為朝の活躍


為朝の少年時代

 新院方は軍勢を集めるにあたって、前判官源為義に白羽の矢を立てた。再三の誘いを断りきれない為義は、内裏方に召されている義朝の代わりとして、息子八郎為朝冠者の武勇を語る。
 九州に育った八郎は、兄義朝にも負けないと豪語する者で、左の腕が四寸長く、弓の幹も矢束も人に勝っている。あまりに乱暴で手に負えないので、九州に追い出したが、豊後国ヲトナシガ原に居住し、尾張權守家遠を後見として、周囲の名主を従えようと十三歳の十月から戦を始めた。十五の三月までの二十余回の戦いで、城攻め、軍略に優れ、三年のうちで九州を従え、鎮西の惣追捕使と自称した。この為朝の狼藉のために、為義は検非違使を罷免されたのだった。

為朝の装備

身長七尺(約210cm)、左手が右手より四寸(約12cm)長い。
・弓  長さ八尺五寸(約255cm)、三人張り
・矢  長さ十八束(標準十二束)。二十四本、十六本、九本の三腰を用意。
   箭   金属色の三年竹を、節を削ぎ、木賊で磨いたもの。
   羽   烏、鶴、鴻、梟などを藤によってまとめる。
   鏃   大雁股、峰にも刃をつけて、手鉾のようになっている。
・鎧  大荒目の鎧を白唐綾で綴り、獅子の丸の裾金物を打つ。
・太刀 ねりつばの太刀・三尺五寸(約105cm)、熊の皮の尻鞘
 

為朝の進言

 父為義とともに御前に召され、左大臣頼長から合戦の方法を尋ねられた為朝は、憚りなく自分の意見を述べる。
「幼少より九州に育って、二十余回の合戦を経験しました。そこから考えると、敵を落とすに的確な方法は、夜討ちに勝るものはないだろう。天の明ける前に、私為朝が内裏高松殿に押し寄せ、三方から火をかけ、一方を攻め、火を逃れるものは矢で射とめ、矢を逃れるものは焼死するだろう。義朝も奮戦するだろうが、私が内兜を射て殺してやる。清盛なんかのへろへろ矢など何が出来るものですか。
 こうすれば、天皇も他の場所に逃れようとするでしょう。そのとき、鳳輦の御輿に為朝が矢をまいらせれば、かごかきは御輿を捨てて逃げるでしょうから、この御所に天皇を行幸させ、位をすべらせまいらせれば、君が御位に就かれることは間違いありますまい。」
 しかしながら、頼長の返答は冷たかった。
「為朝の計は、乱暴で無思慮である。まだ若い。夜討ちなど、十騎二十騎の私戦でやることであって、天皇、上皇が国を争うような戦に相応しい方法ではない。明日には南都の軍勢が到着するので、これを待つべきである。今夜は御所を守護し奉れ。」
 為朝は敗北の予感を感じながら退出する。そして同じ頃、内裏方でも行われた評定では、少納言入道信西が義朝の意見を採用し、夜討ちを決定するのだった。こうして、七月十一日寅の刻、義朝の軍勢250騎、清盛の軍勢600騎、兵庫頭頼政100騎、陸奥新判官(足利)義康100騎など、総勢1500騎が白河北殿へ押し寄せるのだった。

清盛VS為朝

 為朝が守る西門に、最初にあらわれた敵は、平清盛の先鋒、伊藤武者景綱であった。鈴鹿山の強盗、小野七郎を生け捕るという輝かしい功績を持つ景綱は、弟伊藤五、伊藤六を従え、為朝に向かって矢を放ち、太刀の股寄(鞘の金具)を射とめるが、手傷を負わせることが出来なかった。逆に為朝の放つ矢は、伊藤六の鎧の胸板を貫き、さらに伊藤五の左の袖を射抜いた。

 伊藤五は為朝のすさまじい強弓を報告し、清盛を戦慄させる。清盛の嫡子・重盛は逆上して立ち会おうとするが、清盛はこれを抑え、春日面の門へ迂回することにする。

 しかしそのなかで、清盛の末座の郎等、伊賀国の住人、山田小三郎是行だけが残り、為朝との対決を要求する。その勇気に感心した為朝は、一矢を先に射させることにし、左の草摺を射させる。そして為朝の返す矢は、是行の鞍の前輪から是行を貫き、尻輪まで射通すのだった。

義朝VS為朝

 鞍の前輪から尻輪まで貫かれた是行の馬は、西の川原を進む義朝の軍勢の前に走り出た。その弓勢の凄さに郎等は恐れるが、義朝は偽装工作だとして、為朝の前に押し寄せる。

 義朝の先鋒は、乳母子・鎌田次郎正清だった。正清の矢に左の顔先を射られた為朝は逆上して、答の矢を射ることなく手取りにしようと二十八騎をけしかける。正清はほうほうの体で逃れ、瘧と称して再び出陣することはなかった。

 これをみた義朝は、みずから出陣し為朝と対面する。兄を射殺すのは忍びないと考えた為朝は、わざと義朝の兜をかすめて射る。その弓勢に、義朝は落馬しそうになるが、なんとか持ちこたえる。

 為朝の弓勢に胆を冷やした義朝は、坂東の郎等達をけしかける。大庭平太景義、三郎景親がそれに答え、為朝の前に出る。為朝は鏑矢を景義に向かって射るが、狙いは外れて景義の膝にあたってしまう。為朝は苦笑する。

新院方の敗北

 義朝配下の坂東の郎等達と、為朝以下二十八騎との激闘は続く。そのなかで十九歳初陣の金子十郎家忠が大活躍し、高間四郎、三郎を討ち取る。山口六郎、仙波七郎も金子十郎に続き、紀平治、大矢新三郎を負傷させる。金子十郎は為朝の前に出て挑発するが、この若者の武勇に感心した為朝は、射落とそうとした須藤九郎を遮り、生かすことにする。

 その後も為朝の軍勢は甲斐・信濃の郎等と激戦し、志保見ノ六郎を射殺するなど、結局義朝の配下の武者五十一人を討ち取り、八十余人を負傷させる。しかしここで義朝は、御所の北から火を放ち、白河殿を焼き討ちする。この攻撃に耐えきれず、ついに新院方は総敗北となる。

 為朝はこの戦で、50本近い矢を射たが、その中で無駄だった矢は、義朝の兜を削ったものと、大庭平太の膝にあたったものだけであった。味方総崩れのなか、為朝は一本射残した鏑矢を白河殿の正門に射たて、いずこともなく去って行く。

為朝の逮捕

 京を逃れた為朝は、近江国に潜伏しているうちに、重病に罹ってしまう。郎等の一人に世話される。そして温泉で当時をしている最中、八島の領主・佐渡兵衛尉重貞に発見され、あえなく捕えられる。

 そして為朝は、義朝によって腕の筋を抜かれ、伊豆大島に流される。しかし身を揺らして護送の輿を破ったり、大島の流人の尻掛け岩に座ることを拒否したり、その強さを示す。

為朝の鬼島渡海と最期

 伊豆大島に流された為朝であったが、腕の筋は自然に癒え、さらに矢束が二伏も伸びてしまった。こうして為朝は大島の代官・島ノ三郎大夫の婿となり、宮藤斎茂光の所領である伊豆七島を攻略してしまう。そして島の中で武勇に優れたものは、すべて為朝の敵とみなし、かたっぱしから腕を折ってしまう。そして為朝以外の矢は、すべて焼却してしまう。

 あるとき、八丈島に滞在していた為朝は、青鷺、白鷺が東を指して飛んで行くのを見て、そこにも島があると考え、船に乗って未知の島に辿り着く。そして島人のすべてが、身長一丈(約3m)あまりの大男であった。この男達は、農耕をせず、渚に打ち上げられた魚を食べ、鳥を手で捕えて食べていた。為朝は弓で鳥を射落としてみせ、男達を恐れさせる。

 この島は鬼島といった。男達は鬼の末裔で、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の履、沈む履といった宝物を失うにつれ、荒い心を失ったのだった。為朝はこの島を葦島と改名し、男一人をつれて、八丈島に帰っていった。

 為朝に所領を奪われた茂光は、京に上り為朝追討の院宣を乞う。茂光は関八州の兵士を集めて大島を攻める。為朝は七島の人々から怨まれており、彼に味方するものは一人もいなかった。そして鬼島の男もホームシックで役に立たず、為朝は一人、軍船を射て沈めておおいに暴れたあと、館に入り嫡子とともに自刃する。


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