成勝: | それにしても御子息の投石は、昔の紀平治にも勝るとも劣らない技術ですね。そこで私疑問があるのですが、保元物語では、八郎為朝の従者は、三町礫の紀平治と書かれているのに、それを世間では訛って、八町礫という人が多くいます。紀平治の投石の凄さはわかりますが、三町は飛んでも、八町は飛び過ぎではないですか。先生はいかが考えます。 |
正忠: | 私独自の意見ではないのですけれど、聞いてください。三町礫を八町礫というのは、もともと雑劇での間違いなのですけれども、世の人は保元物語に三町礫と書いてあるのを知らず、ただ見た雑劇から、八町礫と覚えたのです。そこで近頃の物の本には、わざと八町礫と記してあるものがあります。世間の人が覚えやすいようにです。しかし後の物の本に、八町と称えるのは、昔の(実在の)紀平治ではないということを明らかにする作者の用心であって、訛っているといっても別に害はないわけです。しかも八というのは偶数の終わりです。八の下に十がありますが、十は一に通じますから、八が大数となります。たとえば八雲八重垣といったようにです。というわけで、紀平治の投石は技芸の極みですから、訛りと知りながら訛りに従っているのは、かえって作者の深意があるのです。けして杜撰ではないわけです。それを穿鑿して云々と論ずる人間は、金や玉の贋物をもって本物とするようなもので、作者の本意ではないわけです。 |
ストーリーの舞台は戦国時代なのだから、劇や出版物などといったものが、世間に普及しているわけが無い。明らかに、「弓張月」の紀平治についての読者からのクレームに、馬琴が反論した内容である。美少年録のなかに弓張月についての作者の返答を繰り入れるとは、なかなか油断ならないものである。「南総里見八犬伝」でも、しばしばこういった唐突な文学論が出現するが、ひょっとしたらほかの馬琴作品のクレームに対する返答かもしれない。
全部読まないとわからない馬琴世界。私の探求もまだ始まったばかりだ。
それから、礫を三町(約327m)飛ばそうと思えば、最高の条件で投げても、約200km/hの初速が必要である。ちょっと難しい。