2002年 第1回 ホンダ・コレクションホール所蔵マシン
            動態確認テスト

 


 

2002年4月18日(木)ツインリンク茂木西ロードレースコースにて、2002年、第1回のコレクション
ホール所蔵マシン・動態確認テストが行われました。

 当日は私も会社を休んで、その模様を見学してきましたので、その中のマクラーレン・ホンダMP4/6
を紹介したいと思います。

 

テスト出走車輌    
2輪レーサー

RC145              (1962年)
RC161              (1960年)
RC163              (1961年)
RC166              (1966年)

ライダー:  高橋国光、 宮城光
   
4輪レーサー

ブガッティー T35C      (1926年)
RH684ラルトホンダ      (1984年)
マクラーレンホンダMP4/6  (1991年)
MOTULホンダシビックSi    (1984年)
JACCSシビック         (1993年)

ドライバー: 高橋国光  中子 修
   
     
  <マクラーレンホンダMP4/6  1991年>

 
F1GPでターボが禁止され、NAに移行した89
年からの2シーズンをV10で戦ってきたホンダは
91年からいよいよV12エンジンをリリースする事
になりました。パートナーは引き続きマクラーレン
です。
 ただし、マクラーレン・ホンダを取り巻く環境は、
この頃から一層厳しいものになっていました。
まず、かつてのパートナーだったウイルアムズが
ルノーのV10エンジンを獲得し、着実に力を蓄え
てきたことです。またドライバーのナイジェル・マン
セルも、まさに脂の乗り切った状態だったし、パー
トナーにはベテランのリカルト・パトレーゼを起用
していたから、マシンを開発していく体制としても、
申し分ない状況となっていました。
 そして何よりも1989年一杯で、永年マクラーレンのエースとして活躍してきたアラン・プロストがチー
ムを離れていった事が大きい。彼はマクラーレン・ホンダの最大のライバルのひとつでもあったフェラ
ーリに移籍していました。
 そのフェラーリには、かつて、マクラーレンで大ヒット作となったMP4シリーズの生み出した、ジョン・
バーナードも移籍していました。彼はそこでチーフ・デザイナーとして才能を駆使し、思うままにマシン
をデザインするようになっていましたから、フェラーリは最も手強い相手になっていました。
     
   そんな状況の下、、ホンダが満を持してリリース
したV12エンジンは、これまでの例にならって、ホ
ンダRA121Eと呼ばれることになりました。言うま
でもなくこのタイプナンバーはRacing Automobile
F−1用 V12レイアウトの’91年使用Engineを示
すものです。そもそもこれは’89年の東京モータ
ーショーに参考出品されたものもので、課題であ
ったサイズアップと重量増を最小限に抑えられる
見通しと、それをマクラーレンが担当するシャシー
サイドで吸収できる見通しが立った(すでに設計が
開始されていたニュー・シャシーはこの時点でその
概略がまとまりMP4/6と呼ばれることが決まって
いた)ことからゴー・サインが出されました。
 事実、全長もV10のRA100シリーズと大差ない
レベルに収まっていましたし、重量も150kg程度に
仕上がっていました。
 エンジン開発プログラムは大変順調に進み、シャシーよりも一足先に完成していましたから、本来は
V10のRA100シリーズを搭載するべく開発され、’90年シーズンには実戦でも使用されたMP4/5Bを
改造したテスト用シャシー・・・通称”MP4/5C”と呼ばれていた・・・に搭載されて実走テストを早々と開
始しました。
 ジョナサン・パーマー&アラン・マクニッシュのコンビが担当する開発テストのみならず、’90年シーズ
ン中の公開テストでも、3度ほど走ってみせました。
 10月にエクストリルで行われた合同テストではアイルトン・セナがベストタイムを叩き出すほどでした。
     
   MP4/6と呼ばれるこのニュー・シャシーのデザイ
ンはニール・オートレーが担当しました。
 かつてはジョン・バーナードの右腕として活躍して
いた彼は、バーナードが抜けた’88年以降、主任
デザイナーとしてマクラーレンに止まっていました。
 ’89年のシャシーに少しだけ手を加えた前年モデ
ルのMP4/5Bは、決して失敗作ではなかったので
すがシーズン中はシャシー・バランスの面で、最大
のライバル、フェラーリに若干の遅れを取り、いく
つかのトラブルとアクシデントに見舞われた事もあ
って、結果的には’90年シーズンには6勝を挙げる
に止まっていました。
 これはもちろん、簡単に達成できる数字ではあり
ませんが、その前年の’89年には16戦10勝(!)
さらにその前年、’88年には実に16戦15勝(!)
をマークしていましたから、それらとの比較において物足りなかったという点は否めなかったでしょう。
 ホンダの開発スタッフの胸の内には、圧倒的な優位性を取り戻すために渾身の力を振り絞ってリリ
ースしたV12のRA121Eだけに、それを搭載するシャシーには「再び最強のマクラーレン・ホンダ帝
国を築き上げて欲しい」という大きな期待が、不安とともに入り混ざっていたのでしょう。
     
   しかし、不安は幸いにして杞憂に終わり、期待は
現実になりました。
 開幕戦のフェニックスをポール・ポジションからス
タートしてそのまま優勝してしまったセナは、続くブ
ラジル、サンマリノ、モナコと、開幕4連勝を飾り、
ポイントランキングでもトップの座を確実なものにし
ていきました。
 そしてシーズンが終わってみればアイルトン・セ
ナは2年連続のワールド・チャンピオンに輝いてい
ました。
 マクラーレン・ホンダも16戦8勝で4年連続してコ
ンストラクターズ・チャンピオンを獲得し、エンジン・
サプライヤーのホンダにとっては、’86年のウイリ
アムズ・ホンダから6年連続の栄誉となったのです。
     
   やっぱり「F-1」にはこのマールボロ・カラーが欠
かせませんね。

 今回テスト走行したゼッケン2は日本GPで優勝し
た、ゲルハルト・ベルガー車ですね。
     

 

 

 

 

 


 

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