしあき)と安房の里見義堯(さとみよしたか)を破り、古河公方家という権威の推戴に成功する。氏綱は天文十(1541)年に死去、関東の制覇は氏康に引き継がれる。

河越夜戦〜扇谷氏の滅亡〜

 山内憲政(のりまさ)は、北条氏の勢力拡張を阻止するため、扇谷朝定と組んで反撃を開始し、天文十四(1545)年、北条氏に奪われていた河越城を包囲した。さらに北条氏と結んでいた古河公方足利晴氏も北条と断交し、河越に出陣した。あわせて八万ともいわれる大軍であった。
 この大軍の前に、河越城の北条綱成(つなしげ)は三千の兵で守りぬいて年を越し、氏康の救援を待った。そうして同十五(1546)年四月、ついに氏康は出兵する。北条の軍勢は松明も持たずに密かに進軍し、四月二十日子の刻に敵陣を襲った。落城寸前の河越城の前に油断しきっていた連合軍は大混乱に陥り、大将の憲政と晴氏は敗走、扇谷朝定は戦死した。俗に「河越夜戦」と呼ばれるこの戦闘は、北条方の大勝利に終わった。当主の敗死によって扇谷上杉氏は滅亡した。
 山内上杉氏も弱体化し、ついに天文二一(1552)年、上野平井城が落城し、憲政は越後に逃亡し、長尾景虎(ながおかげとら)を頼った。景虎は憲政から関東管領の職を譲られる。これが上杉謙信である。以後関東の地は甲斐の武田信玄、上杉謙信、北条氏康の三大戦国大名が鼎立し、「関東三国志」とも呼ばれる覇権争いがはじまることになる。

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戦国動乱・中国編

中国の雄・大内氏

 系図・家譜によると、百済の聖明王の第3子・琳聖太子が周防の多々良浜(防府市)に着岸し、その子孫が大内村(山口市)に住み、以来姓を多々良、氏を大内氏と称したという。南北朝期、大内弘世(ひろよ)は南朝方として周防の統一を成し遂げ、さらに長門の厚東氏を討って、室町幕府より周防・長門・石見の守護職に任じられた。本拠の山口には、南北朝時代以来、多数の五山僧や公家など文化人が下向し、西の都と称せられる繁栄を見せた。また、勘合貿易で明の文化も流入し、国際色豊かな文化をかたちづくった。
 このように中国地方に君臨する大内氏は、中央の政治にも重大な影響を与えた。大内政弘(まさひろ)は、応仁の乱に西軍方として上洛し参戦、戦局を大きく変化させた。東軍は政弘の叔父・教幸(道頓)を唆して赤間関(下関市)に挙兵させるが、陶弘護(すえひろもり)によって鎮圧されている。
註:この事件が、二尾加賀四郎弘景(にをのかがしらうひろかげ)の大和追放と関係していると思われる。実際に、仁保弘有・仁保盛安という人物が実在している。
 さらに、政弘の嫡子・義興は、永正五(1508)年、足利義稙を奉じて上洛、義稙を将軍職に復帰させた。義興は左京大夫、山城守に任じられ、細川高国との連合政権を成立させた。以後、義興は周防に帰国するまでの10年間を京都で過ごすが、約1万の遠征軍を維持する経済的負担は大きく、国元では山陰の尼子氏の勢力拡大を許すこととなった。
註:作品中で義興は、永正六(1509)年に肥後の菊池氏を制圧するために出兵しているが、フィクションである。当時は前将軍・義澄の勢力との対峙が続いており、西国の南朝方の反乱などにかまっていられる余裕は全く無い。

尼子経久の台頭

 出雲の守護代という任にあった尼子氏を、山陰の大勢力に成長させたのは、尼子経久(あまごつねひさ)の功績であった。長禄二(1458)年に、出雲守護代尼子清定の嫡子として生まれ、長じて守護職を継承した経久は、寺社本所領や段銭を押領するなど、幕府や守護である京極政経(きょうごくつねまさ)に敵対する行動をとったため追討をうけ、文明十六(1484)年に守護代職を罷免され、富田城を追われた。しかし同十八(1486)年、変装した手勢を城内に送り込んで富田城を奪回する。経久は大内義興の上洛にも従ったが、先に帰国。永正七(1510)年には出雲の杵築大社(出雲大社)を造営するなど、その権威を誇示した。同十(1513)年には、嫡男政久が戦死するという痛手を被るが、その後も勢力を拡張し、最盛期には十一ヶ国もの国人たちを服属させるに至ったという。

毛利氏の成長〜大内氏と尼子氏のはざまで〜

 永正十五(1518)年に帰国した大内義興は、安芸・石見方面に勢力を伸ばしてきた尼子氏との対決に備える。大永四(1524)年には二万五千もの兵を率いて安芸に出兵し、以後4年間、厳島を拠点に安芸を転戦した。
 当時の安芸は、守護の武田氏に国を掌握する力が無く、土着の武家領主である国人衆が、大内氏と尼子氏の対立のはざまで、どちらの勢力に従属するか、判断に苦しめられていた。高田郡の一領主だった毛利氏もその一つに過ぎなかったが、そのなかで毛利元就(もとなり)は、安芸の国人領主のリーダーとしての地位を獲得して行く。
 毛利弘元(もうりひろもと)の庶子・元就は、大永三(1523)年、夭逝した甥の幸松丸(こうまつまる)の跡を継いで毛利家当主となり、翌年には弟・元綱(もとつな)を擁立する家臣団を粛正、それを支援していた尼子氏と断交し、大内方となった。享禄二(1529)年には尼子方の国人・高橋氏を滅ぼしその遺領を獲得、その後も大内氏にしたがって安芸を転戦、安芸における大内方の重要武将として成長して行く。しかし依然尼子氏は脅威であり、天文六(1537)年には嫡子隆元(たかもと)を山口に人質として送り、大内氏との結びつきを強めていく。
註:作中では、義興の諌め役や、杜四郎の父として大江弘元(おほえのひろもと)が登場するが、モデルの毛利弘元は、永正三(1506)年にすでに死去している。

九州での大内氏〜義隆の積極時代〜

 西国の覇者として、中央政界に君臨した義興は、享禄元(1528)年に死去、その跡は嫡子義隆(よしたか)が継いだ。文化的側面ばかり強調されがちな義隆だが、初期は老臣・陶興房(すえおきふさ)らに支えられて、積極的な対外政策に出た。
 当時の筑前は大内氏の領土であったが、豊後の大友氏が少弐(しょうに)氏を支援、一時的に勢力を挽回していた。義隆は天文元(1532)年に陶興房を筑前に派遣、翌年には大友方の諸城を攻略した。そして同三(1534)年四月には、勢場原(せいばがはら)で大友義鑑(よしあき)の軍と激突したが、決着はつかなかった。さらに七月、興房は少弐氏の家臣・竜造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の水ヶ江城(佐賀市)を攻めたが、逆に家兼の反撃にあい敗北した。
 これを見た義隆は、自ら三万の大軍を率いて大宰府に入り、少弐氏の本格的追討に乗り出した。まず家兼を籠絡し、少弐氏から独立させた。そして同五(1536)年、太宰大弐に就任、少弐氏より上位の名文を得て、陶興房の攻撃により、ついに少弐資元(すけもと)を自害させた。

激動する中国〜尼子の失敗、大内の失敗〜

 老齢の経久に代り、尼子家当主となった孫の晴久(はるひさ・当時は詮久)は、天文九(1540)年九月、3万ともいわれる大軍を率いて、毛利氏の居城・郡山城を攻撃した。対する毛利氏は3千。毛利氏は存亡の危機であった。しかし元就は必死の防戦を行い、大内氏の援軍を待った。そして十二月、陶晴賢(はるひさ・当時は隆房)率いる1万の援軍が到着した。翌年一月、毛利・大内勢は連係して攻撃を開始、不利を悟った晴久は撤退を開始するが、追撃によって大きな被害を被った。さらにその年の十一月、隠居後も大きな影響力を持っていた経久が死去、尼子氏はかつてない危機に陥った。
 これをみた大内義隆は、大規模な尼子攻めの兵を起こし、天文十一(1542)年には、尼子氏の本拠・富田城を包囲した。しかし富田城は天下の堅城であり、戦線は膠着、やがて大内氏にしたがっていた出雲・安芸の有力国人が尼子方に寝返ったため形勢は逆転し、翌年五月、義隆は海路撤退を開始した。義隆は山口に帰還したが、養嗣子・晴持(はるもち)が船の転覆により溺死するなど、大きな被害を被った。この遠征の失敗により、義隆は急速に政治に対する興味を失っていく。
 郡山籠城、出雲従軍という一連の戦いにより、毛利氏もまた大きな打撃を受けたものの、元就は武田氏を攻略して支配領域を飛躍的に拡大、天文十三(1544)年には三男の隆景(たかかげ)を小早川氏の養子とし、同十六年には二男・元春(もとはる)を吉川氏の養子とし、影響力を拡大、安芸の国人領主のリーダーの地位を確立し、さらに同十九年には重臣の井上一族を粛清、主従関係を明確にし、戦国大名化に成功した。

陶晴賢のクーデター

 出雲遠征の失敗は、大内家臣団内部の武断派と文治派との対立を激化させ、文治派の相良武任(さがらたけとう)に味方する義隆と、武断派の首領である陶晴賢(当時は隆房)との関係は急速に冷えていった。晴賢はかなり大っぴらに義隆を批判しており、天文十九(1550)年には毛利元就らに謀反の協力を要請したり、神社参拝中の義隆を襲撃するという噂が流れて所領の若山城に引きこもったり、不穏な動きがあったが、何故か義隆は晴賢を処罰しなかった。
 そして翌二十(1551)年、晴賢は豊後の大友宗麟と通じ、その弟晴英(はるひで)を大内家当主に立てる盟約をし、八月、反旗を翻して山口に攻め入った。この謀反には杉重矩(すぎしげのり)や内藤興盛(ないとうおきもり)など、多くの重臣が従い、義隆は長門の大寧寺に逃れ、そこで自殺した。
註:この謀反の成功後に、陶は新当主の晴英の偏諱をうけ、名を隆房から晴賢と改めている。また大友晴英も大内義長と改めている。またこの謀反の理由には諸説あり、若いときに義隆の寵愛を受けていた晴賢が、その愛が相良武任に移ったことに嫉妬したという説も有る。この男色のもつれ説が、「美少年録」のモチーフになったことは間違いない。

厳島の戦い〜毛利時代の到来〜

 大内義長を奉じて、事実上大内家の実権を握った陶晴賢だったが、家臣団の再編には時間がかかり、その独裁に反発する勢力も多くなった。毛利元就もはじめ晴賢にしたがっていたが、天文二十三(1554)年、晴賢が石見の吉見正頼(よしみまさより)を攻撃している隙に、晴賢と断交し、広島湾岸や厳島を制圧した。そして弘治元(1555)年、元就と晴賢の直接対決が始まる。
 兵力の上で圧倒的に不利な元就は、晴賢の大軍を厳島におびきよせ、奇襲をかけるという戦略を取った。元就の術中にはまった晴賢は、九月二十一日、2万の大軍を厳島に上陸させ、宮尾城を包囲した。元就は奇襲の機会をうかがう一方で、村上水軍を味方につけることに成功し、十月一日未明、暴風雨のなか本隊2000を厳島に密かに上陸させ、晴賢の本陣の背後に襲いかかった。また小早川隆景率いる別働隊1500も、正面の厳島社大鳥居を船でくぐって突入した。不意をつかれた陶軍は総崩れとなり、晴賢は自刃、厳島の戦いは、毛利元就の勝利に終わった。
 元就はその勝利の余勢を駆り、大内氏に攻勢をかけた。弘治三(1557)年に義長は自刃、大内氏は完全に滅亡した。周防・長門を制圧した元就は、さらに石見の攻略をすすめ、尼子晴久の死去に及んで、ついに尼子氏をも滅亡させ、中国地方の大大名として天下に名を轟かせるのであった。

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