弓張月雑話:一粒800m

 為朝二十八騎の一人、八町礫紀平治。礫の名人にして琉球の言葉を解し、為朝を助け、舜天丸を養育する。ストーリーのほぼ全編に渡っての活躍は、準主役と言っても過言ではない。しかし「保元物語」や津本陽著・「鎮西八郎為朝」では、何故かその名前は「三町礫紀平治」となっている。八町と三町。端役ならともかく、重要キャラクターでどうしてこんな差異が出るのか。まあ八町といえば約872mだから、石ころを投げるにしては確かに飛びすぎではある。三町でも飛び過ぎか。
 そのひとつの答えが見つかったのは、意外にも「近世説美少年録後編(新局玉石童子訓)」だった。善玉の美少年、杜四郎成勝(もりしらうなりかつ)と、楠流の兵法家、和田十郎正忠(わだじふらうまさただ)との対話からである。以下、意訳を交えた口語訳でその対話を追ってみる。ちなみに正忠の息子・小十郎正義(こじふらうまさよし)は、投石の名人である。

成勝: それにしても御子息の投石は、昔の紀平治にも勝るとも劣らない技術ですね。そこで私疑問があるのですが、保元物語では、八郎為朝の従者は、三町礫の紀平治と書かれているのに、それを世間では訛って、八町礫という人が多くいます。紀平治の投石の凄さはわかりますが、三町は飛んでも、八町は飛び過ぎではないですか。先生はいかが考えます。
正忠: 私独自の意見ではないのですけれど、聞いてください。三町礫を八町礫というのは、もともと雑劇での間違いなのですけれども、世の人は保元物語に三町礫と書いてあるのを知らず、ただ見た雑劇から、八町礫と覚えたのです。そこで近頃の物の本には、わざと八町礫と記してあるものがあります。世間の人が覚えやすいようにです。しかし後の物の本に、八町と称えるのは、昔の(実在の)紀平治ではないということを明らかにする作者の用心であって、訛っているといっても別に害はないわけです。しかも八というのは偶数の終わりです。八の下に十がありますが、十は一に通じますから、八が大数となります。たとえば八雲八重垣といったようにです。というわけで、紀平治の投石は技芸の極みですから、訛りと知りながら訛りに従っているのは、かえって作者の深意があるのです。けして杜撰ではないわけです。それを穿鑿して云々と論ずる人間は、金や玉の贋物をもって本物とするようなもので、作者の本意ではないわけです。

 ストーリーの舞台は戦国時代なのだから、劇や出版物などといったものが、世間に普及しているわけが無い。明らかに、「弓張月」の紀平治についての読者からのクレームに、馬琴が反論した内容である。美少年録のなかに弓張月についての作者の返答を繰り入れるとは、なかなか油断ならないものである。「南総里見八犬伝」でも、しばしばこういった唐突な文学論が出現するが、ひょっとしたらほかの馬琴作品のクレームに対する返答かもしれない。
 全部読まないとわからない馬琴世界。私の探求もまだ始まったばかりだ。


追記:

 そういうわけで、三町礫が八町礫となったのは、馬琴の誤りではなく雑劇の間違いである、ということがわかった。それでは雑劇が八町と間違った理由はどこにあるのか。この答えのひとつが、「保元物語」で発見された。新院方の援軍として到着するはず(結局間に合わず)だった興福寺の軍勢に、吉野・十津川の「指矢三町遠矢八町(さしやさんちやうとほやはつちやう)」という人物が登場するのである。これは、矢を地面と平行に射れば三町を飛ばし、上方に角度を付けて射れば八町を飛ばすという技量をもつ人物の異名であるが、紀平治の紹介の記述とも近いため、これを混同して三町が八町になったと思われる。

 それから、礫を三町(約327m)飛ばそうと思えば、最高の条件で投げても、約200km/hの初速が必要である。ちょっと難しい。


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