武士のエリート・清和源氏
清和源氏家系
鎮西八郎為朝は、清和源氏の嫡流・源為義の八男である。源氏を代表する血筋であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は為朝の甥に当たる。
清和天皇─貞純親王─経基─満仲─┬頼光
│
├頼親
│
└頼信──頼義─┬義家─┬義親──為義───┬義朝────┬義平
│ │ ├義賢─義仲 ├朝長
│ ├義国┬義重 ├義憲 ├頼朝─┬頼家─公暁
├義綱 │ │ ├頼賢 ├希義 │
│ │ └義康─義兼 ├頼仲 ├範頼 └実朝
│ └義忠 ├為宗 ├全成
└義光 ├為成 ├義円
├為朝 └義経
├為仲
└行家
- ・清和天皇(950-980)
- 第56代天皇。外祖父・藤原良房の傀儡として生きた。清和源氏の祖とされているが、本当の祖は57代陽成天皇という説もある。今回は通説に従った。
- ・経基(つねもと)(?-961)
- 六孫王(りくそんおう)。天徳四年(960)に臣籍降下し、源姓を受けた。
- ・満仲(みつなか)(?-997)
- 摂津国多田荘(兵庫県川西市)を本拠地とし、多田源氏の始祖となった。
- ・頼光(よりみつ)(?-1021)
- 多田源氏。四天王を率いて、大江山の酒呑童子を退治したという伝説が有名であるが、実際は摂関家の奉仕者として、かなり公家化していたようである。
- ・頼義(よりよし)(988-1075)
- 平忠常の乱(1028)、前九年の役(1162)で武名を揚げ、東国に大きな地盤を築いた。
- ・義家(よしいえ)(1039-1106)
- 八幡太郎。前九年の役、後三年の役でおおいに武名を揚げる。江帥匡房(えのそつまさふさ)から兵法を伝授される。和歌にも優れる。多くの伝説・伝承があり、清和源氏中最大の人物。
- ・義光(よしみつ)(1045-1127)
- 新羅三郎(しんらさぶろう)。笙の名人で、豊原時元(とよはらのときもと)から秘伝を伝授される。佐竹・武田・小笠原氏らの祖。
- ・義康(よしやす)
- 足利氏の祖。兄の義重は新田氏の祖である。「弓張月」では、為朝から朝稚を貰い受けている。
- ・義兼(よしかね)
- 「弓張月」では為朝の次男、朝稚(ともわか)。これは馬琴オリジナルのフィクションではなく、今川了俊の「難太平記」が出典らしい(私は未確認)。北条時政の娘を娶って源頼朝の義弟の立場となり、鎌倉幕府で重要な地位に就いている。
- ・為義(ためよし)(1098-1156)
- 為朝の父。保元の乱では崇徳院の側についたが敗北。息子の義朝に斬られた。
- ・義朝(よしとも)(1123-1160)
- 保元の乱では後白河院につき勝利を得たが、信西の謀略によって、父・為義や弟を斬るという汚名を被った。後平治の乱を起こして信西を殺害するが、平清盛に敗れて、逃亡先の尾張で殺害される。
- ・為朝(ためとも)
- いわずと知れた「弓張月」の主人公。武芸に優れる。琉球に渡って王となるという伝説があり、これが「弓張月」のモチーフである。
- ・義仲(よしなか)(1154-1184)
- 木曾義仲。木曾で平氏討伐の兵を挙げ、倶梨伽羅峠の戦いで平氏を破り、京に入る。朝日将軍とよばれるが、頼朝の命を受けた範頼・義経軍に破れ、近江粟津原で戦死。
- ・頼朝(よりとも)(1147-1199)
- 伊豆で北条時政の協力を得て平氏討伐の兵を挙げ、弟の範頼・義経をして義仲、平氏を討伐する。征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いたあとは、範頼・義経を初めとした、多くの功臣を粛清している。
- ・義経(よしつね)(1159-1189)
- 牛若丸。一の谷、屋島、壇ノ浦などで平氏を破り、大いに武名を揚げる。しかしそのために、頼朝に疑われ、衣川の館で自殺。蝦夷に渡って王になる、モンゴルに渡ってジンギスカンになるなど、伝説の多い人物。
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